映画「キエフ裁判」を観た。
同じセルゲイ・ロズニツァ監督の「破壊の自然史」の15分後に続けて鑑賞した。それで分かったことがある。本作品が「破壊の自然史」と同時に製作されたことに意味があるということだ。
本作品は軍事裁判だ。勝った者が負けた者を裁く。当然ながら勝った側の価値観が法廷を支配することになるのだが、それでも裁判であるからには、テミスの天秤に象徴されるように、あくまでも公平な立場でなければならない。しかしソ連の裁判官はみな軍服を着ていて、強いバイアスの存在を感じた。
同じ軍事裁判でも東京裁判は、映画「東京裁判」で観た限りでは、できる限り公平を期そうとしているように見えた。裁判官も検察官もアメリカ人だが、軍人ではなく法律家だった。本作品も法律の専門家が並べられてはいるが、軍服を着ている。ということは軍の法律家である。軍の法律家が自軍を裁くことはない。つまり戦時中のソ連軍の行為についてはすべて不問として、ドイツ軍の残虐行為の比較の対象とはしないという暗黙の了解がある。そのように感じられた。背後には、独裁者スターリンの影がちらつく。
戦争とは、国家主義者たちが国家の威信というありもしない幻想のために人々に血を流させることだ。反戦を主張すると、反体制、反国家の人間として、警察や軍といった暴力装置の犠牲になる。
本作品に感じたバイアスは、勝者が敗者を裁くことの違和感と、勝者側に立って拍手をする傍聴人たちの精神性に対する嫌悪感に繋がっていく。軍事裁判で勝者が敗者を裁いても、戦争を根絶することが出来ないという絶望感が、本作品に抱く違和感の本質である。
そこで、はたと気付くのが、15分前に観終えた「破壊の自然史」の世界観である。何も語らないが、戦争の被害を被るのは、勝者の側も敗者の側でも、物理的に弱い人々である。武器も金も力もない庶民だ。
そして為政者を支えているのもまた庶民である。庶民の精神性には、全体主義が深く根を下ろしているのだ。だからどこの国でも国家主義者たちが選挙に勝つ。そして戦争をはじめる。戦争の罪は、被害者を含む人類全体にある。人は弱くて、油断するとすぐに戦争をはじめてしまう。だから反戦主義者は反戦運動を怠らない。
戦争裁判は戦争の責任者や当事者を裁くが、本来は戦争に協力した全員、戦争に反対しなかった全員が裁かれるべきなのだ。我々はそれを自覚しなければならない。日本国憲法の前文を読むと、そのことがよくわかる。戦争に対する国民の罪が自覚され、深い反省があることが行間に看て取れるのだ。