行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

ここにもいました!常願寺川砂防の功労者たち(常願寺川物語⑩最終回)

2022年10月29日 | 土木構造物・土木遺産


今回、立山カルデラ砂防体験学習に参加して残念なことはただ一つ。有峰ダム(写真上)を目の前にしながら、十分な見学ができなかったこと。日本でも屈指のこの巨大ダムは、この体験学習会のプログラムからすれば全く蚊帳の外だったことだ。
確かに北陸電力が設置する有峰ダムは、発電専用のダムなのだが、有峰第一発電所は26万キロワットの電力を生み出し(水力発電所では国内第5位、単機による一般水力発電では日本一)、このダムの水を利用する5か所の発電所における発電量は53万キロワットを超える国内でも屈指の発電施設を抱えるダムでもある。
目的は違えども、もちろん治水にも大きな力を発揮しているし、富山平野を守るというという観点からすると砂防も治水も同じ目的を持っている。「有峰ダムは立ち寄らないのか?」とガイドに質問したが「寄りません」と一言だけの返事。まあカルデラの区域外だし、電力会社の持ち物だから仕方ないですけどね。

まあ、ボヤキはそれくらいにして、今回の常願寺川物語の最後として紹介しておきたいのが、やはりこの川の砂防事業に大きな影響と功績を残した先人たちがいたこと。これは各地を訪ねる旅に自分自身勉強になるし、感動を覚える宝となっている。
以下に、3人(実際は4人)の功労者を紹介しておく。もちろん、それ以外にも多くの技術者や政治家、地元の方々がこの川への思いと英知をつぎ込んでいるのであるが、個人的に特に印象的な人たちということでご理解いただきたい。



まずは、オランダ人土木技師のローウェンホルスト・ムンデルと、先にも紹介したヨハニス・デ・レーケ(写真上)。デ・レーケが先輩で来日も早いが、常願寺川への調査に入ったのはムンデルが先。デ・レーケの言葉とされていた「これは川ではない、滝だ」というのは、実はムンデルが言ったことである(その川も、常願寺川ではなく、隣の「早月川」だそうだ。)
ムンデルが富山県に入ったのは1883年(明治16年)、調査に入った5つの川の中で常願寺川のあまりの急こう配に驚いたという。堰堤を築き、護岸工を施す、河道を改良するといった、後に富山に入て直接技術指導にあったデ・レーケが実施する対策を先駆けて提案している。
1891年にまたも大洪水を起こした常願寺川に送られたのが、日本での砂防工事において経験豊富なデ・レーケ。送り出したのは内務省土木局長で初代・土木学会長の古市公威。この頃お雇い外国人技師は次々帰国しデ・レーケだけになっていたとか。常西合口用水でも紹介したデ・レーケにより常願寺川に近代土木工事の第一歩が踏み出されたのは確かだが、国の直轄事業としての必要性を訴えるきっかけを作ったのもデ・レーケである。



1893年、ムンデルやデ・レーケが訴えてきた常願寺川下流の富山県の砂防工事は終了した。しかし、水害は収まらない。それもそのはず、この時点では上流部には手が加えておらず、土石の崩落により荒廃している状況を看過できないことに気づく。
1902年(明治35年)富山県知事に就任した李家隆介(りのいえ・たかすけ、写真上)は、自ら立山に登って常願寺川の上流部を視察した。この調査により、李家知事は常願寺川上流の砂防工事の必要性を訴え、県会では一つの質問もなく上流部の砂防工事諮問案は可決されたという。
1906年、国の補助のもとにいよいよ県営の「立山砂防」が始まる。先に紹介した国の重要文化財である泥谷の堰堤群などがそれにあたるが、危険な工事現場、物資資材を運ぶのさえ大変な場所、しかも洪水は繰り返し起こり立山砂防は早くも暗礁に乗り上げることになる。



砂防法の改正はしばらくたってからの1924年(大正13年)で、常願寺川のように単独県(富山県)の圏域のみを流れる川も国直轄でできるようになった。今でいう「一級河川」ということになる。いよいよ国により常願寺川上流部の立山砂防が始まる。
ここで登場するのが赤木正雄である(写真上:左から二人目)。旧制一高から東京帝国大学を経て、内務省に入省するも自費でオーストリア留学。ウィーン農科大学や欧州各国の砂防現場で学び、のちに「砂防の神様、砂防の父」ともいわれる、まさしくエースの登場である。1925年のことである。
初代立山砂防事務所長に就任した赤木は、資材の運搬道路、前回紹介した専用軌道の敷設、そして山を歩き回って白岩堰堤の必要性を見出し、自ら設計し、建設の指導に当たった。富山県民の「護天涯」、「山静川清」の悲願に向けての実質的な一歩である。

