見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

美味しそうな色とかたち/福田平八郎×琳派(山種美術館)

2024-11-23 21:38:20 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 特別展・没後50年記念『福田平八郎×琳派』(2024年9月29日~12月8日)

 斬新な色と形を追求した日本画家・福田平八郎(1892-1974)の没後50年を記念し、同館では12年ぶりに、平八郎の画業をたどる特別展を開催する。併せて、平八郎が敬愛した、琳派の祖・俵屋宗達の作品など、意匠性と装飾性にあふれる琳派の世界を紹介する。

 自分のブログを検索したら、初めてこの人の名前が出てくるのは、2010年の『江戸絵画への視線』展。2012年の『福田平八郎と日本画モダン』も見ている。特に誰かに習ったわけではなくて、主に山種美術館で作品に出会って、徐々に好きになった日本画家だと思う。

 会場の入口に掛けてあったのは『筍』。黒いまっすぐな筍が二本生えており、背景の白い地面には、一面に散り敷いた竹の葉がパターンだけで表現されている。まさに意匠性と装飾性にあふれたカッコいい作品。福田は晩年まで写生を重視したが、写生の結果として、現実よりも自由で美しい色とかたちを生み出している気がする。

 たとえば何度も描いている『鮎』の黒っぽい背中と尾びれの黄色、『桃』の赤みがかった黄色を見ていて思った。これは和菓子の色に似ている。現実にあるものを真似ながら、現実よりも愛らしくて美味しそうな和菓子の色。『竹』にアップで描かれた3本の竹の幹は、緑・黄色・オレンジのビタミンカラーに塗り分けられていて、駄菓子屋のラムネ菓子を連想した。晩年の『鴛鴦』にはオス3羽、メス2羽が描かれているが、ひな祭りの砂糖菓子(金花糖)みたいに華やかな色をしている。『紅白餅』は明るい水色を背景に白いマルとピンクのマルが並んでいて、夕焼け雲?と思ったら餅だったので笑ってしまった。前述の『筍』もだんだん羊羹かチョコレートに見えてきて、まあとにかく美味しそうな作品が多かった。

 琳派は、伝・宗達筆『槙楓図』、抱一筆『秋草鶉図』、其一筆『四季花鳥図』と、3つの屏風が並んだところは圧巻。この中では其一の屏風が色数も多く華やかで好き。王朝物語を踏まえた、抱一の『宇津の山図』、其一の『高安の女』も面白かった。宗達の墨画淡彩『軍鶏図』(個人蔵)は初めて見たかなあ。縦長の画面いっぱいの大きな軍鶏が、全身「たらしこみ」の技法で描かれている。トサカと顔のまわりに薄く朱を用いる。

 最後の「近代・現代日本画にみる琳派的な造形」も面白かった。見てすぐ、確かにこれは琳派だよねと分かる作品もあれば、え?これが?としばらく考えるものもあった。橋本明治の『双鶴』は、2羽の鶴の頭部を並べて描いたもの。琳派の絵画というより蒔絵デザインに通うものがあるかもしれない。安田靫彦作品のそばに、靫彦が宗達を大絶賛した言葉が添えてあって、一瞬、安易な「日本スゴイ」論かと警戒したのだが、よく読むと言いたいのは「宗達(だけが抜群に)スゴイ」であることが分かる。宗達は、4-500年間何人も顧みなかった、否、解することができなかった古大和絵の中から、同時にこれと骨肉の間柄である古い工芸、殊に蒔絵などの中から、自己の新しい生命を発見したのである、という。

 私の大好きな小野竹喬『沖の灯』がここに並んでいたのも嬉しかった。年配のおばさまたちが「88歳の作品ですって」「その年齢でこんな新しい表現をねえ」と頻りに感歎していた。福田平八郎も絶筆とされる『彩秋遊鷽』は79歳のときだし、奥村土牛の例もあるし、彼らの作品を見ると、まだまだ私も老け込んではいられないかな、という気持ちになる。

 第2室にあった牧進『寒庭聖雪』は、白一面の屏風に、うっすら大きな雪の結晶を浮かび上がらせ、下の方に小さなスズメと赤い実をつけた百両を並べる。この屏風の前でクリスマスディナーを食べられたら素敵だろうな。そしてこの意匠性と装飾性は、やっぱり琳派の遺伝子なのかもしれない。

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表具に仕覆に舞楽衣装/古裂賞玩(五島美術館)

2024-11-19 01:02:30 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 特別展『古裂賞玩-舶来染織がつむぐ物語』(2024年10月22日~12月1日)

 古裂愛玩といえば、まず思い浮かぶのは茶道具を包む「仕覆」だが、私はあまり関心がないので、今回の展覧会は行かなくてもいいかな、くらいに思っていた。それが、行ってみたら、展示室の壁にさまざまな墨蹟や唐絵の軸が掛けてある。え?どういうこと?と思ったら、これら書画の名品の表具に着目し、よく似た名物裂を収めた裂帖や裂手鑑が下に置いてあった。これは嬉しい。私は表具を見るのが大好きなのだ。展覧会の図録に表具の写真が載らないのを、いつも残念に思っている。

