行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

「ほっと」湯田ダム、「そんなに近くにあったのか」田瀬ダム

2025年01月20日 | 土木構造物・土木遺産
さて、北上川5大ダム、今回は「湯田(ゆだ)ダム」と「田瀬(たせ)ダム」を紹介したい。



湯田ダムは、北上川支川の和賀川にあるダムで、堤高89.5メートル、堤頂長265メートル、形式は全国でも十数例しかない重力式アーチダムで、東日本では荒川の二瀬ダム、憧れの只見川の大鳥ダムと三か所だけのもの。1965年、石淵ダムから数えて3番目に完成した。ダムの利用目的としては、もちろん洪水調整のほか、不特定利水、発電がある。(写真上:両側の岩盤の重力式コンクリート部でアーチダムを支える湯田ダムの堤体、きんしゅうこものしり館内には非常用洪水吐から豪快に放流する写真なども展示されていた。)
国道107号は走りやすい道路だが、ダム左岸の管理事務所などは急峻な山肌に張り付くようにして建設されていて、国道からの出入口は2か所ともトンネル内というところ。出るときには信号機があるが、誘導員も配置されていた。
また、2021年に発生した地震により国道107号で地滑りの可能性があるため、錦秋湖に仮橋を設置。復路に利用したが、大型車の後ろについて走行するとかなりのスリルを味わえる橋であった(写真下)。現在、迂回用のトンネル工事が行われている。



湯田ダムは、ダム湖である錦秋湖に水没する住民の移転補償が大きな問題(622世帯が水没、東京都の小河内ダムに次ぐ規模)となったほか、国道107号や国鉄・横黒線(現・北上線)の付け替え、発電用ダムの水没対応にも時間と費用を要したダムである。
ただ、その反面、多くの関係者の協力を結集した形にもなり、「地域に開かれたダム」として錦秋湖を中心とした観光地としての取り組みやスポーツエリアとして整備・利用されているのも特徴。「ほっとゆだ」駅には温泉もあって、地域住民や観光客にも人気だという。
さらに、注目したいのは錦秋湖の最上流部(ほっとゆだ駅に近いところ)に「湯田貯砂ダム」がある(2002年完成、写真上)。湯田ダムへの堆砂を防ぐためのダムだが、この堤体は通路にもなっていて流れ落ちる水の中を歩くことができる。下流部の橋からの眺めも「ほっと」するほど美しい。



田瀬ダムは、猿ヶ石川にある重力式コンクリートダムだ(写真上)。堤高89.5メートル、堤頂長265メートル、ダム湖は「田瀬湖」と命名されているが、ここの総貯水量は5大ダムでは最大の1億4650万㎥。
当初は猿ヶ石堰堤として計画されたいたが、当時の内務省土木試験所長・物部長穂の論文や技監の青山士が議長を務める土木会議などにおいて、多目的ダムの田瀬ダムが誕生することになる。用途は洪水調整・かんがい・発電、発電は電源開発(JPOWER)が事業者となっている。
というのも、戦時下、直轄ダムとしては石淵ダムより先に着工しているが、途中中断。その時点での再補償などの問題があったり、戦後の混乱の中で電気事業者も再編されたこともあり石淵ダム同様電源開発が担当することに。完成も1954年と石淵ダムより1年遅くなった。



田瀬ダムのパンフレットには、ダムの放流設備に上部のクレストゲート6門のほかにコンジットゲート4門とあって、これが国内初の高圧スライドゲートでアメリカの技術を導入したとある。以降の多目的ダム建設にも寄与したものとして、「機械遺産」に認定されている。(写真上:「田瀬ダムものしり館」内のコンジットゲートを説明する模型)その後、放流水制御のため施設改良事業を実施)
時短のために山越えルートを選択して険しい道で田瀬ダムにたどり着いたが、管理事務所やものしり館のある左岸見学後、県道にもなっている天端の道路(写真上)で右岸に渡って帰路に就く。すると見たことのある場所に出くわした!
なんとまあ、「道の駅・みやもり」だ。そう、以前釜石の帰りにわざわざ立ち寄った釜石線「宮守川橋梁」のある場所だ。そこからクルマで10分とかからない場所に田瀬ダムはあった。めったに来れる場所じゃないのにまた忘れ物をしていたか!(当時、北上川5大ダムはまだ土木遺産に認定(選奨)されておらず、ノーマークだったと思われる。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5大ダム登場!最古参・石淵ダムから変身した新鋭・胆沢ダムから紹介

2025年01月17日 | 土木構造物・土木遺産


北上川は、昔から洪水による氾濫や浸水被害が多かった川であることはすでに紹介したとおり。ここにダムを建設しようと計画が持ち上がったのは、1941年(昭和16年)のこと。いよいよ「北上川5大ダム」の登場である。
5大ダムとは、下流から胆沢(いさわ)ダム(当初建設の石淵ダム)、湯田ダム、田瀬(たせ)ダム、御所ダム、四十四田ダムの国交省直轄の5つのダムである。(そのほか、岩手県の場合だと県営の洪水対策用の補助ダムが、遠野ダム含め3か所ある。もちろん宮城県にも北上川支川に鳴子ダム(直轄)、花山ダム(県の補助ダム)などがある。)
北上川中流の基本高水流量(一関市狐禅寺観測地点)13,600㎥/秒に対して、5大ダムと一関遊水地5,100㎥/秒を受け止めることができ、沿川や下流地域の洪水対策を行っている。



下流支川にあるダムから紹介。まずは、胆沢川にある「胆沢ダム」。中央コア型ロックフィルダムで、堤高127メートル、堤頂長723メートル、総貯水量14300万㎥、最初から巨大なダムの登場となる。(見出し写真を含む、写真上)
洪水調整のほか、水道用水、不特定利水(流水の正常な機能の維持)、水力発電のほか、日本三大扇状地のひとつである胆沢扇状地の農地へかんがい用水を供給している(三大扇状地?あと二つはどこ?)。北上川沿川では洪水とともに、支川は流域面積が狭いことなどから、農業用水の確保にも悩まされた地域であった。
胆沢ダムの完成は2013年(平成25年)、5大ダムとかいうけど、ついこの間出来たばかり?実は、全国でも屈指の巨大ダムができる前までは、5大ダムの中でも最古参だった「石淵ダム」が胆沢川流域の守り神として同じ場所に存在していた。



