映画「フリークスアウト」を観た。
登場する超能力者たちは、能力の特殊性ゆえに実用の役に立たず、大道芸人としてしか生きる道がない。20世紀前半のイタリアは大らかで、科学で説明できないこともすんなり受け入れる。重箱の隅を突くようなことはしないのだ。考えてみれば、庶民というものは深く知るよりも楽しんだり便利に使ったりすることに重きを置く。携帯電話の仕組みを知らなくてもネットも通信もできるし、ボンネットを開けたことがなくても自動車で移動できる。技術の開発は苦労だが、技術を享受するのは楽しい。
ベルリンサーカスの団長フランツを演じたフランツ・ロゴフスキは2018年製作のドイツ映画「希望の灯り」では、穏やかで優しい主人公を好演していたが、本作品では狂気を孕んだ愛国者を演じた。愛国の熱狂がどのような悲劇に至るか、身をもって示した形だ。見事な演技だった。
戦時中でも庶民には楽しみを与えなければならない。正義の戦という大義名分だけでは疲弊してしまう。パンとサーカスが必要なのだ。逆に言えば、戦時下の人々は四六時中緊張していたわけではなく、戦争という日常を平静に生きていた訳だ。
パルチザンのひとりが言うように、人を殺すことも、最初は抵抗があるが、すぐに慣れる。人間の環境適応能力を侮ってはいけない。非道な振る舞いも、日常になれば何の呵責もなくなる。戦争の大義名分に寄りかかっていれば悩まずに済む。戦争になったからといって、生活が劇的に変わる訳ではない。気づいたら戦争になっていたというのが庶民の実感だろう。そこが空恐ろしい。
本作品は必ずしも歴史に忠実ではない。現代とオーバーラップさせたり、フランツの幻覚を通じて未来を見せたりする。しかし、敵を一定の基準でカテゴライズして、人格をスポイルするという戦争の本質を見失うことはない。ラストのバトルはとても見ごたえがあった。
エンドロールに映される絵がいい。解説は何もないが、モハメド・アリは分かった。あとはマラドーナとペレ? ネルソン・マンデラ? マリー・キュリー? ベトナム戦争? チェルノブイリ? ベルリンの壁? などなど。第二次大戦後も、人類の歴史はごった煮的に続いてますねえという、製作者のため息に似た雑感のようなものを感じた。人類の歴史を俯瞰すると、その賢さに感心すると同時に、その愚かさに呆れてしまうのだ。