〇津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』(ちくまプリマ―新書) 筑摩書房 2024.5
著者は、2020年9月、アニメ『銀河英雄伝説』のリメイクについて「男女役割分業の描き方は変更せざるをえない気がする」云々とツイートしたところ、批判的なリプライが次々に押し寄せる事態になってしまった。しかし、2、3日もすると次第に鎮静化した。
この「炎上」体験談をマクラに、アニメや漫画の表現に対する批判と「表現の自由」をめぐる対立について、著者はメディア論の立場から考察する。広告などのメディアがそれを見た人にどのような影響をもたらすかは分からないし、誰か(たとえば女性、マイノリティ)が不安を引き起こす表現はないほうがよいとしても、万人が納得できるラインは存在しない。だが、これだけソーシャルメディアが普及した時代に「表現の自由」なのだから不快であっても我慢しなさい、でよいのか。自由の尊重が、かえって民主主義を危機に陥れる可能性がある、という問題提起には賛同する。
実は、もう少し先まで読んだところで本書を放置していたのだが、昨日、2024年東京都知事選挙の結果を知ったあとで、米国の政治的分極化を扱った第3章を読み始めたら、いろいろ考えさせられてしまった。米国では、近年、二大政党の分極化が進んでいる。かつてはそれぞれの党が、多様な政治的立場の人を抱え込んでいたが、価値観やアイデンティティに基づく棲み分けが進み、政党のカラーが鮮明になってきた。要因の一つがメディアの変化で、規制緩和によって、一つの局がバランスのとれた報道を行う必要がなくなったことで、明確な党派性に訴えて特定層にアピールするメディアが増えたのである(アメリカの影響を受けた台湾の状況と同じ)。
また、政治の分極化とともに「被害者政治」が進行している。これは、マイノリティの告発に対抗して、マジョリティが「我々こそ本当の被害者だ」と主張する動きをいう。米国では、民主党と共和党の双方が強い被害者感情を持ち、対立を深めている。ただし実態としては、双方の政党の支持者が、自分たちと相手側の違いを過大に見積もっている傾向がある。この認識ギャップの調査結果はとても興味深かった。結局、相手側が過激な意見を支持していると双方が「イメージすること」から「偽りの分極化」が生まれている。
偽りの分極化は、怒りを増幅させ、「感情的分極化」に至る。感情的分極化は、ある政党や候補者を支持することよりも、嫌いな党派への「逆張り」「嫌がらせ」に向かう。著者は「日本社会の問題は、政治的分極化ではなく、むしろ政治的無関心の広がりだ」と書いているけれど、これはけっこう日本の状況にもあてはまるのではないかと思った。
こうした分断を生み出すものとして、ネット上の「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」という概念が語られてきた。しかし近年の研究は、こうした仮説を覆している。むしろマスメディアの時代には、人は自分の好みに合わせて新聞やラジオ番組を選択し、緩やかなエコーチェンバーを形成することができた。しかしメディアが多様化すると、自分とは異なる意見との接触機会が増加する。自らの価値観に反し、感情を逆なでする情報が入ってくる言論空間に身を置いた人は、もとの立場に執着するようになることが、実験的に確かめられているという。困った話だが、自分を含めて人間とはそういうものだと知っておくことは大事だと思う。
かつてソーシャルメディアが民主主義を牽引すると考えられた時代があった。しかし今日、ソーシャルメディアに見られる「悪ふざけ」「シニシズム」によって、「代議制民主主義にとってきわめて重要な選挙をないがしろにする態度」が広がっている。まさに都知事選の日にこの下りを読みながら、胸が騒いだ。それでも著者は、ツイッターの可能性に希望を託す。ソーシャルメディアとは、世界をより単純にしようとする力と、より複雑な側面を見せようとする力がせめぎ合う場所だという。そう、この、世界の複雑さを垣間見る喜びは、説話文学に通じるところがあって、私もソーシャルメディアから離れられないのである。
ちなみに私は、けっこう前から著者のツイッターをフォローしている。実は何者かを全く存じ上げずに「時々、おもしろい意見をいう人(大学の先生らしい)」程度の認識でフォローしていたのだが、初めて著書を読ませていただいた。こういう関係もソーシャルメディアの楽しさではある。