石淵ダムは、総貯水量1615㎥(胆沢ダムの1/9)。日本では初めてのロックフィルダム(表面遮水壁型)として1953年(昭和28年)完成したものの、ダム規模や貯水容量が小さいことなどから洪水被害や渇水被害が繰り返し、生活用水確保にも困難を極めていた。(写真上:国土交通省「胆沢ダム」パンフから)
その石淵ダムの再開発事業として計画されたのが胆沢ダムを建設し、治水・利水事業を向上させることになった。つまり5大ダムの中で最初に建設された石淵ダムに変わり、最も新しい胆沢ダムに変身したのである。
石淵ダムはというと、胆沢ダム完成後、胆沢ダムから上流2キロ地点のダム湖である「奥州湖(写真上)」の湖底で眠っている。あれ?どこかにもありましたね?胆沢ダム管理支所(写真下)の展示室には石淵ダムを紹介する史料コーナーもある(写真下)。係の人に聞いたら数年前の渇水期に湖底から顔を出したことがあるらしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

並川熊次郎の功績を称えて、北上川の分流施設が保存されている

2025年01月14日 | 土木構造物・土木遺産


早く上流に行きたいとは思うのだが、前回の話のついでと言っては何だが、北上川の付け替え、分流事業について触れておきたい。
北上川は、旧北上川の河口から30キロほどのところ、(新)北上川では追波(おっぱ)湾からだと25キロほどの地点で分水(分流)されている(一関遊水地からは約50キロ下流)。石巻市街地を洪水から守る目的で、1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)まで、なんと23年をかけて工事が行われた。
北上川の派川(川の本流が河口に出る前に分かれて海に注ぐ河川)でもあった追波川を利用することで、本川は東の追波湾へと流れを変えた。これまで登場した支川の迫川、江合川は分流地点から下流で旧北上川と合流し、石巻市街を流れ石巻湾に注ぐ。(写真上:追波湾に近い北上川河口と、石巻市街地を流れる旧北上川)



しかし、川の分水(分流)計画となると、前回も少し触れたとおり先輩格の信濃川「大河津分水」の方が有名。比して、北上川の分流事業というのはあまり大きく取り上げられることがないものの(というより当たり前の事実として受け止められている?)、信濃川同様に関係者の労苦も多かったという。
新水路の開削時の地盤との戦い、柳津(現登米市津山)の住民移転のほかに、分流地点に設ける堰についても計画変更の連続。こちらは地盤が軟弱なことから堰の上に堤防を築くことは不可能として、堰の規模を縮小せざるを得なかった。
この堰が北側の鴇波(ときなみ)洗堰(写真上:手前が鴇波洗堰、奥は新設の鴇波水門)、加えて南側の比較的地盤のしっかりしたところに脇谷水門と脇谷閘門(写真下の二枚)を設置することとなった。つまり、旧北上川へは2本の分流口があるということになる。(なお、新しい北上川には9キロほど下流に「飯野川可動堰(現在は「北上大堰」を新設)」を設けて、分流の水位を調節する。)



しかし、分流地点にあるこれらの堰も昭和初期の構造物で老朽化も激しい。平成に入ってから鴇波・脇谷の両水門を巨大な水門1基を新設して分流をカバーする計画が持ち上がった。
ところで、分水時に設計に携わった並川熊次郎(内務省技師)を知っているだろうか?大河津分水は青山士が携わったことで有名だが、並川の名前を聞いたのは私も初めてだった。この並川が鴇波洗堰を活かしながら、脇谷洗堰の設置を計画した人である。
分水開削時における並川熊次郎の偉業を称えるためにも、工事関係者や地元の方々は鴇波・脇谷の両水門、閘門を現状のまま残すことを選択し、それぞれの堰の上流に新たな水門を築いたのであった。
(鴇波・脇谷洗堰、脇谷閘門とともに、両水門の間にある「北上川河川歴史公園(写真下)」には、旧月浜第一水門(写真下の奥の構造物)なども移設展示、見出し写真の2つの洗堰を結ぶ締切堤を含めて、2004年「北上川分流施設群」として土木遺産に登録されている。)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

せっかくなので一関遊水地の中をクルマ走らせました

2025年01月11日 | 土木構造物・土木遺産


「あいぽーと」で北上川の情報を仕入れて、さらに上流に移動する。せっかくなので遊水地の中に縦横無尽に走る道路へ。管理用、農業用の道路だけでなく、ここには立派な県道も走り、生活路線として使用されている。
第三遊水地から柵の瀬橋で北上川を渡り、第一遊水地へ。第二遊水地を含めると面積は1450ヘクタール、総貯水量1億2940万立方メートルで日本では釧路遊水地(北海道)、渡良瀬遊水地(栃木、群馬、埼玉、茨城の4県にまたがる)に次ぐ国内三番目の規模である。
北上川沿いに小堤を築いた上、遊水地の外側に周囲堤がある。普段は農耕地として利用するが、洪水時には遊水地に水をためこみ、一時貯留し周囲堤外側の市街地等への浸水を防ぐととともに下流地域へのへの洪水調整の役割も担う。
(写真上:第一遊水地を走る県道14号、もう一枚は遠くに大林水門を望む。写真下:遊水地のど真ん中を東北新幹線の高架が走る、もう一枚は周囲堤の内側から)



この遊水地は、1947年(昭和22年)のカスリン台風、翌年のアイオン台風がもたらした2年連続の大洪水により、「北上特定地域総合開発計画」の一環として計画されたもの(このご紹介する5大ダム、一関遊水地の前身である「舞川遊水地計画」など)。で、徐々に計画規模を拡大していった。
事業着手は1972年(昭和47年)、昨年3月末の進捗率は87%。計画からは70年が経過しているが、まだ工事が進められている。住民の反対運動や遺跡の保護、たび重なる洪水、地役権補償などを乗り越えて、完成までもう少しというところまできた。
その工事の中には、3か所の遊水地の排水を担う水門三基のほか、周囲堤に陸閘(りっこう:堤防等に作られた水門付の通路)2か所、遊水地に流れ込む支川の改修工事、樋門・橋梁・排水機場などの建設も含まれている。救急内水排水施設、排水ポンプ車も設置され、万全な内水対策(洪水時に樋門を閉めることにより、支川の水を排水するための施設など)も施されている。
(写真下:遊水地の平面図・断面図(国土交通省東北地方整備局のハンドブックから)と、遊水地の水門を紹介するあいぽーとの展示写真)



