行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

富山のライトレールも「まちづくり」の一環なんだ

2024年11月29日 | 鉄道


富山「富岩水上ライン」で富岩運河の見どころを堪能しながら、環水公園から終点の「岩瀬カナル会館」まで乗船。この乗船券には復路の路面電車の運賃が含まれていて、富山の新交通インフラをダブルで楽しめるといったものになっている。
チケットの案内には「路面電車」という表記になっているが、これは富山自慢のLRT(ライト・レール・トレイン)で、富山地方鉄道の「富山港線」ということになる。正確に言うと「トラムトレイン」という分類になるそうだ。
私が乗車した「岩瀬浜」は、富山港線の終点、そこから専用軌道を利用して旧JRの富山港線を活用し、市内に入って路面軌道を「富山駅」へ。富山地鉄の市内軌道本線や環状線(市電)と相互乗り入れをしている。(富山港線は第三セクターの時代があり、市電路線にも富山市が所有する部分があるなど、富山市が密接に関与している。)



さて富山港線、「富岩トラムライン」とでも呼ぼうか?岩瀬カナル会館から岩瀬浜駅までは、ほんの数分の距離。運行間隔は日中でも15分間隔が保たれており、すでに入線していた緑色の2連接低床車体の0600形は、富山ライトレール時代からの新時代を切り開いた生え抜き車両。「ポートラム」の愛称がある(写真最上段、見出し画像は剱岳をバックに走るポートラム)。
8編成ある同形車両には異なったカラーが施され、キャラクターもある。生え抜きといっても2006年運用開始だから内装もきれいで都会的。連接部にロングシート、ほかはボックスシートになる。もちろんワンマン。そのほかに、デ9000形(セントラム、写真上の交換列車)、三連接のT100形(サントラム、写真下・富山駅前で)が市電区間と主に共用運転をしている。(0600形、デ9000形は新潟生まれ!新潟トランシス製。)
岩瀬浜から富山駅へは30分弱。「奥田中学校前」までの専用軌道(第一種鉄道事業)線から、道路(軌道事業)に入ってクルマと一緒に走ったり、反対列車とすれ違ったり、牛島町の交差点で大きくカーブし富山駅に向かう車窓は、何とも都会を感じてしまう。



ところで、この富山港線は「富岩鉄道」によって大正期に開業した。その後、合併などにより会社名を変えるなどして戦時下に富山地方鉄道から国有化され、国鉄からJR西日本の路線となるのだが、JRの民営分割・合理化の流れの中で、JR西日本は超赤字路線だった同路線を実質廃線の検討をしていることを明らかにする。
それを何とかしようと富山市が中心となって第三セクター「富山ライトレール」が設立され、2006年(平成18年)開業する。お隣、高岡市の万葉線の例もあったのだが、国内で路面電車が新設されるのは実に久々のことであり話題を呼んだ。また、国有化を経て戦前の事業者(富山地方鉄道)に運営が戻るのも珍しいこととか。
富山市内を走る電車には歴史があり、そしてコンパクトシティを目指す富山市のまちづくりにも注目が集まり、宇都宮のライトレール事業にも波及したともいえる。様々な形の電車が走る市電を見ていると、何とも羨ましさと嬉しさが湧いてくる。(写真下:富山駅前の市電乗り場と、「県庁前駅」で古参電車デ7000形の雄姿。)



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新・新潟駅(その4)、あの店も出店!CoCoLo新潟の魅力と課題

2024年11月11日 | 鉄道
新しくなった新潟駅、あまりにもエキナカのCoCoLo新潟が変貌し、魅力的であるがためについつい長居をしてしまっている。が、まあもう少しだけ紹介し、今回で一区切りとしたい。



前々回紹介したとおり、CoCoLo新潟は、新潟駅自体の機能の関係か、バスターミナルをはじめとした公共交通のアクセスの関係から、EAST SIDEに力が入っているような気がする。まあ、これは仕方ないこととしても、実はWEST SIDEにも魅力的なショップがある。
西口の改札前の通路は(写真上)、万代広場と駅南のけやき通り方面を結ぶ通路にもなっていて、スターバックスコーヒー、吉野家、丸亀製麺など全国展開するチェーン店など(写真上)通勤通学の地元客の利用も多い場所ならではのラインナップのほかに、「ニシデリストリート(写真下)」というアリアがある。
このエリアの奥まったとこっろにあるのが「市玄」というラーメン屋(写真下)。あえてEAST SIDEの「ニイガタバル★麺横丁」のグルメエリアから離れたこの場所に、以前紹介したことのある(この時は「ラーチャン」のカテゴリーで)新潟あっさりラーメンの人気店がひっそりと店を構えているのである。この店、私自身もイチオシの店なので、見つけたときには嬉しさの限り。



市玄は、前回少し触れた「ことぶき寿司」と同じ会社「enn」の経営。ennは、ことぶき寿司を展開する中で本社機能を新潟市中央卸売市場内に移転、市玄をオープンさせ、その後も場内に2店の飲食店を早朝から営業している。新潟の台所を支えるために働く人たちの胃袋を支えている。
市玄の看板メニューは「朝っぱラーメン(写真下)」というマグロなどの海鮮系で出汁を取った究極のあっさりラーメン。朝早くから食べることができるようにとの味付けであるが、市場内にある本店では握り寿司やチャーハンのセットメニューが人気である。
そのラーメンに新潟駅で出会うことができるとは。ただ市場内の本店は午前6時の開店だが、CoCoLo新潟のWEST SIDEニシデリストリート店はオープンスペースのため、エリア内の他店と開店時間を合わせ午前10時、メニューも本店より絞っての営業となっている。もちろん、あさっぱラーメンはありますよ!



このニシデリストリートは、名前のとおりテイクアウトを中心としたお店が並ぶエリアで、市玄のスペースでも海鮮系の商品を開発・販売するつもりだったらしいが、イレギュラーで人気ラーメンの駅進出となった。ただ、そのためか店のスペースは極めて狭い。隣の「とんかつ太郎(写真上)」も同様、狭いイートインでのメニューはカツ丼一本。
とんかつ太郎?ここはタレカツ丼発祥の店ですよ!こちらも新潟の名店。そのほかにも、燕三条で人気イタリアンレストランのBit Market(写真下)、新潟米をアピールしようと壱成(新潟市)が運営するおにぎり屋「新潟おにぎり・笑ん結(えんむす、写真下)」、おなじみ角中グループの「はっぴ商店/横浜こがね庵」などが出店している魅力的なエリアなのである。
ただ難点はとなると、いまのところ駅化改札を挟んだEAST SIDEやバスターミナルとの距離的な問題。以前、西自由通路となっていた場所にあるので、今後工事中の万代広場の完成とともに、駅前の弁天方面と西改札へのアクセスがどうなってくるのかがカギを握る場所になりそうだ。