 墨蹟の表具は全体に控えめだけど、一部にキラリと華やかな布を使っていたりする。織物に型紙を当てて糊を引き、金箔・金粉を置いたものは印金というのだな。紺など地色が暗いほうが金色の模様が際立つ。伝・牧谿筆『叭々鳥図』は何度も見ているはずだが、「紺地大黒屋金襴」の天地と「白地牡丹文金襴」の中廻しの華やかさに、しみじみ見とれてしまった。MOA美術館の伝・牧谿筆『叭々鳥図』(枝に止まっている)は、同じ「紺地大黒屋金襴」を一文字に使っているみたいだった。

 本展には、書画も茶道具も、他館所蔵の名品が多数出陳されている。徳川美術館所蔵の伝・胡直夫筆『布袋図』と伝・無住子筆『朝陽図』『対月図』もその一例で、室町時代の三幅対の表装のありかたを伝えているということだった。五島美術館所蔵の『佐竹本三十六歌仙絵・清原元輔像』は近代に表装されたものだが、大柄な模様の「鳳凰蓮花文金紗」がめっぽう華やか。ちょっと歌人の元輔に合わない気もするが、所蔵者の熱烈な思い入れが伝わる。

 展示室の入口には大きな平台の展示ケースが置かれていて、東博所蔵『赤地花菱繋文金襴裲襠』(舞楽衣裳、「散手」と墨書あり)と円覚寺所蔵『縹地花卉造土文金紗座具』(敷物?)が出ていた。名物裂を集めた裂帖・裂手鑑のうち、最も大部な(木箱入り)『前田家伝来名物裂帖』は九博の所蔵だった。現存最古の名物裂手鑑と見られる『文龍』は個人蔵だった。B5版くらいの小型サイズで、貼られている裂も小さく、丸や三日月形など多様な形をしていた。

 中央列の平台ケースは、茶道具の仕覆や包み裂が多かったが、更紗がまとまって出ていたのが嬉しかった。五島美術館の更紗包み裂コレクションは大好きなのである。展示室2には、個人蔵の更紗袱紗もたくさん出ていて眼福だった。大名家に伝わった裂手鑑にも、かわいい更紗を貼っているものが散見された。忘れられないのは『鹿手更紗袱紗』。唐草模様の間に、よく見ると小さな鹿が遊んでいる。奈良のお土産物に復刻してほしい。

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明るい独裁者/全斗煥(木村幹)

2024-11-18 01:54:00 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『全斗煥:数字はラッキーセブンだ』(ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房 2024.9

 「あとがき」によれば、著者は2011年から5年間「全斗煥政権期のオーラルヒストリー調査」という研究プロジェクトに関わったが、2010年代後半には、まだ多くの政権関係者が生存しており、その証言や回想が揺らいでいた。しかし2021年秋に盧泰愚と全斗煥が相次いで病死したことで、著者は本書の執筆を思い立ったという。盧泰愚と全斗煥が2021年に病死したというのは、全く自分の記憶になくて、少し驚いた。両人とももっと古い時代の政治家だと思っていたので。

 全斗煥(1931-2021)は慶尚南道の貧しい農村に生まれ、陸軍士官学校に進む。学業は芳しくなかったが、スポーツを通じて同輩の人望を得、高級将校の人脈を掴み、アメリカにも留学。1961年、朴正熙が軍事クーデタで政権を掌握すると、クーデタ勢力の一員となることに成功し、権力の階段を駆け上がっていく。

 1979年10月の朴正熙暗殺事件、12月の粛軍クーデタの記述は、映画『KCIA 南山の部長たち』や『ソウルの春』を思い出しながら読んだ。映画と史実には異なる点も多いのだが、小さな史実が取り入れられている点もあって面白かった。

 さらに興味深く思ったのは、粛軍クーデタ~光州事件におけるアメリカのジレンマと、全斗煥による自己正当化の理屈である。冷戦期のアメリカは「自らの側に立つ発展途上国の権威主義政権を、その非民主主義的な性格を度外視してまで、支援してきた」(本書)。しかし、これらの権威主義政権は、現地の人々の反感を買い、民主化運動が反米運動と結びつく状況が生まれてしまう。だからアメリカは、韓国の情勢にも強い懸念を示した。全斗煥は、光州の学生運動には「北朝鮮の介入」が認められるという「極秘情報」を挙げて、その鎮圧行為を正当化した。これは、昨今、沖縄について言われる「中国の介入」と同じ理屈で暗い気持ちになった。

 そして政権樹立と新憲法制定。ちなみに本書の副題は、大統領任期を7年に定めたときの全斗煥の発言である。なお、朴正熙は、あらゆる問題について閣僚から詳細な報告を求め、具体的な指示を下す指導者だったが、全斗煥はこれと見込んだ人物を抜擢し、職務を長く任せるスタイルを好んだという。1980年、アメリカに保守派レーガン政権が誕生したことは全斗煥の追い風となる。中曽根政権の日本とも関係が改善。そうか、昭和天皇との晩餐会に出席したのも全斗煥だった。