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乗れない「砂防工事専用軌道」に乗ってみた(常願寺川物語⑨)

2022年10月23日 | 鉄道


常願寺川にどっぷり浸かっているうちに、このブログも50万回アクセスを迎えていた。15年かけて50万回ですかー。とりとめのない話題に付き合っていただき、ポチポチっと見ていただいている方に感謝感謝。
常願寺川に興味を持ってのは地元の胎内川の地形や治水施設などを調べているうちに、同じような急流で暴れ川である常願寺川に行き当たった。いやはやとんでもない川が日本にも存在したもので、隣の富山県ならクルマでも行けるということが大きなきっかけであった。
そんな時に、今年(2022年)初めころだろうか、テレビ東京の「乗れない鉄道に乗ってみた」を偶然にも見て(関東圏では昨年の秋の放映)、この砂防専用軌道に体験的に乗ることができると知った。川と鉄道、日本でもちょっとない同時に堪能できる体験学習に応募せざるを得ないというところであった。



「立山砂防工事専用軌道」は、常願寺川上流の砂防施設建設のためには欠かせない命綱。土木技術が近代化に途上する時代、砂防・治水工事にコンクリートが使用されるようになり、資材の運搬には各所で専用軌道が設けられるようになる。日橋川只見線でも紹介してきたとおりである。
ただ、ここでは難工事。起点は千寿ケ原であるが、途中の樺平まで先に開通し(1929年)、そこから軌道とインクラインにより白岩堰堤への別ルートを開設(1931年)。その後、急坂を連続スイッチバックで克服し、水谷平までの18キロメートルの全線が開通する(1965年)。
千寿ケ原から水谷平まで高低差640メートル。なんとスイッチバックが38段。特に、樺平からの急斜面では連続18段のスイッチバック(写真下2枚目)。これは世界でも例がないという。ギネス物ともいわれるが、「ギネスに申請しなくとも、世界でも唯一のものだから」と立山カルデラ砂防博物館の学芸員が話してくれた。



「立山カルデラ砂防体験学習会」は博物館の主催。毎年、7月から10月の間で開催され、いくつかのコースが用意されている。私が参加したのは「トロッコ個人コース」で年30回あるのだが、1回の参加者は2ユニット16名。8名ずつのグループに分かれて、一方はトロッコ、一方はバスで出発し水谷平で交換する。
このコースでは、年に数回片道を2便に増やして募集する回があり、今年度一度抽選で漏れている自分はこの機会を狙っての参加となった。毎回倍率は4倍から6倍で人気が高く、何度か応募した人、何度も参加した人という参加者ばかりだ。
砂防砂防砂防専用軌道は、国土交通省北陸地方整備局立山砂防事務所の管轄。事務所のエントランスで担当者から注意事項の説明を聞き、ヘルメットを渡されて三両編成のトロッコに参加者8人、事務所職員1人、ボランティアガイド2名、車掌1人の12人が乗車し、千寿ケ原を出発する。



常願寺川の右岸を上流方向へ、崖に張り付いて登っていく。最初からスイッチバックの連続。スイッチバックでは、最後尾に陣取った車掌の役目は大きいい。ポイントが変わったタイミングで運転手にブザーで知らせ、車両はバックを始める。
スイッチバックを繰り返すことで高度はどんどん上がっていく。これは常願寺川がいかに急流であることの証でもある。その川の中では、工事中の堰堤をいくつも見ることができるし、多くの作業に携わる人たちがいることも分かる。
軌間61センチという日本一狭い軌道を守るための作業員も列車の通過に合わせて各所で手を挙げる。何か所かの連絡所でも青旗を振って係員がトロッコを見送る。多くの人たちが富山平野を守るためにここで働く。昔から続けられてきた地道な戦いを見ることのできる「乗れない鉄道に乗ってみた」なのだ。
(写真は、上から千寿ケ原を出発して1時間45分のトロッコ旅を時系列で紹介している。黄色いヘルメットは体験学習参加者、白色に二重線のヘルメットが砂防事務所職員。途中「白岩堰堤」のビュースポットで下車し、終点の水谷平へ至る。午後は別班の乗ってきたバスに乗車し、先に紹介したカルデラ内の砂防施設群を見学することになる。)