ということで、新しくなった新潟駅の魅力や課題をダラダラと書き込んでみたものの、新潟の玄関口はとにかく綺麗になったし魅力的なところにもなったという感じはするが、今後は「ニイガタ2㎞」を機能的にリンクさせ、集客を図り、まちの活性化を見出せるかが一番の課題となる。
特に、古町をどうするか?ご承知のとおり、当時の新潟の一大ショッピング街であった古町で、鳴り物入りでオープンした地下商業施設の「西堀ローサ」は来春運営会社(三セク)が会社の解散を発表し、テナントへの退店要請を行うことになっている。
古町も「古町どんどん」や「古町夜市」など、商店街や市民団体がイベントでの集客を図ろうと頑張っているが、一方で新潟駅のリニューアルに巨費を投じてきただけに、その恩恵を2キロ圏内が享受するための具体的計画や、交通体系を含めたインフラ整備・対策なども、重ねて新潟市は求められることになるだろう。
(写真下:現在工事が進められる新潟駅前万代広場の工事現場と、仮の万代口から見る駅前通りの「東大通」は、万代・万代島地区、古町地区を結ぶ幹線である。)

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新・新潟駅(その3)、「食」にも新潟満載のラインナップが

2024年11月07日 | 鉄道
今春オープンした新潟駅のエキナカ「CoCoLo新潟」は、食事を楽しむといういう点でも充実している。前回総菜やテイクアウトの店もあると紹介したが、ここでは店舗業態から2つレストランエリアと駅弁について、新潟発という視点でその特色づくりを探ってみたい。



EAST SIDE2階の一番東側、南館への通路近くには「ニイガタバル★麺横丁(写真上)」がある。遅い時間までお酒の楽しめるバルのほか、特に山形市とラーメン消費量を争う新潟の玄関口・新潟駅にあって、県内ラーメンの名店が出店している。
新潟市の人気店「ラーメンいっとうや」をはじめ、新潟をラーメン王国に押し上げただるまやグループが「だるまやNIIGATA BASE」、同じく角中グループは「まぜしゃもじ」、そして燕三条背油ラーメンの名店として全国・世界系列17店を誇る「燕三条らーめん潤」だ。
このラインナップは、県外客への大きなアピールとなるだけではなく、新潟県民も注目のスペースになるのではないだろうか?半ラーメンを注文してハシゴしたいくらいでもある(「半ラーメン」というメニューがあるかは不明!)。



新幹線東改札口を出て南側のエレベーターを降りるとWEST SIDE1階の「エキナカキッチン」がある。こちらはちょっとしたレストラン街になっていて、ゆったりと食事を楽しむのによさそうだ。
全9店舗、うち新潟初出店の店が6店舗ある。仙台牛タンの「利久」や今月オープンの「鎌倉パスタ」も初上陸組。ただ、県内企業としては、阿部幸製菓(小千谷市)が「米」つながりでフォーのレストラン「PHO’ MINH(フォーミン)」を、enn(新潟市)が「ことぶき寿司 c/o まいもん寿司」を新たにオープン。県内注目企業の出店だ。
ことぶき寿司は県内でも寿司店を数店営業している実績があるが、実績というと旧新潟駅時代から長年CoCoLo新潟で営業してきた「長岡小嶋屋」がここでも営業していることがうれしい。新潟県人としては「へぎそば(写真上;長岡小嶋屋の野菜てんへぎ)」は県外からのお客様に是非食べていただきたいからね!



だた、エキナカの飲食店やテイクアウトの店が充実をしていく中で、心配なのは駅弁である。米どころ新潟の駅弁文化はぜひとも残したいと思っているのだが、ありましたよ,駅弁屋!新幹線東改札口の前に「新潟三新軒」のショップが(写真上)。
こちら新潟三新軒の看板が出ているものの、以前から連携している新発田三新軒、神尾弁当の弁当もを扱っている。全部で17種類。自分自身は電車に乗る機会は少なくなっているものの、車内で駅弁を楽しみたいという人のため新潟の力を見せてほしい。
お米といえば、エキナカのコンビニである「NewDays(ニューデイズ、写真下)」では、駅弁とともに白いコメのおにぎりのパック(写真下)を販売をしていた。県内産のブランド米3種類「南魚沼産コシヒカリ、ミルキークイーン、新之助」の三種類の食べくらべができるというもの。これもインパクトあるなー!


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新・新潟駅(その2)、心揺さぶる「CoCoLo新潟」のリニューアル

2024年11月05日 | 鉄道


新潟駅、前回紹介したとおり、駅やホームそのものが高架化されて、バスターミナルが移設・新装したことが駅周辺整備事業の最大のポイントではある。しかし、自分自身一番驚いたのは、エキナカ(実際は改札外)の商業施設「CoCoLo(ココロ)新潟」の大変貌である。
新潟駅2階の改札内コンコースを東西通路で挟んで、加えてバスターミナルを挟んで1階にも、かねてから「ビックカメラ」などが入っていた南館や西側のメッツ館などを合わせると、テナントの数は160店舗。
今春、お土産品や食料品などを中心としたEAST SIDEがオープンし、次々にファッション・コスメエリア、バル&麵横丁やグルメストリートなど、駅を真ん中に西に東にエリアを拡大してきた。(写真上:南館からEAST SIDEへの入口、EAST SIDEの案内図)



CoCoLo新潟のグランドオープンは、今年4月25日(3月27日にEAST SIDEの一部が先行オープン)。JR東日本新潟シティクリエイトが運営する。(写真上:東改札口方向からEAST SIDEへ、WEST SIDE1階のファッション・コスメエリアは百貨店の様相)
お店の数もそうだが、とにかく広い。以前のCoCoLoは直線的な通路と店舗の区割りだったが、その通路を何本も張り巡らし、時には曲線を描き、1階に2階に。東京駅より複雑かもしれない。
自分は下調べによる情報インプットと鉄分が入った血により大体の方向感覚は備えての新潟駅への出陣であったが、初めてだと道に迷うというか、なかなか目的地に行きつけないということもあるかもしれない。