 国内では、カラーテレビ放送が解禁され、プロスポーツが始まり、ソウル五輪誘致に成功する。全斗煥は、大衆受けの良い文化政策を行う事により、民衆の関心を政治から娯楽へと誘導し、政権への不満をそらそうとしたと本書は解説するが、日本人にとって韓国イメージが明るく親しみやすいものになっていくのは、おそらくこの時代が始まりだと思う。

 しかし再び政権批判と民主化の機運が高まり、学生運動や野党の活動が活発になる(金泳三の民主山岳会、おもしろすぎる)。全斗煥は、盟友・盧泰愚を後継者に指名し、引退後も背後から政治を操縦することを考えていたと思われるが、盧泰愚は「民主化宣言」を発表することで一気に脚光を浴び、野党勢力を抑えて大統領に当選する。国民から全斗煥政権への不満が噴出する中で、盧泰愚は全斗煥カラーの払拭に迫られ、全斗煥は盧泰愚への不信を募らせた。盧泰愚は全斗煥に海外亡命を提案したが拒否、全斗煥は江原道の山中の百潭寺でしばらく謹慎生活を送る。

 1992年の大統領選挙に勝利した金泳三は、盧泰愚を収賄容疑で逮捕、さらに粛軍クーデタと光州虐殺を罪状として全斗煥を逮捕する。無期懲役が確定したのは1997年、しかし恩赦によって自邸に戻った全斗煥は、長い晩年を過ごすことになる。この間、本格的な政治活動こそ行わなかったものの、宗教活動など様々な活動に関わったという。知らなかった。

 2000年代、ドラマ『第五共和国』で全斗煥を再発見したファンたちが全斗煥の生家を訪問するというエピソードがあった。映画『ソウルの春』は、決して全斗煥に肩入れさせない描き方をしているというが、やっぱり少し離れて眺めるこのひとには、どこか魅力がある。そして盧泰愚とはついに和解しなかったのだと知ると、あの映画に描かれた両者の親密さも、違った味わいが感じられる。

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2024深川・富岡八幡宮の酉の市

2024-11-17 19:49:55 | なごみ写真帖

今日は二の酉。「酉の市」という年中行事は、知識としては知っていたけれど、長年、身近にはなかった。それが門前仲町で暮らすようになって、富岡八幡宮に酉の市が立つことを知ってから、すっかり生活カレンダーに組み込まれたイベントになっている。

暗くなり始めた頃に行ってみたが、ちょうど日曜に当たったこともあって、私の知っている去年や一昨年より人の姿が多かった。大型の熊手がどんどん売れて、手締めが繰り返されていた。寿家、菱沼など、熊手商のテントは例年どおり。参道の入口にベビーカステラの屋台が出ていたのも同じ。

境内社の大鳥神社にもお参りしてきた。夏祭や正月と違って、人も少なく、うらぶれた雰囲気が、冬を迎えるこの季節に合っていて、私は好きだ。

今年は三の酉まである年。俗諺だけど、火事に気を付けよう。

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展覧会芸術の三兄弟/オタケ・インパクト(泉屋博古館東京)

2024-11-16 23:46:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館東京 特別展『オタケ・インパクト 越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム』(2024年10月19日~12月15日)

 尾竹越堂(おたけ えつどう 1868-1931)、竹坡(ちくは 1878-1936)、国観(こっかん 1880-1945)の三兄弟を東京で紹介する初めての展覧会。名前を聞いても全く作品の浮かばない三人だったので、怖いもの見たさみたいな関心で見に行った、三人は、明治から昭和にかけて文展(文部省美術展覧会)をはじめ、様々な展覧会で成功を収め、「展覧会の申し子」として活躍したという。

 展覧会制度の導入によって変質した日本絵画を、やや批判的に「展覧会芸術」と呼ぶことは、確か2023年の同館の展示『日本画の棲み家』で私は学んだ。しかし尾竹三兄弟は、積極的に「展覧会芸術」の枠組みに乗り込んでいったようで、豊かな色彩で精緻に描き込まれ、見栄えのする大作がたくさん並んでいた。

 最初の一周では三人の差異がよく分からなかったが、二周目は作者名をチェックすることで、それぞれの個性が少し分かった気がした。末弟・国観は、小堀鞆音に師事したというのも納得で、歴史画・人物画の名品が多い。『油断』(東近美)は、敵の来襲に慌てる武士の群像(屋敷の奥に女性たちもいる)を描く。特定の歴史的な事件を想定せずに構想したものだというが、背景の幔幕には木瓜紋。甲冑や馬具が細部までリアルで、古絵巻の画像にはない躍動感がある。『絵踏』は禁制のキリシタンを見つけるための踏絵を描く。立ち上がろうとする女性を見守る群衆の中には南蛮人や清国人(官服姿)も描かれている。この作品は、展覧会に出品されたが岡倉天心との衝突によって撤去され、所在不明となっていたもの。2022年に国観の遺族から同館に寄贈され、修復を経て公開となった。