前回も触れたが、遊水地として一関の地が選ばれたのかというと、下流26キロの宮城県境まで及ぶ狭窄部があること、一関より下流では極端に勾配が緩くなり河川の流下能力が低くなり、流しきれない水が一関・平泉地区にあふれ出すという洪水が起こりやすかった。
狭窄部を切り開くためには硬い岩でできた川岸を大幅に削るというのは難工事。トンネルを掘って太平洋に流すためには40キロのトンネルは必要で工費や時間がかかりすぎるということもあって、5大ダムとともにこの地に広大な遊水地を整備することになった。
なお北上川は下流に分水路があり、追波湾(おっぱわん)に注ぐ新北上川(新川)と石巻市の中心地を経由して石巻湾に注ぐ旧北上川があることはご承知のとおり。こちらは1934年(昭和9年)完成。信濃川の大河津分水よりも少し後輩。
(写真下:周囲堤の高さを実感できる写真と、周囲堤上の管理道路から。右手に遊水地、左に住宅地が見える。)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北上川学習交流館の「あいぽーと」は防災センターでもあった

2025年01月08日 | 土木構造物・土木遺産


さて、いよいよ北上川に行こうと思う。長さ249キロメートル(国内第5位)、流域面積10,150平方キロメートル(国内第4位)、流域人口は139万人、奥州藤原氏の繁栄と平泉文化(世界遺産→「平泉‐浄土思想を基調とする文化的景観」)を生み、森林・水田など豊かな自然に恵まれた東北随一の大河である。
ナイル川やチグリス・ユーフラテス川にも言えるように、産業や文化の形成にも川があるということは重要な要素。川があるところに人が集まり文化が栄えるといってもいい。北上川もそう言えるのだが、やはり日本特有の地形から洪水などの災害も多かった川でもある。
水防という観点ではすでに北上川流域には足を踏み入れている。以前紹介した鳴子ダムは江合川に、長沼ダムは迫川など、それぞれ北上川の支流にあるダムだ。そのほかにも石巻のかわまち交流拠点震災遺構・大川小学校でも北上川に触れている。



見どころ、紹介しどころはたくさんある北上川流域だが、前回紹介した福島の荒川同様、川の歴史などを紹介する施設を探していたところ、中流の岩手県一関市に「北上川学習交流館・あいぽーと」という施設があることを発見!まずは、こちらにお邪魔してみることにする。
場所は、一関駅から東へ2キロほどのところ。北上川支流の磐井川に架かる東大橋の西詰、周辺には体育館やサッカー場、一関遊水地記念緑地公園などの公共施設が集中する場所に、国土交通省(東北地方整備局)所管の立派な外観の建物があいぽーとだ。
その展示室には床一面に流域のマップが描かれていて、それを囲むように沿川で発生した水害の歴史パネルやダムなどの水防施設の写真・説明が並んでいる。図書コーナーや学習スペース、幼児用のお遊び広場なども備えている。



北上川を学ぶ施設としては期待どおりの内容だが、施設の3階には展望室を備えているのが特徴。ここからは一関遊水地が一望できる。手前(北上川下流)の第一遊水地から北上川左岸の第三遊水地、かなた上流に第二遊水地も。(写真下:展望室から遊水地を見る。もう一枚は、大林水門付近の北上川)
この後紹介する北上川流域5大ダム群とともに、北上川遊水地は下流に控える北上川最大の狭窄部があるため、県南地域の守り神として存在する。それを一望できる場所にあいぽーとがあるのだが、実はこの施設は国土交通省の一関防災センターが併設されている。
実際、2008年(平成20年)の岩手・宮城内陸地震では災害対策拠点として、2011年の東日本大震災では全国各地から災害対応・支援のための車両が集結した拠点にもなった。洪水時は2階の集中管理センター災害対策室で情報の一元管理をする拠点にもなるのだ。



それにしても、あいぽーとではパンフレットがたくさん展示されていて、自由にお持ち帰りが可能。「いただいていいんですか?」と受付のお姉さんに一応断って、立派なハンドブックや分厚い写真集なども手にした。これは凄い!(写真下:展示提供するパンフレット類の書棚と持ち帰った資料)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然派のおばちゃんと荒川の水防林・霞堤をデートして

2024年12月27日 | 土木構造物・土木遺産


福島・荒川を訪れる際に予想してはいた。砂防堰堤は数も多いし、なかなか見ようとしても険しい場所にありそうなこと。事前に地図を見ていると、荒川のほとり小富士橋の右岸の橋詰めに「荒川資料室」というのを見つけた(写真上:外観と内観・展示資料)。
荒川の歴史を紹介する施設で、荒川の氾濫時の資料や治水事業を模型で展示、荒川に親しみを持ちかかわりのある人の交流の場となっているという。福島市が設置する資料室。まず、ここを訪ねて情報を入手しようと考えた。(前回の記事と前後しての紹介となる。)
キャンプ場などもある「水林自然林」という公園の入り口に瀟洒(しょうしゃ)な白い建物が荒川資料室。ガラス越しに中をのぞくと誰もいない?だが、扉を開けると初老の女性が奥から出てきて声を掛けてかけてきた。ちょっとびっくり!



國原よし子さん(写真上)は、長いこと資料館の管理をされている。地元の方で、荒川の恩恵を受けながらも、暴れ川の一面も目の当たりにしながら、川とともに暮らしてきた。水害の歴史や堰堤をはじめ水防施設の話を丁寧に説明してくれる。
いろいろ資料・パンフ類も提供してくれた。が、ネットで見た地方整備局(福島河川国道事務所)が作成したパンフレットの話をすると、すでに配布は終了してしまったというものの、奥の方から最後の一部を探し当て惜しげもなく分けてくれた。貴重な荒川土木遺産絵図(写真上)も頂いた。
なんでも上司の方と川を歩きながら堰堤や床固の現場にも足を運んだということで、「クルマで近くまで行けるところ」という自分勝手な条件にも、前回紹介した地蔵原堰堤と東鵜川第一堰堤の場所(道順やクルマの駐車場所まで)を詳しく教えてくれた。



その後、公園内を案内もしてくれた。この公園は水林自然林というだけあって、江戸期から植林されてきた水防林が生い茂っていて、植物や野鳥も多い。その林内にはひっそりと石積みの霞堤も保存されている。何回か積みなおしたものだというが現在も機能しているという(写真下)。
國原さんはあまり草刈りなどを好まない様子。「自然のままがいい」とポツリとつぶやく。私は堰堤(土木構造物)を求めてここに来たため「植物には興味がない」と告げると、少し残念そうな顔をする。超自然派なんだなー。
一時間ほど一緒に歩き回り、帰りに土湯温泉も勧められた。温泉に入る時間はないが、温泉街の堰堤をバックに自撮りした写真を見せると「堰カード(ふくしま荒川・砂防堰堤カード、見出し写真)」がもらえるとの情報も。こりゃ、見透かされていたなと思いながら、お薦めの堰堤を見た後、温泉街の案内所に向かった次第だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