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見ようとしても見れない砂防施設がぎっしり!(常願寺川物語⑧)

2022年10月22日 | 土木構造物・土木遺産


周辺の谷に無数に設置された堰堤等をはじめとした常願寺川上流の「立山カルデラ」内の砂防施設。前回説明したように、県営の砂防施設で古いものもあるものの、国直轄の第一号でもある白岩堰堤は古株であるだけでなく、実に重要な場所に築かれており、現在においても機能していることが凄い(写真上:白岩堰堤の上部からと左岸から右岸の山肌を見る。再掲)。
その白岩堰堤はカルデラの中でも常願寺川の上流で最大の難関支流「湯川」にあって、丁度カルデラの出口の狭さく部分に位置する。カルデラ内に降る雨や雪解け水、そして一緒に流れ出る土砂を一手に引き受けて、上流や下流の砂防施設を守るという役目も負っている。
しかし、その白岩堰堤ですらもろく堆積した土砂の上に成り立っているほか、堰堤の右岸側の岩盤は崩壊を繰り返すことたびたび。また弱点と言われている左岸側の盛土の沈下、内部に水が溜まっていることから地すべりを起こしかねないという。



そこで、数々の対策が施されることになるのだが、戦後の時代は第三から第七堰堤の施工や何回となく洪水の被害にあったか所の補修・補強に追われることになるのだが、本体そのものの老朽化だけでなく、やはり周りの地盤などが大きな課題となる。
右岸には、水谷平へつながる人やクルマが通れる狭いトンネル(写真上)のほかに、白岩堰堤の脇の岩盤に沿って立派なトンネルが掘られている(写真上のもう一枚の右端)。このトンネル内部からは外の岩盤に向かって線状のアンカーボルトが取り付けられ岩盤そのものを引っ張り崩落を避けるという工事が施されている。
また左岸の盛土の下には、水路を張り巡らして堰堤上に掘った集水井2本に送り込むとともに、たまった水を地下水路を経由して渓流に流しているという。ここ常願寺川の砂防対策は、単に地表で起こる自然現象や表流水・河床だけの戦いではないのである。



これらの工法は、右岸トンネル内からのアンカーボルトが平成11年(1999年)から、左岸の地下排水路や集水井の設置が平成19年(2007年)から施工されており、比較的新しい。(写真上:これらの工法を開設する博物館パネルと「暴れ川と生きる~常願寺川治水叢書【砂防編】」から資料。)
立山カルデラ砂防博物館の展示パネルでは、単に「新しい種類の工法」とだけ紹介されているが、どれほど凄いものなのかは自分の知識の中では理解できていない。山を内部から引っ張堤るなんて、めちゃくちゃ凄いこと考えるなと思っているのだけれどもー。
めちゃくちゃ山の中に潜入して、とにかくすごい砂防施設を見せてもらい、これまた常願寺川は流路延長は50数キロと短いものの、見ようとしなければ見えないところ、見ようとしても見れないところにも見所がぎっしり詰まっている川であることを知らされた。(写真下:立山カルデラ砂防博物館内では、白岩堰堤付近のトンネル内からの補強の仕組みを模型で説明している。)


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立山カルデラ内の砂防施設の存在感(常願寺川物語⑦)

2022年10月19日 | 土木構造物・土木遺産


いよいよ、常願寺川の最上流部である「立山カルデラ(写真上:六九谷展望台から)」に足を踏み入れることになる。ここには砂防施設が満載で、工事用道路なども整備されているが一般には開放されておらず、立ち入るためには体験学習ツアーに応募するしかない。
「立山カルデラ砂防博物館」が主催する見学会だが、国土交通省北陸地方整備局「立山砂防事務所」お墨付きのもので、実は人気沸騰。私も4回の応募でようやく引き当てた(一度は当選したものの、悪天候のため中止。正確には、4度目でようやく参加できたとうことになる。)。
ツアーはバスやトロッコに乗車するものなどいくつかのコースがあり、普段入ることのできないカルデラ内の風景と、1世紀の間に繰り返し行われてきた砂防の工事現場や施設群を目の当たりにすることができる。(写真上:カルデラ内の砂防施設を紹介するマップ。立山カルデラ砂防博物館で)



以前触れたとおり、立山火山の噴火、火山灰や噴出した土砂体積、その後の浸食作用によりできた「浸食カルデラ」だ。上流部には不安定な土砂が堆積し崩れやすい上、森林の保水力がなく、かつ大雨・大雪地帯で急峻な地形と急こう配。流路の総延長が56キロで3,000メートル級の立山から一気に水を運ぶ常願寺川、これは大変な川ですわ。
デ・レーケがここを訪れたのは1891年。県営砂防事業開始は1906年だが工事期間中も水害に悩まされる。その後砂防法の改正により、単独県域を流れる川の砂防工事も国が直轄で行えるようになったのが1926年。砂防のエースで内務技師・赤木正雄の投入で、ようやく本格的な工事が始まる。
先に紹介した「本宮堰堤」完成の2年後の1939年(昭和14年)、ついにカルデラの出口付近に「白岩堰堤」が完成。本堰堤と7つの副堰堤で構成されており、総落差は108メートルで砂防施設としては日本最大。2009年、全国で初めて砂防施設の重要文化財にも指定された。(写真上・下の4枚が白岩堰堤)



上流部の多くの沢で堰堤が築かれているが、一番最初に着手されたのは「泥谷」。県営工事として1916年までに19基(のちに22基)の堰堤が築かれた。(泥谷の堰堤群も国の重要文化財、2017年指定。)
とにかく現場で小屋に泊まり込み、山崩れ・落石過酷で危険な現場であったとのこと。度重なる水害にもめげず、砂防施設は次々に築かれ、いったいこのカルデラ内にはいくつの堰堤が築かれていることか。また、称名川などの支流にも多くの砂防堰堤があり、常願寺川上流部は砂防施設のオンパレード。
とにかく多くの人たちの思いと英知がつぎ込まれ、厳しい現場に長い期間にわたり戦いを挑み続けてきた証のように砂防施設を持つ常願寺川上流部。ツアーに参加した土木マニアさえもうならせる存在感、ぜひ多くの人に伝えていきたい。(写真下:泥谷の堰堤の一つと、白岩堰堤すぐ上流の松尾砂防堰堤・有峰1号砂防堰堤)

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見どころ満載の常西合口用水、本編(常願寺川物語⑥)

2022年10月16日 | 土木構造物・土木遺産
前回は常願寺川・横江頭首工から取水され、常西(左岸)・常東(右岸)へのかんがい用水について触れた。右岸の分水工を経て左岸連絡水路橋に渡るところから、いよいよ常西合口用水。単なる用水路ではないことを紹介していきたい。
暴れ川としてたびたび大洪水を起こしていた常願寺川対策のため富山県の要請を受けた明治政府は、かのお雇い土木技師のオランダ人ヨハネス・デ・レーケを派遣。常願寺川の上流の崩れやすく堆積した土砂を視察したデ・レーケは、「山全体を銅板で覆わない限り無理!」と言ったとか言わないとか。
そこで下流域の河川改修を先に実施するということで、川幅の拡幅、堤防の新造、河口部の河道の付け替えなど様々な治水計事業を提案。その中に、左岸にあった12用水の取り入れ口を上流で一本化し、そこから各所に用水を供給するという合口化があった。これが常西合口用水の始まりである。



水路橋を渡った用水は、北陸電力の上滝発電所を経由した後、820メートルの手掘りの隧道で富山地方鉄道・大川寺駅直下まで送られる(大川寺山隧道、写真上)。戦後、コンクリートを吹き付けた形に改修されたそうだが、これは以前紹介した円上寺隧道中山隧道よりもはるかに古いものである。
ここから常願寺川の堤防外に沿って富山市街地に向かい、各所で分水を繰り返して富山平野を潤すのである。延長13キロメートル、かんがい面積3,300ヘクタール。これほど大規模な合口化は日本初。ここから全国へ合口化が広がった。
常願寺川に限ったことではないが、用水の取入口は洪水時に氾濫や堤防決壊の原因となっていたため、合口化は水害の抑止と農業振興の二つの役割を同時に担うことができる。しかし、この川にはまだまだ歴史的な魅力と近代における役割も多い。



常西合口用水を造成していたときに、常願寺川の氾濫により土砂で埋もれていた「佐々堤」が顔を出した(写真上)。土木技術に長けていた戦国武将は多いが、富山を収めていた佐々成政が築いた堤防跡である。用水の川底に斜めに確認することができる。霞み堤の一部なのかもしれない。
またその近隣には「殿様林」と呼ばれる場所に松を中心に植栽林がある(写真上)。常願寺川の川岸に植栽をして堤防を強化するというもので、江戸時代に富山藩主・前田利與(まえだ・としもと)が6ヘクタールに渡り植林したとか。(現在は100本程度だそうである。)
飛越地震をきっかけとした安政の大災害からさらに遡った昔から、富山で暮らす人々が常願寺川と戦ってきたことを示すもので、歴史的な防災対策として保存し、伝えていく価値は高い。



そして、この用水には実に水力発電所が多い。豊富な水量と落差を有効に利用している。ただ出力的にはそう大きいものではないのだが、北陸電力が第二から第四発電所を。(北陸電力は、常東(右岸)用水にも雄山第一・第二発電所を設置している。写真上は第三発電所)
隧道出口のすぐ下流部の上滝地区に「常西公園小水力発電所」がある(写真上)。富山市が設置するマイクロ水力発電所だ。開放式の大きな水車が印象的だが、この手の小水力発電所も右岸含めて各所にあって、富山県や各土地改良区が設置・運営しているる。
これらの水力発電を含めて、環境負荷が少なく低炭素社会を実現すすための取り組みが評価され、富山市は「次世代エネルギーパーク」に指定。今のご時世だからこそ、その価値も高まりを見せており、貴重な学習素材としても活用価値がある。



常西合口用水にはそのほかにも、歴史的な遺構として「済民(さいみん)堤」、土木遺産としては「太田閘門(こうもん)」、用水上流部に「上滝砂溜池・排砂水門」や下流部の「新庄排砂水門(写真上:下流部は市街地を流れ、住宅地にある常盤台公園の新庄排砂水門へ)」などがある。また、常願寺川上滝公園は桜並木があり、憩いのゾーン(プロムナード)として市民に親しまれている。
ここまでくると、単に古いかんがい施設が機能しているというだけではなく、持続的な活用・保全方法の蓄積、研究者から一般市民への歴史的・教育的価値、土木事業や防災に対する意識向上、市民への憩いの場の提供など、複合的な価値が見えてくる。
これらのことから、2020年、国際かんがい排水委員会は常西合口用水を「世界かんがい施設遺産」に認定・登録した。地味な土木施設であるが、先に紹介した大転石を含め見どころ満載の常西合口用水。常願寺川物語の名脇役としてお見知りおきを!(写真下:「全国疎水百選」を紹介する看板と「プロムナード」の案内図。)








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見どころ満載の常西合口用水、横江頭首工編(常願寺川物語⑤)

2022年10月14日 | 土木構造物・土木遺産


常願寺川を訪れて、中・下流域の話にとどまっている感があるが、それだけこの川には魅力が満載。もう一点だけ(2回に分けてになるが)下流域のかんがい用水について触れておきたい。
ピンときた方もいるかもしれないが「常西合口用水(じょうさいごうぐちようすい)」は、かの明治政府のお雇い外国人技師・ヨハネス・デ・レーケの指導により1893年(明治26年)に完成、農業用水の合口化(取水口の一本化)の走りと言われている。
これを取り上げる前に、近現代において整備され、現在、富山平野の常西・常東の7,900haを潤している「横江頭首工」をはじめとしたかんがい設備について紹介をしておきたい。これは1956年(昭和31年)に常西・常東の取水口として完成、平成20年に改修され現在の形になった。(写真上)



とにかく立派な取水堰、大量の水を送る用水路、そして常西・常東への分水施設・システム、常西へのダブルデッキの水路橋。どれを取り上げても見応えのあるものだ。
頭首工の堰は、堤高14.1メートル、堤頂長144.3メートル、最大取水量18.89立方メートル、土砂吐水門1門、洪水吐水門1門(資料:土木ウォッチング)と、そこらのダムに比べても立派なもの。
堰の脇の弧を描く美しい沈砂池を経て、開渠水路で数キロ下流の両岸分水工に至る。昭和31年に完成した先代の設備同様、常西・常東に同量の用水が供給されるシステムになっている。(写真上:頭首工左岸側からと沈砂池、写真下:頭首工の下流に設置されている分水工)



右岸側で取水・分水された常西用水は、分水工のすぐ下流で常願寺川を渡り左岸に引き込まれる。ここで存在感抜群のダブルデッキの「左岸連絡水路橋」が登場する。間近に見ることができるのがうれしい。
上が管理用道路で、下が常西用水路。橋の上から両側に下方に、満々と水をたたえて流れる用水路を見ることができる。中央に土砂吐水門もあるとのことだが、滅多に放水されることはないようだ。(写真下:連絡橋の全景とダブルデッキの上段は道路、下段には水路を見ることができる。)
個々には日本初とか日本一とかは付されていないが、この先の常西用水は上滝発電所で発電用に利用されてから、いよいよ見所満載の常西合口用水へと続くことになる。デ・レーケが早く来い!と言っているが、下流はについては次回の紹介となる。


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安政の大災害は、数百トン石を下流に運んだ(常願寺川物語④)

2022年10月11日 | 旅行記・まち歩き
只見川の「主」を紹介していないが、まだ写真が撮れていないため、話を「常願寺川」に戻すことにする。私にとっては、木曽川、只見川を押しのけて魅力満載ナンバー1と言っていい川である。(常願寺川の話が尻切れトンボになっていたので、「どうした?」という声が聞こえる?聞こえないかー!)
これまで、日本一の暴れ川と紹介してきた常願寺川。魅力的な橋や滝、堰堤などを取り上げてきたが、まだまだ魅力は多い。「暴れ川」というくらいなので、今回はその一端を求めて、中流・下流域に少し目をやることにする。
あまり知られていないスポットなのだが、「立山カルデラ博物館」の学芸員にその情報と詳しい位置などを聞き出し、扇状地の田んぼの中を車で走り回ることになる。(写真下:「暴れ川と生きる」という本の「安政の大災害」のページと、立山カルデラ博物館の学芸員からいただいた下流域の紹介マップ。)



今後、最上流部を紹介していくときに随時触れたいとは思うのだが、私の目的はあくまでも「立山カルデラ」と、その水が流れ込む川の「砂防施設」にある。
立山の地質は、火山の噴火による堆積物が重なってできたとてももろい地質が特徴。立山カルデラは浸食カルデラであり、その堆積物が大雨になると幾度となく崩れ、土石流となって大災害を引き起こしてきた。(崩れた土砂が余震や度重なる水害で、その後何か月となく大洪水が続いた。)
安政5年(1858年)、この地域を大地震が襲った。飛越(飛騨と越中)地震は、マグニチュード7.6にも及んだのではないかと言われており、この時に崩れた土砂が川をせき止め、それが一気に崩れることにより土石流が発生。死者は200人以上とも言われた大災害であった。



その時に、上流から流れ出た石は「転石」と呼ばれ、実は富山市や立山町の常願寺川付近に40個ほどあって、重さは100トンから重いものでは600トンにも上るという。凄い巨石を常願寺川の鉄砲水が運んできたのである。
ただ、地元では災害の惨禍を風化させることのないように、これらの巨石を単に保存しているばかりでなく、各所で石碑などを建立して大切に祀っているという。とてもローカルなスポットなのかもしれないが、私は目の当たりにして川の恐るべきパワーを感じた次第だ。
ただ、なかなかわかりにくい場所にあることも確かで、訪れるためには下調べが必要。中には霊園のど真ん中にあるものもあって、合掌して見学しなければならないってことですかね。(写真上:大場の転石と西大森の転石。いずれも、常願寺川堤防にある。写真下:西の番転石と富山霊園転石。)

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六十里を超えると、破間川流域にも貴重なダムがありました!

2022年10月09日 | 土木構造物・土木遺産
川合継之助が詠んだ「八十里 腰抜け武士が 越す峠」の八十里越は、現在国道289号として新潟県三条市と福島県只見町を結ぶため、県境付近の工事は進められているが、まだクルマ社会に浸った者を寄せ付けない状況にある。
私はこれまで紹介してきたとおり、只見川や只見線を追いかけて奥会津を上流部に向かって何回かアタックしてきたが、最終目的の只見町や田子倉ダムまで行きついたので、最後に只見線と並行して走る国道252号で峠を越えて新潟に戻ることになる。
こちらは「六十里越」という、これまたな難所。細い道、ヘアピンカーブが続き、待ち時間5分以上の片側交互通行などの箇所がある。それでも、ここを越す理由は、新潟県側の破間川水系のダム・発電所もせっかくなので見ておきたいと思ったからだ。