 次兄・竹坡は作風も性格も一番エキセントリック。特に岡倉派と袂を分かったあと、大正末年(1920年代)には未来派に接近して、前衛的な日本画を生み出す。第2展示室の入口にあった『月の潤い・太陽の熱・星の冷え』3幅対は、SF小説のカバーデザインみたいで度肝を抜かれた。でも本質は川端玉章に学んだ円山四条派の写生と、やわらかな色彩にあるように思う。晩年の『梅』と『山つつじに双雉図』がとても好き。あと『ゆたかなる国土』は、福富太郎コレクション展で見たことを思い出した。

 長兄・越堂は歌川派の浮世絵を学び、売薬版画や新聞挿絵など「生活(たつき)のため」の絵画を多数手がける(弟たちも同様)。三兄弟の中では文展デビューが最も遅く、評価もあまり高くないように見えるが、私はけっこう好みだ。文展落選の『徒渡り』は波立つ広々した水面を主役に、さまざまな姿勢の人物を小さく配したもの。福田平八郎の『漣』を思い出したが、福田のほうが遅いのだな。福島県立美術館所蔵の『[失題]』は不思議な作品で、神話的な男女と2羽の青い鳥(カワセミ?)を描く。晩年の『赤達磨』『さつき頃』もよい。三兄弟と親交のあった住友春翠の仏前に捧げられたという『白衣観音図』の生真面目な宗教性も好き。

 作品の所蔵館を見ると、富山・新潟・福島・宮城など地方の美術館・博物館のほか、個人蔵が非常に多い。この展覧会を逃すと、次はなかなか見る機会がないだろうなあと思うと、後期も行ってみたくなっている。

 参考までに自分のブログを検索したら、尾竹国一(越堂)の名前は太田記念美術館の『ラスト・ウキヨエ』で出て来た。また『芸術新潮』2013年6月号の特集「夏目漱石の眼」によれば、漱石は尾竹竹坡の『天孫降臨』に対し「天孫丈あって大変幅を取っていた。出来得べくんば、浅草の花屋敷か谷中の団子坂へ降臨させたいと思った」という皮肉な美術批評を書いているらしい。『天孫降臨』は本展には出ていないが、見てみたいものだ。また、調べているうち、竹坡が目黒雅叙園の室内装飾に関わったことも分かった。今でもレストラン渡風亭には「竹坡の間」があるそうだが、10-14(17)名様用で室料24,200円か。うーん、利用の機会はなさそう。

※富山県博物館協会:尾竹竹坡の画業における目黒雅叙園室内装飾について(遠藤亮平)

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民主主義の覇権国家/アメリカ革命(上村剛)

2024-11-15 23:26:52 | 読んだもの(書籍)

〇上村剛『アメリカ革命:独立戦争から憲法制定、民主主義の拡大まで』(中公新書) 中央公論新社 2024.8

 このところ仕事が忙しくて読書レポートが書けていなかったが、11月5日の大統領選挙より前に読み終えていたものである。現実の選挙結果のインパクトが重くて、本の内容を忘れてしまいそうになったが、気を取り直して書いてみる。

 アメリカ革命とは、アメリカ合衆国の始まりを意味する。具体的には、植民地時代を前史とし、独立戦争、独立宣言(1776年)から連邦憲法制定会議を経て、帝国化と民主化が拡大する1840年代までの約70年間(その先に1860年代の南北戦争がある)を本書は記述する。

 むかし中高の授業では、イギリスからの植民者たちは、本国政府の圧政と重税に怒って立ち上がり、めでたく独立を勝ち得たというストーリーを学んだ。そんなに単純でないことにはうすうす感づいていたが、本書は、見過ごされてきた多くの複雑な視点を教えてくれる。たとえば、アメリカ大陸には、スペイン、フランス、オランダなど、イギリス以外の国々からやってきた植民者もいたこと。イギリス系の植民者にも王党派(イギリスからの独立に反対した)など、さまざまな政治的立場の人々がいたこと。さらに先住民や奴隷の存在も忘却されてきた。

 そうしたゴタゴタの状態で独立戦争に勝利したアメリカだが、戦後処理は前途多難で(領土は拡大したが、統治の仕組みが行き渡らず、歳入を得る権限も脆弱)内部崩壊の危機にあった。その唯一の解決策として期待されたのが連邦憲法の制定だった。著者によれば、政治思想史的には、立法者は一人のカリスマであるべきなのに「立法者たち、つまり多くの人間が基本法の制定に関わったにもかかわらず、それでも国家運営が軌道に乗った」ことがアメリカの面白さであるという。確かに4ヵ月に及ぶ会議での、意見の対立(北と南、大邦と小邦)、駆け引き、妥協の顚末は大変おもしろい。案がまとまったあとも、署名を拒否する委員がいたり、各邦の批准会議での論戦というドラマが続く。