役割の重さ歴史の深さを背負って、福島「荒川」の砂防堰堤群がある

2024年12月25日 | 土木構造物・土木遺産


米沢に通っているときから気にはなっていた。今回紹介するのは、福島の阿武隈川の支流の「荒川」だ。第四世代の「萬世大路」である東北中央自動車道の長大な栗子トンネルを使うと、米沢から1時間弱でたどり着ける場所だ。
荒川というだけあって昔から暴れ川。その流れは2000メートル級の吾妻連峰峰から阿武隈川合流地点までの26キロほど延長で1800メートルの高低差で駆け下ることになる。豊かな大地を育む反面、豪雨の際には土石流や氾濫の被害が多発した川である。
ここには、古くから霞堤や水防林がといった洪水対策が施されてきたが、大正期から砂防堰堤や床固工が設置されており、その基数は支川の須川、塩の川、東鵜川などを含めると数えきれないほど施されている。勾配はかなわないけど、あの常願寺川上流と似ている?
(写真上:荒川の小富士橋から上流・下流の風景)



常願寺川の場合、カルデラ出口に白岩堰堤、扇状地のかなめ部分の岩峅寺付近に狭さく箇所がある(まあ、これも厄介者ではある)が、流れを右に左に変える扇状地の先に富山市があり、海抜の低い大都市に洪水被害をもたらしていた。
一方、荒川の場合は、土湯温泉付近から一直線に県都・福島市に向けて流れていて、結局阿武隈川がその水を飲み込めずに合流地点である福島市周辺にたびたび洪水被害をもたらしていた。(阿武隈川は、福島市下流にも上流にも狭くなる場所多い川なんですよねー。)
ここに大正期に設置された「地蔵原堰堤」のほか、昭和期に入って国の直轄事業となり、荒川本流に9基の堰堤、塩の川・東鵜川の支川に5基、そのほか荒川第四床固が施工され、その後も須川流域を含めて堰堤・床固・階段工・流路工などの工事が現在も進められている。
(写真上2枚:地蔵原堰堤は1925年完成、その後の補修などにより様々な石積み工法が見れる、砂防の父・赤木正雄お墨付き!写真下2枚:東鵜川第一堰堤は温泉街の通りから容易に見ることができる。)



ただ、谷が深く、かなり険しい山中に設置されており、設置工事も大変な苦労があったとは聞くが、中流部の床固工施工か所以外はなかなか見ることがかなわない。クルマ移動だと地蔵原堰堤と土湯温泉街の東鵜川第一堰堤しか拝めなかった。
コロナの影響でこのところ開催されいないというが、年に一度だけ川沿いを伝ってトレッキングツアーなどが開催されていたそうである。こちらもなかなか厳しそうな行程のようであるし、重装備も求められるのではないだろうか?
堰堤ほか近世の治水事業を含め「荒川流域治水・砂防事業」として土木学会選奨の土木遺産に認定。1957年(昭和32年)までに設置された堰堤・床固工15基は、歴史的な景観も寄与しているということで国の登録有形文化財でもある。確かに役割の重さ、歴史の深さを感じさせる福島の守り神である。
(写真下:クマ出没の看板脇にクルマを止めて地蔵原堰堤へは徒歩5分。飯坂温泉が福島の奥座敷なら、土湯・高湯温泉は福島の離れ(写真は温泉街遠景、土湯展望台から撮影))




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒部漁港で見つけた「旋回式可動橋」と「海底地下道」

2024年12月11日 | 土木構造物・土木遺産


黒部市「生地」を訪れようと思ったのは、名水百選の「清水」を巡ろうと思ったわけではなく、ましてや銘酒「幻の瀧」を求めたわけでもない。実は、とっかかりは「可動橋」があると知り、それを調べているうちに生地の魅力に次々に取りつかれていったのだ。
その橋は「生地中橋」という。内陸に掘り込むように作られた黒部漁港の外海との出入口付近に、南北の生地のまちを結ぶように架けられている。
この可動橋、橋の片側(南側)を軸として、橋桁全体が回転する日本で初めての「片持ち旋回式可動橋」で、船が漁港に出入りする際に橋を78度まで回転させるもので、世界的に見ても珍しい方式だという。これが私がこの町に注目するきっかけとなった!
(写真下:中橋の可動時の連続写真)



初代の中橋も昇降式可動橋だったそうだ。この方式では旧筑後川橋梁(現在遊歩道)や愛媛の長浜大橋などがあるが、そのほかにも隅田川の勝鬨橋のような跳開橋(現在可動していない)なども可動橋、さまざまな方式がある中で、片持ち旋回式の可動橋はとにかく貴重!
現在の生地中橋は1982年(昭和57年)生まれ。船が通るときには橋の両端に設置された遮断機が降りて(写真下)、クルマや歩行者は船の通過を待つ。操作は24時間昼夜を問わず橋の南詰にある管理棟で行われている。(写真下:橋の南詰、管理棟の下の路上には、橋げた末端部が半円形で回転する軸になっていることがわかる。)
油圧シリンダー2本で307トンの橋を持ち上げ、2本の旋回シリンダーで回転する構造。建設当時の橋梁土木技術と機械工学技術が結集されたともとされている。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選(水産庁)」にも選定。



とはいっても、うまい具合に橋が旋回する瞬間に出会えるものか?しかし、これまた偶然に、橋の近くまで来たら遮断機が降りた。前回同様、生地のまちで自分には「偶然」が味方してくれる。日に数回しか可動しない日もあるそうだ。(年間では5000回を超える可動数なので実はかなりの働き者。)
橋長38.4メートル、幅が7メートル。30センチほど持ち上がり旋回するところを目の当たりに!しかし、写真上のとおり橋の上はクルマがすれ違うとかなり狭く感じる。黒部漁港には、もう一つ、歩行者用の「海底地下道」がある。車道や線路をアンダーパスでかわすというのはよく聞くが、これまた珍しい。
可動橋から100メートルほど東に行くと、60段の階段を下りて海底10メートルの世界へ続く(写真下)。といっても、先に触れたとおりこれは歩行者の安全のためで、近くの生地小学校へ通う児童の通学路にもなっているそうだ。
生地のまち、最高!黒部漁港、生地の清水、幻の瀧、みんな最高!







