映画「キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る」を観た。
関東大震災が起きたのは、大正デモクラシーの、自由と女性解放の空気の真っ最中だった。映画は当時をときめく新興産業で、新しい会社が設立されたり、アメリカから技師が招聘されたり、新人監督がデビューしたりと、発展の要素が満載だった。これからというときに震災が襲ってきたのである。
本作品で紹介された動画は、映画という動画の存在が広く知られていたから、録画のカメラを持って被災地を回っても、武器に見られたりせず、無事に撮影できたのだろう。時代と人材と条件が揃ってはじめて撮影できた貴重な動画である。
本作品の動画は、ありのままの状態を撮影したもので、疑いようのない事実だ。そこからどのような真実を読み取るかは、見る側の問題だろう。映像には何の細工もないのだ。
しかし映像技術が飛躍的に発達した現在、関東大震災のちょうど100年後のいまは、映像を様々に加工することが可能だ。映画はFSXを存分に利用して、効果的な動画を製作している。悪い言い方をすればフェイクだ。技術的に可能になったのだから、報道の映像にも、フェイクがないとは言い切れない。顔を入れ替えるみたいな嘘の映像でなくても、意図的に部分を切り取ったり、音声を消してみたりすることはあるだろう。某国営放送の映像は特に疑わしい。権力者に寄り添った映像は、頭から疑ってかかるのが賢明だ。
終映後のトークイベントでは、立正大学教授の徳山善雄さんから貴重な話が聞けた。印象に残ったのは報知新聞が死体の山の写真を載せた記事を出そうとしていたのが、官憲の検閲でストップされてしまったことである。震災の翌日には政府は戒厳令を発布し、国民の行動や言論に規制がかけられた。「民は由らしむべし知らしむべからず」という権力者の驕りの現れである。国民をバカにしているのだ。
映画人は基本的に反骨である。権力が真実を嫌うからだ。逆に言えば、映画人は真実を愛するから、その表現を妨げようとする権力に対立する立場になる。感情的に反感を持っているわけではない。自然な流れなのである。
アベ政権が総務省の権力を使ってテレビや大新聞に圧力をかけて以降、テレビや大新聞は骨抜きになってしまったが、映画人だけは真実を描くことに専念した。結果として反権力になってしまうのは、多分権力のほうが間違っているからだと思う。本作品を観て、その思いをさらに強くした。