 そして、ついに憲法が批准されるが、成文憲法が書かれたのは「世界においてほぼ前例のない革新的な出来事である」という指摘も重要だと思った。成文憲法のある国家って、わずか200年ちょっと前に生まれたものなのだな。アメリカ建国者たちは、引き続き憲法の運用、実践という新たな問題に立ち向かっていく。連邦憲法の主眼は、いかに野心を持った邪悪な政治家が登場しても、それを抑えられるような統治機構を確立する点にあったという(いまこの箇所を再読すると背筋が凍る思いがする)。同時に、新たな憲法体制は、初代大統領ワシントンの振舞いを先例とすることで確立された面もある。ワシントンは独立戦争で起死回生の反撃を成功させた軍事の才もあったみたいで、本書でかなり興味が湧いた。

 新生アメリカ合衆国では新聞や世論が発達し、民主政(デモクラシー)が徐々に肯定的に捉えられるようになった(建国当時は、むしろ共和政のほうが評価されていた)。一方、ワシントン政権がスタートした1789年にはフランス革命が起こり、国際情勢が国内政治の党派対立を激化させた。また、「内なる他者」先住民の排斥・隷属化には、公的主体だけでなく、利益を求める民間の商人たちも加担した。このように初期のアメリカを「帝国」として理解しることは、従来の近代史理解に見直しを迫るものでもある。「実は独立後のアメリカがやっていたことはイギリスの帝国政策の再来」にすぎない、という指摘にも考えさせられた。

 最終章、1800年代前半で全く知らなかったのは1812年戦争(第二次米英戦争)。カナダには王党派のイギリ人が多く移住していたが、アメリカ軍はカナダの首都(現・トロント)に攻め込み、焼き払った。カナダ側には、カリスマ的な指導者テムカセが指揮する先住民部族の連合軍がついていたが、アメリカ側も対立する先住民の軍隊を組織した。ああ、こういう先住民部族の軍事利用って東アジアだけではないのだな。

 最終的にアメリカは欧州列強から外交的独立を果たし、内政においては、今なお世界のモデルと見做される民主政治体制を確立する。表面的には見事なサクセスストーリーだが、その影の部分を見落としてはならないだろう。

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2024フィギュアスケートNHK杯 in 東京

2024-11-11 22:41:09 | 行ったもの2(講演・公演)

2024NHK杯国際フィギュアスケート競技大会(11月8-10日、国立代々木競技場第一体育館)

 今年のNHK杯は東京と聞いて、現地で観戦したい気持ちが湧いていたが、ぼんやりしているうちにチケット発売日を逃して、気がついたら2日目/土曜日は完売になっていた。しかしグランプリシリーズの第1戦スケアメでの日本選手の演技、特にりくりゅうのSPの動画を見て、どうしても現地に行きたくなってしまい、初日/金曜日のチケットを取った(無事に年休が取れることを祈りながら)。

 そして初日、北側SS席の最後列(後ろは通路)だったが、現地に来られただけで満足。アイスダンス(リズムダンス)の冒頭から観戦した。日本選手のあずしん(田中梓沙&西山真瑚)、うたまさ(吉田唄菜&森田真沙也)、得点は伸びなかったけれど、堂々とした演技で楽しかった。しかし最後に登場したチョクベイは別格。赤いドレスのマディソン・チョックと、ネクタイにスーツ姿のエヴァン・ベイツは、古典的なミュージカル映画スターのようで、これはいいMAGA(Make America Great Again)とつぶやいてしまった。

 ペアはりくりゅう(三浦璃来&木原龍一)の「Paint it Black」が思った以上にカッコよく、大きな取りこぼしのない演技だったので大満足。他の皆さんもよかった。フィギュアスケートのカップル競技、シングルには出せないエモさがあって、その魅力にどんどんハマっていく。

 次いで男子シングル。ジェイソン・ブラウンが今ひとつだったけれど、あとはどの選手も全体的に好調だったのではないかと思う。それぞれが完璧に仕上げた演技での戦いは見ていて楽しい。そんな中でも会場を驚かせたのは壷井達也くん。鍵山優真くんは超絶的に完璧だった。1人おいて最後に登場した三浦佳生くんが初の100点超えだったのに歓喜。

 ここで群舞やエライおじさんの挨拶など1時間ほどのオープニングセレモニー。席でぼんやり見ていたけど、夕食タイムにすればよかったな。今年は場内で選手コラボメニューのドリンクやスイーツ(カオリのスコーンなど)販売があったのだけど、事前に情報収集していなかったので、全然気づかなかった。

 女子シングルも男子と似た展開で、青木祐奈さんが素晴らしい演技を見せる(祐奈ちゃん、今年のFaOIが最高に魅力的だったのでまた応援できて嬉しい)。これを軽やかに超えたのが千葉百音ちゃん。そして坂本花織さん、無駄にドキドキしてしまったけれど、揺るぎない安定感でトップに立った。シングルは男女とも1~3位を日本選手が独占という、歴史に残りそうな初日を見ることができた。

 2日目はテレビとネットで観戦。佳生くんの不調が残念だったなあ…。でもその不安定で未完成なところが彼の魅力でもある。女子は総合でもメダル独占。いまの日本女子の個性豊かなスケートは、私の見たかったものではあるけれど、ふと「ロシアっ娘たちの時代」をなつかしく思い出す。私が初めて観戦したNHK杯は2019年、コストルナヤやザギトワの出場した大会だったので。

