見もの・読みもの日記

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右翼と保守/第2回鈴木邦男シンポジウム:愛国・革新・アジア(鈴木邦男、中島岳志)

2013-06-19 23:43:26 | 行ったもの2(講演・公演)
○第2回鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台:愛国・革新・アジア(2013年6月11日、18:00)

 札幌の出版社・柏艪舎(はくろしゃ)が、札幌時計台で開催する鈴木邦男シンポジウム「日本の分(ぶん)を考える」シリーズの第2回。テーマは「愛国・革新・アジア」、ゲストは中島岳志氏。私は、鈴木邦男さんも中島岳志さんも著作はいくつか読んでいたので、ぜひナマでお話を聴いてみたいと思った。心配は、この日、定時に職場を離脱できるかどうかだったが、ダッシュでクリア。よしよし。

 最初に登壇したのは中島岳志さん。「右翼とは何か」を解き明かすため、明治維新とフランス革命の比較から始める。フランス革命以前、国家は国王のものであった。これ(主権)を国民のものに奪還したのがフランス革命。すなわち、フランス革命はナショナリズムを原動力としており、ナショナリズムなしにデモクラシーはありえない。

 一方、明治維新は「一君万民」を原理としており、一君(天皇)の下に、武士や貴族や農民という区別(階層)を消滅させようとした。しかし、現実は藩閥政治に陥り、万民の平等を実現することができなかった。そこで、天皇の大御心が国民に及ぶのを妨げている「君側の奸」を取り除くべく、まず武装闘争が起き(西郷隆盛はその最前線にいた)、言論闘争に移り、封建制度の打破を目指す自由民権運動へと引き継がれていく。さらに日露戦争以後の「煩悶青年」たちは、「一君万民」思想を一種のユートピア的コミューン思想として受け取りなおす。このへんは講師の『帝都の事件を歩く』(亜紀書房、2012)を思い出しながら聴いた。

 「右翼」とは、人と人が「透明な共同体」を作れると夢想する人たちで、その原点はルソーにある。「高貴な未開人」「子ども」「古代人」を理想とするロマンチスト。一方、保守主義者は人間の「本性」や「自然」に懐疑的である。福田恒存は、人間は永遠にペルソナをかぶって生きると断じた。

 講師は自らの立ち位置を「保守」に置く。その原点には、1995年、オウム事件が起きて「信仰と愛国」という理性では解けない問題を突き付けられたとき、伝統や習慣に拠る「保守」の強みを感じたことがあるという。この話も体験に裏打ちされていて説得力があったが、それ以上に印象的だったのは、後半、ホストの鈴木邦男氏とともに再登壇したときの告白。1989年、ベルリンの壁崩壊に世界が湧き立った当時、中学生だった講師は、ルーマニア大統領チャウシェスクの処刑に直面し、多大なショックを受けた。「自分が殺した」と思った、という。多感すぎる中学生の非合理的な発想と考える人もいるかもしれないけど、私は、こういう「無作為の責任」の自覚は大事なことだと思う。

 ちょっと方向性が違うんだけど、私の場合は、小学生の終わりに浅間山荘事件を見聞したことが、右派であれ左派であれ、あらゆる「革命を疑う」人生の出発点になっている気がして、この点も共感できた。でも中島岳志さんって、著書から想像していたより、ずっと「熱い」語りをする方で、実はかなり「右翼」(ロマンチスト)的な本質を持っていて、あえて「保守」にとどまっているんじゃないかな、なんて思ってしまった。

 「右翼/左翼」「保守/革新」という手垢のついた対立軸を考え直すには、いい整理になる対談だった。そして「リベラル保守」を標榜する中島岳志さんが「右翼」の鈴木邦男さんとにこやかに談笑しているのもいい図だったが、中島岳志さんが「僕と全く同じことを考えているのが山口二郎さんです」とおっしゃるのも面白かった。学問や思想の古いカテゴリーが通用しなくなっているんだな、たぶん。

 あと、小ネタなんだけど、朝鮮独立運動の志士、金玉均が一時札幌(しかも北大構内!)に住んでいたという中島さんの話には、思わず反応してしまった。クラーク会館の近くらしい。今度、往時をしのんで歩いてみることにしよう。

※鈴木邦男氏のブログ『鈴木邦男をぶっとばせ!』より「札幌で語った。革命と維新について。

第3回シンポジウムには山口二郎先生登場!
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