東口改札前の通路がエキナカのメインストリートだが、CoCoLo EAST SIDEへの入口が並んでいくつか設置されている。一等地には新潟の名店が並ぶ。大阪屋、加島屋、丸屋本店、田中屋本店といった既存組に、ブルボンや亀田製菓、ヤスダヨーグルトなどの新潟ブランドが並んでいる。
新潟県初進出で話題になっているのは「成城石井(写真下)」、こちらも東改札に近い位置に陣取る。県内初出店は、37店舗。このほかほか、以前このブログでも紹介してきた「中条たまご(写真上)」「canelé de CHIANTI(Atelier CHIANTI、写真上)」などのショップもある。
WEST SIDEには既存の「ぽんしゅ館」があるが、EAST SIDEのお土産品売場の一角に、吉乃川、久保田(朝日商事)のショップ(写真下)もある。以前の東館にも種類を扱う店舗はあったが、日本酒王国・新潟のメジャーな蔵元の力の入れようが分かる。



食料品、生鮮品はEAST SIDE1階の一番東側にあって、佐藤食肉が肉と加工品を、にいがた海鮮家(大栄魚類)が魚・海産を販売する。このエリアは旧万代口のCoCoLo同様に集中レジ方式。そのほか弁当・総菜を扱うテナントもこのフロアに並んでいる。
目を引くのは「明治屋(MEIDI-YA、本社・東京都)」の新潟ストアだ(写真下)。というのも、明治屋は輸入食品やジャム、冷凍・レトルト食品、自社ブランド食品などで人気を得ているが、実は19年前に古町5番町で店舗を閉店、再度新潟に帰ってきた大手食品ストアだ(集中レジ内のため、酒類の販売はない。)
新潟ストアの店長・渡邊竜之さん(写真下)は、19年前の古町店舗閉店時の店長。一旦明治屋を離れて仙台で仕事をしていたものの新潟ストアを開店する際に再登板の声掛けがあった方。長岡市出身だけに、新潟での再オープンを嬉しそうに話してくれた。



一応カテゴリー別にフロア・エリアが分けられているとのことだが、店によっては扱う商品が多様なため、「あの商品はどこにあるの?こんなところにもあった!」と何度か行かないと店の志向が見えてこないかもしれない。
また、食料品売場が改札から遠いということを難点とするのは、JRを使うという前提の地元民(自分)の叫びか?以前、万代口にあった時のことを考えると、発車直前にという技は発揮できない。まあ、バスターミナルには近いからなー。
全体的にEAST SIDE(東改札、写真下)の方がアクセスが良く、店舗が充実している感がある。イベントにも活用できる1階「潟リウム」前のエスカレーター(写真下)が東改札に、バスターミナルのエスカレーターや駐車場のエレベーターもEAST SIDEへ利用者を誘客を送り込んでいるのは確かだ。




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新・新潟駅(その1)、「青い灯」が消えて4年の進化は?

2024年11月03日 | 鉄道


ようやく山形を抜け出して新潟に戻ることができたのだが、ふと「新潟駅」を見てみたいと思い立って出かけることにする。孫と電車で行く約束をしていた場所だが、今回は一人でクルマでの訪問となる。
というのも、新しくなった新潟駅を見たことがない?まったく電車に乗っていなかった訳でもなく、乗り換えなどでは使っているはずだが、コロナの影響もあってハイエースに乗り換えてからはクルマでの移動も多くなりっているのはこのブログでご紹介のとおり。
その新潟駅、2022年6月に完全高架化になった。地上にあった在来線ホームを新幹線ホームに合わせるというもので、すでに2018年には在来線5番線と上越新幹線11番線の同一ホームの乗り換えが可能になっていたが、最後残っていた高架ホーム1番線が供用開始(写真上)となって全面開業となった。(工事中、地上に設けられていた8、9番線は廃止・撤去された。)



これは新潟市が中心となって進める「新潟駅周辺整備事業」の一環として、鉄道・道路の連続立体交差事業、周辺幹線道路の整備事業、駅前広場整備事業などに合わせ、JR新潟駅そのものの利便性を向上と新潟の玄関口として整備が図られたものである。
駅そのものもそうだが、新潟駅周辺の信越線・白新線、越後線と地上道路の立体交差により、周辺の混雑は解消されるとともに、駅直下にバスターミナルを整備(写真下)することで南北を結ぶ「軸」とし、文字どおりターミナル化するもの。
以前万代口前には、新潟交通のスイッチバック式ターミナルがあったが、駅前の混雑をかいくぐるかのようにバスを乗り場まで寄せていたものが、一転、駅直下で行ったり来たりUターンもできて、バスの走行や乗降も見るからに快適さが見て取れる。



事業開始が2012年だから12年、高架ホームの供用開始から6年、新潟駅の「青い灯」が消えて4年、着実に整備は進められてきているが、残すは万代口の広場と駅舎へのアプローチ。2025年度(2026年春)完成の予定だ。(新潟駅の再開発事業の第一段階として、「南口整備」は2007年から実施されていた。)
このような大規模での新潟駅リニューアル化は実に約60年ぶり。自分と同年代の3代目駅舎は懐かしさも感じるが、今後はスマートな駅舎と駅周辺施設が乗降客を見守り、ターミナルから次々とバスを吐き出していく。その姿は都会のようだが、地方でも一極集中のような気がしてならない。
市が推し進める「新潟駅~万代~古町」の新潟都心軸「にいがた2㎞」の玄関口として位置づけられている新潟駅、次回紹介する駅ナカの商業施設などの整備も行われているが、駅を拠点として今後の「まち」としての進化がどうなるか注目していきたい。(写真下:工事中の地上ホームと旧新潟駅舎・旧バスターミナル(いずれも2020年11月撮影))

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まほろばの里にあった廃線跡は、いまも東西「高畠駅」を結んでいる

2024年10月24日 | 鉄道


山形の石橋を探して高畠の町を歩いていると、「高畠駅」という看板を目にした。高畠駅はJR奥羽線の駅のはずだがー、そうだ!ここには旧高畠線があって、高畠駅は高畠町役場などがある市街地にあったことに気が付く。
奥羽線の米沢・山形間が開通したのは1900年(明治33年)、前回、前々回紹介している米沢までの開通の翌年で、高畠鉄道は奥羽線の旧糠ノ目駅(現高畠駅)と旧高畠駅の間が1922年(大正11年)に開通。その後、二井宿まで延伸され、1943年、山形鉄道高畠線となった。
旅客輸送のほか、貨物の取り扱いも行っていた。というより、高畠周辺では製糸業が盛んで、生糸や製品の輸送や材木、果物などの地域の特産物を輸送する目的が強かったとも言われている。1974年(昭和49年)、水害によるダメージをきっかけに全線廃止。先に紹介した「くりはら田園鉄道」よりかなり前に廃止。「赤谷線」の廃止よりも10年前のことだ。



旧高畠駅は高畠鉄道開通後、それまでの木造駅舎から、1934年(昭和9年)立派な駅舎が完成(写真上)。これは地元の特産品である凝灰岩「高畠石」を使用しているが、石で作られた駅舎は珍しいこと。石造りのプラットホームなどとともに、登録有形文化財として保存されている。
駅舎の色彩や大正ロマンを感じさせるデザインは高畠のシンボル的な存在である。また、駅構内はきれいに公園化されており、一角には当時活躍したED1電気機関車やモハ1などの車両も展示されていることから地域住民や鉄道ファンにも親しまれているという(写真上)。



廃線跡は、赤谷線と同じくサイクリングロード「まほろば緑道」として整備がされていて、現高畠駅から「日本のアンデルセン」といわれた童話作家・浜田広介の記念館、高畠市街・旧高畠駅、「まほろば古の里歴史公園」や道の駅「たかはた」、蛭沢湖など高畠町の観光スポットを結んでいる。
高畠市街と奥羽線・現高畠駅までは5キロほど。まほろば緑道は通勤・通学など生活路線として利用されているが、沿道は桜並木があって、さぞ桜の時期には見事なのではないかと思う。前述のとおり、かなり早い時期に廃線となってはいたが、跡地はしっかりと保存されている。竹ノ森駅はポケットパークに、和田川の橋梁は桁部こそ架け替えられているようだが、橋脚は以前のもののようだ(写真下)。
まほろば緑道整備にあたっても、沿線に浜田広介記念館や道の駅などを配したことは地域の熱意を感じるし、観光面でも効果的ではないだろうか。(「高畠ワイナリー」は、奥羽線の上り方面で奥羽線を跨ぐが、高畠駅からも1キロほどなのでレンタサイクルでも行ける。)



まほろば緑道は、廃線跡をそのままに奥羽線の現高畠駅(起点・旧糠ノ目駅)まで続く。旧糠ノ目駅は、1991年(平成3年)に「高畠駅」と改称される。山形新幹線の開業前年のことである。17年振りに「高畠駅」の復活だ。
国鉄分割民営化の以前に無人駅(簡易委託駅)になった糠ノ目駅であるが、高畠駅と改称したことにより東西の自由通路の開設、東側に「太陽館」の建設に伴い駅舎機能を東側に移転、新幹線が停車する駅としてJR直営駅としても復活を遂げた(2015年から業務委託駅)。
それ以後も店舗、温泉施設、ホテルなどができて、市街地方向の東口が名実ともに高畠町の玄関口となった。高畠線の起点・糠ノ目駅のあった場所だ。まほろば緑道は、「まほろばの里」にある町の東西・新旧の高畠駅を今もしっかりと結んでいるのである。(写真下:JR奥羽線高畠駅の東口付近、自由通路入口は高畠線の始発地点であり、奥羽線東側の現高畠駅舎・太陽館は市民や観光客の憩いの場所にもなっている。)




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奥羽線のスイッチバック駅跡をジグザグで踏破

2024年10月15日 | 鉄道


米沢訪問するからには、ぜひ行ってみたいと思い続けていた場所、それは奥羽線のスイッチバック式の駅跡だ。奥羽線の福島・米沢間には、かつて4つのスイッチバック駅が存在したが、山形新幹線開業に伴い全てが本線上に駅を移転、スイッチバックも廃止されたが、新幹線で通過する際は旧駅を車窓から眺めながら、いつか行こうと思っていた。
クルマで行くのは簡単だと思っていたが、なかなかの難所。萬世大路の栗子峠(明神越えを含む)とともに、この間を結ぶ峠道はなかなか人を寄せ付けない。古くからの難所で、米沢藩は峠越えに危険が伴うことや戦略上の理由で通行を禁止していたこともあったそうで、前回登場の土木の鬼で山形県令・三島通庸が山形発展のために明治期に入ってようやく開削を試みた場所なのだ。
どうせ鉄ちゃんを自称するなら、電車で行こうと思い立つ。しかし、そんな県境の場所を通る路線ということもあり、福島・米沢間を通しで運行する列車は一日6往復しかない。これはハイブリット方式で行くしかないなと、地図と時刻表を読み解き早朝、米沢駅に向かうことになる。(写真上:早朝の米沢駅舎とホーム)




奥羽本線は、東北本線福島駅を起点に、米沢から山形・新庄・大曲と出羽山地の内陸部を北上し、秋田、大舘、弘前、終点・青森までの484.5キロ結ぶ路線。青森、福島の両側から建設が進められたが、福島・米沢間が開通したのは1899年(明治32年)のこと。萬世大路より南の板谷峠を超えるルートである。
しかしこの板谷峠も難所。最大勾配38‰(パーミル)で碓氷峠で紹介したアプト式の採用も検討された路線。かつ豪雪地帯であったことから、米沢までの40キロ区間だけで20か所のトンネル(開通当初)と急カーブの連続、谷間を走ることから高所に鉄橋をかける必要もあった。実際、列車故障事故や積雪、豪雨などの自然災害などによる不通も多かった路線だ。
その急勾配路線に駅を設置するため、本線から平坦地に線路を引き込むのが通過可能型のスイッチバックである。それがこの区間14キロほどに4駅連続で設置されるというなかなか他では見られない路線・区間。スイッチバックでジグザグに刻まれた動脈の開通が米沢をさらに開化させた。(写真上:大沢駅とその周辺、写真下:峠駅のスイッチバック旧駅への引き込み線とスノーシェッド)



福島県側から赤岩駅(福島県福島市、2021年廃止)、板谷駅、峠駅、大沢駅(いずれも山形県米沢市)。今回は米沢市域にある3駅を訪問したが、これらの駅は山形新幹線建設に伴い標準軌に改軌を行った際に、本線上に新駅を建設することになり引き込みスイッチバックは旧駅とともに使用されなくなった。
碓氷峠と同様、勾配克服に補助機関車(4110系蒸気機関車など)を必要としていた時代からすると、山形新幹線開通に伴い導入された「つばさ(初代400系)」や719系5000番台交流型近郊電車の開発・導入により、安全性やスピードアップ化の波がこの板谷峠を通る奥羽線の路線や駅の姿、車両を大きく変えたのである。
いずれも旧駅舎などは取り壊されているが、本線から旧駅にかけての区間は現存の3駅はスノーシェッドに覆われていて、引き込み線の部分は新駅に通じる通路などとして利用されながら、鉄道遺構として保存されている。これらは近代産業遺産に認定されている。(写真下:板谷駅のホーム上からのスイッチバック線と旧駅のホーム跡)



