○辻井喬、上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書) 文藝春秋社 2008.5
上野千鶴子の本を読むのは久しぶりだ。80年代には熱心に読んだものだが、90年代に入ると、すっかりフェミニズムに興味を失って、爾来20余年、新聞・雑誌の短文さえも読んでいない。だから上野氏が91年に『セゾンの発想』と題して、セゾングループの社史(全6巻)の一部を執筆していたことも、本書を開くまで知らなかった。同書は、外部の研究者に執筆を委嘱し、「取材は自由、情報の隠匿はしない、原稿の検閲は一切しない」という、社史としては異例の企画だったという。でも、”あの頃の西武”だったら、やりかねない、と思った。
”あの頃”というのは、70年代後半から80年代前半。まだ、バブル景気(1986年12月~1991年2月)の狂騒は始まっておらず、日本の消費社会は、比較的健全な成長を続けているように見えていた頃。セゾングループは、”消費文化”の象徴みたいなところがあった。本書は、上野千鶴子が辻井喬にセゾングループの歩みを聴き取るかたちで進行する。詩人・小説家の辻井喬氏が、同時にセゾングループの元代表・堤清二氏であることは、もちろん織り込み済みである。
西武劇場・西武美術館、書店「リブロ」、パルコの広告など、セゾングループが仕掛けた70~80年代の文化戦略は、どれも懐かしい。本書は、その背後にあった経営意図(マイナーブランドだった西武のイメージアップ)が語られているのが読みどころだが、と同時に、辻井氏の個人的な嗜好と切り離せないのが、興味深い。上野氏から、西武の文化事業は何だったんでしょう?と問われて、「自己満足じゃないかなあ」と辻井氏は答えている。
なるほど、と思わせるのは、欧米と比べた場合の、日本の消費者の特異性である。日本は、ある階層の人々が百貨店に行き、ある階層の人々がスーパーに行くというように、消費者を階層化できない。ふだんカップラーメンで済ませている若者でも、時には高級フレンチを食べに行く。また、牛肉をブロック買いして、1週間同じ料理を食べ続けるような食生活はできない。「日本の食生活における生鮮食品の比率は、アメリカ人でもヨーロッパ人でも理解できない」のだそうだ。これ、笑った。高価な生鮮食品を、毎日、調理の手間をかけて食べるのは、「合理的でない」と欧米人は思うらしい。
91年のバブル崩壊以降、セゾングループの経営は、さまざまな「失敗」が明らかになっていく。西洋環境開発グループの「サホロリゾート」「タラサ志摩」など。本書のページ数のほぼ半分は、失敗例の丹念な追究に当てられている。私は、ビジネス本をあまり読まないが、成功例の自慢話より、こういう失敗例の分析のほうが、学ぶ点があるように思う。
辻井氏が現場を去った後、セゾングループはファミリーマートを売却する。これについて辻井氏は「僕ならば、西武百貨店を売ってもコンビニは残すんだが」と感想を述べたという。スーパーとコンビニは生き残る。しかし、百貨店は、もはや時代の使命を終えた、というのが、辻井氏の実感のようだ。確かに、自分のことを考えても、デパートには行かなくなった。若者は新聞を読まなくなり、テレビを見なくなったというが、やがて、百貨店を知らない世代が登場するのかもしれない。
上野千鶴子の本を読むのは久しぶりだ。80年代には熱心に読んだものだが、90年代に入ると、すっかりフェミニズムに興味を失って、爾来20余年、新聞・雑誌の短文さえも読んでいない。だから上野氏が91年に『セゾンの発想』と題して、セゾングループの社史(全6巻)の一部を執筆していたことも、本書を開くまで知らなかった。同書は、外部の研究者に執筆を委嘱し、「取材は自由、情報の隠匿はしない、原稿の検閲は一切しない」という、社史としては異例の企画だったという。でも、”あの頃の西武”だったら、やりかねない、と思った。
”あの頃”というのは、70年代後半から80年代前半。まだ、バブル景気(1986年12月~1991年2月)の狂騒は始まっておらず、日本の消費社会は、比較的健全な成長を続けているように見えていた頃。セゾングループは、”消費文化”の象徴みたいなところがあった。本書は、上野千鶴子が辻井喬にセゾングループの歩みを聴き取るかたちで進行する。詩人・小説家の辻井喬氏が、同時にセゾングループの元代表・堤清二氏であることは、もちろん織り込み済みである。
西武劇場・西武美術館、書店「リブロ」、パルコの広告など、セゾングループが仕掛けた70~80年代の文化戦略は、どれも懐かしい。本書は、その背後にあった経営意図(マイナーブランドだった西武のイメージアップ)が語られているのが読みどころだが、と同時に、辻井氏の個人的な嗜好と切り離せないのが、興味深い。上野氏から、西武の文化事業は何だったんでしょう?と問われて、「自己満足じゃないかなあ」と辻井氏は答えている。
なるほど、と思わせるのは、欧米と比べた場合の、日本の消費者の特異性である。日本は、ある階層の人々が百貨店に行き、ある階層の人々がスーパーに行くというように、消費者を階層化できない。ふだんカップラーメンで済ませている若者でも、時には高級フレンチを食べに行く。また、牛肉をブロック買いして、1週間同じ料理を食べ続けるような食生活はできない。「日本の食生活における生鮮食品の比率は、アメリカ人でもヨーロッパ人でも理解できない」のだそうだ。これ、笑った。高価な生鮮食品を、毎日、調理の手間をかけて食べるのは、「合理的でない」と欧米人は思うらしい。
91年のバブル崩壊以降、セゾングループの経営は、さまざまな「失敗」が明らかになっていく。西洋環境開発グループの「サホロリゾート」「タラサ志摩」など。本書のページ数のほぼ半分は、失敗例の丹念な追究に当てられている。私は、ビジネス本をあまり読まないが、成功例の自慢話より、こういう失敗例の分析のほうが、学ぶ点があるように思う。
辻井氏が現場を去った後、セゾングループはファミリーマートを売却する。これについて辻井氏は「僕ならば、西武百貨店を売ってもコンビニは残すんだが」と感想を述べたという。スーパーとコンビニは生き残る。しかし、百貨店は、もはや時代の使命を終えた、というのが、辻井氏の実感のようだ。確かに、自分のことを考えても、デパートには行かなくなった。若者は新聞を読まなくなり、テレビを見なくなったというが、やがて、百貨店を知らない世代が登場するのかもしれない。