行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

水のエレベーターを体験できる「富岩水上ライン」に乗船

2024年11月25日 | 土木構造物・土木遺産


今回は富岩運河そのものを紹介しよう。前回触れたとおり富岩運河は昭和初期に赤司貫一の計画立案による都市計画の一環として誕生した。一時は海運の利用頻度も下がりヘドロ化するという場面もあったが、現在も工事進行形の「とやま都市MIRAI地区」事業として見事に復活を遂げた。
かつての船溜まりであった環水公園を起点として、岩瀬浜までの延長約5キロの運河だが、両岸には遊歩道や休憩スペースなども完備されジョギング・散歩コースとして利用する市民も多いが、観光であれば「富岩水上ライン」に乗船することをお勧めしたい。もちろん私も乗船しました!
クルーズ船は2009年の運航開始、富山県と富山市から委託を受けて「富岩船舶」が運航しており、この夏、総乗船客数が60万人に達した。前回述べたとおり環水公園も見どころが多いが、富岩運河クルーズでは土木遺産や文化財が乗船しながら存分に楽しめる。



私が乗り込んだのは最新鋭の「kansui(かんすい)」。環水公園にふさわしく、とてもスタイリッシュな形をしている。全長18メートル、定員55名、後部はオープン席となっており(写真上)、川風?運河風を浴びながらのクルーズが楽しめる。
いくつか運航コースがあるが、私は運河の全容を見るべく終点の岩瀬カナル会館浜まで行く便に乗船。70分、1700円(復路・路面電車乗車券付き)。これが富岩運河の見どころ満載でクルーズで、乗船するガイドさんがタイムリーに注目ポイントを解説してくれる。最大の見せ場は、乗船したまま「中島閘門(こうもん、写真下)」に突入すること。
以前、東京の扇橋閘門石巻の石井閘門を紹介したことがあるが、富岩運河の中島閘門はクルーズ船がそのまま閘室に入って、上流と下流の水位差を人工的に調整する水のエレベーターを体験できる日本で唯一の閘門クルーズになっている(他に中島黄門の操作室の見学するコースなどもある。)。




中島閘門は、富岩運河開削とともに建設され、1934年(昭和9年)に完成。パナマ運河方式の前後の扉を閉めて水位を調整する方式(複扉室(ふくひしつ)閘門)で、10分少々で水を出し入れできる。昭和の土木構造物としては初めて国の重要文化財に指定されている。
そのほかにも、「むくり護岸(曲面護岸、写真下)」は上部を曲面にすることで材木を転がすようにして積み下ろしできるようにしたもの、こちらも国の重要文化財。年代物のゲルバー橋の「永代橋(1938年完成、写真下)」とともに中島閘門の近くにあって、クルーズ船から至近で見ることができる。年代物のゲルバー橋が真下から見れる!
また、クルーズ船の終点でもある岩瀬地区(終点の岩瀬カナル会館から、岩瀬運河を渡ってすぐ)には、「北前船廻船問屋・森家(国重要文化財)」、「馬場家(登録有形文化財)」などをはじめ、岩瀬の古い街並みを散策することも可能である。とても魅力的な富岩水上ライン、環水公園とともにぜひ一度ご堪能いただきたい。桜の時期がいいかも!



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富山の都市計画の中で生まれた富岩運河と環水公園

2024年11月23日 | 土木構造物・土木遺産


富山に来た最大の目的は運河、富山市内にある「富岩(ふがん)運河」そのものと、「環水公園」等の関連施設を見に来た。以前、江戸期から機能していた仙台の「貞山運河」に触れたことはあったが、富岩運河は昭和初期になって開削されたもので、その後富山のまちづくりと密接に関係することになった。
富岩運河は、1930年(昭和5年)着工、1935年完成。富山駅北側から神通川に並行して河口近くにある岩瀬(東岩瀬港)までの約5キロの運河だ。この運河の完成により、工業資材や木材などの運搬が容易になり、運河沿岸は工業都市・富山を形成するきっかけとなった。
ただ、単に運河を整備するというだけではなく、都市計画事業として市街地の区画整理、街路、公園整備を一体的に行うというもの。これは内務省技師・赤司貫一(あかし・かんいち)の立案で、当時「日本初の試み」として称賛されるモデル的事業になるのである。(運河の誕生には、神通川の洪水の歴史、馳越(はせこし)線工事や旧神通川(松川)の跡地埋立などが深く関連するのだが、それらは次回以降に!)



しかし、時代の流れによって、物流は船からトラックに変わり、運河も貯木場に利用される程度で通行する船も少なく、水質悪化、悪臭などにより埋立てて道路にする計画が持ち上がったのは昭和50年台(1980年頃)。しかし富山県は、市街地の貴重な水辺として活用を図ると方針を大変換した。
1985年(昭和60)に旧建設省の「新都市拠点整備事業」の一環として、富山市も「とやま都市MIRAI地区」として富山駅北62ヘクタールを再整備することになり、1988年着手。運河の南端にあった船溜まり一帯を「富岩運河環水公園」として整備することとし、20余年の長い年月をかけて憩いの場と水に親しむ環境を作り出した。(富山駅方向は、まだ工事は進んでいるようだが…)
公園のシンボル「天門橋(見出し写真と写真上)」のほか、美術館や野鳥観察舎、野外劇場(写真下)などの公共施設のほか、公園を望める場所にレストラン・カフェなどがある。公園内の「スターバックスコーヒー富山環水公園店(写真下)」は全世界のスタバの中から、最も優れたデザイン店舗にも選ばれている。とにかく富山駅に近い(徒歩でも10分弱)場所に広大な公園があり、素敵な水辺の空間が収まっている。富山の新しいランドマークになっている。



この大事業にもつながった富岩運河と都市計画事業だが、赤司貫一は土木界では有名ではあるものの、市民にはその名があまり認知されていないように思える。常願寺川の砂防工事において功労を称えられているデレーケや赤木正雄との違いは何か?砂防・治水は直接的に災害を防ぐという意味では重要だが、都市計画事業は少しインパクトに弱い?
確かに人命にかかわる問題と生活利便性は比にならないということかもしれないが、羨ましいほどの素敵な公園を持つ富山市であるものの、「シティブランド・ランキング(住みよい街2021・県庁所在地)」で32位(新潟市31位、1位は福岡市)。市民や行政は富岩運河や環水公園の存在、そしてランキングをどのようにとらえているのだろうか?
旧建設省OBで白井芳樹氏という人がいる。長年富山県で都市計画・土木行政にかかわり、富山県土木部長も歴任した方である。この方が富山の都市計画事業や赤司貫一について著書を出版したり講演活動を行っているようであるが、赤司貫一について公園の一角にでも紹介するコーナーを作ってほしいと思うのは私だけ?
(写真下:環水公園から富岩運河へ、次回は「富山水上ライン」に乗船して富岩運河を紹介する。)


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富山新港にかかる日本海側最大の斜張橋「新湊大橋」へ

2024年11月18日 | 土木構造物・土木遺産


再び富山にやってきた。今回は山ではなく、海沿い。まず目指したのは富山新港、富山県射水市。「新湊」といったほうがピンとくるのだが、ここに架かる日本海側最大の道路橋「新湊大橋」を見に来たのだ。
橋のある富山新港は、かつては放生津(ほうじょうづ)潟という潟湖であったが、富山・高岡を工業都市として発展させるため、いわゆる「伏木富山港」の中核として開削・掘り込み港湾として整備された。1968年開港。伏木富山港として国際拠点港湾に指定されている。(九州を除く日本海側では、新潟港(西港・東港)と伏木富山港だけ。写真下:富山新港入口と新港大橋から富山新港を望む。)
この掘り込み式の港湾の整備よって、かつては道路・鉄道でつながれていた周辺地域は分断されたが、港周辺に企業が進出し、コンテナを扱うターミナルの設置、公園等の観光施設の整備が図られることによって、物流や交流を促進させるために新湊大橋が建設されることになり、10年をかけて2012年に供用開始となった。