 3日目のエキシビジョンはネット(NHKプラス)で観戦。これでこそ受信料の支払い甲斐があるというもの。しかしプロ転向の田中刑事くんや宮原知子ちゃんの演技を組み入れるよりも、海外選手の出場枠を増やすべきではないか、という批判が湧いていたのには完全同意。運営には再考を求めたい。2025年は大阪だそうだ。

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2024年11月関西旅行:東大寺、春日大社、東寺他

2024-11-10 17:32:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

東大寺・三月堂、二月堂、大仏殿裏

 三連休最終日、正倉院展は昨日の参観で満足したので、朝から東大寺境内を散歩する。大好きな三月堂をゆっくり拝観し、二月堂でご朱印をいただく。女性の方に書いていただくのは、昨年に続いて二度目。前回は男性の方と同じ太筆だったが、今回は細筆の繊細な「南無観」をいただいた。

 大仏殿の裏手では、この数年、ずっと整備工事(のようなもの)が行われている。「東大寺 講堂・三面僧房跡整備事業」という案内版によると、ここには講堂と、東・北・西をコの字状に囲む三面僧房が建っていたとされており、講堂跡の礎石がよく残っている。しかし講堂跡の北側を流れる川による遺構の浸食が進んでいるため、護岸工事をしているのだそうだ。

 遺構の北側には正倉院があるのだが、まわりは高い塀で囲まれており、開門は10時だというので見学はあきらめることにした。

東大寺ミュージアム 特集展示『捨目師の作った伎楽面』(2024年10月18日~2025年2月7日)+特集展示『理源大師聖宝と東大寺東南院』(2024年10月18日~11月20日)

 特集展示では、奈良博との連携で伎楽面5件を展示。また東南院の初代院主である理源大師聖宝については主に文書の展示だったが、このひと、宇治拾遺物語「聖宝僧正、一条大路を渡る事」の登場人物だったのか。初めて認識。

春日大社国宝殿 秋季特別展『春日漆の国宝と雲龍庵の漆芸-世界が認めた超絶技巧-』(2024年8月11日~12月13日)

 春日大社の国宝の漆芸品と、現代の漆芸として世界的に高く評価されている雲龍庵・北村辰夫の作品を同時に展示する。北村辰夫氏は石川県輪島市の生まれで、今年1月の能登半島地震で輪島市の工房が被災したため、金沢市に工房を移して作品の制作を続けているという。繊細で愛らしい作品が多くてうっとりした。私には一生縁がなさそうだけど、高級な漆芸品、ひとつくらい身近に欲しい。

 帰路、春日野で古風な装束姿でボール遊びをする集団を見かけた。一瞬、蹴鞠かと思ったが、ふつうのボール(サッカーボール?)で遊んでいた。

 興福寺の五重塔は、明治時代以来120年ぶりとなる大規模な保存修理工事を実施中でこの状態。完了は令和13年(2031)3月の予定だという。長い!

花園大学歴史博物館 秋季企画展『100年遠諱記念 南天棒』(2024年10月7日~12月24日)

 京都へ戻って気になっていた展覧会へ。南天棒の異名を持つ中原鄧州(1839-1925)ゆかりの品々を展観する。私は『雲水托鉢図』を好んで描いた謎の禅僧くらいの認識しかなく、活躍年代も曖昧だったのだが、意外と近代の人物で、乃木希典や児玉源太郎とも交流があった。

東寺宝物館 『東寺観智院の聖教をまもり伝える-真言宗の勧学院-』(2024年9月20日〜11月25日)、国宝 五重塔『初層の特別公開』(2024年10月26日〜12月8日)、観智院

 この三連休は、さすがに帰りの新幹線を予約しており、まだ少し時間があったので、東寺に寄っていくことにした。講堂・金堂と宝物館を見たかったのだが、前者には五重塔、後者には観智院がセットになっていたので、久しぶりにフルコースの参観となった。

 金堂の須弥壇の背後に入り込めるようになったのはいつからだろう? いわゆる立体曼荼羅を全方向から見ることができて嬉しかった。尊格を支える象や水牛のお尻がかわいい。

 宝物館の展示では、江戸時代に観智院聖教を守った杲快、賢賀の事蹟が興味深かった。聖教を守ったといっても、裏打ちなどの修理をしたり、保存箱を作成したり、新しい表紙を付けたり、詳細な奥書を記したり、地味なのである。しかし、こういう堅実な作業があってこそ聖教が伝わったのだと思う。

 最後に観智院へ。宮本武蔵が描いた襖絵と、唐の長安から請来した五大虚空蔵菩薩像を拝見。しかし、もうひとつ私の記憶に残っていた「空海の帰国の様子を表現した石庭」がない。白砂を敷き詰めたお庭は見せてもらったのだが、船や怪魚に似せた石組みはなかった。帰り際、お土産品売り場に古い写真集があったので、パラパラめくってみると石庭「五大の庭」の写真が載っていた。勇気を出して受付の若いお姉さんに「この写真の庭はどこか別のところにあるのでしょうか?」と聞いてみたが、定かには知らない様子。後ろにいたお兄さんも「2017年に改修をしたので、だいぶ変わっていると思います」と言っていた。