先に触れたとおり、豊富な只見川の水源を分流・分水によって新潟側に引き込み、かんがい用水として利用するという計画により建設されたのが「黒又川第一ダム」だ(写真上)。只見川上流部と同じく電源開発(J-POWER)の施設である(魚野川流域の発電用水利権はJ-POWER)。
後になって、この奥に第二ダムが設置されるが、豊富な貯水量が確保されることが分かったため分水計画は棚上げになる。ただJ-POWERは第一ダム・第二ダムでの揚水発電(途中で中止)など、ここでも積極的な電源開発を行っている。極寒の豪雪地帯であるが、積雪量が水力発電に必要な水量を確保してくれますからね。
「破間川ダム」は治水を目的に新潟県が設置したもの(1986年竣工、写真上)。このダムの水を利用してJ-POWERは破間川発電所を設置。ダムのすぐ下流から取水して末沢発電所へ、そしてその水をひと山越して黒又川第一ダムへと引き込んでいる。なかなか手の込んでいる仕掛けだ。



黒又川を遡っている時に、小さいダムを見つけた。東北電力が管理・運営する「黒又ダム」だ(戦前に設置されたダムで、下流にある「藪上ダム」とともに東北電力、写真上)。ここで取水した水を導水路方式でひと山越して上条発電所に送る(写真下)。重力式コンクリートダムで、堤高24.5メートル、堤頂長228メートルと小ぶりな堤体だ。
玉石張りのダムは県内ではここだけ。実は竣工年が1926年(大正15年)で、信濃川水系ではこのダムが最も古いダムで、土木学会の日本の近代土木遺産で現存する重要な土木構造物に認定されている。選奨土木遺産入りの候補でもある。
こ黒又ダム、放流は越水式なのだが(洪水吐のローラーゲート一門)、緩やかな曲線を描く堤体を流れる水は美しいらしい。(雪解けの春先に見られるらしいが、私の訪問時には流れていなかった。)奥沢水源地の「水すだれ」みたいなんでしょうかね!ぜひ春先に再訪したいものだ。






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河合継之助、「峠」を越えて只見の地で眠る

2022年10月05日 | 旅行記・まち歩き
只見川の源流は尾瀬ということになるので群馬県、しかし只見川という名の下では新潟県魚沼市ということになる。ただ、奥会津というイメージからすると終点は只見町。只見町は金山町から下流域にかけての東北電力施設から、電源開発(J-POWER)の縄張りとなる。
その
J-POWERの看板ダムである「田子倉ダム」と「田子倉湖」は只見町の観光資源ともなっているし、只見ダムのすぐ脇にはJ-POWERの只見展示館、そのほかにも只見町のブナセンターやミュージアム・資料館などもとても興味深い施設が観光客を引き寄せている。
そんな中で、私が立ち寄ったのは「只見町河合継之助記念館」。ご承知のとおり越後長岡藩の家老で、北越戊辰戦争で重傷を負い、会津藩を頼って亡命する際に、ここ只見町が終焉の地になったことから、記念館が建てられているのだ。(写真下:記念館の入り口と内部の様子。)



河合継之助は1827年長岡城下の中堅武士の長男として生まれる。武芸のほかにも儒学・哲学などを学び、江戸遊学時には佐久間象山など、また西方遊学では備中(岡山県西部)・松山では山田方谷などに師事している。
子どものころからの気性の荒さはあったが郡奉行から町奉行、そして家老へと出世。藩政改革を成し遂げていき財力を蓄えたのち、黒船来襲を目の当たりにしてきている継之助は、軍備を増強しなければ国を守れないと考えていた矢先に戊辰戦争に巻き込まれていく。
内戦をしている場合ではないと思いから新政府軍との「小千谷談判」に臨む継之助だったが交渉は決裂。一旦明け渡した城を奪回するなど長岡藩は持ちこたえたものの陥落。継之助はじめ城下の者たちは「八十里峠」を超えて会津に向かう。これが「八十里 腰抜け武士の 越す峠」であり、映画「峠」のことである。



さて、会津只見は同盟関係にあった長岡藩から約一週間のうちに2万5000人ともいわれる、いわゆる避難民を受け入れることになる。全戸300軒余りの寒村は、想像を絶する大混乱を引き起こしながらも、負傷した継之助をはじめ多くの市民をも受け入れることになる。新政府軍が会津を攻めることは当然として、長岡藩が盾になってくれていることを村人も分かっていたからだろう。
ただここにも悲劇が。当時代官で食糧調達の任にあった丹羽族(にわやから)は、継之助に面会した後、十分な食糧を確保できなかったことから責任を取って自害する。その死を知った村人は僅かな貯えを差し出し、引揚者の窮地を救ったという歴史もある(写真上のパネル写真、もう一方の写真は当時最新鋭・日本で初めて使用されたガトリング砲の複製。)。
只見に入って12日目、膝を撃ち抜かれた傷が悪化した継之助は、藩士・外山脩造(後にアサヒビール創始者、阪神電鉄社長など財界人として活躍)などに看取られて、只見町塩沢で亡くなった。享年42歳。(写真下:継之助終焉の地を告げる石碑と、館内に移設・設置された終焉の間(只見町塩沢の医師・矢沢宗益宅)、いずれもダム湖の下が実際に亡くなった地である。)



まあ、新潟県人として、長岡の英雄を熱くもてなし、丁重に葬り、そして記念館まで作って終焉の地を守り続けてくれている只見の人々。混乱や悲劇を招きながらもその遺徳を偲んでいることに感銘する限りだ。
実は長岡市にも「河合継之助記念館」があって、こちらは本家本元といえるし、何かにつけ展示も本物というリアリティーがあるのだが、只見町の記念館は実に立派で、展示物も継之助の生い立ちや個性、能力が歴史に疎い私にも理解できるものが多かった。
映画「峠」は見ていないのだが、先に会津若松城に移った主君に長岡城下での戦いを報告するため、峠を越すところに継之助の信念の強さを、そして主君・牧野忠恭(ただゆき)は幕府侍医・松本良順を若松から差し向ける。その峠に強く美しい主従関係を感じることができるのが只見の地でもある。


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東北電力初の本格的な水力発電のPR施設「みお里」

2022年10月03日 | 旅行記・まち歩き


只見川のダムや只見線の鉄道遺産を追いかける奥会津の旅も金山(かねやま)町に入った。人口は2,189人。これまで紹介した中で、隣の三島町に次いで人口は少ない(三島町は1,668人、ともに総務省統計局「統計でみる市区町村のすがた2022」資料。)
前回紹介した沼沢湖があり、温泉や蕎麦などを観光資源としているが、実は伊南川発電所や第二沼沢発電所も金山町。只見川本流にも上田ダム・発電所、本名ダム・発電所などがあり。これらは全て東北電力の施設である(町域の最上流部の滝ダムは電源開発(J-POWER)の施設。)
只見川の電源開発と水力発電の中心地というべき金山町だが、そこに東北電力が館内では最大、本格的な水力発電のPRと奥会津の魅力を紹介するため、2020年に「東北電力奥会津水力館・みお里MIORI®」というミュージアムを国道252号沿い、「道の駅・奥会津かねやま」の隣接地に開設している。



水力シアターホールを中心に、只見川の発電施設をマップ、ディスプレイで紹介する水力スクエアなどにより、水力発電の仕組みや只見川の電源開発の歴史を紹介している。そのほかにも再生可能エネルギーについても学べるという、時代を捉えた展示もある。(写真上)
ただそれだけではない。ギャラリーが凄い!水源、川、水力発電施設、灯りをテーマにした作家が描いたアートが、白を基調とした広々としたギャラリーに展示されている。室内上部に取り付けられているステンドグラスにもダムや会津の自然が描かれている。(写真下)
そのほかにも、奥会津の魅力や片岡鶴太郎氏による奥会津の逸品を書き起こした絵画・エッセイの展示、発表会や展示会などに使用できる貸しスペース(企画展示室)、四季折々の景色が楽しめるラウンジなども備える。しかも入場料は無料である。奥会津に行く機会があったならぜひ立ち寄ってほしい。



一角のそれほど広いスペースではないものの白洲次郎氏を紹介するコーナーが私にとっては印象的だ。只見川の電源開発を語る上で欠かせない人物で、東北電力の初代会長。東北発展に尽力し、戦後日本の電力にとっても重要なカギとなった人物である。(写真下:白洲氏を紹介するパネル。)
というのも、戦後の吉田茂の側近として活躍、留学経験を生かしてGHQとの交渉や、貿易庁長官なども歴任。サンフランシスコ講和会議(1951年)に顧問として参加し、その後も外務省顧問なども務め、政界入りを望む声もあったともいう。
ただ白洲は実業家としての道を選び、只見川流域の電源開発に力を注ぎ、水利権を東京電力から東北電力に切り替えたことにより、東北電力と東北地方の発展に寄与したのである。なかなかイケメンでダンディな装いの中に鋭い眼光がまた印象的だ。


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