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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

多賀城碑(壺の碑)を訪ねる

2023-06-03 23:50:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

 金曜はアイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)2023宮城公演の初日を見るために仙台に行ってきた。そのレポートは後で書くことにして、さきに今日の観光の話を書いておく。金曜は夜公演だったので1泊して、朝から多賀城市の東北歴史博物館に出かけた。開館時間より少し早く着いたので、駅から徒歩10分ほどの距離にある多賀城碑(壺の碑)を見ておくことにした。

 東北歴史博物館が移転・整備されたのは1999年だという。私はたぶんその頃に一度来ていて、多賀城碑も「見た」という記憶はあるのだが、それ以上のことは何も覚えていない。駅前の住宅地を抜け、田園風景の中を歩いていくと、小高い丘の上に立派な楼門が見えてきてびっくりした。まだ建築途中らしく、周囲は「立入禁止」の柵で囲われている。白い塀には「令和6年度完成予定」と書かれていた。多賀城創建から1300年を迎える2024年の完成を目指しているそうだ。※多賀城創建1300年記念特設サイト

 立入禁止じゃ多賀城碑も見られないんだろうか?と不安に思いながら、丘の裾野をぐるりと回り込む。北側には「政庁跡入口」の札があり、こちらも何やら復元が進んでいるようだった。なんだか中国の田舎の史跡を思い出す。ちょうど、政庁跡のほうから、揃いのベストを着たボランティア(?)ガイドのおじさんとおばさんが出勤してくるのに出会った。

 幸い、丘の上の多賀城碑には近づくことができた。覆い屋に収められている。

 ガイドのおじさんから、碑文のコピーを貰い、解説を聞いた。「どこから来たの?」と聞かれたので「東京の江東区です。芭蕉庵のあるところ」と答えたら「おお!」と嬉しそうだった。「奥の細道」ゆかりの名所だものね。あとで、おじさんが芭蕉に扮した写真を見せてもらった。

 碑文は「西」と書かれた西面にある。冒頭は多賀城の位置を説明して「去京一千五百里/去蝦夷國界一百廿里/去常陸國界四百十二里/去下野國界二百七十四里/去靺鞨國界三千里」という。古代の1里は540mと言っていたかな。そうすると蝦夷国までは65kmくらいで、かなり近い(宮城県北部の栗原市あたり?)。大和朝廷の支配域の最果ての地だったことをあらためて思う。

 靺鞨国というのは渤海国のことで、高句麗の遺民が建国したものだが、新羅と連合する唐は渤海国をよく思っていなかった。そのため唐に追随する大和朝廷の官人も靺鞨国と書いた、というのは、ガイドのおじさんの説明。うーん、ちょっと疑いながら聞いたが、渤海国でなく靺鞨国の名称を用いているのはおかしい、という指摘は古くからあるようだ。関連で「渤海」は「靺鞨」の近変音であるという説も見つけてしまった。あと「新靺鞨(しんまか)」という雅楽の曲名があるのだな。日本、伝統的に近隣国の名前はわりと適当だと思う。

 この碑は多賀城の修築を記念し、多賀城の入口に藤原恵美朝臣朝獦(朝狩、あさかり)が建てたものである。碑の建立が天平宝字6年(762)12月。そして天平宝字8年9月、彼の父親である藤原仲麻呂が反乱に失敗し、朝獦も戦死したと伝える。人間って、どんな仕事が後世に残るか、分からないものだな。

 その後、碑は地中に埋められ、江戸時代に発見された。そのことが碑文の保存には幸いし、現在でも文字がよく読める。当初は野ざらしだったが、水戸光圀が仙台藩主の伊達綱村に勧めて、保護のための覆い屋を造らせたという話も面白かった。楼門・政庁の復元が完成したら、また来てみたい。ガイドのおじさんが「ようやくここまで来たけど、金がなくて」と嘆いていらしたけど、成功をお祈りします。

 去年は、ファンタジー・オン・アイス2022静岡公演のついでに初めて登呂遺跡を訪ねたのだった。地方遠征、こういう楽しみかたもいいんじゃないかと思う。


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