 まあ「昭和の作」と言っていたから、そんなに古いものではないのだが、森浩一さんの『京都の歴史を足元からさぐる』にも取り上げられていた庭なので、少し残念である。京都も奈良も、こうして少しずつ変わっていくのだな、と思った。

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2024年11月関西旅行:法然と極楽浄土(京博)、正倉院展(奈良博)他

2024-11-09 23:28:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

洛東遺芳館 令和6年秋季展『めでたい絵展』+特別展示『応挙の日記と写生図』(2024年10月1日~11月3日)

 先週末11月3日の続き。秘仏ご開帳の六波羅蜜寺に参拝したあと、五条大橋の東南にある同館に初訪問。9月のお伊勢参り旅行で立ち寄った石水博物館(津市)で、たまたま「洛東遺芳館所蔵名品展」をやっていて、京の豪商・柏屋(柏原家)の伝承品を所蔵・展示するこの施設の存在を知ったのである。1、2階の小さな展示館のほか、旧柏原家住宅も見学できる。今季の展示は、吉祥画題の絵画と調度品など。浮世絵も少し出ていた。

 1階には応挙の日記を貼り付けた屏風と応挙の写生帖を貼り付けた屏風が1隻ずつ。これは同館の所蔵品ではなく借りものだそうだ。私が応挙の日記にまじまじと見入っていたら、受付にいた女性の方が「お好きですか?」と声をかけてくれた。日記は天明8年(1788)8月から1年ちょっと。応挙はもっと前から日記をつけていたと思うが、天明8年1月の大火で失われたのではないかと考えられている。大火の後ということもあってか、天気と風向きの記録が詳しい(毎日、日中と夜の風向きを記載している)。この期間、最も多く注文を受けている画題はやはり仔犬。なぜか東寺から幽霊画の注文も受けているそうで「ほら、ここ」と教えてくれた箇所に「東寺漢幽霊(?)」の文字が読めた。うれしくなって「あ~東京には、毎夏、幽霊画の展示をしているお寺があって、そこにも伝・応挙の幽霊画があるんですよ!」などと話してしまった。

 そうしたら「展覧会とかよく行かれますか?それなら」とおっしゃって、サントリー美術館の次回展『儒教のかたち こころの鑑』の招待券を2枚もいただいてしまった。「貰ったんですけど東京じゃ遠くて」とのこと。ありがとうございます。無駄にせず、使わせていただきます。

※参考:川崎博『応挙の日記 天明八年~寛政二年:制作と画料の記録』(思文閣出版、2024.7)

京都国立博物館 特別展『法然と極楽浄土』(2024年10月8日~12月1日)

 今年の春に東博で見た展覧会の巡回展だが、やっぱり京都のほうが充実しているという印象を受けた。『浄土三部経』(清浄華院)4巻のうち阿弥陀経は後白河院が読誦したものであることが紙背に記載されていたり、『迎接曼荼羅図』(清凉寺)は熊谷直実が所持した者と伝えられていたり、『源空証空自筆消息』(清凉寺)には源空が武蔵国の直実に宛てたものだったり、その時代に生きていた人々の関係が立体的に浮かび上がってくる感じがした(もっともこれらの資料は東博にも出ていたらしいので、私は展示替えで見られなかったのかもしれない)。二尊院所蔵の『浄土五祖像』(南宋時代)は東博に出ていなかったもの。浄土教の正統性の主張に使われていく。仏像は知恩院の八角輪蔵に据えられた八天像の4躯(江戸時代)が来ており、見せ方がとても魅力的だった。 

大和文華館 特別展『呉春-画を究め、芸に遊ぶ-』(2024年10月19日~11月24日)

 寺院の襖絵などの大作を交えて、呉春(1752-1811)の画業を振り返り、理想を目指して洗練されていく画風の変化を見ていく。前後期で47件(呉春以外の作品も含む)の展示リストを見ると、大和文華館所蔵は画帖が1件だけで、あとは他館からの出陳で、しかも美術館や博物館だけでなく、大乗寺、草堂寺、妙法院、醍醐寺などの名前が並ぶ。応挙寺と呼ばれる大乗寺(兵庫県美方郡香美町)に呉春の『群山露頂図襖』『四季耕作図襖』があるのは知らなかった。大乗寺の襖絵は天明7年(1787)頃と寛政7年(1795)頃の2回にわたって整備されており、呉春は2回ともかかわっているらしい。

 呉春ははじめ蕪村に絵画を学び、ついで応挙に写生や空間構成、輪郭を描かない没骨技法を学ぶが、最後は誰の模倣でもない独自の境地に至る。本展がその象徴として取り上げるのは『泊船図屏風』。当時の生活の身近にありそうな、なんでもない小船が、ほかに何もない空間に大きく描かれていて、とてもよい。醍醐寺三宝院にあるようだ。

