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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 141 関白秀次の存在

2023年01月31日 17時11分15秒 | 貧乏太閤記
 秀頼の誕生は子をあきらめていた秀吉にとって予想外だった
「早まったか」秀吉は、自分の後継ぎをほぼ秀次に絞って、関白職も譲ったことを後悔している 「もはや子は産まれぬと思ったのが間違いであった」
我が子が産まれれば、家はわが子に継がせたいのは当たり前のことだ
だが長久手での大敗北はしたが、あれ以来、四国攻め、根来攻め、北条攻めでは立派な采配を振った、いまや秀次は秀吉の甥世代のリーダーであることは間違いなかった
しかも秀長の後を継いで大和100万石の主になったのが秀次の弟、15歳になる秀俊である、奥方は秀長の娘で未だ7歳であった。
 秀俊はこれから兄の関白秀次を支えていくだろう、秀頼が成人となる仮に15年後を想像すれば、秀次は42歳、秀俊は30歳と盛りである、15歳の秀頼に大人しく天下を渡すであろうか
その頃には自分は生きているだろうか、今と同じように天下を握っているだろうか?、15年後自分は73になる
 秀吉に寛大な心があったなら、秀次に秀頼の未来を託せばよかったのだ
秀頼に才覚があれば、秀次を従えるであろう、なければ秀次に従えばよいのだ
なまら血筋に頼って力もないのに無理をして家を滅ぼした大名は数多ある
その逆に、プライドを捨てて力ある者に従って生き延びた者もある
今も残る織田家の遺児たちは皆そうだ、信雄などは秀吉の提案を受け入れていれば今日も100万石の大名でいられただろう
逆らって僅か10万石足らずに落ちぶれたが、それでも秀吉のお伽衆として生き延びている、気楽な人生だ。
 だが秀吉は、そうは考えない、自分一代で築いた豊臣幕府は実子に継がせたいと思う、だから秀次の処置に悩むのだった

 そんな秀吉の悩みなど、秀次は知らない
秀次にしてみれば、今の状態で十分満足している、それは人生を秀吉に預けたからだ、秀吉が思っているほど野心は持っていない
秀吉が、武家の頭領としての「秀頼をバックアップせよ」と言えば、それに従うつもりである、今までもそうして生きてきた
 秀次は文化人としての教養を身につけていた、茶道も利休に倣い七弟子の一人として認められた実力を持つ
それを戒めて、「茶道にのめり込むな」と言ったのは秀吉だった
それは彼が利休を殺した後ろめたさが今も残っているからだ、しかも秀次は利休の高弟だったのだから。
 キリシタンを棄教せず、大名と言う地位を捨ててまでデウスに身をささげた高山右近もまた利休の七人の高弟の一人であった。
正室が明智光秀の娘である細川忠興も、利休七高弟の一人だった、秀吉にはそれも気に入らない。
しかも秀次に仕える木村、芝山、瀬田も利休の七高弟である、木村以外は秀次の意志で家臣に組み入れた者である。
キリシタンにせよ、利休の弟子にせよ、秀吉の命に背く者であることに変わりない。
 そんな思いを秀吉は封じて「関白よ、儂にもしものことがあれば天下の采配は、そなたが執るのじゃ、それを意識して毎日を励むのだぞ」、聚楽第に立ち寄った秀吉は、秀次に会うと開口一番、そう言った。
「秀次しかと承りました、なれど殿下は体も心も若いので、まだ10年や20年心配はござりませぬ」
「ふふ~ん、嬉しいことを言うのお、世辞がうまくなりおって、だが儂の命は天にしかわからぬ、その時の為に言ったのだ」
「はは」
「いずれこの国を5つに分ける、そのうちの4を関白に充てるから、1は拾いのものとする、そして拾いが15になったら、関白は儂同様に太閤を継ぎ、拾いを関白にして4を与え天下の仕置きを任せよ、そなたは隠居となって1を食い扶持とせよ、もっともそれ以前に、そなたに大明国100余州を与えて、唐国の関白となってもらうかもしれぬ」
「はは、必ずや拾い様を盛り立てまする」
「うん、頼むぞ、そなたが頼りじゃ」
秀吉は正気でそう思ったのか? 国を5等分すると言ってもそこには既存の大名が領国を経営しているのだ、それをとりあげれば反乱が起きるだろう
かといって名目だけの領地なら実収の年貢米が上がってこないだろう
降ってわいたような秀頼の誕生で、秀吉は混乱している

 関白秀次は26歳、秀吉の姉「とも」と百姓弥助の長男として生まれた百姓治兵衛が最初の名だ、彼が生まれた頃は武田信玄と徳川家康が密約を結んで、西と北から同時に今川領に攻め込んで、今川氏真を妻の実家、小田原北条家へ追いやり、駿河を武田、遠江を徳川が奪って分け合った事件があり
一方秀吉はといえば、前年、美濃斎藤家の稲葉山城を竹中半兵衛、堀尾茂助(吉晴)を使って落城させるという大手柄をたてて、信長から1万石の大名に取り上げられた頃だ
翌年には、信長が流浪の将軍足利義昭を奉じて上洛して、足利幕府を再興させた、それに伴い、秀吉も柴田、明智らと京都奉行職を命じられて、そこで「ふじ」と出会い、秀吉最初の子を授かった(初代秀勝)
今は亡くなっていないが、秀次は秀勝とほぼ同年代なのだ、だからこそ秀吉にとっても姉の子である秀次には特別の思い入れがあったのだ。
 幼児の頃から秀次は秀吉の勢力拡大に利用されて、宮部継潤の人質から養子になり、そのあと三好康長の養子になって三好信吉と名乗り、後に三好家2万石を継ぎ、政略結婚ならぬ政略養子のたらいまわしだが、次第に出世していくことになる。
後に木下、羽柴、豊臣姓を賜る。
その頃有力武将池田恒興(勝入)の娘、通称「若政所」を正室に娶り、恒興との関係ができる
 秀吉は、よくその手を使う、妹の朝日を家康の後妻の正室に送り込んだり、先日は政所ねねの甥を小早川家の養子にしたし、秀長の娘を毛利家の養子の正室にしたりしている、だがこれは秀吉に限らず、戦国大名の全てが行ったことである、いかに味方を増やすか、それが権力者として生きていく道であったし
弱い者は、強い者に従って出世するための手段であった。

 秀吉と秀次、秀頼の関係は同様に毛利本家でも起こったが、こちらは輝元の嫡男誕生と共に養子になっていた秀元自身が、素早く養子縁組を解消して別家をたてて退いたので、問題は全くなかった。
ところが豊臣家はそうはいかず、のちに大きな禍根を残した、秀吉と毛利輝元
秀次と毛利秀元の人間性の違いが見えて興味深い。









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