臨港道路富山新港東西線は国道415号のバイパス線でもあり、国と県が事業費494億円を負担し建設。東西のアプローチ部分を含むと3600メートル、5径間連続複合斜張橋で主橋梁部600メートル、高さ127メートルの東西主塔から72本のケーブルが張られ、長さ360メートルの主桁(5径間の真ん中)を支える(引っ張る)構造になっている。
大型クルーズ船の航行も可能なように、橋桁から海面までは47メートル。とにかく存在感抜群!日本海側最大の斜張橋ということであるが、高い、大きいだけでなく、美しい!白色を基調としていたり、主塔を「A」型にして、繊細ともいえる美しさを見せてくれる(写真下:斜張ケーブルが伸びる主桁部の道路、西側アプローチはループ式になっている。)
西側の海王丸パークからだと立山連峰をバックに見ることができるし、みなとオアシスやスポーツフィールド(東橋詰の堀岡側)、「新湊きっときと市場」などの周辺施設も整備されていることから、観光客のビューポイントになっている。なお、帆船「海王丸」は商船学校の実習船であったが、伏木富山港振興財団が新港に恒久係留して一般公開している。



新湊大橋は、自動車専用道路(二輪車、原付自転車OK)であるが、実は主桁部は二層構造になっていて、桁下には自転車歩行者用の通路が吊り下げられるような形で設置されている。全面覆われている全天候型の通路は「あいの風プロムナード」の愛称が付けられている(写真下)。
東西の両主塔部の下には駐車場があって気軽にアプローチが可能。主塔近くの橋脚に設置されたエレベーターで桁部まで一気に上がることができるが、主塔・主桁を下から見上げる壮大な景色、上へ行って主桁通路部の窓からは港の全景や海王丸パーク(写真下)、遠くは立山連峰や富山湾から能登半島などを望むパノラマなど、両方堪能できるスポットでもある。ぜひ足を運んでほしい。
橋は最新技術による耐震・耐風構造になっているというが、揺れるんじゃないですかねー?なお、風速25メートル以上、波浪警報などが発令されている時は通行止めにあるというので、事前に情報を確認すること!
(新湊大橋は、2012年度「土木学会田中賞(作品部門)」を受賞。田中賞は、永代橋・清洲橋などの名橋の生みの親、かの田中豊に因んだ橋梁・鋼構造工学界の功績を称える賞。今回の記事も土木の日(11月18日)に因んだ話題でした!)



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東洋のアルカディアを潤す「水窪ダム」と国営米沢平野農業水利事業

2024年10月10日 | 土木構造物・土木遺産



前川ダムを紹介したついでと言っては何だが、米沢市の「水窪ダム(写真上)」にも触れておきたい。最上川水系刈安川にあるロックフィルダムで、農林水産省東北農政局が建設したかんがい用のダムで、米沢平野土地改良区が受託管理しているダムだ。
堤高52メートル、堤頂長205メートルで、主に農業用水を確保するための目的であるが、上水道や工業用水にも供給されており、まさに米沢市を含めた周辺地域の水ガメ。1975年に完成した後、管理用発電の機能も加えられた多目的ダムである。
前川ダムを紹介するときに少し触れたが、山形市・米沢市を含むの山形県の内陸盆地にはため池が多い。これは盆地特有の山が浅く、そこに流れ込む川は延長が短く急流、古くから洪水や渇水に悩まされたが、水窪ダムにより米沢盆地の水不足を一気に解消を図るというもの。ただ、今回の見どころはダムだけではない。



以前、米沢地域は、土地は荒廃しやせていたため、なかなか作物が育つ場所ではなかった。特に渇水期には川には水が流れなくなることもしばしばで、農業を営むには難しい土地とされていた。そこに現れたのが上杉家9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん、写真上:米沢市内松が岬公園の鷹山公銅像)である。江戸中期のことである。
鷹山というと質素倹約のイメージだが、現代にも受け継がれる米沢の特産品の礎ともなった殖産事業を奨励した。それに伴い新田開発、加えてかんがい施設(黒井堰、飯豊の穴堰などは有名)の整備も積極的に推進し、次第に農地も拡大、藩の財政は好転、米沢の町も潤ってきたのである。
鷹山が藩主に就いてから100年ほど後の1878年(明治11年)、「日本奥地紀行」で米沢を訪れたイザベラ・バードは、米沢盆地を見て「東洋のアルカディア(桃源郷)」と表現するほどに。その時代の日本に対して辛口の評価が多かったバードの旅行記であるが、それほどまでに米沢は発展したのである(写真上:川西町フレンドリープラザの庭にあるイザベラ・バード訪問の記念碑と記念塔)。



ただ、水は足りない。大正期には電気ポンプで地下水や最上川(松川)などから用水を汲み上げるとともに、明治期から昭和初期までにため池も数多く造成されていった。それでも足りずに、1958年(昭和33年)、この地方は大干ばつに見舞われる。
農業用水確保のためのダム建設が求められ続けてきたが、1970年(昭和45年)国営米沢平野土地改良事業が起工し、水窪ダムの建設を核に盆地を縦断するように東西幹線用水路の整備、頭首工や揚水機場などが整備され、現在、米沢を真のアルカディアに仕上げたといえる。(写真上:黒井堰は土地改良事業より改修された(米沢市窪田)。もう一方の写真は、市内西側を流れる西幹線用水路の開渠部(米沢市笹野町付近))
この整備を機に、周辺の17の土地改良区・連合が合併。新たに設立された米沢平野土地改良区は、2002年(平成14年)農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)受賞。江戸期には藩主だけでなく家臣や領民が、現代も行政や土地改良区の関係者、そして受益者が心をひとつにしながら、2世紀をかけて「豊穣の土地」を作り上げたのだ。



※ダムカード(写真上)は、米沢市内、米沢市役所に隣接する「米沢平野土地改良区(写真下:米沢市金池)」の事務所受付で配布している。子ども向け(?)のパンフレット(写真上)も一緒にもらった。とても分かりやすい!
※水窪ダムは、洪水調整機能は持ち合わせていない。圏内で洪水調整をするダムは、最上川水系の鬼面川(おものがわ)支川の綱木川にある山形県営の綱木(つなき)川ダム(不特定利水、上水道、発電機能も持つ多目的ダム、写真下:米沢市簗沢)がある。
※黒井堰は、計画を立案し工事の責任者となった米沢藩の家臣・黒井半四郎忠寄(くろい・はんしろうただより)にちなむもの。黒井は「飯豊の穴堰」も計画立案したが、完成を見ないまま死去する。53歳の生涯だった。和算術に優れ、それが測量にも活かされた。
※静岡県にも「水窪ダム」があるが、こちらは「みさくぼ」と読む発電専用ダム。






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河道外貯留方式の「前川ダム」発見!石橋めぐりの思わぬ釣果