奈良国立博物館 特別展『第76回正倉院展』(2024年10月26日~11月11日)+特別陳列『東大寺伝来の伎楽面-春日人万呂と基永師-』(2024年10月1日~12月22日)+特別陳列『聖武天皇の大嘗祭木簡』(2024年10月22日~11月11日)

 夕方16時頃に奈良博に着いて「奈良博メンバーシップカード」を購入。これがあると予約なしで正倉院展に入ることができる。今年のメインビジュアルは『黄金琉璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)』。唐三彩を思わせる色調の七宝装飾の鏡である。図録によると鏡胎は銀製だという。全く記憶がなかったのだが、2000年の正倉院展、2009年に東京国立博物館に出ているとのこと。2000年の正倉院展は来ているかどうか分からない。2009年の東博は『皇室の名宝』展だと思うが、記憶に残っていない。

 『紫地鳳形錦御軾(むらさきじおおとりがたにしきのおんしょく)』は肘おきと説明されていた。蘇軾の「軾」には肘おきの意味があるのか~。2004年の正倉院展に出ているらしいが記憶になかった。

 『瑠璃魚形(るりうおがた)』はガラス製の魚形飾りで、深緑・浅緑・碧・黄がある。これは大好きなので、前回2003年にも話題になったことを覚えている。今回は、奈良時代の製法で再現した各色の模造品も出ていた。碧・黄の『琉璃小尺(るりしょうしゃく)』も模造品あり。なお魚形の碧はブルーだが、小尺の碧はグリーンである。『琉璃玉原料(るりたまのげんりょう)』も興味深く、板谷梅樹のモザイクの原料を思い出してしまった。くしゃくしゃした紙に包まれた『丹(たん)』は、鉛ガラスの原料や釉薬などに使われた顔料。半分固まりかけた橙赤色の粉末である。今回初出陳。

 伎楽面が複数出ていたのも嬉しかったが、いずれも1960年代以来、久々の出陳らしい。酔胡従の面には「捨目師作」の墨書あり。仏像館の特集陳列では、個人蔵・東大寺所蔵の「春日人万呂作」「基永師作」の伎楽面が展示されており、作者たちに思いを馳せた。

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2024年11月関西旅行:六波羅蜜寺秘仏本尊ご開帳

2024-11-07 21:25:51 | 行ったもの(美術館・見仏)

補陀落山六波羅蜜寺 国宝秘仏十一面観世音菩薩御開帳(2024年11月3日~12月5日)

 今回の関西旅行の最大の目的はこれ。12年に一度の辰年には、ご本尊十一面観世音菩薩のご開帳が行われるのである。初日の11月3日は、午前9時から開扉法要、さらに午前10時から開白法要が行われ、先着500名は「淵龍」の護符がいただけるというので、8:20頃には現地に到着した。ところが、すでに門前には大行列。南門から北へ並んだ列は、松原通りで南へ折り返している。私はこの2折目に並んだが、あっという前に再び折り返した列が北へ伸びて行った。「いま何名くらいですか?」と気にするお客さんもいたが、列の整理に当たっていたお寺の方は「すみません、もう数えられなくて」と答えるばかり。

 8:30頃にアナウンスと太鼓の音がして、先頭の一団が境内へ入っていくのが見えた。順番に列が進んだものの、私は松原通りに近いあたりで止まってしまった。今頃、お厨子の扉が開いているのかなあ…と思いながら、50メ-トルほど先の境内の様子は全く窺えず。9:20頃にようやく再び列が動き出し、南門を入って正面の弁天堂で「淵龍」の護符をいただけたのは10:00近くだった。今年の「淵龍」は白色。私は12年前に紫色、24年前に緑色をいただいている。検索したら12年前の護符の写真を掲載していたので、今回の護符も記録しておこう。

 ちなみに旅行の直前、友人と飲む機会があって、六波羅蜜寺の辰年ご開帳の話をしたら「たぶん24年前に一緒に行きましたよ」と言われてびっくりしてしまった。私の見仏歴も長くなったものである。

 拝観料はいつどこで支払うんだろうと思っていたら、無料で境内に入れてもらえた。そして本堂の前に10数名ずつ区切って並ばされ、順番にお堂に上がる。スタッフの方々は、背中に空也上人のシルエット入りのちゃんちゃんこを着ていらした。

 ご本尊の厨子の前でお焼香(1回にしてください、との指示)をしたら退出。システマティックな誘導で感心したが、ご本尊のお姿を拝めたのは数分程度。内陣では読経が行われていたが、気にするヒマもなかった。御朱印には長い列ができていたのであきらめる。

 いや~でもここのご本尊は大好きなので、なんとかご開帳中にもう一度来て、ゆっくりお姿を眺めたい。12年前も24年前も(初日でなかったからか?)こんな騒ぎではなかったのだ。

 一方で、お厨子の中の観音様の気持ちを想像してみると、12年ぶりの世の中、まあまあ平穏そうで、安堵されたのではないかと思う。誰も神仏の参拝に来られないような、厳しい状況になっていなくて。次の12年後はどんな世の中になっているのだろう。そして私は参拝に来られるといいなあ。

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