今回、米沢駅の駐車場にいったん車を止めて、米沢7:16発→大沢7:27着、(大沢駅滞在22分)大沢7:49発→米沢8:00着、(米沢駅滞在8分)米沢8:08発→峠8:25着、(峠駅滞在12分)峠8:37発→米沢8:54着と、数少ない列車を自分自身もスイッチバックしながらこまめに乗り継いで二駅を訪問。
その後、クルマに乗り換えて、萬世大路の第三世代にあたる国道13号で西栗子トンネル経由で板谷駅へ。大沢駅、峠駅はクルマでももちろん行ける場所ではあるが、険しい山道を通る上、大沢駅と峠駅の間は道なき道(一応県道だが)を大きく迂回しなければならないことから、今回の移動手段となった。(赤岩駅跡へは、周辺の道路事情などから訪問を断念。)
最後の訪問地の板谷駅に立った時、警報機が鳴りだし列車の接近を知らせる。福島方面から下りの山形新幹線「E6系つばさ」が線路脇にある36‰を示す勾配標をものともせず「翼」を得た如く軽快に急坂を登り終え走り抜けていった。苦労してスケージュールを練って、そして時間を費やしながら鉄道遺構を見た後だったので、技術の進化を目の当たりにした感じがした。(写真下:今回使用した二往復分の切符と、板谷駅を通過する「つばさ」。左の速度制限標識の下に「36.0(‰)」の勾配標が見える。)

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碓氷第三橋梁(めがね橋)はもちろん、見どころ満載「アプトの道」

2024年09月05日 | 鉄道


群馬訪問最終章は「碓氷鉄道文化むら」の記事の続きになる。鉄道文化むらがある信越本線・横川駅から軽井沢間の碓氷峠越えの区間の約11キロ、アプト式時代に使用されていた旧線は1997年に廃線になったが、現在その一部は「アプトの道」として遊歩道(ハイキングコース)として整備されている。
その途中にあるのが写真の通称「めがね橋」と呼ばれる旧信越本線「碓氷第三橋梁」である。全長91メートル、高さ31メートル、イギリス人技師により設計されたというレンガ造り4連アーチ、使用したレンガの数は200万個とも言われている。1893年竣工。現存するレンガ造りの橋では国内最大規模で、国の重要文化財である。
碓氷峠の山の中にあるのだが、遊歩道でのアクセスのほか、私のような汗をかきたくない、時間がないという者のため?旧国道18号からすぐ橋梁下部に容易にアプローチが可能で、遊歩道に続く階段で橋の上まで登ることができる。(当然、遊歩道利用者は階段を降りて下から見上げることも可能。)旧18号沿いには駐車場やトイレも完備されている。紅葉の頃は人気スポットだという。



この第三橋梁、歴史的に見ても価値があることは間違いないのだが、実は先の富岡製糸場の世界遺産登録が検討されている時点では、構成遺産群の一つとして候補に挙げられていたものの、橋梁の建造目的は繭や生糸などの貨物輸送よりも、旅客輸送に重点が置かれていたことから削除された経緯がある。(せめて土木遺産であってもいいと思うのだが…)
ただ、遊歩道は横川駅(鉄道文化むら)から途中の6キロの旧熊ノ平までであるが、その間にある第三橋梁を含む5つの橋梁、10か所のトンネル(遊歩道区間すべてのトンネル)、加えて丸山変電所蓄電池室及び機械室、熊ノ平変電所本屋と18もの鉄道関連施設が国の重要文化財に指定されている。遊歩道を歩かなかった自分はかなり損をしていますね!
前回からの繰り返しにはなるが、鉄道文化むらだけでなく、アプトの道を歩くことによて貴重な鉄道遺産に触れることができるほか、周辺には碓氷関所、坂本宿、峠の湯、碓氷湖など見どころも多い。上信越道「碓氷橋」(全長1,262メートルの斜張橋)」、碓氷湖の「夢のせ橋(碓氷湖の人道橋)」、アプトの道には含まれないが「碓氷第十三橋梁(重要文化財)」などなど、周辺には群馬が誇る橋の数々、こちらもぜひ見てほしい。


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「鉄道文化むら」は、碓氷の峠の高みを目指して!

2024年09月02日 | 鉄道


今回の群馬訪問で最後に紹介するのは「碓氷(うすい)峠鉄道文化むら」だ。ついに、錆びついた自分の鉄を磨くため?鉄ちゃんの聖地でもあるので、まあ以前にも来たことはあるものの、敬意を表して帰路に就く前に訪問しようと決めていた。
長野新幹線が開通し、信越本線の横川・軽井沢間は1997年には廃止が決定された。旧松井田町(現・安中市)は、横川駅構内の運転区の施設を地域活性化に役立てようと、地域住民や周辺の自治体などとも協議を重ね、この鉄道文化むらを整備することとなった。
碓氷峠で活躍した鉄道車両や資料を展示するほか、JR線直結という利点を活かし、国鉄時代の車両や機関車を展示する一大テーマパークとなった。動力車・車両・貨車など現在40数両を保有。施設は安中市が所有、指定管理者として一般財団法人・碓氷峠交流記念財団が運営している。



資料館朝一番の入場。夏休み期間ではあるが施設内はガラガラ。ちょっと張り切って、駐車場で開館時間になるのを待っていた自分が恥ずかしくなる。以前は混んでいた記憶がある。でもその分、短い時間ではあったが、ゆったりと十分に観覧することができた。
旧運転区の事務所を改装した資料館には、信越本線最大の難所・碓氷峠との闘いの記録がパネルで展示されている。勾配66.7‰(パーミル=1000分の1、1000メートルで66.7メートル昇降する勾配)に挑む鉄道マンの労苦や輸入機関車、日本初の幹鉄路での電化、アプト式(敷設したラックレールに動力車に設置した歯車をかみ合わせて勾配を上る方式)の峠越え専用のED40電気機関車の開発、峠のシェルパ・EF63電気機関車の開発・導入に至るまで、急勾配克服と時短を図るための歴史がここにある。
一方、屋外には貴重な車両が静態保存されているとともに、運輸区車庫を活用した鉄道展示館にはEF63の展示や運転を体験できるシミュレーター、何と動態保存されたEF63そのものを運転できる体験コース(400メートル)なども備えている。(有料の、学科・実技講習を受講する必要あり。)




めちゃくちゃ興味深い場所であるが、どうしてもわくわく感が湧いてこない。自分にはあまりにもマニアックすぎるからか?そうでもないとは思うのだが、入口ゲート前には遊園地のような乗り物が並び、園内にはミニSLや「あぷとくん」という園内周回するファミリー向けのミニ列車が運行されて人気となっている。
ただ、奥の車両展示スペースには、各地から集められた貴重な車両が展示されているものの、こちらの客入りはガラガラ。展示車両の部品は心無いマニアにより盗難されているというし、車両そのものは劣化も激しく、補修・整備に要する費用が急増している状況にあって、運営する財団では一般市民からの寄付や協力を募っているそうだ。
コロナ感染症の影響もあるのだろうが、鉄道文化むらの滞在者数は2019年56万人だったものが37万人台と落ち込んでいる(資料:安中市道の駅基本構想検討基礎資料集、入園者数とのカウントの方法が違う?)ようだが、この重厚でマニアックな資料や施設環境と、一般入園者を呼び込むためのファミリー向け遊園地化がどうしてもミスマッチに思えてならない。



展示資料の保存環境、一貫性、地域との密着感は先に紹介した「くりでんミュージアム」の方に強く魅力を感じる。子どもが鉄道という乗り物に親しめるという点では、立地は厳しいものの糸魚川の「ジオパル」をお勧めする。個人的な意見ではあるがー。
もちろん、鉄道文化むらの取り組みを否定するものではない。なにせ貴重な資料の数々は間違いなく鉄道資料館としては最高峰であり、歴史的な土地、首都圏からもアクセスが良く、後背地には軽井沢という一大観光地も控えている。滞在者数の記事にもあるように隣接地に「道の駅」設置などの新たな構想もあるようだ。
中山道・碓氷峠をベースに、先に紹介した富岡製糸場や甘楽町小幡、地元の坂本宿の歴史、次回紹介するめがね橋などの鉄道遺産の数々、そして信越本線横川駅とともに140年の歴史を持つ「峠の釜めし・おぎのや」などとの連携によって、さらなる魅力を引き出してもらいたい。(これまでも「碓氷峠鉄道文化むら」と「おぎのや」はたびたび周年事業などでコラボしている。おぎのやの前向きで積極的な経営は、常に峰の高みを目指している(おぎのや4代目は、故・高見沢みねじ氏))

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おっと!六合(くに)村には鉄道が走っていたんだって

2024年08月31日 | 鉄道


実はノーマークというか、まったく眼中になかった、ハッキリ言えば知らなかった。俺の「鉄」は錆びていることを改めて実感したのは、八ツ場ダムから吾嬬橋へ向かう途中、クルマから何だか貨物貨車のようなものが見えた。吾嬬橋の帰りに立ち寄ってみることにした。



「旧太子(おおし)駅」の跡地を活用した復元・展覧施設があった。軽井沢のように「軽便鉄道があったのか?」と思ったら、れっきとした旧国鉄線。吾妻線(当時は「長野原線」)の駅だったという。それはそれは小学校4年生から日本交通公社の時刻表をバイブルとしてきた自分にとって不覚であったし、ショッキングなことでもあった。
群馬鉄山の鉄鉱石の搬出のために整備された貨物専用線で、1945年吾妻線の長野原草津口まで開業と同時に営業を開始した路線(5.8キロ)と駅であるが、その後国鉄に移管。翌年、長野原線に組み込まれ旅客営業も始めたという。当時は、終着駅ということですかね。
歴史ある5.8キロの区間であるが、鉱山の閉山とともに1966年貨物輸送が廃止、渋川・長野原間の電化からも見放されて、長野原線の西への延伸(当時は「嬬恋線」)に伴い、国鉄の分割民営化議論を待たずに1971年に廃止。長野原線は吾妻線と改称され「大前」が終着駅となった。この複雑な歴史に、当時の自分は付いていけなかったのだろう。



吾嬬橋を紹介した時にも触れたが、「太子」は旧・六合(くに)村の中心地で、群馬鉱山(群馬鉄山)は北に8キロほどのところにあった。日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)が採掘をして、鉱山から太子駅までは8キロにも及ぶ索道で鉄鉱石を運び貨物列車に積み替えて、京浜工業地帯に運び出していた。
1965年に露天掘りの鉱山資源が枯渇し閉山、間もなく太子線・太子駅も廃止となるのだが、現在、駅舎や駅構内は中之条町により復元されているが、鉄鉱石を貨車に移すためのホッパーを中心とした遺構としてそのままの状態で保存されている(国の登録有形文化財)。
復元駅舎内には当時の写真や鉄道関連品などが展示されている。屋外には、鉄鉱石を運び出すのに使用した無蓋車、大井川鉄道から譲り受けたという貴重な有蓋車なども展示している。また、JR東日本には長野原線で使用していた蒸気機関車を譲り受ける交渉もしているとか。六合という土地の持つ歴史を後世に伝えようとしているのである。



本来であれば、廃線跡を辿りながら鉄道遺構を探したり、鉱山跡地(現在は、国内でも最大のチャツボミゴケ生息地として公園化されている。国の天然記念物に指定、正に「六合(くに)」の宝だ!)にも足を運びたいところでもあるが、まったく予想もしていなかったことで、県境を越え南相木ダムへ移動を急がなければならなかったため、ホントにザックリの紹介になることをお詫びしたい。
前回、八ツ場ダムでも少し触れたが観光面いどう活かしていくか!歴史を絡めて地域の魅力を伝えていくか!特に、六合へは、長野原町を経由するルートが一般的だし、中之条町との間には東吾妻町がある。すでに実施されているとは思うが、吾妻川でつながる草津町や嬬恋町とも広域的な町村連携がカギになる。
太子駅復元、ホッパーの修復にはクラウドファンディングにより多くの一般市民から寄附があったと聞くが、ぜひ多くの方々の思いを寄せ、地域住民が協力しながら、今後の吾妻川流域・吾妻線沿線の観光地としての方向性を見出し、盛り上げてほしいと思う。そのベースキャンプの役目を負うのが八ツ場ダム周辺なんだろうなー。


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改めて「赤谷線」の廃線跡を辿ってみた

2024年07月23日 | 鉄道


少し宮城県から離れることにする。といっても「くりはら田園鉄道」の跡地を見て、廃線つながりから地元新潟の「赤谷(あかたに)線」を見てみたいと思った。会津に行くときによく通る県道沿いを車窓から廃線跡を追っていたが、少しクルマを止めながら足跡を辿ることにしてみた。
起点は、羽越線・新発田駅。駅構内から下り方面に出て東へカーブを切って終点・東赤谷へ向かう18.9キロの路線であった。官営の製鉄所の専用路線として敷設されたもので、赤谷鉄鉱山から鉄鉱石を運んでいた路線を国鉄(当時の鉄道省)が地元の請願を受けて、1925年に旅客路線も開業した。当初は赤谷駅までで、その後東赤谷まで延伸された。
私が乗車したのは高校生の頃。すでに当時から赤字路線として知られていたが、その数年後1984年(昭和59年)に廃止。小さいときには、新発田駅を通るたびに構内でC11蒸気機関車を探すのが楽しみだった。羽越線の踏切前で育った自分にとって、小型のタンク式機関車は珍しかったのだ。



さて、廃線跡を辿ると、しばらく住宅街を進む。遊歩道として整備され、レールや鉄道標識などは残っていないが、ここは間違いなく路線であったことを確認できる形状痕跡は残っている。赤谷線を知らない人にとっては、あまり興味を引き付けることはないのであろうが、市民には散歩コースとして親しまれている場所のようだ。
郊外に出ると、遊歩道兼サイクリングロードとなる。途切れることなく、旧赤谷駅の手前の中々山というところまで続く。ここまで13キロの道のり。廃線当時どのような議論があったか分からないが、当時からしっかりと跡地利用が検討されてきた証のように思える。
郊外に出ると林の中を進んだり、田園地帯の真ん中を走ったり、景色を楽しみながら散歩やジョギング、軽快に走り抜けるロードバイクを楽しむ人に遭遇するが、途中駅のあったいくつかの場所では、ちょっとした憩いのスペースなども整備されていることがここに赤谷線が走っていた名残となっている。



ただ、鉄道施設として残っているのは、廃線後、利用客の弁としてバス輸送を引き継いだ新潟交通のバスの車庫があった場所に旧赤谷駅の駅舎跡(降下車したはずなのに覚えがない、多分)と、赤谷駅からすぐの棚橋川にかかる橋梁の桁がわずかに残っているだけ。旧東赤谷駅にあっては、多分このあたりにとしかご紹介できないほど痕跡は少ない。



赤谷線・東赤谷駅は、国鉄唯一のスイッチバックの終着駅だったそうだ。いまは赤谷集落からは飯豊登山口に向かう県道に「道」を譲っているが、ここからの勾配は33‰(パーミル)の急勾配。製鉄施設などが僅かな平地に作られたこともあって、渓谷に少し平らな土地が広がっているのが名残。
むしろ、鉄鉱山の集積地であった東赤谷から専用線でさらに鉱山までの4キロの間には、洞門やトラス橋の遺構が残っており、加治川治水ダムまでの間の道は狭いものの、不思議な光景や見栄えのする場所としてひそかな人気を集めているともいう。



新発田市内のお店で赤谷線の写真を飾っていた店があったような気がするのだが、どうしても思い出せない。一昨年、廃線の日の様子を「写真の町シバタ」で見たことがあるので、ちょっと拝借。赤谷線を伝える資料館などはないが、以前紹介した「新津鉄道資料館」に駅名標などの資料が展示されている(下の写真以外にも館内に赤谷線の資料展示があります)。



決して自分はダムマニアでも、廃線オタクでもない。鉄道自体も土木構造物で遺産の宝庫。各地域に眠っている(場合によってはすでに開花している)地域活性化素材として、その魅力や歴史・功績を発信していきたいと思っている。
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「くりでんミュージアム」は地元の愛を感じる施設だ!

2024年07月17日 | 鉄道


「くりはら田園鉄道」。新潟に住む私にはあまりなじみのない地方鉄道だが、名前だけは聞いたことがる。長沼ダムから至近の場所に「くりでんミュージアム」というものを見つけて足を向けることにした。
宮城県の内陸の一番北にある栗原市。くりこま高原がある町で、東北本線・石越駅(登米市)からくりこま高原方面に向かう鉄路がくりこま高原鉄道(愛称:「くりでん」)だ。終着の細倉マインパーク駅までの25.7キロの路線。1921年開業、2007年廃止。
廃線となったくりでんだが、それまでの功績を称え、思い出を残そうということから、ほぼ全線にわたって市域を走っていた栗原市が、旧くりでんの施設を使って整備したのが今回紹介することになるミュージアムや鉄道公園ということになる。



ミュージアムは、くりでんの若柳駅(起点の石越から2つ目の駅、3.1キロ地点)の構内・機関車庫を利用して整備された。ミュージアム本体は新設された様子だが、併設の機関車庫や客車庫、道路を挟んで公園内にある旧若柳駅はそのまま保存されている。
ミュージアム内の展示品や資料が凄い!細倉鉱山線として延伸、軽便路線から改軌(762ミリ→1067ミリ)、電化、度重なる社名の変更、三セク化などなどの数々の歴史も多く、廃線間もないことから旧鉄道設備をしっかりと保存、展示している。
ジオラマがこれまた一見の価値ありですよ。25キロの営業キロをぎゅっと10数メートルに縮めて再現。それは、しっかりとした栗駒の自然風景や沿線の生活を反映しているもので巧妙かつ美しい。この路線を知らない自分が引き込まれるくらいだから、地元の人にとっては永遠の原風景となるジオラマではないのか?(写真一番上)



旧機関車庫は当時そのまま保存され公開されているといった感じ。保存状態もとてもよく、古めかしい機械類もしっかり整備されており、今でも動かせそうなものや整備員の汗や息遣いまで見えてきそうなものばかり。
車両もきれいに保存されている。ついこの間まで使用されていた気動車から、古い電車や貨車なども本物が展示され、内部も公開している。一部、旧若柳駅構内に保存されたものは動態保存(動かせる状態での保存)されているという。
くりでんミュージアムの最大の特徴は、廃線跡を少しだけ残して、これら動態保存の車両に乗れるイベントを実施している。加えて、気動車の運転体験もできるんです(特別講習を受講した場合。廃線跡は各所で見ることができるが、体験乗車・運転体験やレールバイク用に若柳駅付近の公園内に体験専用軌道として900メートルを保存)。



東北の地方路線で、平成の合併の人口6万人弱の栗原市が、これだけの投資をして、今後の保存にかかる経費を費やす覚悟をして整備したのか?くりでんミュージアムは単に観光資源としてだけではなく、地元の人たちの愛情や熱意を感じる施設なのである。
この愛は、先に少しだけ触れたがその歴史にあると思う。多くは語れないが、旧国鉄路線でもない約100年の歴史の中に、地元民の足として運営され、宮城県や旧沿線の行政、地域住民、細倉鉱山を受け継いだ三菱マテリアルの数々の支援など、社名を変更してきた中にもしっかり地元に根付いていた鉄道路線だったのであろう。
ミュージアムを運営するNPO法人・Azuma‐reは、旧くりでん社員や運転士を職員として採用・雇用している、これもアッパレ!このミュージアムとくりでんを愛する人たちの愛に、これまでいくつか触れてきた廃線跡地を訪問する気分で足を踏み入れた鉄道オタクの私は、頭をぶん殴られたような気がした。

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3月18日ダイヤ改正、上越新幹線は1時間30分の壁を破ることになったものの

2023年03月21日 | 鉄道


佐渡に渡った3月18日、JRグループは春のダイヤ改正を行った。以前の記事では、今回のダイヤ改正によって、上越新幹線からE2系が退くという記事を紹介したが、それほどの大幅んダイヤの見直しなどはないものの、そのほか新潟関連のダイヤ改正について触れておきたい。
昨年12月に発表された「JR東日本ニュース(今回は新潟支社発表のものを参考:写真下)」では、まず、上越新幹線・北陸新幹線の所要時間短縮と上越新幹線をE7系に統一することがトップ記事になっている。果たして、どれほどの時間短縮になっているのか?
上越新幹線で停車駅が大宮のみという最速タイプが以前から一往復設定されているが、今回の改正により下りの「とき311号」が7分時間を短縮し、1時間29分で東京・新潟間を結ぶことになった。ついに1時間30分の壁を破ることはかなり大きなインパクトを与えるものといってよい。(上りは、とき312号最速で同じく7分短縮されるが、所要時間は1時間31分。)



ほかには、地元を走る特急「いなほ」だが、酒田など庄内地方と首都圏の所要時間を短縮したとある。これは上りのいなほ4号ととき312号を乗り継いだ場合、酒田・東京間は所要時間3時間44分で14分短縮される。ただ、いなほ号のスピードアップは図られておらず、新潟駅での乗り換え時間の改善と新幹線の時間短縮によるものだ。
2年ほど前に同じホームにて新幹線と在来線の乗り換え可能になったが、新潟駅の改装工事が進み乗り換えのための時間短縮に自信を持った様子のJR東日本。東京・大宮間の新幹線はキツキツのダイヤの中で、冬などに遅れの多い羽越線が他の列車に迷惑をかけないといいんですがねー。
なお、前回触れた上越新幹線から姿を消すことになったE2は、東北新幹線の東京・仙台間の「やまびこ」で今回のダイヤ改正後も運用されている。(写真下:E7系とE2系新幹線。いずれも東京駅で)



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春のダイヤ改正、上越新幹線からE2系が引退するにあたり

2023年02月19日 | 鉄道


東京出張(正確には横浜出張)の帰り、狙っていた上越新幹線を逃し、やむを得ずその時間に乗れる新幹線に乗車することになった。おー、E2系かー!
今春のJRダイヤ改正について触れていなかったが、実はこのE2、上越新幹線から引退することが発表されている。上越新幹線は、北陸新幹線同様、すべてE7に置き換わる。(多分、東北新幹線の東京・仙台間のやまびこ・なすのでは残るものと予想される。)
長年、上越新幹線の顔として活躍してきたが、200系を見送り、E1、E4を見送って、ついにE2も終焉の時?まあ、JR東から完全に廃止ということではなさそうだが、もしかすると自身最後の乗車になるかもしれないと思い、しみじみと乗車することになった。



E2は東北新幹線で1997年にデビュー。速達タイプ(停車駅の少ない列車)の「やまびこ」で使用され、上越新幹線にも1998年12月、同様の速達タイプで導入されている。当時は、新潟人にとっても画期的な導入だった。
ただ、東北新幹線に新型車両E5が導入されると、余剰のE2が上越新幹線に回されたり、そもそもその開発経緯は長野オリンピックに合わせて長野新幹線に導入されたものであったりしたことから、新潟人にとってはお古感も強かった。
E2に置き換わるE7(W7)系もそうである。北陸新幹線開業に合わせて製造されたものの、当初から導入を予定していた上越新幹線には1年遅れで新造車がつぎ込まれにも関わらず、どうしても二番煎じの感が否めない。



さて、この日に乗車したE2は「J57」という編成の車両で、決してE2の中では古い方ではない(2004年製造)。乗り心地やスピードについても、E7と極めて劣るというわけではない。(設計最高速度では、時速315キロのE2の方が勝る。)
サービスのないグランクラスの有無は関係ないが、ただシートピッチにどれほど違いがあるかまでは分からないものの、E7に比べるとE2は足元が狭く感じる。これって乗り心地ってことでしょうかねー?
最大の弱点は座席に電源がない!この日も一緒だったミーは「スマホの充電ができない」と閉口。不便も思い出よ。私だけが、黄昏色の車窓を楽しんだり、新潟駅のホームで両側E2という光景をしっかりと目に焼き付けながら、お疲れ様をいうのであった。
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旧横浜停車場は、現・桜木町駅付近にあったというゆかりで

2022年12月18日 | 鉄道
前回は、鉄道開業150周年ということで新橋の「旧新橋駅停車場」を紹介した。どうせなら当時の終点でもある横浜駅(旧横浜停車場)も見に行こうと思い立ち東海道線、湘南電車に乗り込んで向かうことにした。
現在、新橋・横浜間は26.9キロ、東海道線だと所要時間約25分。開通当時の資料を見ると、約29キロで約53分かかっていた。これからすると、当時は時速30キロ程度の速度での運転だと考えられる。
距離の差は、実は当時の横浜停車場は、JR根岸線(京浜東北線)の現・桜木町駅付近であったという(横浜・桜木町間は約2キロm路線位置は変わっていないと言っていい。)。現横浜駅は、当時の停車場の位置を変えながら、少し東京寄りに移動したということになる。



桜木町駅を降りると、鉄道開通150周年の飾りが目に付く(新橋他、他の主要駅にも多く見られるのだが…)。ここは、みなとみらい地区の最寄り駅。横浜市内のJR駅では、横浜、鶴見に次いで乗降客数は3番目。観光客も多いはずの駅である(写真上:JR桜木町駅ホームとみなとみらい方向の駅前広場)。
ここの周辺には、「汽車道」と呼ばれる横浜港への臨港線の鉄道遺産、産業遺産なども多く、最近更新頻度が落ちているブログネタ満載の場所であるが、今回は150周年の軌跡をたどるために、みなとみらいとは反対側の西口方向に出ることになる。
ホテルメッツはJR東日本系のホテル。そのビル(JR桜木町ビル)の1階に「旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)」という2020年に同ビル(写真下)がオープンしたときに整備された場所がある。なんで「館」とか「スペース」とかが付かないのか分からないけど。



そこには鉄道開業当時に使用された「110形蒸気機関車」が展示されている(写真上)。大宮や青梅で静態保存されていたが、2019年から修復作業が行われ、ゆかり深いこの地で展示されることになった。1961年に鉄道記念物に指定されている。
機関車の後ろには当時使用されていたものを再現した中等客車が一両。その周りには、旧横浜停車場周辺のジオラマやパネル、当時の信号機や駅員の制服など、鉄道開業当時の貴重な資料が展示されている(写真下)。鉄道ファンは必見の場所。
前述のとおり、鉄道に限らず魅力的な横浜港周辺には産業遺産も多いので、また時間の持てる時に訪れて、紹介しておきたいと後ろ髪を引かれながら、滞在1時間程度で再び東京に戻ることなる。後日また来ます!





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