2024年10月07日 | 土木構造物・土木遺産


最上川水系の須川の支川・前川で石橋を探していると、とても珍しいダムがあることに気が付いた。「前川ダム」は、山形県営のダムで、洪水調整を目的に建設されたロックフィル式のダムだ。1983年(昭和58年)完成。堤高50メートル、265.5メートル、総貯水容量440万立方メートル。
まあ諸元だけみると普通規模のダムであるが、同じ前川から新たに河道を作り、同じ支川の小河川にダムを建設し水を貯留。ダムからの放流水をまた前川に戻すという「河道外貯留方式」という全国的に見ても珍しい方式を用いるダムなのである。
上山市や下流の山形市や山辺町などの前川・須川沿川は洪水被害が多い場所であったが、前川沿いにはダム建設の適地がなかったため、このような方式となったそうだ。ダム貯水池(忠川湖→山形県パンフレットに記載、写真下)へは約2.9キロ導水路で水を引き込み洪水調整を行うというものだ。(ダム建設前に、農業用水確保のためのため池があったことから、忠川湖にも常に水を貯留し不特定利水の目的も担っている。)



分水口は、前回紹介した石橋・吉田橋の下流300メートルほどのところ(南陽市小岩沢、写真下一枚目:右のトンネルがダム貯水池への導水路。)。この分水口を探すのに苦労したが、必ず建設時や現在も管理用として道路はあるはずだと踏んで、またまた山道にハイエースを乗り入れる。ダムを経て再び前川と合流するのは、やはり石橋・堅磐(かきわ)橋のある場所(上山市川口)である(写真下の二枚目:右に堅磐橋のある本流、左のコンクリート護岸部から流れ込んでいるのがダムからの放流水。)
導水路は5本のトンネルと開渠で構成、トンネル部は直径約8メートル。高水流量135立方メートル/秒中、分水口へは110立方メートルを導水路に導き、ダム流域から忠川湖に流れ込む30立方メートルと合わせ全量カット方式で防災に寄与することができる。
ダム本体へは、国道13号線上山バイパスの川口交差点から奥羽線のガードをくぐって5分ほど。道は狭く急坂か所もあるが、道路状況は良好。ダム貯水池はヘラブナの釣り場として愛好者に親しまれているが、釣り人は全国的に珍しいダムであることを知っているだろうか?まあ、私にとっては石橋めぐりの思わぬ釣果ではある。


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土木遺産・山形の石橋群6橋を見て思い巡らす

2024年10月05日 | 土木構造物・土木遺産


山形・置賜地方を散策してみた。山形県米沢や庄内、福島の会津などは新潟の自宅からも比較的アクセスも良く、クルマで片道2時間の範囲。これらの地域には何度となく足を運んでいるが、今回は明治期に作られた石橋(石で建造された橋)を探しに行く。
以前、架橋された年代は新しいものとはいえ、木の橋アーチ橋「八幡橋」を紹介した。橋とすれば木の橋は原点ということになるのだろうが、より強固なものとして石橋は江戸期から明治・大正期にかけて作られたものが土木遺産として注目を集めている。
最も多いのは九州の大分県。そのほかにも福島や今回紹介する山形では修復されながらも、保存状態も良く、かつ集中していることから、いずれも土木遺産に選奨されている。大分県の石橋は、江戸期のものもあって個別に選奨されているもののほか、緒方川のアーチ橋5か所は「石橋群」として選定されている。(写真上:中山橋2枚・上山市)



福島もそうだが山形のものもやはり九州から技術者を招へいするなどして施工されたものとのことだが、山形の場合は狭い地域に集中しているのが特徴で、特に上山市(置賜地方ではないが)、南陽市の同じ最上川の支流・須川水系に6橋が集中しているのは特筆すべきことだと思う。
須川の支川・前川には上流から南陽市に蛇ケ橋(別名・小巖橋)、その200メートル下流に吉田橋、上山市に入って中山橋、堅磐橋、須川支川の金山川に新橋、200メートルほど下流に覗橋といった具合だ。半径3キロ以内に6か所、場所を探すのを含めても2時間もあればゆっくりと回ることができる。
写真を見てわかるとおり、巧妙に弧を描いたアーチ部やきれいに積まれた取り付け(橋台部)に至るまで見どころも多い。中には石を切り抜て飾り模様が施されていたり、親柱や銘板なども実に味がある。ただ、かなり傷んでいる部分も多く、保存のための保守などは欠かせないといったところか。(写真上:蛇ケ橋(小巖橋)2枚・南陽市)



大分・九州には石橋が多く保存されているおり古いものも多くかなり広範囲に及ぶことからルーツと言っていい。福島では9か所が2022年に土木遺産。山形の場合も北は村山市から南の米沢市まで11か所が2009年に土木遺産に選奨されているが、今回の6橋は特に隣接しており、いずれも1878年(明治11年)から1882年(明治15年)と施工年も近い。
上山の楢下宿にある新橋と覗橋は羽州街道が幹線街道としての重要性があったことに起因するだろうし、前川に架かる4橋は栗子峠経由の新道開削(のちの萬世大路(ばんせいたいろ))の計画とともに建造されたのではないだろうか?いずれにしても初代山形県令の三島通庸(みしま・みちつね)が関わったとされる。
この三島通庸は薩摩の出身。山形県令に就くと反対派を押しのける謂わば強引な手法で土木事業を推進たことで有名だが、不毛の地とされた米沢をはじめ置賜地方にとって三島の手腕は、現在の都市形成や産業基盤づくり、山形県全体の流通において、後に大きな功労を与えたもので、今回紹介できなかった石橋を含め、大きな証として保存されているのである。(写真上:吉田橋・南陽市と堅磐橋・上山市、写真下:新橋と覗橋・いずれも上山市)

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台形CSGダムとしては国内最大の「成瀬ダム」の現場見学で

2024年09月30日 | 土木構造物・土木遺産


念願の「成瀬ダム」の建設現場を視察する機会をいただいた。秋田県の雄物川水系成瀬川の上流に1983年(昭和58年)から秋田県によって実施計画調査を開始し、1997年(平成9年)建設着手、ダム本体工事を2018年着手し、いよいよ2027年に完成を目指す国交省直轄の多目的ダムだ。
このダムは日本生まれの新しい技術であるCSGダムというもの。CSGは、「Cemented Sand and Gravel(石や砂れきとセメントを混合する材料)」のことで、現地で発生した材料を使用し、CSGを断面が台形に積み上げた成瀬ダムは「台形CSGダム」と呼ばれるものである。
日本でもまだ数少ない型式のダムであるが、現在建設中のものを含めても成瀬ダムの規模は群を抜いている。堤高114.5メートル、堤頂長755メートル、総貯水量7850万立方メートル。完成すればCSGダムでは国内最大級、他の形式のダムを含めても東北地方でも屈指の規模ともいえるのではないだろうか?(堤高では長井ダム(山形県)ほか、堤頂長では森吉山ダム(秋田県)、有効貯水量では玉川ダム(秋田県)ほかが上回ってはいるが…)



このダムの特徴とすれば、現地の材料を使用することで環境負荷の低減が図れること。台形という形状は構造上必要強度を小さい上に強度を保てるため永久構造物としての品質(安全性)を確保できること。工期が短くコストが低減できることなどが挙げられている(鹿島建設の見学テラスの資料などから抜粋。建設費用は約2600億円、先に紹介した八ツ場ダムの半分以下だ。)。
さらに目を見張るのは、鹿島建設が開発した建設機械の自動化建設生産システム「A4CSEL(クワッドアクセル)」など、最新鋭のICTを駆使した施工技術が採用されている。特に少人数のオペレーターが複数台の重機を操作するなど、生産性や安全性を飛躍的に高めている。
すでに堤体の工事も最終盤で、堤頂部の洪水吐のゲート工事に差し掛かっていることから、残念ながら無人のブルドーザーが動くシーンは見られなかったが、重機を遠隔操作をしていた鹿島建設「KAJIMA DX LABO(写真下)」は、見学者に説明をするスペースとして開放されている(実際、オペレーションをした部屋は見学不可でした。)。



今回の見学には、「鹿島・前田・竹中土木特定建設工事共同企業体・成瀬ダム堤体打設JV工事事務所・KAJIMA DX LABO」のコンシェルジュ・鈴木さんが現場を案内してくれた。成瀬ダムでは、見学者を積極的受け入れてくれるほか、前述のテラスからの見学や現場内へのクルマでの先導のほか、KAJIMA DX LABOでは大型スクリーンやVR・タブレットを使いながら専属のコンシェルジュが案内・説明してくれる。
その鈴木さん、契約社員とのことであったが、東成瀬村の出身でUターンでこの仕事に就いたそうである。余計なことではあったが、「ダム建設によって、村も潤いましたね?」との言葉にそっと頷いてくれた。ダム現場から10数キロを下流の場所には現場事務所が「町」を形成していた(写真下)。村の人口より工事関係者が多いのではないかと思わせるくらいだ。(東成瀬村の人口は2,363人=東成瀬村役場、工事関係者はJVと協力会社を含めて約600人(2022年10月時点))
何回となく鈴木さんとはメールのやり取りをさせていただき丁寧に対応いただいたが、なにせ2名以上での見学でないとダメだというのでこの点は苦労した。遠い秋田の山間部、往復600キロ、しかも平日、ダムの工事現場しかない場所であるから、人を誘うにも気が引けてしまう。



新潟からだとクルマで5時間、非常にアクセスは悪いし、ルートの選択も難しい。東成瀬村に入っても30分以上の山道を行かなければならない。今回はハイエース小僧の大学生・ハヤタに「運転をさせてやるから。稲庭うどんをご馳走するから」と就活中にもかかわらず頼み込み、日帰り強行に踏み切った。
もちろんダムには興味はなさそうだったが、女性の鈴木さんがダム現場で働く姿を見て、見学後、現場を走り回ったハイエースを高圧洗浄機で洗ってくれている姿を見て、何かを感じてくれたらとも思った(かなり本題からは外れてしまったが、遠くまで来て感動的なシーンも多かったはず…)。
ダムは水を貯めて人々を守り、下流に住む人の生活を潤し、田畑を潤す。ダムは村の経済も潤す。そして見学者の我々に感動を与えてくれて心を潤す。台形CSGダムの特性から、この地でなければならなかったこともあるだろうが、重厚な周辺施設整備を伴った八ツ場ダムとは一味違ったダムのあるべき姿を見たような気がする。



ところで、この成瀬ダム、「念願の」と最初に強調したことに触れておきたい。成瀬ダムについては、3年ほど前の「ICTセミナー」で講演を聞いたことがきっかけとなる。自分は技術者ではないが、「成瀬ダム」の話があるということで、お手伝いとして参加した。(CSGダムについては<リンク>で詳しく解説してある。)
とにかく、最先端のICT技術が駆使されているDX LABOの話を聞いて、「絶対に行かなくてはならない!」と思った。が、時はコロナの渦中にあり、新しいプロジェクトのお手伝いをすることになって、なかなか行く機会を見出せなかった。こんなに工事が進んでしまっているとは。
あれ!セミナーの時に講演をされて、その後の懇親会で「見学させて!」と頼んだ三浦悟さん?鹿島建設の技術研究所のプリンシパル・リサーチャー?自動化施工推進室長?DX LABOに写真とコメントを発見(写真下)。そんな偉い人に気安くお声がけして申し訳ありませんでした。これまた感動で涙が出るほど潤いました。

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奥会津「柳津西山地熱発電所」の熱で可能性を感じる

2024年09月24日 | 土木構造物・土木遺産


ダムを見に行くわけでもないのに、今回もまた山の中を走っている。これまでも奥会津地方には何回か訪れ、只見川の電源開発に関連施設を求めて行き来してきたが、今回は少し山の中に入ることになった。今回の目的地はダム式の水力発電所ではなく、地熱発電所である。
走り慣れた国道252号から少し県道を入り、柳津町と三島町の境界を何回かまたぐ道のりは10キロ弱。西山温泉を通り過ぎて寂しい山の中ではあるが、道路は完全に舗装されておりくねった道を進んだところに突如大きな建物が現れる。東北電力の「柳津西山地熱発電所」である(管理は「奥会津地熱」、熱源供給会社)。
地熱発電は、地中深く地熱によって暖められた蒸気を利用しタービンを回す発電方式で、二酸化炭素の発生は火力にと比べてはるかに少なく、再生可能エネルギーとして注目を集めている。ダムばかり追いかけ、揚水発電の蓄電装置やコストなどの課題にぶち当たり、他の発電方式にも触れておこうと調べてみると、新潟からも日帰りのできる場所に、しかも白洲次郎氏が日本の発電事業のため力を注いだこの地に地熱発電所があることを知り出かけてみた。
(写真下:柳津西山地熱発電所の本館(発電所)と冷却塔)



この発電所では、最大出力3万kW(キロワット)の発電を行っているが、以前は6万5千kWで一つのユニット(タービンを回すまでの一連の設備セット)では日本で最大の地熱発電所を誇っていたという。完成が1995年(平成7年)ということで、運転開始から20年経過し、蒸気量が減少し効率化を求めてタービンの更新をしたため計画出力の変更に至ったそうだ。
確かにこの発電の運用は低迷していた時期があった。火力発電用の燃料が安かったことが大きな要因であるが、最近の化石燃料の高騰や価格不安定、輸入に頼らざるを得ない状況に加え、災害事故のリスク回避やクリーンエネルギーの活用などが叫ばれてきたことにより、再び熱を上げているようである。
再生可能エネルギーの中でも風力や太陽光は自然の力を利用するが、水力と同様に天候にも左右される。その点、無限ともいえる地熱エネルギーは安定性は抜群で、発電施設も更新を続ければ長寿命化が図れる。そして、何と言っても純国産という点で今後無限の可能性があるというところであろうか?
(写真下:発電所に続く道路脇に見ることができる蒸気パイプ(送水用か還元用かは不明)と2017年まで使用されたタービン(実物))



地熱発電は、地下深くマグマ溜まりの上層から蒸気を汲み上げる。柳津西山の場合も、複数の掘削井を地下1,500~2,600メートルへ折れ曲がるように掘られている。地中深いことから高度の技術必要であり、開発にかかる時間や経費は掛かる。綿密な調査と的確な掘削が採算のカギを握る。ただ、日本を含む火山帯の多い太平洋沿岸や構造帯付近はその可能性が大きいという。
発電所にの近くには大概温泉がある。温泉への影響は全くないとは言えないが、地底のキャップロック(帽岩=ぼうがん)の存在により地熱貯留層のほうが深い場所にある。むしろ、国内では山の中とはいえ自然公園内に設置されているものが多く、自然環境への影響や景観上を問題、火山性ガスの排出を指摘する声もあるとか。
ただ、柳津西山では発電所建設のための森林伐採は最小限にとどめているし、発電に使用した熱水や冷却水は再び地中に還元している(他の地熱発電所でも同様)ことや、地中から噴出する硫化水素等を改修する設備を設置し肥料などに利用している。他の地域では地下還元熱水を利用したハウス栽培などの例もある。環境への配慮、地域への社会貢献という面でも魅力が多いと感じた奥会津での柳津西山地熱発電所との出会いであった。
(写真下:発電所に併設されている「PR館」と掘削井を示した模型の展示物)

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地域を支え、林業を支える生活道路にある木製アーチ橋「八幡橋」

2024年09月17日 | 土木構造物・土木遺産


前回、新潟県村上市の寝屋漁港を紹介したが、今回は、その近くにある橋を紹介したい。以前から気になっていたものだが、近くに出かけたら立ち寄ろうと決めていた。
橋の名前は「八幡(やわた)橋」、木製の2径間の下路式アーチ橋だ。長さ42.4メートル、幅7メートル(有効幅員)。市道に架かる橋で、2002年(平成14年)に市の単独事業として現在の橋に架け替えられた。床板にプレストレストコンクリート(PC)板、横桁に鋼材を使用しているものの、アーチ部・主桁・吊材・補材を含めて杉の集成材を使用している。
一度姿を消しかけた木製橋だが、日本の林業を見直しの動きや木製材の製造・加工技術の進化向上により、主に公園や観光地での歩道橋、もちろん神社や仏閣の参道などに取り入れられているが、この八幡橋はれっきとした生活道路上の橋であり、もちろん車両の通行も可能な橋なのである。



以前、九州・大分の佐伯市浅海井(あざむい)にある「合掌大橋」という木橋を紹介したことがある(この時は感動ものだった)。群馬・碓氷峠を紹介した時には碓氷湖の「夢のせ橋」に触れたが、いずれも公園内のシンボリックな位置づけの橋である。
日本三大名橋の山口・岩国の「錦帯橋」、静岡の大井川に架かる「蓬莱橋」などは歴史的な橋で有名であるし、木製トラス橋である埼玉・日高市の高麗川にかかる「あいあい橋」(日高市には個性的な橋の宝庫!)、長野県南木曽町の「桃介橋(福沢桃介にちなみ命名)」は吊り橋で全長247メートル。ただ、これらの橋はすべて歩道橋である。
今回の八幡橋は、それほど交通量はないとしても、生活に溶け込み、道路橋としてひっそりと市民を支えている。地味で、あまり脚光を浴びることのない橋であるが、自分はそれが橋の本来の姿であると思っている。その奥ゆかしさと担う役割こそ土木構造物の真価なのである。



地域的な事情というか、これまた生活産業に密着した所以がある。これは橋が架かる村上市山北地域(旧山北町:「さんぽくまち」)は、9割以上の土地が山林。地元の特性や地場産業、特産品を利用し、何とか林業を活性化させたいとの思いが込められている。現にこの地域にある小・中学校、市役所の山北支所は木造でできている(写真上)。
このような地域は、日本の国土の各地にある。しかも古くから林業は日本の建築物を支えてきている中、外材の輸入などにより地域産業として衰退し、少子高齢化、過疎化を生んでいる山間部の小さな村も多い。そんな中で国産材をアピールするための八幡橋の存在意義は大きいのではないだろうか?
八幡橋には、2径間の途中の海側にバルコニーがあって、日本海に沈む夕陽や八幡(はちまん)岩を見ることができる(写真下)。林業の町でありながら、前回紹介した寝屋漁港や笹川流れの海の景色も楽しめる。これまたなかなかない特徴なので、今後のまちづくり・地域おこしの展開が楽しみな「マディソン郡の橋(クリントイーストウッド監督主演映画。ストーリーはフィクションらしいが、木製橋はアイオワ州で実在)」ならぬ「岩船郡の橋」なのである。(「岩船郡」=旧山北町を含む郡名)



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八ツ場ダム!建設費は日本ダム史上最高額というが

2024年08月29日 | 土木構造物・土木遺産


決してダムづいている訳でもないのだが、群馬を訪れたからにはこのダムを紹介しないわけにはいかない。それが「八ツ場(やんば)ダム」だ。
利根川の支流である吾妻(あがつま)川の中流、群馬県長野原町にある国土交通省関東地域整備局が管轄する多目的ダムだ。堤高113メートル、堤頂長291メートル、重力式コンクリートダムで、洪水調節、不特定利水、上水道、工業用水、発電を目的として2019年に完成した若いダムである。
大規模ダムの多い利根川水系において、奈良俣ダム、八木沢ダムの大きさにはかなわないものの、群馬の最大観光地・草津温泉に続く国道145号沿いにあり、山奥のダムと違って容易に目にすることのできる巨大多目的ダムとして、その観光面でも機能し始めている。丁度、景勝地の「吾妻峡」の上流部にダムがある。



なぜこの若いダムを取り上げるかというと、八ツ場ダムの着工は1967年(昭和42年)、利根川改訂改修計画が打ち出されたのは1952年(昭和27年)ということは、着工して52年、計画発表段階からだと67年もの長い時間をかけて、ついこの間出来たというダムなのである。
経済成長にあった当時、度重なる台風被害や高まる電力需要とも相まって必要性が叫ばれていたが、建設予定地のいたるところで地域住民の建設反対運動が巻き起こっていた。利根川の悪例として「沼田ダム」という日本でも屈指の大規模ダム(総貯水量8億トンとも9億トンともいわれた。)は、計画途中の1972年に中止が決まったというのも八ツ場ダム建設にとっては逆風だったのではないだろうか。
ダム建設によって固定資産税を確保しようとする地元自治体の思惑やダム建設反対の町長の就任、中曾根康弘(地元選出、当時自民党幹事長、建設反対)vs金丸信(国土庁長官、建設推進)といった中央政界の大御所を巻き込んだ対立も生んだ後、このダムを一躍有名にした民主党政権の中でのマニュフェスト・事業仕分けなど、幾多の困難を乗り越えて2011年に建設は再開、本体工事は2014年になってから始まったダムなのである。
(写真上:整備局八ツ場ダム管理支所建物と建物内に設置されている「なるほど!やんば資料館内部の展示室。苦難の歴史を紹介する年表パネルも見える。)



この八ツ場ダム、何が日本一かというと総事業費5320億円で、まあ年々事業費はかさむ傾向は否めないが、長期にわたったということからしても日本のダム建設史上では最高額になる。まあ、決して誇れることではないかもしれない。
次々に目的が付け加えられてダム自体重厚な設備になったこと、移転補償はもちろん、堤体脇に資料館や「やんば見放台」という展望所、堤体内のエレベーターの開放などの見学者サービス施設の設置、地元の要望などによりダム管理施設の八ツ場資料館、JR吾妻線の付け替え工事と新駅(川原湯温泉駅)、道路・橋梁の整備、「道の駅・八ツ場ふるさと館」や「川原湯温泉あそびの基地NOA(日帰り温泉・キャンプ施設)」などのいわゆる地元に対する見返り施設も建設されている。
先にも触れたとおり、既存の観光地と八ツ場ダム関連施設がさらなる観光客を呼び込むことになっている現状はあるようだが、「ダムで発展した町」だけでは長続きしない。前回、歴史深い土地(吾嬬橋)と紹介したが、その辺の眠った観光資源を発掘しリンクさせるとともに、首都圏を守るというダムそのものの役割や計画から半世紀以上の歴史を発信していくことも、新たな魅力を創造することになるのではないだろうか?
(写真上:堤体内に設置されているエレベーターは見学者にも開放されている、下から八ツ場ダムを見上げるとその大きさを感じることができる。写真下:「道の駅・八ツ場ふるさと館」脇の「不動大橋」は世界初の複合トラスエクストラドーズド橋、パンフレットはJR吾妻線の付け替えにより廃線跡を利用したレールバイク「アガッタン」のPR用。)








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大切にされている群馬の橋、土木遺産の4橋の紹介

2024年08月24日 | 土木構造物・土木遺産


群馬に2泊3日、新潟からの往復の時間を考えると正味2日間という中で、朝から晩まで走り回る。
群馬には魅力的な「橋」が多い。坂東太郎「利根川」の源流部を持ち、その支流の数々は上州の赤城、尾瀬、三国、白根、榛名、妙義の名だたる山々を駆け下り、山肌を削り、深いⅤ字渓谷を作る。県北部や西部などは河岸段丘の上に街並みが存在するケースが多い。よって、橋は都市間を結ぶために重要な存在にもなっている。
群馬県では、その橋のある風景を大切にしている感じがする。県土整備部がPRしているのをはじめ、テレビや新聞などでも特集として取り上げ、財産・資源として活用し保存する取り組みが行われている。今回の群馬訪問では、数々の橋の中から土木遺産として認定されている4橋を紹介したい。



「鷺石橋(写真上)」は、群馬県沼田市の利根川に架かる橋だ。今こそバイパスが完成して交通量も変化したのかもしれないが、高崎方面から17号線が沼田市街地に入る直前にある。以前から、橋の西詰付近で直角に近い形でカーブを切る国道を上越線の車窓から見ると、いよいよ県境が近づいてきたという感じを持ったものだ。
1929年完成。鋼プラットトラス2連で、橋長104メートル。幅員が5.5メートル?架橋当時との交通事情は違ったとしても、国道としてはやけに狭い。まあ、1970年にはすぐ下流に新鷺石橋が完成しているので、現在は歩道橋として使用されている。そうすると、電車の窓から見ていたのも新鷺石橋なんだなー。
鷺石橋は3代目。上流・下流に川の狭窄部があって、過去に架けられた木製の橋は洪水で流されたこともあったが、現在3代目・4代目が仲良く並んで沼田市民や訪れる人たちを迎え入れてくれる。群馬の数ある橋の中で、現存する鋼プラットトラス形式の橋としては唯一のもの。2020年、土木学会選奨土木遺産。



次の橋は少し山あいに入る。利根川の支流・吾妻川、長野原付近で合流する支川の白砂川をクルマで10分ほど遡った場所に目的の橋「吾嬬(あづま)橋(写真上)」がある。群馬県中之条町六合(くに)(旧・六合村)という歴史ある土地にあるが、草津町、長野原町とではなく、中之条町と2020年に合併。いろいろあったようだが、ここでは言及しない。
そんな歴史の中で、吾嬬橋は1901年(明治34年)に完成した現・渋川市の坂東橋の架け替え(1959年)により、3連のトラス橋のうち1つを旧六合村などが譲り受けたもの。坂東橋からは1世紀以上、かなり年代物でレアな橋が山の中にひっそりと眠っていました。(新吾嬬橋の開通(1980年)により、現在は通行規制中)
国内唯一のピン結合タイプのペンシルベニア形鋼トラス橋、橋長69メートル。2006年土木遺産に選奨。ピン結合?ペンシルベニアトラス?というと鉄道橋のような感じもするが、実は坂東橋時代には、東武鉄道の軌道が路面に併設されていたのだそうだ。こちらもなかなかの歴史を持っていますな!



都市部にもありました!藤岡市と高崎市の旧国道17号線(主要地方道・前橋長瀞線)、烏川に架かる「柳瀬橋(写真上」。ポニートラスの10連は見事!1930年架橋で、ポニートラス橋としては現存する中で最長の349メートルという貴重な橋である。
確かに昭和初期に架橋されたポニートラス橋は、どんどん姿を消していっているし、そもそも長径間には向かない構造である。しかし柳瀬橋は、国道17号の倉賀野バイパスが完成(1969年)してからは交通量も減ったとはいえ、旧中山道の「渡し」同様に、群馬の主要都市間を結ぶ重要な位置で現在も活躍中だ。
橋の下流方向から西方を望むとJR高崎線の橋梁があり、観音山、そして遠くに榛名山や浅間山なども望める。夕景などは高崎周辺の人たちには「上州の風景の象徴(高崎新聞・橋の風景から②)」として印象付けられているようであるが、下流方向には歩道専用橋が架けられていて、この点少し残念な気もする。2013年土木遺産に選奨。



最後に紹介するのは、私がベースキャンプとした富岡市と下仁田町の境である鏑(かぶら)川に架かる「只川橋(写真上)」だ。前回、雄川でも触れたように、この地域の川は深く、鏑川もその代表格。この地点は特に深い場所であるが、下仁田の人たちにとって重要な生活道路である県道(旧国道254号)の橋である。
橋長は82メートル、1931年完成の2ヒンジ鋼ブレースドリブアーチ橋。鏑川には、コンクリートアーチ橋は多いが、当時の技術では60メートルが限界、そこで満を持して群馬県では初の鋼トラスアーチ橋が採用されたという。トラス構造が美しいというが、両岸絶壁で谷が深く河原に降りることができず、その全景を写真にとることはできなかった。
現在の只川橋は4代目。富岡市立吉田小学校の副教材からすると、以前はかなり川面近い低い場所に木製の橋があったが流されたり、幅30センチの吊り橋だけだった時代もあったりしたという。美しく、芸術的なこの4代目・只川橋は地域の念願の橋であり、自慢の橋であるということが伝わってくる。2011年、土木遺産選奨。

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世界遺産もいいけど、お隣の「小幡」の町も必見ですよ!

2024年08月20日 | 土木構造物・土木遺産


群馬での滞在先は富岡市。群馬県の南西部にあり人口4万5千人強。妙義山や上州一の宮・貫前神社、県立自然史博物館、群馬サファリパークなどを市域に持つが、何といっても「富岡製糸場と絹遺産群」として世界遺産に登録、大河ドラマにおいて渋沢栄一が登場したこともあって一躍脚光を浴びる町になった。
富岡市は、ご承知のとおり官営の製糸工場である富岡製糸場(写真上:富岡製糸場正面と富岡の町の玄関口である上信電鉄の富岡駅)の設置により繁栄をした。明治初期のことで、古い町並みは確かに魅力的で、富岡製糸場とともに当時の雰囲気を味わうことができるが、一方で市街地は道幅が狭く道路も一方通行が多い。富岡製糸場付近には駐車場もない。
そもそも富岡製糸場や世界遺産について私がここで紹介・説明するのはおこがましいことでもあるし、世界的な観光都市よりももっとマニアックな場所を求めて探していると、富岡市街から車で10分ほどのところに土木遺産があるではないか!



お邪魔したのは富岡市のすぐ隣り町の甘楽町(かんらまち)。「甘楽(甘良・から)」という地名は、奈良時代までさかのぼるという歴史ある土地。その中で注目は、小幡(おばた)地区。江戸時代に、織田信雄が所領として与えられて初代・織田信良により陣屋が置かれ城下町として発展する。
陣屋や数々の武家屋敷、その中を貫く中小路、御殿(陣屋)に併設された大名庭園で池泉回遊式庭園である国指定名勝「楽山園(写真上)」などなど、江戸時代の貴重な文化財が保存されているとともに、復元されている(写真上:小幡藩陣屋の絵図)。これらが2010年、全国でも16番目の歴史的風致維持向上地区(歴史まちづくり法)の認定都市ともなっている。
街並みをぐるぐるっと巡ってから、小幡の中心部にある大手門跡のすぐそばにある「甘楽町歴史民俗資料館」にお邪魔して、係員の方に甘楽や小幡の歴史について懇切丁寧に説明いただいた。大手門を境に南側が武家屋敷、北側が商家や養蚕農家の街並みを見ることができる。(時代は、若干違うのだが、街並みはマッチしている。)



確かに養蚕が盛んになったのは大正期。歴史民俗資料館は繭倉庫として造られたものだが、農協倉庫などを経て資料館に改装したもの(写真下:資料館全景と展示写真)。1926年(大正15年)、レンガ造りの養蚕最盛期を象徴する建造物であることから町の文化財に指定さた後、近代化産業遺産、日本遺産にも認定されている。
武州・上州・信州では養蚕業が盛んであったが、この甘楽町もその産地のひとつ。官営の技術者を養成するといった目的で設置された富岡製糸場、全国の養蚕業を支える器械製糸の指導者である工女を輩出していった。その下支えをしたのが富岡周辺の養蚕農家であった。(熱く語ってくれた資料館の係りの方の受け売りですがー。)
富岡製糸場の周辺には、甘楽社、大仁田社、松井田社といわれた組合式の製糸工場が設置されていて、実は官営の富岡製糸場とともに富岡の製糸業と日本の外貨獲得のための模範的工場が立ち並んで一大産地を形成していた言ってもいいようだ。そのひとつの供給地が近郊の甘楽であり、江戸期から大正期にかけての武家社会や養蚕業を中心とした日本の産業革命による繁栄などを、街並み全体で表現しているのが小幡なのである。



さて、その小幡にある土木遺産はというと「雄川堰」というかんがい設備である(写真下:小幡中心街と路地裏の用水路)。正確な築造時期は不明だが、鏑川をはじめとした深い谷を形成する土地形状から、織田氏が所領するころから整備が進められたという。この趣のある街並みに古くから生活用水を供給してきたものである。
小幡の中心地から鏑川の支流・雄川を3キロほど上流にある大口(取水堰)から、町中に引き込んだ用水を小堰を各所に設けながら武家屋敷に生活用水を供給するとともに、下流北部の水田を潤す農業用水として、また動力源として多目的に活用された。これが世界かんがい施設遺産(2014年)をはじめ、名水百選、水の郷里百選、疎水百選に認定され、2010年に土木学会選奨土木遺産に選奨されている。(果たしてこのエリアにいくつの認定項目が存在しているのだろう?)
藩主の織田氏・松平氏は水奉行をおいてこの用水を管理していたが、一時水の汚染が心配された時期(昭和50年以降)には住民の手で浄化運動が始まり、現在も当番制で清掃・管理が行われているそうだ。富岡もいい町との印象だけど、甘楽・小幡の街並みを支える住民の姿は感服する次第だ。世界遺産へ行った際には、ぜひ足を向けてもらいたい町だ。






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ここでも太平洋と日本海が結ばれている?(神流川発電所訪問記③)

2024年08月17日 | 土木構造物・土木遺産


純揚水式水力発電所でも、世界最大規模になるはずの東京電力神流川発電所。確かに揚水式発電は、電力需給がひっ迫した際には蓄電池としての役割を果たすが、経済的効率から設備利用率が低い上、日本では世界的に見ても貯水量が少ないと多くの課題を抱えている部分もある。大金投じて巨大な設備を導入したけど、縁の下の力持ちの出番は少ないといったとこだろうか?
貯水率?そう、神流川発電所を支えるダム(調整池)を紹介しておかなければならない。前々回触れたとおり、上部ダムは「南相木ダム(写真上)」、下部ダムは「上野ダム(写真下、下にあるのに「うえの」ダム)ということになる。有効貯水量はともに1,267万立方メートル(総貯水量では少しだけ南相木ダムが大きい。)。
南相木ダム、行ってきました!道路は整備されていたし、周辺も公園整備がされているのであるが、とにかく寂しい山の中。堤体下部の「ウズマクヒロバ」という広場にはグッドデザイン賞のモニュメントなどがあるものの誰もいない上に「クマ出没注意」看板が。同広場へのアクセスで利用するトンネルも真っ暗で、入っていいものかどうか怖かったくらい。



この南相木ダム、中央遮水型ロックフィルダム。白い堤体(表面に石灰岩を配置)が目の前に現れた時の感動は忘れられない。これまで見た中でも最も美しいダムと言っていいだろう。堤高136メートル、堤頂長444メートルの巨大ダムであり、日本では一番高所(標高1,532メートル)にあるダムとしても知られている(写真下)。
水利権や漁業権、環境や生態系への影響に配慮して、南相木川の水はそのままダム湖(奥三川湖)を経由することなく、下流に放流される仕組みになっている(増水時にはダム湖に流れこむ仕組み。)。同じ東京電力の玉原(たんばら)発電所(群馬県)と同じ方式が採用された。
山深い上野村で巨大秘密基地の神流川発電所を見学させてもらい、時間を費やして大きく上信越道を迂回してこれまた山奥の南相木村でも美しいダムを見学させてもらい、二枚のダムカードを手にしたときは何とも充実した訪問になったと余韻を楽しんでいた。(写真下:位置図)



待てよ⁉神流川を遡ってきたはずなのに、南相木川というと千曲川水系?つまりは、信濃川水系ということになるし、神流川は烏川から利根川に合流している。つまりは神流川発電所が持つダム湖は、分水嶺どころか日本の峰をまたにかけて設置されていることになる。
つまり、群馬県上野村の神流川と長野県南相木村の南相木川は、神流川発電所の揚水発電用の管路によってつながっていて、それは利根川と信濃川が結ばれたことになり、以前紹介した猪苗代湖を介して阿武隈川と阿賀野川がそうだったように、太平洋と日本海がここでもつながっているということになる。
二県にまたがってというのは、新豊根発電所(愛知県だが下部貯水池の佐久間ダム・佐久間湖は静岡・愛知の県境、J-POWER)、俣野川発電所(鳥取県・岡山県、中国電力)がある。分水嶺をまたいでというのは、奥多々良発電所(兵庫県・関西電力)の黒川ダム(市川・瀬戸内海)と多々良木ダム(円山川・日本海)などがある。(どの揚水式発電も巨大な発電量を誇っている。)



上野村から南相木村へは、当然ながら峠越えが必要である。ぶどう峠、十石峠など過酷な道を進まなくてはならない(私は、帰り道がてら上信越道・中部横断道を利用したが…)。しかし、地図上、長大で真っ直ぐな一本のトンネルが二つ村を結んでいるのに気づく。「御巣鷹山トンネル(全長2キロ)」で、ダム・発電所の管理用道路だ(写真上:御巣鷹山トンネル南相木村坑口)。我々が見学用にマイクロバスで利用したトンネルとは明らかに別ルートである。
このトンネルこそ超レアな場所であるが、ここを活用したイベントが9月29日(日)に開催される。「上信国境ダムtoダムハイランドラン大会」という山岳ロードレースの売りモノとしてコースに組み込まれているのだ。さすがに20キロ超えの山岳マラソン大会に自分は出場できないが、健脚自慢のランナーの方、まだエントリーは間に合いますよ!(写真下二枚とも:大会事務局のホームページから引用)
世界最大規模の神流川発電所は、二つのダムを結び、二つの村を結び、そして上信国境・群馬県と長野県を結び、太平洋と日本海を結んでいる。ハイランドランのコースにある秘密基地内の御巣鷹山トンネルは、過疎化に悩む自治体を結ぶ架け橋ではなく、「架け穴」になるんでしょうね!(神流川発電所訪問記:終わり)



※初回掲載後、「俣野川発電所」について追記した。なお「分水嶺」という言葉は、河川水系の分かれ目という観点から、太平洋・日本海を隔てる峰ということではないので、揚水式発電のすべてを調査したものではないことから「奥多々良発電所など」との表現に変更した。
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地下500メートルの巨大秘密基地に潜入(神流川発電所訪問記②)

2024年08月12日 | 土木構造物・土木遺産


東京電力「神流川(かんながわ)発電所」は、群馬県上野村の山深い場所にある。御巣鷹山の山中、地下500メートル、そこには巨大空間が存在する。上野村が東京電力と協力して開催している見学ツアーに申し込み潜入に成功した。
神流川発電所の1号機は、2005年(平成17年)に運転開始。翌年2号機が稼働し、47万キロワット×2基、最大94万キロワットを発電する日本でも屈指の純揚水式水力発電所である。上部ダムは南相木ダム、下部ダムは上野ダムである。
分水嶺をまたいで、全長6,000メートル強を地中の導水路・水圧管路・放水路で結び、この間落差653メートルを利用して発電電動機6基を設置し、最大282万キロワットの発電を行う計画である。これが完成すれば、世界最大級の揚水式発電となるが、現在そのうち2基が稼働中ということである。(見学ツアー時は、1機がメンテナンスのため運転停止中だった。)



見学通路入り口から、排気用の機材が設置されているスペースを抜けると、突如広がる巨大空間に発電設備がある。天井には、無数のアンカーボルト(高張力鋼)で補強されているが(写真下)、一般者が立ち入る場所でないことから、トンネルを含めてコンクリートは打ちっ放し。確かに秘密基地の様相を極めている。
ここには日本初の技術がいくつかある。勾配48度の水圧管路の掘削にはトンネルボーリングマシーン(TBM)を採用し、斜坑を下から一気に掘削。また、水車のスプリッタランナ(立軸形フランシス水車の翼に長短を設けて出力増を可能にしたもの)を東芝と東京電力が共同開発したものが採用されている。
見学時、作業用クレーンが1号機と2号機の間にあり、多少視界を妨げているところはあったが、メンテナンス中ということもあって取り出された貴重な水車ランナの部分を僅かであるが見ることができた(写真下)。これに関心を示した見学者は私以外にはいなかったようだがー。



注目は世界最大級の揚水式発電。実に大掛かりなものであり、早くから世界最大級を謳っていた東京電力だが、その点を同行説明にあたってくれた係員に尋ねてみたが、3号機以降の設置予定は具体化していないようだ。蓄電装置の進化によりここまで大掛かりなものがコスト的にいかがなものか!ということなのであろうか?
大規模蓄電装置がどのように改良を遂げていて、メリット・デメリットがあるかないかは自分には分からないが、揚水式水力発電は自然を利用した再生可能エネルギーであり、しかも3号機・4号機用の水圧管路もすでに完成しているというのに、電力需要が切迫している中で何を躊躇しているのであろう?
東京電力では、神流川発電所の付帯施設として設置したPR施設を福島第一原発の事故後廃止した。同じく、東京電力の揚水式発電を行う葛野川発電所(こちらは最大出力120万キロワット)のPR館も然り。いまこそ揚水式発電をアピールする時だと思うのだが。(続く)



(※神流川発電所は、御巣鷹山の地下にあるが、日航機事故の現場とされる「御巣鷹の尾根」は発電所より南1.7キロほどの谷を隔てた場所であり、事故現場の地下に発電所があるわけではない。実際の事故現場は、正式には「高天原山(たかまがはらやま)」の中の一つの尾根であり、当時、墜落現場となった場所を特定するために当時の上野村村長が命名したとされる。この書き込みが、図らずも39年前の事故当日になったことは偶然であるが、事故犠牲者の冥福を祈るとともに、今回上野村にお世話になり、事故当時救助活動で尽力された村民の方々に敬意を表したい。)
(※葛野川発電所(山梨県)については、規制区域があるので紹介できるかどうかわからないが、J-POWERや東京電力その他の揚水式を含む水力発電施設(ダムや概要など)についても、順次紹介していきたい。)

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世界最大級の入口である群馬県上野村を目指せ!(神流川発電所訪問記①)

2024年08月09日 | 土木構造物・土木遺産


さて、いよいよ群馬に向かうことにする。ベースキャンプにしたのは群馬県南西部の富岡市。いわずと知れた世界遺産の町である。
新潟の自宅からだと高速で300キロ、4時間といったところだが、途中寄り道などをして初日の走行距離は700キロ近く。これは予想していたことでもあり、最初から車中泊は諦めてホテル宿泊することにしてトレーラーハウス型の宿を予約した。(禁煙だったこと以外は、かなり快適に過ごせた!)
ただ、目的地はさらに山道を小1時間ほど走った先にある群馬県多野郡上野村。ここへのアクセスは実に難関だ。藤岡方向から神流川(かんながわ)沿いに国道462号で向かうつもりでいたが、下仁田・南牧経由がいいだろうと観光案内所のアドバイスから、富岡で前泊した後出発。南牧から上野村へもかなりの山道(県道)だが、湯の沢トンネル(2004年開通)により飛躍的に便利になったようだ。



この上野村、人口が1,028人(上野村ホームページ、8月1日現在)。群馬県では最も人口が少ない自治体であり、関東でも島しょ部を除くと最も少ない。人口密度も県内で最下位、居住可能面積も最も低い。過疎地で、山の中のへき地といえる場所であるが、かの平成の大合併でも「合併しない宣言」をした村である。
産業は林業と観光。「上野スカイブリッジ(写真上)」という巨大なつり橋と不二洞なる関東随一の鍾乳洞が観光のメイン。お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、航空史上最大の事故といわれている日航ジャンボ機が墜落した「御巣鷹の尾根」のある村というと、あーっという方もいるかもしれない。
今年も8月12日が近づいて、多くの遺族・関係者が慰霊登山の時期を迎えている。とにかく山深い地で、事故当時は村へのアクセスや林道の整備もされていなかったため、墜落現場の特定が難しく、救助作業も地元消防団が頼りだったことも容易に想像できる。(村に到着して、まず「慰霊の園(写真上)」で手を合わせさせてもらった。)



この山の中にあり各ランキングで最下位ばかりの村、実は財政的には群馬県内の市町村で3番目と高い位置にある(財政力指数0.85、隣の南牧村や神流町は0.1ポイント台)。というのも、上野村には、東京電力リニューアブルパワー「神流川発電所」がある。この発電所が世界最大級の揚水発電所だというのだ。(発電所1号機が運転開始したのが2005年、それまで財政力指数は0.2、完成後2008年には1.73に急上昇、当然不交付団体となる。)
村では、東京電力と協力し、この発電所の見学会を実施しているという。数日前の問い合わせ・応募であったが、直近開催日に空きがあるということでその場で申し込みをして、そして上野村に足を踏み入れ集合場所の「川の駅・上野」にある「上野村森の体験館(上野村産業情報センター、写真上)」に向かったのである。
村の用意したマイクロバスに乗り換えたのは10人ほどの団体客に、一匹狼の自分だけ。バスは、急登とカーブ続きの道をゆっくりと御巣鷹の尾根方向に進む。ただ道幅は確保されているし、長大トンネルも通過。発電所建設のため整備された道なのか?そして、山中のゲート前に東京電力の社員がバスを出迎えると、いよいよ地下500メートルへの世界最大級の発電所に潜入することになる。(続く)






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