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水のエレベーターを体験できる「富岩水上ライン」に乗船

2024年11月25日 | 土木構造物・土木遺産


今回は富岩運河そのものを紹介しよう。前回触れたとおり富岩運河は昭和初期に赤司貫一の計画立案による都市計画の一環として誕生した。一時は海運の利用頻度も下がりヘドロ化するという場面もあったが、現在も工事進行形の「とやま都市MIRAI地区」事業として見事に復活を遂げた。
かつての船溜まりであった環水公園を起点として、岩瀬浜までの延長約5キロの運河だが、両岸には遊歩道や休憩スペースなども完備されジョギング・散歩コースとして利用する市民も多い。ただ観光であれば「富岩水上ライン」に乗船することをお勧めしたい。もちろん私も乗船しました!
クルーズ船は2009年の運航開始、富山県と富山市から委託を受けて「富岩船舶」が運航しており、この夏、総乗船客数が60万人に達した。前回述べたとおり環水公園も見どころが多いが、富岩運河クルーズでは土木遺産や文化財が乗船しながら存分に楽しめる。



私が乗り込んだのは最新鋭の「kansui(かんすい)」。環水公園にふさわしく、とてもスタイリッシュな形をしている。全長18メートル、定員55名、後部はオープン席となっており(写真上)、川風?運河風を浴びながらのクルーズが楽しめる。
いくつか運航コースがあるが、私は運河の全容を見るべく終点の岩瀬カナル会館まで行く便に乗船。70分、1700円(復路・路面電車乗車券付き)。これが富岩運河の見どころ満載でクルーズで、乗船するガイドさんがタイムリーに注目ポイントを解説してくれる。最大の見せ場は、乗船したまま「中島閘門(こうもん、写真下)」に突入すること。
以前、東京の扇橋閘門石巻の石井閘門を紹介したことがあるが、富岩運河の中島閘門はクルーズ船がそのまま閘室に入って、上流と下流の水位差を人工的に調整する水のエレベーターを体験できる日本で唯一の閘門クルーズになっている(他に中島閘門の操作室の見学するコースなどもある。)。




中島閘門は、富岩運河開削とともに建設され、1934年(昭和9年)に完成。パナマ運河方式の前後の扉を閉めて水位を調整する方式(複扉室(ふくひしつ)閘門)で、10分少々で水を出し入れできる。昭和の土木構造物としては初めて国の重要文化財に指定されている。
そのほかにも、「むくり護岸(曲面護岸、写真下)」は上部を曲面にすることで材木を転がすようにして積み下ろしできるようにしたもの、こちらも国の重要文化財。年代物のゲルバー橋の「永代橋(1938年完成、写真下)」とともに中島閘門の近くにあって、クルーズ船から至近で見ることができる。年代物のゲルバー橋が真下から見れる!
また、環水公園のクルーズ船のりばの脇には「牛島閘門(登録有形文化財)」が、終点でもある岩瀬地区(終点の岩瀬カナル会館から、岩瀬運河を渡ってすぐ)には「北前船廻船問屋・森家(国重要文化財)」、「馬場家(登録有形文化財)」などをはじめ、岩瀬の古い街並みを散策することも可能である。とても魅力的な富岩水上ライン、環水公園とともにぜひ一度ご堪能いただきたい。桜の時期がいいかも!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富山の都市計画の中で生まれた富岩運河と環水公園

2024年11月23日 | 土木構造物・土木遺産


富山に来た最大の目的は運河、富山市内にある「富岩(ふがん)運河」そのものと、「環水公園」等の関連施設を見に来た。以前、江戸期から機能していた仙台の「貞山運河」に触れたことはあったが、富岩運河は昭和初期になって開削されたもので、その後富山のまちづくりと密接に関係することになった。
富岩運河は、1930年(昭和5年)着工、1935年完成。富山駅北側から神通川に並行して河口近くにある岩瀬(東岩瀬港)までの約5キロの運河だ。この運河の完成により、工業資材や木材などの運搬が容易になり、運河沿岸は工業都市・富山を形成するきっかけとなった。
ただ、単に運河を整備するというだけではなく、都市計画事業として市街地の区画整理、街路、公園整備を一体的に行うというもの。これは内務省技師・赤司貫一(あかし・かんいち)の立案で、当時「日本初の試み」として称賛されるモデル的事業になるのである。(運河の誕生には、神通川の洪水の歴史、馳越(はせこし)線工事や旧神通川(松川)の跡地埋立などが深く関連するのだが、それらは次回以降に!)



しかし、時代の流れによって、物流は船からトラックに変わり、運河も貯木場に利用される程度で通行する船も少なく、水質悪化、悪臭などにより埋立てて道路にする計画が持ち上がったのは昭和50年台(1980年頃)。しかし富山県は、市街地の貴重な水辺として活用を図ると方針を大変換した。
1985年(昭和60)に旧建設省の「新都市拠点整備事業」の一環として、富山市も「とやま都市MIRAI地区」として富山駅北62ヘクタールを再整備することになり、1988年着手。運河の南端にあった船溜まり一帯を「富岩運河環水公園」として整備することとし、20余年の長い年月をかけて憩いの場と水に親しむ環境を作り出した。(富山駅方向は、まだ工事は進んでいるようだが…)
公園のシンボル「天門橋(見出し写真と写真上)」のほか、美術館や野鳥観察舎、野外劇場(写真下)などの公共施設のほか、公園を望める場所にレストラン・カフェなどがある。公園内の「スターバックスコーヒー富山環水公園店(写真下)」は全世界のスタバの中から、最も優れたデザイン店舗にも選ばれている。とにかく富山駅に近い(徒歩でも10分弱)場所に広大な公園があり、素敵な水辺の空間が収まっている。富山の新しいランドマークになっている。



この大事業にもつながった富岩運河と都市計画事業だが、赤司貫一は土木界では有名ではあるものの、市民にはその名があまり認知されていないように思える。常願寺川の砂防工事において功労を称えられているデレーケや赤木正雄との違いは何か?砂防・治水は直接的に災害を防ぐという意味では重要だが、都市計画事業は少しインパクトに弱い?
確かに人命にかかわる問題と生活利便性は比にならないということかもしれないが、羨ましいほどの素敵な公園を持つ富山市であるものの、「シティブランド・ランキング(住みよい街2021・県庁所在地)」で32位(新潟市31位、1位は福岡市)。市民や行政は富岩運河や環水公園の存在、そしてランキングをどのようにとらえているのだろうか?
旧建設省OBで白井芳樹氏という人がいる。長年富山県で都市計画・土木行政にかかわり、富山県土木部長も歴任した方である。この方が富山の都市計画事業や赤司貫一について著書を出版したり講演活動を行っているようであるが、赤司貫一について公園の一角にでも紹介するコーナーを作ってほしいと思うのは私だけ?
(写真下:環水公園から富岩運河へ、次回は「富山水上ライン」に乗船して富岩運河を紹介する。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富山新港にかかる日本海側最大の斜張橋「新湊大橋」へ

2024年11月18日 | 土木構造物・土木遺産


再び富山にやってきた。今回は山ではなく、海沿い。まず目指したのは富山新港、富山県射水市。「新湊」といったほうがピンとくるのだが、ここに架かる日本海側最大の道路橋「新湊大橋」を見に来たのだ。
橋のある富山新港は、かつては放生津(ほうじょうづ)潟という潟湖であったが、富山・高岡を工業都市として発展させるため、いわゆる「伏木富山港」の中核として開削・掘り込み港湾として整備された。1968年開港。伏木富山港として国際拠点港湾に指定されている。(九州を除く日本海側では、新潟港(西港・東港)と伏木富山港だけ。写真下:富山新港入口と新港大橋から富山新港を望む。)
この掘り込み式の港湾の整備よって、かつては道路・鉄道でつながれていた周辺地域は分断されたが、港周辺に企業が進出し、コンテナを扱うターミナルの設置、公園等の観光施設の整備が図られることによって、物流や交流を促進させるために新湊大橋が建設されることになり、10年をかけて2012年に供用開始となった。



臨港道路富山新港東西線は国道415号のバイパス線でもあり、国と県が事業費494億円を負担し建設。東西のアプローチ部分を含むと3600メートル、5径間連続複合斜張橋で主橋梁部600メートル、高さ127メートルの東西主塔から72本のケーブルが張られ、長さ360メートルの主桁(5径間の真ん中)を支える(引っ張る)構造になっている。
大型クルーズ船の航行も可能なように、橋桁から海面までは47メートル。とにかく存在感抜群!日本海側最大の斜張橋ということであるが、高い、大きいだけでなく、美しい!白色を基調としていたり、主塔を「A」型にして、繊細ともいえる美しさを見せてくれる(写真下:斜張ケーブルが伸びる主桁部の道路、西側アプローチはループ式になっている。)
西側の海王丸パークからだと立山連峰をバックに見ることができるし、みなとオアシスやスポーツフィールド(東橋詰の堀岡側)、「新湊きっときと市場」などの周辺施設も整備されていることから、観光客のビューポイントになっている。なお、帆船「海王丸」は商船学校の実習船であったが、伏木富山港振興財団が新港に恒久係留して一般公開している。



新湊大橋は、自動車専用道路(二輪車、原付自転車OK)であるが、実は主桁部は二層構造になっていて、桁下には自転車歩行者用の通路が吊り下げられるような形で設置されている。全面覆われている全天候型の通路は「あいの風プロムナード」の愛称が付けられている(写真下)。
東西の両主塔部の下には駐車場があって気軽にアプローチが可能。主塔近くの橋脚に設置されたエレベーターで桁部まで一気に上がることができるが、主塔・主桁を下から見上げる壮大な景色、上へ行って主桁通路部の窓からは港の全景や海王丸パーク(写真下)、遠くは立山連峰や富山湾から能登半島などを望むパノラマなど、両方堪能できるスポットでもある。ぜひ足を運んでほしい。
橋は最新技術による耐震・耐風構造になっているというが、揺れるんじゃないですかねー?なお、風速25メートル以上、波浪警報などが発令されている時は通行止めにあるというので、事前に情報を確認すること!
(新湊大橋は、2012年度「土木学会田中賞(作品部門)」を受賞。田中賞は、永代橋・清洲橋などの名橋の生みの親、かの田中豊に因んだ橋梁・鋼構造工学界の功績を称える賞。今回の記事も土木の日(11月18日)に因んだ話題でした!)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東洋のアルカディアを潤す「水窪ダム」と国営米沢平野農業水利事業

2024年10月10日 | 土木構造物・土木遺産



前川ダムを紹介したついでと言っては何だが、米沢市の「水窪ダム(写真上)」にも触れておきたい。最上川水系刈安川にあるロックフィルダムで、農林水産省東北農政局が建設したかんがい用のダムで、米沢平野土地改良区が受託管理しているダムだ。
堤高52メートル、堤頂長205メートルで、主に農業用水を確保するための目的であるが、上水道や工業用水にも供給されており、まさに米沢市を含めた周辺地域の水ガメ。1975年に完成した後、管理用発電の機能も加えられた多目的ダムである。
前川ダムを紹介するときに少し触れたが、山形市・米沢市を含むの山形県の内陸盆地にはため池が多い。これは盆地特有の山が浅く、そこに流れ込む川は延長が短く急流、古くから洪水や渇水に悩まされたが、水窪ダムにより米沢盆地の水不足を一気に解消を図るというもの。ただ、今回の見どころはダムだけではない。



以前、米沢地域は、土地は荒廃しやせていたため、なかなか作物が育つ場所ではなかった。特に渇水期には川には水が流れなくなることもしばしばで、農業を営むには難しい土地とされていた。そこに現れたのが上杉家9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん、写真上:米沢市内松が岬公園の鷹山公銅像)である。江戸中期のことである。
鷹山というと質素倹約のイメージだが、現代にも受け継がれる米沢の特産品の礎ともなった殖産事業を奨励した。それに伴い新田開発、加えてかんがい施設(黒井堰、飯豊の穴堰などは有名)の整備も積極的に推進し、次第に農地も拡大、藩の財政は好転、米沢の町も潤ってきたのである。
鷹山が藩主に就いてから100年ほど後の1878年(明治11年)、「日本奥地紀行」で米沢を訪れたイザベラ・バードは、米沢盆地を見て「東洋のアルカディア(桃源郷)」と表現するほどに。その時代の日本に対して辛口の評価が多かったバードの旅行記であるが、それほどまでに米沢は発展したのである(写真上:川西町フレンドリープラザの庭にあるイザベラ・バード訪問の記念碑と記念塔)。



ただ、水は足りない。大正期には電気ポンプで地下水や最上川(松川)などから用水を汲み上げるとともに、明治期から昭和初期までにため池も数多く造成されていった。それでも足りずに、1958年(昭和33年)、この地方は大干ばつに見舞われる。
農業用水確保のためのダム建設が求められ続けてきたが、1970年(昭和45年)国営米沢平野土地改良事業が起工し、水窪ダムの建設を核に盆地を縦断するように東西幹線用水路の整備、頭首工や揚水機場などが整備され、現在、米沢を真のアルカディアに仕上げたといえる。(写真上:黒井堰は土地改良事業より改修された(米沢市窪田)。もう一方の写真は、市内西側を流れる西幹線用水路の開渠部(米沢市笹野町付近))
この整備を機に、周辺の17の土地改良区・連合が合併。新たに設立された米沢平野土地改良区は、2002年(平成14年)農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)受賞。江戸期には藩主だけでなく家臣や領民が、現代も行政や土地改良区の関係者、そして受益者が心をひとつにしながら、2世紀をかけて「豊穣の土地」を作り上げたのだ。



※ダムカード(写真上)は、米沢市内、米沢市役所に隣接する「米沢平野土地改良区(写真下:米沢市金池)」の事務所受付で配布している。子ども向け(?)のパンフレット(写真上)も一緒にもらった。とても分かりやすい!
※水窪ダムは、洪水調整機能は持ち合わせていない。圏内で洪水調整をするダムは、最上川水系の鬼面川(おものがわ)支川の綱木川にある山形県営の綱木(つなき)川ダム(不特定利水、上水道、発電機能も持つ多目的ダム、写真下:米沢市簗沢)がある。
※黒井堰は、計画を立案し工事の責任者となった米沢藩の家臣・黒井半四郎忠寄(くろい・はんしろうただより)にちなむもの。黒井は「飯豊の穴堰」も計画立案したが、完成を見ないまま死去する。53歳の生涯だった。和算術に優れ、それが測量にも活かされた。
※静岡県にも「水窪ダム」があるが、こちらは「みさくぼ」と読む発電専用ダム。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河道外貯留方式の「前川ダム」発見!石橋めぐりの思わぬ釣果

2024年10月07日 | 土木構造物・土木遺産


最上川水系の須川の支川・前川で石橋を探していると、とても珍しいダムがあることに気が付いた。「前川ダム」は、山形県営のダムで、洪水調整を目的に建設されたロックフィル式のダムだ。1983年(昭和58年)完成。堤高50メートル、堤頂長265.5メートル、総貯水容量440万立方メートル。
まあ諸元だけみると普通規模のダムであるが、同じ前川から新たに河道を作り、同じ支川の小河川にダムを建設し水を貯留。ダムからの放流水をまた前川に戻すという「河道外貯留方式」という全国的に見ても珍しい方式を用いるダムなのである。
上山市や下流の山形市や山辺町などの前川・須川沿川は洪水被害が多い場所であったが、前川沿いにはダム建設の適地がなかったため、このような方式となったそうだ。ダム貯水池(忠川湖→山形県パンフレットに記載、写真下)へは約2.9キロ導水路で水を引き込み洪水調整を行うというものだ。(ダム建設前に、農業用水確保のためのため池があったことから、忠川湖にも常に水を貯留し不特定利水の目的も担っている。)



分水口は、前回紹介した石橋・吉田橋の下流300メートルほどのところ(南陽市小岩沢、写真下一枚目:右のトンネルがダム貯水池への導水路。)。この分水口を探すのに苦労したが、必ず建設時や現在も管理用として道路はあるはずだと踏んで、またまた山道にハイエースを乗り入れる。ダムを経て再び前川と合流するのは、やはり石橋・堅磐(かきわ)橋のある場所(上山市川口)である(写真下の二枚目:右に堅磐橋のある本流、左のコンクリート護岸部から流れ込んでいるのがダムからの放流水。)
導水路は5本のトンネルと開渠で構成、トンネル部は直径約8メートル。高水流量135立方メートル/秒中、分水口へは110立方メートルを導水路に導き、ダム流域から忠川湖に流れ込む30立方メートルと合わせ全量カット方式で防災に寄与することができる。
ダム本体へは、国道13号線上山バイパスの川口交差点から奥羽線のガードをくぐって5分ほど。道は狭く急坂か所もあるが、道路状況は良好。ダム貯水池はヘラブナの釣り場として愛好者に親しまれているが、釣り人は全国的に珍しいダムであることを知っているだろうか?まあ、私にとっては石橋めぐりの思わぬ釣果ではある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土木遺産・山形の石橋群6橋を見て思い巡らす

2024年10月05日 | 土木構造物・土木遺産


山形・置賜地方を散策してみた。山形県米沢や庄内、福島の会津などは新潟の自宅からも比較的アクセスも良く、クルマで片道2時間の範囲。これらの地域には何度となく足を運んでいるが、今回は明治期に作られた石橋(石で建造された橋)を探しに行く。
以前、架橋された年代は新しいものとはいえ、木の橋アーチ橋「八幡橋」を紹介した。橋とすれば木の橋は原点ということになるのだろうが、より強固なものとして石橋は江戸期から明治・大正期にかけて作られたものが土木遺産として注目を集めている。
最も多いのは九州の大分県。そのほかにも福島や今回紹介する山形では修復されながらも、保存状態も良く、かつ集中していることから、いずれも土木遺産に選奨されている。大分県の石橋は、江戸期のものもあって個別に選奨されているもののほか、緒方川のアーチ橋5か所は「石橋群」として選定されている。(写真上:中山橋2枚・上山市)



福島もそうだが山形のものもやはり九州から技術者を招へいするなどして施工されたものとのことだが、山形の場合は狭い地域に集中しているのが特徴で、特に上山市(置賜地方ではないが)、南陽市の同じ最上川の支流・須川水系に6橋が集中しているのは特筆すべきことだと思う。
須川の支川・前川には上流から南陽市に蛇ケ橋(別名・小巖橋)、その200メートル下流に吉田橋、上山市に入って中山橋、堅磐橋、須川支川の金山川に新橋、200メートルほど下流に覗橋といった具合だ。半径3キロ以内に6か所、場所を探すのを含めても2時間もあればゆっくりと回ることができる。
写真を見てわかるとおり、巧妙に弧を描いたアーチ部やきれいに積まれた取り付け(橋台部)に至るまで見どころも多い。中には石を切り抜て飾り模様が施されていたり、親柱や銘板なども実に味がある。ただ、かなり傷んでいる部分も多く、保存のための保守などは欠かせないといったところか。(写真上:蛇ケ橋(小巖橋)2枚・南陽市)



大分・九州には石橋が多く保存されているおり古いものも多くかなり広範囲に及ぶことからルーツと言っていい。福島では9か所が2022年に土木遺産。山形の場合も北は村山市から南の米沢市まで11か所が2009年に土木遺産に選奨されているが、今回の6橋は特に隣接しており、いずれも1878年(明治11年)から1882年(明治15年)と施工年も近い。
上山の楢下宿にある新橋と覗橋は羽州街道が幹線街道としての重要性があったことに起因するだろうし、前川に架かる4橋は栗子峠経由の新道開削(のちの萬世大路(ばんせいたいろ))の計画とともに建造されたのではないだろうか?いずれにしても初代山形県令の三島通庸(みしま・みちつね)が関わったとされる。
この三島通庸は薩摩の出身。山形県令に就くと反対派を押しのける謂わば強引な手法で土木事業を推進たことで有名だが、不毛の地とされた米沢をはじめ置賜地方にとって三島の手腕は、現在の都市形成や産業基盤づくり、山形県全体の流通において、後に大きな功労を与えたもので、今回紹介できなかった石橋を含め、大きな証として保存されているのである。(写真上:吉田橋・南陽市と堅磐橋・上山市、写真下:新橋と覗橋・いずれも上山市)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台形CSGダムとしては国内最大の「成瀬ダム」の現場見学で

2024年09月30日 | 土木構造物・土木遺産


念願の「成瀬ダム」の建設現場を視察する機会をいただいた。秋田県の雄物川水系成瀬川の上流に1983年(昭和58年)から秋田県によって実施計画調査を開始し、1997年(平成9年)建設着手、ダム本体工事を2018年着手し、いよいよ2027年に完成を目指す国交省直轄の多目的ダムだ。
このダムは日本生まれの新しい技術であるCSGダムというもの。CSGは、「Cemented Sand and Gravel(石や砂れきとセメントを混合する材料)」のことで、現地で発生した材料を使用し、CSGを断面が台形に積み上げた成瀬ダムは「台形CSGダム」と呼ばれるものである。
日本でもまだ数少ない型式のダムであるが、現在建設中のものを含めても成瀬ダムの規模は群を抜いている。堤高114.5メートル、堤頂長755メートル、総貯水量7850万立方メートル。完成すればCSGダムでは国内最大級、他の形式のダムを含めても東北地方でも屈指の規模ともいえるのではないだろうか?(堤高では長井ダム(山形県)ほか、堤頂長では森吉山ダム(秋田県)、有効貯水量では玉川ダム(秋田県)ほかが上回ってはいるが…)



このダムの特徴とすれば、現地の材料を使用することで環境負荷の低減が図れること。台形という形状は構造上必要強度を小さい上に強度を保てるため永久構造物としての品質(安全性)を確保できること。工期が短くコストが低減できることなどが挙げられている(鹿島建設の見学テラスの資料などから抜粋。建設費用は約2600億円、先に紹介した八ツ場ダムの半分以下だ。)。
さらに目を見張るのは、鹿島建設が開発した建設機械の自動化建設生産システム「A4CSEL(クワッドアクセル)」など、最新鋭のICTを駆使した施工技術が採用されている。特に少人数のオペレーターが複数台の重機を操作するなど、生産性や安全性を飛躍的に高めている。
すでに堤体の工事も最終盤で、堤頂部の洪水吐のゲート工事に差し掛かっていることから、残念ながら無人のブルドーザーが動くシーンは見られなかったが、重機を遠隔操作をしていた鹿島建設「KAJIMA DX LABO(写真下)」は、見学者に説明をするスペースとして開放されている(実際、オペレーションをした部屋は見学不可でした。)。



今回の見学には、「鹿島・前田・竹中土木特定建設工事共同企業体・成瀬ダム堤体打設JV工事事務所・KAJIMA DX LABO」のコンシェルジュ・鈴木さんが現場を案内してくれた。成瀬ダムでは、見学者を積極的受け入れてくれるほか、前述のテラスからの見学や現場内へのクルマでの先導のほか、KAJIMA DX LABOでは大型スクリーンやVR・タブレットを使いながら専属のコンシェルジュが案内・説明してくれる。
その鈴木さん、契約社員とのことであったが、東成瀬村の出身でUターンでこの仕事に就いたそうである。余計なことではあったが、「ダム建設によって、村も潤いましたね?」との言葉にそっと頷いてくれた。ダム現場から10数キロを下流の場所には現場事務所が「町」を形成していた(写真下)。村の人口より工事関係者が多いのではないかと思わせるくらいだ。(東成瀬村の人口は2,363人=東成瀬村役場、工事関係者はJVと協力会社を含めて約600人(2022年10月時点))
何回となく鈴木さんとはメールのやり取りをさせていただき丁寧に対応いただいたが、なにせ2名以上での見学でないとダメだというのでこの点は苦労した。遠い秋田の山間部、往復600キロ、しかも平日、ダムの工事現場しかない場所であるから、人を誘うにも気が引けてしまう。



新潟からだとクルマで5時間、非常にアクセスは悪いし、ルートの選択も難しい。東成瀬村に入っても30分以上の山道を行かなければならない。今回はハイエース小僧の大学生・ハヤタに「運転をさせてやるから。稲庭うどんをご馳走するから」と就活中にもかかわらず頼み込み、日帰り強行に踏み切った。
もちろんダムには興味はなさそうだったが、女性の鈴木さんがダム現場で働く姿を見て、見学後、現場を走り回ったハイエースを高圧洗浄機で洗ってくれている姿を見て、何かを感じてくれたらとも思った(かなり本題からは外れてしまったが、遠くまで来て感動的なシーンも多かったはず…)。
ダムは水を貯めて人々を守り、下流に住む人の生活を潤し、田畑を潤す。ダムは村の経済も潤す。そして見学者の我々に感動を与えてくれて心を潤す。台形CSGダムの特性から、この地でなければならなかったこともあるだろうが、重厚な周辺施設整備を伴った八ツ場ダムとは一味違ったダムのあるべき姿を見たような気がする。



ところで、この成瀬ダム、「念願の」と最初に強調したことに触れておきたい。成瀬ダムについては、3年ほど前の「ICTセミナー」で講演を聞いたことがきっかけとなる。自分は技術者ではないが、「成瀬ダム」の話があるということで、お手伝いとして参加した。(CSGダムについては<リンク>で詳しく解説してある。)
とにかく、最先端のICT技術が駆使されているDX LABOの話を聞いて、「絶対に行かなくてはならない!」と思った。が、時はコロナの渦中にあり、新しいプロジェクトのお手伝いをすることになって、なかなか行く機会を見出せなかった。こんなに工事が進んでしまっているとは。
あれ!セミナーの時に講演をされて、その後の懇親会で「見学させて!」と頼んだ三浦悟さん?鹿島建設の技術研究所のプリンシパル・リサーチャー?自動化施工推進室長?DX LABOに写真とコメントを発見(写真下)。そんな偉い人に気安くお声がけして申し訳ありませんでした。これまた感動で涙が出るほど潤いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする