行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

県外からの移住者によって「KITAMAE」に運び込まれた

2022年08月30日 | 旅行記・まち歩き


このところ職場の女性陣と近場のショップやカフェなどを巡る機会が増えている。なんかプラプラしているみたいだけど、列記としたこれも仕事の一環だ。
気になる店構え、ちょっと変な品揃え、あまり見たことのない映えるスイーツなど、あまりジャンルは問わないのであるが、「面白い!」を探して当てのないプチ旅行でもある。
そんな中で、新潟市にある「KITAMAE(きたまえ)」に立ち寄ることができた。新潟産にこだわったショップで、私たち新潟県民になじみのある土産品のほか、その地域に住む地元の人じゃないとなかなか分からないレアな品まで取り揃えるという、地域色を前面に打ち出した店だ。



KITAMAEは新潟市街地にある「DEKKY(デッキー)401」という複合商業施設。スーパーマーケットや映画館、フードコートなどがあり、新潟の方なら「トイザらス」があるのでご存じ方も多いだろう。
その施設の2階にKITAMAEはテナントとして入る。2階の半分は屋上駐車場になっており、クルマを停めて2階からの入り口から昼とすぐの場所なので、好立地かもしれない。
この店は「新潟直販計画」というこれまでサイトで販売していたものが、昨年9月、初めて実店舗を設けたということで話題になっていたそうだが、私は知らなかった。多分、それまでにもデッキーには出入りしていたはずなのに。



お土産品にはお菓子、海産物、お米、生鮮品などの食料品あり、お酒あり、燕・三条の金属製品や雑貨・アクセサリーなど、新潟自慢の品々が並んでいるが、中には聞いたことのない地域限定の銘柄もある。
上越市の「笹団子パン」、十日町市の「焼きかりんとう」、糸魚川市の「ノムリン(贅沢たまごプリン=パウチタイプの飲むプリン?)」など、まあ私の住んでるところからはかなりの距離がある町なので、知らないことも多いんだな!
何と、私が佐渡から自慢げに買って帰る土産品なども豊富に取り揃えているので、ここに来ると佐渡に行ってきたというプレミア感は全く否定されることになってしまう。



店内はイートインのスペースもしっかり確保されている。新潟米を使ったおにぎりや食材を使った総菜・弁当、また長岡市の「ガンジー牛乳」を使用したアイスなどを提供するカフェスペースもあった。
とにかく普通の土産品だけでなく、新潟を知り尽くし、アンテナを磨いて地域に入ったバイヤーが、お気に入りの品や地域に愛され続けている品を厳選して取り寄せているに違いない。
実はこの新潟直販計画(以前は「直送計画」)は、「クーネルワーク」という会社が運営するが、設立僅か10年の会社(2016年、直送計画とクフー(web制作会社)が合併)で、県外出身のフリーランスが始めたそうだ。県外からの移住者だからその魅力に気づき、発信しようと考えたのだろうな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥州の難関一の宮、二度目の訪問で御朱印をゲット!

2022年08月28日 | 旅行記・まち歩き
既に先月の話になるのだが、仙台に出張した帰り道、仙台の会議で一緒になった盟友会社の社長である後輩であり親分でもある友人が、福島に用事があるというので、まあ郡山経由で新潟に戻ればいいと思いアテンドを買って出た。
この時、二人の共通の忘れ物を思い出した。以前、二人で会津・磐城の神社巡りをしたとき、それまで順調に御朱印をもらうことができていたが、4社を巡るうちどうしても宮司が不在の神社があったことを思い出し、このついでに再訪することを思い立った。
全国一の宮めぐりは平成30年から初めて、集めた御朱印は旧国(越後とか、岩代・磐城とか)一の宮のまだ半分にも満たない(「全国一の宮巡拝会」加盟102社)。親分との地方めぐりも度々あるが、やはりコロナの影響もあってこのところ進んでいない状況だ。



一度空振りに終わっている神社は、福島県の棚倉まちにある「馬場都々古別神社(ばば・つつこわけじんじゃ)=都都古和氣神社ともいう)」。陸奥の国にが4社の一の宮を称する神社があって、とりわけ磐城には近場に3つの神社が固まっており、分祀されてものがそれぞれ一の宮を名乗っているともいわれる。
神社に続く階段の前の鳥居を見上げ「そうだ、ここだ!」と2年前のことを思い出す。うっそうとした林の中にあって、神秘的な雰囲気はあるのだが境内はあまり整備が行き届いていない、というより社殿に手書きの説明書きなどが雑然とした感じを抱かせる。この日も社務所には人はいない。
以前お邪魔したときも同じたたずまいだったが、今回は予め電話で宮司の在宅を確認しているので、階段の登り口にある宮司の自宅なる場所を訪ねることになっているので大丈夫!



前日、親分が神社に電話を入れてくれたが、この時が大変。会議が始まろうとしているのに、30分以上も会議室前の廊下で話し込んでいる。ただ単にアポを入れるだけなのに、なかなかの長電話になってしまった。焦る親分。
そういえば、以前訪問したときに、ネットでチェックしたことがあったが、なかなか話好きなのかユニークなのか長時間の滞在を覚悟しなければならないとの書き込みがあったことを思い出した。そんな話をしていると、ちょっと恐る恐るの訪問となった。
コロナの感染を恐れているのか、ドアノブを触らないでと注文を付けたり、玄関から半分だけ身を乗り出したりして、お盆を差し出す宮司。御朱印を押すページを開いて、お盆の上に置くように言われた。



5分ほどして無事御朱印をいただくことができた。が、やはりそれからの話が長かった。「あと1分だけ、話をして大丈夫ですか?」と言われ、1分くらいなら断る理由もなく話を聞くことになるが、5分経過し、10分は経過したという感じか。
親分と二人で玄関前に直立不動。やぶ蚊があちこちにまとわりついて、これがまた大変。それでも前日の電話からすれば10分程度で済んだのだから、電話してくれた親分の功労ともいえる。
この一の宮めぐりの中で、最大の難関は富山・立山にある「雄山神社」の峰本社(標高3003メートル)といわれるが、精神的に忍耐も必要な馬場都々古別神社もかなりの難関であるようだ。とても緊張した一日だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小千谷は、県内随一のラーメン激戦区では?

2022年08月26日 | 食(グルメ・地酒・名物)
久々にラーメンの記事の投稿。といっても、上越・中越を行き来する中で、鯖石川ダムや妙見堰などに通ったついでに立ち寄った、小千谷のラーメン屋の紹介。
以前、小千谷の「ヒグマ」という県内でも人気のラーメン屋を紹介した。生姜醤油スープのパンチの効いた味と紹介した。長岡ラーメンは、ここが原点じゃないかと思うくらい。
しかし、いろいろ調べてみると、小千谷市内には魅力的なラーメン屋が多い。燕・三条、五泉などに匹敵する?人口規模や市域からいうと小千谷は県内随一のラーメン激戦区ではないかとの感じがしてきた。蕎麦だけでない、小千谷のお勧め名店を紹介する。



まず、「麺や ようか」。関越自動車道・小千谷インターからも近く、大型ショッピングセンター進出により賑わいを見せる国道117号沿いに、しゃれた造りの店が構えているのですぐに確認できるはず。
看板メニューは「塩そば」らしい。券売機の上には、ズラリとラーメンのラインナップ。塩のほかに味噌、醤油、煮干し中華、つけそば、もりそば、トッピングと実に種類が多い。「鶏白湯」というのも気になるが、ここは「特製塩そば」をチョイス。
チャーシュー二枚のほかに、鶏チャーシュー、鶏肉だんご、ワンタンなどもどんぶりに泳ぎ回っている、いわば全部乗せ。塩ラーメンなら細麺(太麺も選べる)、スープにぴったりフィット。パンチの効いた小千谷のラーメンの中では、あっさりで真っ向勝負をする店だと感じた。



こちらはヒグマと並んで小千谷の人気店だけに収まらず、遠方からも集客をしている「手打ちラーメン 勝龍」。濃厚味噌ラーメンは、県内でもこってりラーメンの横綱・大関級の評価を得ている店だ。
もちろん「味噌ラーメン」を注文。ドンブリの上には麺が隠れるほどのたっぷりの野菜、さらにひき肉がドーンと土砂崩れをしたように乗せられている。見るからに濃厚なとんこつ系の味噌スープは、がっつり系のお客は見ただけで嬉しくなるはずだ。
コの字型のカウンター(テーブル席もあり、だが席は店員が指定するので選べない)の中心に、これまたがっつり系の明らかに店長なるひとが大きな声で客に話しかける。これまた名物店長らしい。店員の動きも小気味よく、バレバレとした気持ちになる店だった。



「手打ち麺処 暁天(ぎょうてん)」は、市街のはずれ、長岡方面から入ると国道17号小千谷バイパスから117号で市街地に入る三仏生(さぶしょう)交差点に位置する。明るい色調の建物で、まだ新しい感がする。
広々とした店内は、テーブル5、6卓で、あとは島型のカウンター席で20人位は座れる。厨房と客席の間のカウンターには冷水器があってホール係の店員がしがみつく。厨房から声がかかるとできたラーメンをこちらもテキパキと運ぶのは好印象だ。
「つけ麺」が人気とのことであるが、なかなかのボリュームがある上に大盛無料という悪魔のようなささやき。SNSで「冷やし中華」の評価も高く、暑い日だったのでそれを注文。ついつい大盛に!食べきることはできたものの、満足感100%、おなかの中は120%だった。



最後に登場するのは「ラーメンつり吉小千谷店」。小千谷の隣の旧川口町に本店がある。小千谷店は「錦鯉の里」の向かいにある小千谷市総合産業会館・サンプラザの1階にあるが、昼時はその通路では行列が絶えない店だ。食券を買ってから通路で順番を待つシステムだ。
ここでは「つり吉ブラック」といわれる濃厚な醤油味が定番。醤油生姜の長岡ラーメンの原点と思えるのが「ヒグマ」の醤油ラーメンなら、こちらはヒグマより粗削りながら元祖と思わせる節もある。ここが本流で、長岡ラーメンとして磨きがかけられたという感じだ。
噂どおりの濃厚醤油で、ネギトッピングは正解。魚介系のスープも全部飲み干したいところだったが、そこは申し訳ないが思いとどまる。なにせ四半世紀継ぎ足された醤油ダレ(川口本店)は、震災を乗り越えた貴重な逸品だから、よく味わないと!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖絶壁の親不知・子不知に、土木遺産の廃線隧道が

2022年08月25日 | 土木構造物・土木遺産


糸魚川と言えば、糸魚川静岡構造線上に位置し、砂金にも触れた通り市域全域が「ユネスコ世界ジオパーク」に指定されている町。ヒスイの里としても有名。そして「親不知」という、海に張り出した断崖絶壁は北アルプスの北端に位置するものとされ、日本海に山がせり出した場所は景勝地としても知られる。
この親不知は、正式には「親不知・子不知(おやしらず・子不知)」と言われ、その昔は断崖絶壁の下の小さな砂浜を波の合間を縫って人々が往来する危険な場所。親は子を、子は親を顧みることができないほどの難所であることから付けられたという。
この場所に道路(現在の国道8号)建設されたのは1883年。鉄道はというと少し遅れて1912年に北陸本線(現・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)開通した。鉄道もすでに開通して100年以上経過。災害防止のためにその後、新しいルートに変更されている。



そこにあったのが土木遺産である「親不知隧道(旧・親不知トンネル)」。親不知子不知でも最大の難所「天険(てんけん)親不知」の断崖絶壁を貫通させたもので、イギリスの工法を習ってでレンガを使用したトンネルは土木学会選書土木遺産に認定されている。
とにかくレンガの状態が良いとされているが、そのレンガは地元で製造され、急峻な崖下まで船で運び、また崖の中腹まで運ぶという先人の努力、そして硬い岩盤を手掘りで完成させという功労が暗いトンネルと危険な場所に光明となり、地元の発展に大きく貢献したところが大きい。
1965年(昭和40年)に複線化により新線が設けられたことにより廃線。合併後の糸魚川市や国土交通省により、「親不知コミュニティロード」が整備されたのをきっかけに、旧トンネルも遊歩道として周遊コースに組み込まれた。(コミュニティロードも土木遺産、日本の道百選。)



ただ、旧トンネルにたどり着くには、親不知子不知(ちょっとオーバー)の遊歩道を下って行かなければならない。海岸線に向けて急降下。体力に自信のない自分は、カメラを抱えながら期待半分、帰り道の登りを想像すると不安半分で歩き出す。
やがて朽ちた鉄橋が見えてきて、それを挟んでトンネル入口にたどり着く。10分ほど歩いただろうか?トンネル内もきれいに整備保存されている様子がうかがえる。遊歩道となっている久親知らずトンネル入口には、土木遺産のエンブレムが誇らしげに飾られている。
さらに、海岸までの急な階段もあったが、それも帰り道を考えると下までは行けない。トンネル長さは667メートル。暗いのも怖いし、帰りも遠くなる。仕方なくクルマを止めた駐車場まで来た急坂を上って戻ることにする。なかなか厳しい場所にある土木遺産だからこそ、価値があるのかもしれない。
(記事と写真の掲載順が一致していないが、国道8号・駐車場から旧トンネルへ、そしてさらに親不知海岸を眼下に確認するという行程に沿って上から写真を掲載した。悪しからず!)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糸魚川駅に併設されている「ジオパル」の紹介

2022年08月22日 | 鉄道
富山からの帰りは糸魚川に宿泊と以前記したが、糸魚川に立ち寄った際にはぜひとも行ってみたい場所があった。ズバリ、それは糸魚川駅。
2015年に北陸新幹線が開業し、首都圏との行き来も利便性が向上し、観光客の入込みも期待されたが、コロナ禍もあって期待通りの成果は出ていないような気がするが一体どうなのだろう?
新幹線・大糸線の糸魚川駅はJR西日本の有人駅の中で最東端。日本海ひすいライン(旧北陸本線)は、並行在来線として三セク「えちごトキめき鉄道」が運営。駅自体もトキ鉄の管轄の駅である。



ここに何があるかというと、糸魚川ジオステーション「ジオパル」。北陸新幹線開業とともに、観光案内施設と鉄道関連資料展示室みたいな立ち位置で、同駅新幹線の南口「アルプス口」の1階に設置された。
中に入ると長年大糸線で活躍したキハ52がドーンと静態保存されている。今は懐かしいとしか言えない「トワイライトエクスプレス」の原寸大の再現模型、入口にも会社線で活躍した蒸気機関車としては日本最後のものとされる「くろひめ号(本物)」も展示されていた。



ただ、これらの鉄道資料はここで出会えたのはラッキーだが、注目していたものはこの施設の名前の由来でもある「ジオラマ」である。(「ジオ」はジオパークとジオラマが由来。公募による決定。)
鉄道模型はNゲージ、HOゲージにジオラマ一セットずつということになるが、何路線も並行して走っていて、列車のシュルも実に多い。ジオラマが糸魚川駅や街並み・風景を再現しているところも素晴らしい。
しかも、実際の模型運転席の目線にカメラが仕掛けられており、なおかつ実際それを運転制御できる設備が何台もあるのだ。これは子どもたちならずとも、大人もはまっちゃいますぜ!(タカラトミー提供の「プラレール」のジオラマもあり!一番下の写真。)



以前から、有志が作成したジオラマの展示が行われていたと聞いているが、今や単なる鉄道の資料展示室の域を超えている。もちろん地元にこだわった鉄道資料(史料)についても見応え十分!
そんな鉄道好きの人たちに支えられながらまちづくり・まちおこしが行われていれば、きっと訪れた人たちに「トキめき」を与えてくれるだろう。
もちろん、大糸線も応援しないといけないし、鉄道好きよ!糸魚川に集合!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上・中越の県営ダム4つを一気に走破!

2022年08月18日 | 土木構造物・土木遺産
富山から新潟に戻るついでと言っては何だが、どうせなら上中越・頸城地方の県土木部が管理するダムを潰しておこうと思い立ち、糸魚川で一泊。朝早くから4つのダムを目指して行動開始!
糸魚川から上越へ。途中、上越・柿崎に立ち寄るが、また浦川原まで戻り、国道253号で十日町方面に向かうというコース。国道253号は、以前にも湯沢から妙高へ行くときに利用したが、過疎地を走る路線としては交通量も多く、その分整備も行き届き快適なドライブコースだ。
今回訪ねたダムは、それほど大規模なものはないのだが(柿崎川ダムに失礼か?)、県営多目的ダムとして主に洪水調整、利水調整を目的に、各地域の人々が安全に生活できるように設置されたもの。一気に紹介する。



「正善寺ダム(写真上)」は、関川の支流・正善寺川設置されたダム。昭和59年(1984年)完成。高さ47メートルの重力式コンクリ―ダムで、堤体の勾配が普通のものより緩くできている。基礎地盤の関係らしいが、どっしりとして見える。
湖畔の後援も整備されていて、特に下流の集落からダムまで続く道路には5,000本ものアジサイが植栽されているそうで、アジサイロードとも呼ばれ市民の人気も高い。市街地からも比較的に近いことから、ジョギングやロードバイクのコースにもなっている。
上越地方・関川水系では、大きなダムというとこの正善寺ダムと妙高市の「笹ヶ峰ダム(かんがい用水・発電用水、事業主体・農林水産省、管理・関川地区土地改良区)」くらい?現在、県土木部で「儀明川ダム」が建設中だが、これは後々紹介することになると思う。



上越市の柿崎区を流れる柿崎川には立派なロックフィル式の「柿崎川ダム(写真上)」がある。今回紹介する中では最大規模で、堤高54メートル、堤頂長424メートルだから、このダムだけは小規模とは言えまい。立派な洪水吐も正面からまじかに見れる。平成15年(2003年)竣工。
建設時には、泥岩の基礎地盤にスレーキング(風化現象)が確認され、3年間という長い現場実証試験で効果を検証した(資料:上越地域振興局)。その結果、竣工年度には「全建賞(建設技術の発展に寄与した事業に与えられる賞、全日本建設技術協会)」を受賞した。
水道水としては、柿崎川浄水場まで導水管が引かれ、さらに上越市街地や妙高市まで上水道を供給している。なにせ上越地域は豪雪のために、消雪目的の地下水利用が多く地下水不足のため、表流水をいかに有効に利用するかが課題にもなっているのだ。



「城川ダム(写真上)」は十日町市の旧松之山地区にある。城川は渋海川の支流なので、今回紹介する中では唯一信濃川に流れ込む川。ただ、ダムは写真で見ると立派に見えるが、堤高は21メートルとミニサイズ。平成8年(1996年)完成。
県内信濃川水系では五十嵐川より流域面積が広い渋海川だが、ダムは少ない。もしかすると、この城川ダムだけ?ダム自体の流域面積も4平方キロメートル。それほど急峻な山間の川ではないからかもしれないが、建設時にはこちらもスレーキングにより慎重な工事が行われたそうだ。
十日町市域にあるため十日町地域振興局の管理になっているが、現地に管理事務所を設けていないため、ダムカードは十日町市松代支所の農林建設課でも配布している。自治体同士が連携するというのもダム管理では重要なポイントだ。



最後に紹介するのは「鯖石川ダム(写真上)」。柏崎市の高柳地区にあるが、城川ダムから松代支所へ、そして県道12号で分水嶺を超えると、鯖石川ダムのダム湖のお尻の方からアクセスするのが近道になる。松代からクルマで10分ほどの移動距離だ。
昭和48年(1973年)完成、翌年から運用開始というから、今回紹介する中でも最も古いダム。堤高37メートル、堤頂長170メートル。重力式コンクリート式ダムは、早くから高柳・柏崎地域を守り続けてきた。赤いクレストゲートが勲章のように思える。
出水期に備え?ダム湖の水は少ないが、実は柏崎地域にとっては水道水の確保と洪水調整が難しい地域で、以前紹介した川内(こうち)ダムをはじめ上水道やかんがい用の立派なダムがいくつかある。洪水調整等の役目としては、柏崎市街地を守るために、こちらも以前紹介した「鵜川ダム」を建設中。こちらとタッグを組んで柏崎を守れ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妙見堰を見て、災害の記憶を風化させないように!

2022年08月16日 | 土木構造物・土木遺産


話しが常願寺川から信濃川・大河津分水にいっているが、富山・常願寺川から新潟に戻る際に、ちょっと寄り道をして信濃川「妙見堰」に立ち寄ったので紹介しておきたい。(常願寺川の話は、また後日紹介したい。)
妙見堰は信濃川本川が小千谷市から長岡市に入るところに位置する(正確に言うと長岡市妙見町)。この堰の目的は、新潟県第二の都市・長岡の上水道の安定供給のため、右岸の長岡市東部のかんがい用水(福島江用水)に利用するためというほか、河床の安定のためという役目も担う。
1990年の完成。実はこの堰、建設省北陸地方建設局(現・国土交通省北陸地方整備局)とJR東日本(建設計画は、当時の国鉄)の共同事業により建設された。なぜJRが?と私自身も思った。(写真上:妙見堰の全容を下流右岸からと、堰の管理用歩道から上流部の風景。写真下:併設される国道17号(右)と、長岡市水道局妙見浄水場や福島江用水路への取水口)



というのも以前このブログでもご紹介したとおり、JR東日本はこの堰の上流・十日町市や小千谷市に信濃川発電所(千手・小千谷・新小千谷の各発電所)を保有している。巨大調整池を含めて、信濃川の水をもの凄い量を利用して水力発電を行っている(合計最大出力44万9千キロワット)。
堰の目的で「河床の安定」と記載したが、これは発電用の水量逆調整のための機能のことである。発電のために利用された放流水が、下流の河床や流量に影響を与えないように安定化させるということが、実は最大の目的でもある。
また、この堰には国道17号の小千谷バイパスが併設されているため、国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所越路出張所妙見堰管理支所と同整備局長岡国道事務所、そしてJR東日本エネルギー管理センター信濃川発電所の三者が共同管理するという、国土交通省直轄ダムとしては異例の管理体制となっている。



右岸側にある管理事務所には「妙見記念館」が併設されている(土曜・休日は閉館、以前訪れた時は休館日だった。要注意!)。3階の展望室からは、堰全体が眺められるほか、上下流の美しい信濃川の流れを眺望することができる。(写真上)
展示物は信濃川の役割やそこにすむ生物などを紹介したもの。その中に「震える大地の記憶・妙見の崩壊」というパネルが目に留まる。そう、平成16年(2004年)の中越地震の際に親子が乗ったクルマががけ崩れに飲み込まれ、奇跡的に2歳の男の子が救出されたという、あの「妙見」の崩壊現場がこの堰のすぐ上流である。
レスキュー隊が男の子を抱えたときには日本中が感動したが、母親と姉が亡くなったことに落胆もした。以前紹介した、山古志へ向かう唯一の道・国道291号もこの現場の近くにあり、山古志の人々の避難路になった。「妙見」という地名は。我々の災害記憶を風化させないための場所でもある。(写真下:記念館の内部と「妙見の崩壊」のパネル)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良寛と鈴木文臺・長善館が信濃川と越後平野を光らせた

2022年08月14日 | 旅行記・まち歩き
またまた長善館。良寛も長善館の門下生も、大河津分水に深くかかわりを持っていたというのは前回触れたとおりなのだが、良寛(1758-1831年)と高橋竹之介(1842-1909年)ではいささか年代が違い過ぎる。だが、意外なところに接点があった。
長善館の初代館長の鈴木文臺(ぶんたい)は、1796年、燕市(旧吉田町)粟生津の医師の次男として生まれる。幼少のころから父から漢文・漢詩を教えられ素読していていたという。とにかく勉強家で優秀な子どもだったそうだ。
14歳になった時に近くの庄屋・解良(けら)家でさらに勉学に励み、しばらくして指導する立場となり論語などの講義をしていたところ、近隣を回っていた良寛の目に留まったそうだ。良寛58歳、文臺18歳の頃。それ以来良寛との交流も深くなったという。(写真下:長善館史料館と外観と、館内展示の鈴木文臺はじめ歴代の館主・先生を紹介したパネル。)



良寛は、文臺に学問を習得するため東京に行くことを勧め、解良家の経済的な支援も得たことにより上京(この時はまだ文化12年だから上京とはいわない?江戸に行く?)。亀田鵬斎の講義を受けることになるが、その後ほとんどは独学で勉学に励んだそうだ。
22歳で帰省し、いわゆる寺子屋での講義をほうぼうから頼まれ教えるかたわら、たくさんの書物を読み学問の幅を広げるとともに、漢文の翻訳や解説書づくりなどもしていた。
そして1833年、38歳の時に「長善館」を開設。その教育方針は「人の長所を伸ばし、短所を補う」というもの。文臺は門下生の個性を伸ばす教育を実践していたようだ。現代ではなかなかそういう教育は実践されてないように思えるが、理想は一緒なんだよね。(写真下:多くの著名人を輩出したことを紹介するパネル。大河津分水の実現に大きく貢献した人が多い。)



この教育方針だが、「決して多くを望まず、強く説法するのではなく、その生活は質素で、利他の心をもって人々の気持ちに寄り添う」、正に良寛の姿が、鈴木文臺に大きな影響を与えたのではないか?平日のただ一人の入館者(私)に、長善館の受付の女性が熱心に話してくれる。
その精神は、鈴木家3代4人の先生に渡って受け継がれて、「北越治水策」の高橋竹之介をはじめ多くの優秀な門下生を世に輩出した。国会議員が7人も。その中で、大竹貫一、萩野左門、小柳卯三郎などは大河津分水の実現に大きく貢献したほか、新潟県内の治水事業にも力を入れたという。
つまり、良寛にはじまり、交流のあった鈴木文臺が長善館を開設しその長善館の門下生の高橋竹之介や大竹寛一により大河津分水が実現、そして越後平野は一大穀倉地帯となり、新潟県を豊かにした。なぜか、「豊かな流れの信濃は光り~」って歌を思い出す。知らない人の方が多くなっていますかね?(写真下:展示物には、関屋分水や加治川放水路なども記載された高橋竹之介の「北越治水策」が。一番奥には、良寛と鈴木文臺の像もある。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100歳を迎える大河津分水と良寛・長善館とのつながりは?

2022年08月13日 | 旅行記・まち歩き


大河津分水が通水100周年を迎える。通水記念日が8月25日ということで、それを間近にして大河津資料館を訪ねてみた。
館内でも100周年の記念イベントがいろいろと紹介されている。何かネタになりそうなイベント、あらたな発見につながりそうなイベントを探すが、その中で気になったのが「6館リレー展」。6つの資料館・博物館で大河津分水に関する企画展を開催するというものだ。
ただ、その中で気になるのが「分水良寛史料館」と「長善館史料館」。良寛は名前はしているものの、大河津分水とどんな接点があるのか?長善館は名前すら聞いたことがなかった。あまり期待をしないで、スタンプを集めることを目的に向かってみることにした。



分水良寛史料館(写真上)は分水の市街地にひっそりと建つ。お昼時ということなのか、来館者は自分だけ。広い資料室一室に良寛の書などが並べられている。良寛はご承知のとおり新潟・出雲崎出身の僧侶。出家して岡山・円通寺の国仙和尚のもとで修行後、越後に戻り旧分水町(現・燕市)国上寺の五合庵に住み着く。
そう、ここは今では大河津分水を見渡せる場所でもあり、大河津分水開削以前の良寛は、周辺を回りながら人々を親しく交流していたというが、特に毎年のように信濃川の洪水に悩まされる農民に心を寄せいたというのである。 以前「円上寺隧道」について紹介した。
晩年は島崎川の近く(旧和島村、現・長岡市)に住んだこともあり、大河津分水や円上寺隧道の先駆けとなった「須走川間歩(その後、間歩(隧道)の崩落により、あまり機能しなかった)」の完成を、農民とともに喜んだ歌なども残している。



長善館史料館(写真上)は、粟生津(旧吉田町、現・燕市)の集落内のひっそりとした場所にある。ナビとかがないとなかなかたどり着けない場所にある。駐車場からだと、旧館が先に見えてくるので、立派な史料館はさらにその奥に静かにたたずむという感じ。
長善館とは幕末から明治期の私塾。北越の最高私学と言われ、1,000人以上の門下生は勤王の志士、漢学者、医学者、政治家、文人、教育者、実業家など、揺れ動く幕末時代から明治維新などの場面で指導的人物を多数輩出したことから、「越後の松下村塾」と言われた。
その門下生に高橋竹之介がいた。信濃川の横田切れ(洪水、1896年)をきっかけに「北越治水策」を当時の有力政治家山形有朋・松方正義に提出。これがきっかけとなり、信濃川分水の必要性が広く説かれていくことになる。大河津分水の生みの親みたいな人を輩出した私塾なのでした。勉強不足でゴメン!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正真正銘・日本一の落差を誇る称名滝(常願寺川物語③)

2022年08月10日 | 旅行記・まち歩き


今回紹介するのは、常願寺川水系の中でも「国内最大級」というあいまいな表記ではなく、間違いなく日本一のもの。それは「称名(しょうみよう)滝」で、四段の滝で形成され、その落差350メートル(m)というもの。
日本三大名瀑というと日光・華厳の滝、茨城・袋田の滝、熊野・那智の滝ということになるのだが、この中でも落差が一番大きい那智の滝でさえ133mだから、称名滝からすると「比べてもらっちゃ困る」というレベル。
立山の主峰・雄山、最高峰・大汝山(3015m)や弥陀ヶ原、室堂平などのアルペンルートの台地北側の降雪を含む年間6000ミリもの水を集めるといわれる常願寺川支流の称名川にある。



県道6号「富山立山公園線」で常願寺川上流へ、対岸に千寿ケ原を見ながら直進すると、すでに右手の川は称名川。立山有料道路の柱台料金所を過ぎると「国立公園・立山(中部山岳国立公園)に入る。
上流に向かい右手には「悪城の壁」という何とも奇妙な断崖絶壁がそびえ、谷底の道路は空が小さくなって暗くなり、寂しいというより恐怖感さえ感じる場所を走る。
途中、その壁の奥まった場所にある割れ目から、白く噴き出てくるものが見えてくる。滝だ。だたクルマで行けるのはレストハウスのある称名平までで、ここから滝までは1200mの道を歩かなければならない。



道は舗装されており、歩きやすいが上り坂。30分ほどは歩いたろうか、対岸の滝見台やそこへ渡るための橋、その他前に何やら建物が確認できるが、付近は水煙でおおわれている様子だ。
滝のすぐ下の橋を渡り滝見台にとりつくのだが、橋の付近は水しぶきで覆われているため、ここぞとばかりに持参したカメラ用レインコートを装着するが、それが写りこんでうまく撮影できない。
水しぶきが気にしながら見上げると、もの凄い迫力でこれまた怖くなるほど。もちろん滝つぼに落ちる音も地響きを伴うもので、この暑い時期には豪快・爽快と感じる方も多いかもしれない。



実はこの滝は、アルペンルートの台地を削りながら10万年をかけて今の位置にあるとか。10万年前は、以前紹介した本宮堰堤のあたり(富山市小見)にあって、1年間に10センチずつ浸食を続けていったそうだ。
計り知れない水量が火山によって堆積した土を削り取り、悪城の壁のような深い谷をつくりながら水源部に向かって後退していったとのこと。四段の滝も五段に進化中との調査報告も。もの凄い時間をかけるながら地球が生きていることを見てとれる場所でもあるのだ。
なお、称名滝の右手に見える細い滝は「ハンノキ滝」で、落差は500mと実は称名滝よりも高いのだが、年間を通して水が落ちていないことから正式には認められていない。まあ、ここに来て、日本一と隠れ日本一の二つ見れたのだから、ラッキー!
(道はこの滝まで。滝の上流部にも険しい渓谷が形成されているとのこと。なかなか人を寄せ付けない場所とのことである。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常願寺川の橋、建設に携わった人の情熱を感じる(常願寺川物語②)

2022年08月07日 | 土木構造物・土木遺産
さて、常願寺川に話を戻して。最初に本宮堰堤を紹介したが、川と言えばまず一番の土木構造物として思い起こされるのが「橋」であろう。ここにも特筆すべき橋・橋梁がありました。下流から順に紹介する。



橋梁そのものの色があまりにシックなために見にくい上の写真は、千垣橋梁。電車が入っていればすぐにわかるのだが、コロナの影響で鉄道マニアもいささか錆びついているこの頃、電車を待ちきれず急いで撮ったもので勘弁いただきたい。
富山地方鉄道立山線の橋で、先に紹介した本宮堰堤を撮影する際、芳見橋から下流に見ることができる。以前は常願寺川の電源開発のために県営で計画されたルートにあり、いまは立山黒部アルペンルートの観光を支える橋。昭和12年(1937年)に完成の85歳。
全長117メートルの美しい鋼スパンドレルブレーストアーチ橋で、同構造では建造当時、国内最大級のスパンを誇っていた。その功績と美しい風景に溶け込む姿で、平成25年(2013年)に土木学会選奨土木遺産に認定。



こちらは近代的なコンクリートのアーチ橋で「立山大橋」。2000年に開催された冬季富山国体の会場である立山山麓スキー場へのアクセス路線として建設されたもので、アーチ部分の両側橋端部分の連続PC中空床版橋を含めて全長401メートル。高さ50メートル。
完成当時、県道の橋としては長さで国内第一位。アーチ支間でも国内第5位にランクインされていた。先の本宮堰堤を紹介したときに、堰堤の向こうに見えた橋で、千寿ケ原や立山方向を見た時の存在感は圧巻。
アーチを支える基礎部には、大口径斜め深礎基礎を採用、国内では初めてNATM(新オーストリアトンネル工法)となったほか、メラン架設の後、メラン直吊り一括架設工法など、最新技術が駆使されての建設だった(三井住友建設の資料から)。



三つの橋はアルペンルートのベースキャンプでもある千寿ケ原の裏手(といっても、常願寺川の本流)にひっそりとたたずむ「千寿橋」。鋼ブレーストリブ・タイドアーチという構造で(タイ材に見えるのは下床の水路の縦桁であって、タイドアーチではないという説もあるが、私にはよく分からない。独立行政法人土木研究所の資料から)、これまた趣のある色形で、景色になじんでいる。
下床に導水管、上床には当初専用軌道が設けられ(現在は管理占用道路)、ダブルデッキ方式になっている。支流の称名川から下流の小見発電所への導水管布設のため富山県電気局が建設した。昭和7年(1932年)完成。現在は北陸電力が管理している。
こちらも水路用の鋼だタイドアーチとしては国内最大のスパンだというが、水路用の鋼アーチ橋そのものが少ないという土木学会の解説があるものの、それだからこそ価値が高いような気もするのだがいかがだろうか?(常願寺川の治水・砂防と電源開発関連遺産の一つとして、経済産業省の「近代化産業遺産」に登録。)

最近、ダムばっかり追いかけていた感があったので、橋の構造等を書き込んだりすると新鮮な気分になる。やっぱり土木構造物には物語や建設に携わった人の情熱を感じてしまう。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地元に「大雨特別警報」が発令された日

2022年08月05日 | ニュース・うんちく・小ネタ
「大雨特別警報」。気象庁が、10年に一度の大雨になる恐れのある時に発表されるというときに発令されるもので、危険が差し迫っている時ことを知らしめるために平成25年から運用されている。
このところの気象の不安定さで、各地で発令されていたのをニュース七度で耳にすることが多くなっているが、まさか自分の住んでいる地域に発令されるとは思わなんだ!
確かにその日は、前日の朝から雨で、時折強く降ることがあって心配になる場面はあった。それでも降ったりやんだり、日中は40キロほど離れた新潟市に出かけていたので、新潟ではぽつぽつ雨が当たる程度。時折青空ものぞくという天気だったので気にしないでいなかったというのも事実。



同じ地域でも、僅かの距離で降水量や大雨時の被害に違いが出るが、これは「線状降水帯」という雨雲の帯のせいで、筋状に雨雲が同じ場所に流れ込むことによる。これまた最近耳にする言葉だ。「記録的短時間大雨情報」などもここのところよく聞く。
考えてみると、数日前北の青森・秋田で同じような集中豪雨のニュースが流れ、地元が被害が出る寸前には山形の置賜地域に発生。そして新潟下越地域を全線が南下することにより、線状降水帯は折り重なるように南側に発生した。
その後、新潟市なども土砂降りに見舞われたというが、さらに南下し石川・福井、山陰でも線状降水帯が発生。日本海側の北から南に移動しながら甚大な被害を及ぼしたというのが、今回の一連の水害の流れになっている。



地元では、前日の雨は呼び水、夜半過ぎになってから再び雨が降り出し、明け方にかけて強くなった。大雨特別警報が発令されたのも午前4時になってから。この時間帯の雨はかなり酷く、一時各所で道路が冠水、我が家の前も水がかなりの勢いで流れるという場面もあった。
「危険な場所には近づかないで!」と会社からの連絡だが、川は学習材料でライフワークとしている自分からすればそうもいかず、むしろ「川の様子を見に行って!」とも聞こえてしまう。安全を確保しながら市街地を巡回して、町の様子を会社に連絡する。



幸い地元では大きな被害は報告されていないが、数キロしか離れていない荒川沿岸では、山形県まで流域が及ぶこともあって甚大被害に見舞われている。隣村では、24時間降雨量が500ミリを超える観測史上でも例のない降水量を記録した。
今回の降水量は、50年前に甚大な被害を及ぼした羽越水害を超えるものではあるが、治水技術やダムの建設、気象予報の精度向上や住民の意思の高揚もあってか当時よりはるかに被害は少ない。ただ、自然は侮ってはいけない、用心や備えは怠らないようにしないと。
(報道などにより、全国各地から「大丈夫か?」というお見舞いの連絡をいただいた。この場を借りて感謝したい。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国内最大級の砂防堰堤・本宮堰堤(常願寺川物語①)

2022年08月02日 | 土木構造物・土木遺産
さて常願寺川、最初に紹介するのは堰堤。暴れ川と紹介した常願寺川にはいくつものの堰堤が築かれいて、この川のとてつもない勢いと土砂の流入が半端でないこと物語っている。(数えきれないほどの堰堤だが、後日調査したい。)
これは立山カルデラのもろく崩れやすい地形・地質がもたらした災いに耐え切れず(この件についても後日改めて紹介する)、各種の砂防計画は明治・大正期に立案されているものの、実際上流部の急流に土木工事の手が入ったのは昭和初期からのこと。
その中でも日本最大級といえる堰堤が今回紹介する「本宮(ほんぐう)堰堤」だ。県道の芳見(よしみ)橋から上流の千寿が原方向を見ると全景がよく見えるし、後方に立山大橋の大アーチなども見えて眺めがいい!



立山砂防事務所の資料によると、高さは22メートル、長さ107メートルの重力式コンクリート堰堤で、貯砂量は約500万立方メートル。これが日本最大級。昭和10年に着工し、僅か2年で完成して以来、富山平野を洪水から守り続けている。
この砂防施設の設置は、長い期間富山県が国に要望をしてきたそうだが、なかなか着工してもらえず、富山県が独自に予算化して施工を当時の新潟土木出張所(今の北陸地方整備局)に委託して建設されたという施設である。
というのも、これより上流部にも大正期に堰堤が築かれたが、出水のたびにことごとく破壊され、この川の砂防事業は国直轄とされていた。しかし、しびれを切らした県の勇み足が功を奏し、本宮堰堤建設以降、次々と上流部にも堰堤が築かれていったという。



早くから本宮堰堤が造られたところが適地であると見抜き、また重要性を認識してきた先人たちはホントに凄い!また工事の最盛期には、昼夜3交代で計画の2.5倍コンクリートの打設を行い、僅かの期間で完成させた作業員の方々に拍手を送りたい。
こんな歴史や物語を背負った本宮堰堤は、平成11年(1999年)に登録有形文化財。平成21年(2009年)には重要文化財に指定されている。
さて、上流部を紹介することができるのはいつになるかはまだ未定であるが、必ず立山カルデラの中に潜入し(もちろん合法的に許可を得て)、その数々の堰堤を見てきたいと思っているし、紹介していきたいと思う。が、まず初めに近代砂防事業の先駆けとなった常願寺川の最初の国内最大級施設の紹介とする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする