行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

自然派のおばちゃんと荒川の水防林・霞堤をデートして

2024年12月27日 | 土木構造物・土木遺産


福島・荒川を訪れる際に予想してはいた。砂防堰堤は数も多いし、なかなか見ようとしても険しい場所にありそうなこと。事前に地図を見ていると、荒川のほとり小富士橋の右岸の橋詰めに「荒川資料室」というのを見つけた(写真上:外観と内観・展示資料)。
荒川の歴史を紹介する施設で、荒川の氾濫時の資料や治水事業を模型で展示、荒川に親しみを持ちかかわりのある人の交流の場となっているという。福島市が設置する資料室。まず、ここを訪ねて情報を入手しようと考えた。(前回の記事と前後しての紹介となる。)
キャンプ場などもある「水林自然林」という公園の入り口に瀟洒(しょうしゃ)な白い建物が荒川資料室。ガラス越しに中をのぞくと誰もいない?だが、扉を開けると初老の女性が奥から出てきて声を掛けてかけてきた。ちょっとびっくり!



國原よし子さん(写真上)は、長いこと資料館の管理をいている。地元の方で、荒川の恩恵を受けながらも、暴れ川の一面も目の当たりにしながら、川とともに暮らしてきた。水害の歴史や堰堤をはじめ水防施設の話を丁寧に説明してくれる。
いろいろ資料・パンフ類も提供してくれた。が、ネットで見た地方整備局(福島河川国道事務所)が作成したパンフレットの話をすると、すでに配布は終了してしまったというものの、奥の方から最後の一部を探し当て惜しげもなく分けてくれた。貴重な荒川土木遺産絵図(写真上)も頂いた。
なんでも上司の方と川を歩きながら堰堤や床固の現場にも足を運んだということで、「クルマで近くまで行けるところ」という自分勝手な条件にも、前回紹介した地蔵原堰堤と東鵜川第一堰堤の場所(道順やクルマの駐車場所まで)を詳しく教えてくれた。



その後、公園内を案内もしてくれた。この公園は水林自然林というだけあって、江戸期から植林されてきた水防林が生い茂っていて、植物や野鳥も多い。その林内にはひっそりと石積みの霞堤も保存されている。何回か積みなおしたものだというが現在も機能しているという(写真下)。
國原さんはあまり草刈りなどを好まない様子。「自然のままがいい」とポツリとつぶやく。私は堰堤(土木構造物)を求めてここに来たため「植物には興味がない」と告げると、少し残念そうな顔をする。超自然派なんだなー。
一時間ほど一緒に歩き回り、帰りに土湯温泉も勧められた。温泉に入る時間はないが、温泉街の堰堤をバックに自撮りした写真を見せると「堰カード(ふくしま荒川・砂防堰堤カード、見出し写真)」がもらえるとの情報も。こりゃ、見透かされていたなと思いながら、お薦めの堰堤を見た後、温泉街の案内所に向かった次第だ。

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役割の重さ歴史の深さを背負って、福島「荒川」の砂防堰堤群がある

2024年12月25日 | 土木構造物・土木遺産


米沢に通っているときから気にはなっていた。今回紹介するのは、福島の阿武隈川の支流の「荒川」だ。第四世代の「萬世大路」である東北中央自動車道の長大な栗子トンネルを使うと、米沢から1時間弱でたどり着ける場所だ。
荒川というだけあって昔から暴れ川。その流れは2000メートル級の吾妻連峰峰から阿武隈川合流地点までの26キロほど延長で1800メートルの高低差で駆け下ることになる。豊かな大地を育む反面、豪雨の際には土石流や氾濫の被害が多発した川である。
ここには、古くから霞堤や水防林がといった洪水対策が施されてきたが、大正期から砂防堰堤や床固工が設置されており、その基数は支川の須川、塩の川、東鵜川などを含めると数えきれないほど施されている。勾配はかなわないけど、あの常願寺川上流と似ている?
(写真上:荒川の小富士橋から上流・下流の風景)



常願寺川の場合、カルデラ出口に白岩堰堤、扇状地のかなめ部分の岩峅寺付近に狭さく箇所がある(まあ、これも厄介者ではある)が、流れを右に左に変える扇状地の先に富山市があり、海抜の低い大都市に洪水被害をもたらしていた。
一方、荒川の場合は、土湯温泉付近から一直線に県都・福島市に向けて流れていて、結局阿武隈川がその水を飲み込めずに合流地点である福島市周辺にたびたび洪水被害をもたらしていた。(阿武隈川は、福島市下流にも上流にも狭くなる場所多い川なんですよねー。)
ここに大正期に設置された「地蔵原堰堤」のほか、昭和期に入って国の直轄事業となり、荒川本流に9基の堰堤、塩の川・東鵜川の支川に5基、そのほか荒川第四床固が施工され、その後も須川流域を含めて堰堤・床固・階段工・流路工などの工事が現在も進められている。
(写真上2枚:地蔵原堰堤は1925年完成、その後の補修などにより様々な石積み工法が見れる、砂防の父・赤木正雄お墨付き!写真下2枚:東鵜川第一堰堤は温泉街の通りから容易に見ることができる。)



ただ、谷が深く、かなり険しい山中に設置されており、設置工事も大変な苦労があったとは聞くが、中流部の床固工施工か所以外はなかなか見ることがかなわない。クルマ移動だと地蔵原堰堤と土湯温泉街の東鵜川第一堰堤しか拝めなかった。
コロナの影響でこのところ開催されいないというが、年に一度だけ川沿いを伝ってトレッキングツアーなどが開催されていたそうである。こちらもなかなか厳しそうな行程のようであるし、重装備も求められるのではないだろうか?
堰堤ほか近世の治水事業を含め「荒川流域治水・砂防事業」として土木学会選奨の土木遺産に認定。1957年(昭和32年)までに設置された堰堤・床固工15基は、歴史的な景観も寄与しているということで国の登録有形文化財でもある。確かに役割の重さ、歴史の深さを感じさせる福島の守り神である。
(写真下:クマ出没の看板脇にクルマを止めて地蔵原堰堤へは徒歩5分。飯坂温泉が福島の奥座敷なら、土湯・高湯温泉は福島の離れ(写真は温泉街遠景、土湯展望台から撮影))




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喜多方の人気ラーメン店「喜一」は、以前は洋食屋だった

2024年12月21日 | 食(グルメ・地酒・名物)


減塩中にもかかわらず連続ラーメンネタ。米沢では一挙にお店を紹介した感があるが、話は福島・喜多方に飛んで「喜一」という店をぜひ紹介しておきたい。なぜか会津地方のラーメン店は一店ずつ紹介しているんですよね。
喜多方ラーメンを提供するの店は、米沢と同じ100店ほどあるそうだが、人口比にすると日本一の密度を誇るラーメンの町だ。特徴は前回触れたとおり、多加水平打ち熟成麺、太くて縮れを特徴とする。シコシコ、モチモチの食感が楽しめるため、全国からラーメン好きが訪れる町になっている。
そんな喜多方の人気ラーメン店として、以前「坂内食堂」を紹介したことがあるが、今回紹介する「喜一」は2005年開業と比較的新しい店でもある。これが今や「食べログ」をはじめ、グルメや観光の紹介サイトでも人気が沸騰している店となっているのだ。



実はこの店の店主は、喜一の開店前までは洋食屋だった。ホテルなどでの修行経験もあって今でも「マスター」と呼ばれている。この洋食の要素を取り込んだラーメンが一代・20年弱で喜多方の代表格ともなったのである。
ホームページによると、スープだけでなく、麺とチャーシューにもこだわって、絶妙なバランスを保っているようだ。スープは鶏と焼きあごの出汁、醤油はほのかに香る程度にというが、ベースは中華よりも洋食に近いくらいという。店構えもフレンチか?イタリアンか?みたいな。
もちろん麺は平打ち太麺を手揉みしているが、塩・味噌などのメニューもある。実は組合で「会津山塩(裏磐梯の山塩)」を使ってラーメンスープを作ろうと公募したところ、喜一の味が満票を得て、この話題により店名も全国にも広まったのである。店の入り口には「福島県民ラーメン総選挙・二年連続第一位・殿堂入り」のエンブレムが掲げられている。



その塩は現在「日本海藻塩ラーメン」というメニューがある。新潟・村上市の笹川流れで昔ながらの手法で作られている塩を使用している。ラーメンに「淡麗Sio」との表記が…あれっ?その表記、どこかの店にもありましたよね!
そう、前回紹介した山形・高畠町の「山喜」である。山喜のラーメンを食べたときには会津若松の「うえんで」系かと思っていたが、「喜一」との「喜」繋がりはうっかりしていました。山喜の店主は、喜一で修行をした方だそうで、双方姉妹店として紹介している。どちらも朝9時から営業する喜多方スタイル。
そんな繋がりをたどっていくとまた面白い。ラーメン求めて新潟から会津へ、会津から米沢へ。俺は上杉家か!病気が判明する前とはいえ、ラーメンを追いかけることが体を張った取材になっているのかもしれない。


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減塩中にもかかわらず、「ラーメンのアルカディア」を紹介します!

2024年12月19日 | 食(グルメ・地酒・名物)
前回、減塩食を紹介した際に「大好きなラーメンを封印!」と記したところ、どうしてもラーメンについて触れたくなった。これまでも、新潟の5大ラーメン(プラスα)会津のお勧めラーメンに触れてきたが、今回は米沢ラーメンだ。(病気発覚前に取材したものばかりなのだが、すいません!以下紹介する中で1か所だけこの夏に食べちゃってました。)
記事にたびたび登場しているとおり、新潟からだとお隣という場所の良さ、景色や町がきれいなこと、興味深い歴史があること、美味しいものなども豊富なことなどから、我が家でも米沢を含む置賜地方はドライブコースにもなっている場所。米沢牛も有名だが、近年は「米沢ラーメン」が人気を集めている。(写真下:人気の米沢ラーメン店の「ひらま」と「かわにし食堂」。)




米沢ラーメンは市内でも提供する店(ラーメン専門店以外の飲食店含む)が100店以上あるという。そのほか高畠町や赤湯市、川西町など近隣の置賜地方のラーメンも「米沢ラーメン」と言っていい。地元では「ラーメン」ではなく「中華そば」という呼び方が一般的のようだ(全国一位のラーメン消費量を誇る山形県では、今はあまり使われなくなった「支那そば」と呼ぶ店も多い。新潟でもそう呼ぶ店は多いけど。)。
何でも大正時代に中国人が始めた屋台が始まりだそうだが、その後「米沢ラーメン」としての食文化が確立していったのは、東京で修業をしてきたコックが手揉み麺を始めてからで、さまざまな改良が加えられて現在の「米沢ラーメン(中華そば)」になたようだ。




会津・喜多方に似ている?確かに縮れ麵と透きとおった醤油のかえしのスープだけ見ると一見同じようにも思える。麺の製造工程で見えないところではあるが、多加水麺(水分を十分に含んだ麵)であることに加え、熟成期間を設けていることも同じである。
ただ、喜多方は平打ち(太麺)で、米沢は細麺という決定的な違いがある。スープも、会津・喜多方は豚骨系と煮干しなどのブレンドなのに対し、米沢は鶏ガラと煮干しが基本。米沢の方があっさり、これは食べてみるとハッキリわかる。てか、多分並べてじっくり見ると違いも分かるんでしょうなー。(写真下:米沢市近隣のまちのラーメン。)




ただ、米沢も会津・喜多方も見た目や味に特徴がないと酷評する人もいる。確かにその通りかもしれない。特に米沢のラーメンは、ここで紹介しているとおり、写真で見るとこの店のものかを区別するのも難しい。でも、それがいいんですよ!どの店でもちゃんと味に特徴がある。そこそこのクオリティーが保たれているのだ。
それでも、このところ少し変化がみられるようだ。かたくなに自家製麺や手揉みにこだわっている店がある一方で、味噌味や塩といったスープに挑戦したり、トッピングに変化や工夫を凝らしたりして、伝統を守りつつも店の名物づくりにも取り組んでいる店も出てきた。
(写真下:「山大前やまとや」の野菜炒めを乗せた中華そばが人気、「めんこう」のメニューにはあっさり、こいくちのほかに、みそ、辛みそ、塩なども。トッピングも豊富。)




同じ置賜地方ではあるが、早くから赤湯からみそラーメンを開発・提供してきた赤湯市の「龍上海」(写真下:「赤湯ラーメン、赤湯からみそラーメン」は店の登録商標。監修のカップ麺もある)、見るからに会津の流れではあるものの人気店となった高畠町の「山喜」は異彩を放っている(写真下)。この地方を「ラーメンのアルカディア(桃源郷)」と呼ぶべきかな。







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塩分制限食を求めていたら、冷凍食品の可能性を感じることに

2024年12月15日 | 健康・病気


ようやく富山から抜け出せた。行先は自分でも不明なのだが、今回は偶然にも恵まれ、行く先々で新しい発見もあり、実りの多い旅だった。
気がつくと季節は冬に。ダム訪問にはなかなか難しい時期(冬や雪のダムもいいんですけどねー)だし、列車旅も繁忙期に入ってお得な切符も入手しづらい。これまで撮りためた写真などを紹介していく時期かな?(すでに先月、北上川を訪問しているので、冬の間のネタにしたい。)
ただ、どうしても通わなくてはならないのは病院。昨年から体重が急減(10キロほど)。検査の結果、腎機能の数値が思わしくなく、透析の一歩手前などと脅かされて、実はこの春から徹底的な減塩生活を送っているのである。



このブログでも大好きなラーメンに触れることがあるが、こちらも封印。外食・中食も控えているのが現状。すべて減塩対策のためで、この手の病気では、一日の塩分接種を6グラム以下に抑えることが必要になってくる。結構厳しい。(日本人の一日平均が11グラム)
そんな中で、食べ物の「塩分相当量」の表示を気にするようになった(写真上)。1食平均2.0グラム以下になるように、減塩食を探し回る。ただ、結構あるんですわ。高血圧を含めてこの手の病気の方が多いということなのかもしれないが、食品会社も積極的に商品開発に乗り出していることがわかる。
特に、冷凍の弁当(お惣菜)はありがたい限り。仕事に持っていくこともあれば、旅に出るときにも手軽に持っていける。そのための家のバックヤードには専用の冷凍庫と、車載冷凍庫を買い求めた。(写真下。車載冷蔵庫で、富山や群馬にも持っていきました!見出し写真)



この冷凍食品、かなり有望株。すでに様々な場面で脚光を浴びているようだが、自分のような食事に制限が必要される人だけでなく、高齢者や一般家庭への総菜の宅配に加え、盛んにテレビショッピングで宣伝しているように、おせち料理などにも使われるようになった。
特に冷食の大手のニチレイは、総菜弁当だけでなく、ワンディッシュやおやつなど種類も多い。さすがに冷凍技術に優れたノウハウを持っているようで、その素材は解凍しても崩れたり、変に水分が出たりすることもなく美味しく頂ける。ただ、少し他社と比べるとお値段が高め。
その他、新進の業者も頑張っているので、自分としてはコストパフォーマンスを求めてネットでサーフィン!各社、定期購入もできるが、業者とメニューを変えながら楽しんでいるが、どれも可能性を感じている。実は、以前冷凍弁当を頼んだ会社に今年はおせちも発注した。こちらも後日紹介できればと思う。


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黒部漁港で見つけた「旋回式可動橋」と「海底地下道」

2024年12月11日 | 土木構造物・土木遺産


黒部市「生地」を訪れようと思ったのは、名水百選の「清水」を巡ろうと思ったわけではなく、ましてや銘酒「幻の瀧」を求めたわけでもない。実は、とっかかりは「可動橋」があると知り、それを調べているうちに生地の魅力に次々に取りつかれていったのだ。
その橋は「生地中橋」という。内陸に掘り込むように作られた黒部漁港の外海との出入口付近に、南北の生地のまちを結ぶように架けられている。
この可動橋、橋の片側(南側)を軸として、橋桁全体が回転する日本で初めての「片持ち旋回式可動橋」で、船が漁港に出入りする際に橋を78度まで回転させるもので、世界的に見ても珍しい方式だという。これが私がこの町に注目するきっかけとなった!
(写真下:中橋の可動時の連続写真)



初代の中橋も昇降式可動橋だったそうだ。この方式では旧筑後川橋梁(現在遊歩道)や愛媛の長浜大橋などがあるが、そのほかにも隅田川の勝鬨橋のような跳開橋(現在可動していない)なども可動橋、さまざまな方式がある中で、片持ち旋回式の可動橋はとにかく貴重!
現在の生地中橋は1982年(昭和57年)生まれ。船が通るときには橋の両端に設置された遮断機が降りて(写真下)、クルマや歩行者は船の通過を待つ。操作は24時間昼夜を問わず橋の南詰にある管理棟で行われている。(写真下:橋の南詰、管理棟の下の路上には、橋げた末端部が半円形で回転する軸になっていることがわかる。)
油圧シリンダー2本で307トンの橋を持ち上げ、2本の旋回シリンダーで回転する構造。建設当時の橋梁土木技術と機械工学技術が結集されたともとされている。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選(水産庁)」にも選定。



とはいっても、うまい具合に橋が旋回する瞬間に出会えるものか?しかし、これまた偶然に、橋の近くまで来たら遮断機が降りた。前回同様、生地のまちで自分には「偶然」が味方してくれる。日に数回しか可動しない日もあるそうだ。(年間では5000回を超える可動数なので実はかなりの働き者。)
橋長38.4メートル、幅が7メートル。30センチほど持ち上がり旋回するところを目の当たりに!しかし、写真上のとおり橋の上はクルマがすれ違うとかなり狭く感じる。黒部漁港には、もう一つ、歩行者用の「海底地下道」がある。車道や線路をアンダーパスでかわすというのはよく聞くが、これまた珍しい。
可動橋から100メートルほど東に行くと、60段の階段を下りて海底10メートルの世界へ続く(写真下)。といっても、先に触れたとおりこれは歩行者の安全のためで、近くの生地小学校へ通う児童の通学路にもなっているそうだ。
生地のまち、最高!黒部漁港、生地の清水、幻の瀧、みんな最高!







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生地の清水を追いかけていたら、「幻の瀧」に出くわした

2024年12月09日 | 食(グルメ・地酒・名物)


生地の清水(しょうず)を探して路地裏をウロウロしていたら、「岩瀬家の清水」という看板を見つけた。明らかに個人宅の裏口から入った敷地内にある。まあ、見学自由と勝手に自分に言い聞かせ自噴井戸にカメラを向ける。
お店の倉庫らしいところから急に人が現れたものだから、「すいません、井戸写真撮らせてください」と声をかけると、快く二つ返事。作業場のような場所だったので「何を作っているお店ですか?」というと、なんと日本酒の酒蔵だという。
そうだ!確か聞いたことがある?いや、テレビで見た蔵だ!酒造元を確かめようと再び声をかけると「皇国晴(みくにはれ)酒造」とのこと、振り返って蔵元の名前が入ったTシャツを見せてくれた(写真下)。表通りにお店もあるということで、帰りに立ち寄ることを告げる。



皇国晴酒造にある岩瀬家の清水は、軟水と硬水の二種類あるそうで、それを最適な割合でブレンドして酒を仕込んでいる。主力銘柄は「幻の瀧」。こちらも前日、富山の酒店で地元の酒「まぼたき」といった呼び名が目に留まった銘柄だった。
日本名水百選の生地の清水を使った日本酒というだけで貴重なのだが、淡麗で飲み口が良いとのことで評判。冷酒だけでなく熱燗でもいけるそうだ。実際口にしてみたが、これは何の料理と一緒にしても行ける!新潟の酒にも似ている。
蔵元の小売部(まあ、酒屋さんだけど)に立ち寄り、お店番をしていた初老の女性に話を聞いてみる。ぼんやり脳裏にあったテレビ番組はあの「呑み鉄本線・日本旅」である。六角さんのお仕事、羨ましいよねー。あの時、確か…そうだ!そういえば女性杜氏の蔵元だ!どんどん記憶が蘇ってくる。



店先でそんな話をしていると、お店番のお母さんが声を張り上げた。「ゆかりちゃーん!」「はーい!」、突然入ってきて根掘り葉掘り聞く私に、なんと!その女性杜氏を呼び寄せてくれたのである。
岩瀬由香里さん(写真下)、皇国晴酒造専務、この酒造会社社長の奥さんで二児の母。和歌山県出身、高校時代はパン屋さんになりたくて発酵や酵母の勉強をしていたところ、広島の「酒類総合研究所」で旦那さんと出会って結婚。2年前から杜氏として本格的に日本酒造りに携わるようになった。
店番のお母さんには通じなかったが、「そうです、『まぼたき』と呼んでください」と笑って答えてくれた。清水を追いかけていたら、その名水を使って、富山県第一号の女性杜氏が仕込んだ酒に出会った。そりゃ美味しくない訳がないでしょ!

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生地の清水(しょうず)を見て、黒部川の恩恵を知る

2024年12月06日 | 旅行記・まち歩き


さて、富山市を後にして立山連峰を望みながら国道8号を北上し帰路に着くことになるのだが、途中の滑川、魚津、黒部と気になる町が続く。その中で、神通川や常願寺川とともに富山七大河川の黒部川が気になる。黒部ダム?確かに上流部も興味深いが、今回は河口近くの町「生地(いくじ)」に狙いを定めていた。
黒部川は一級河川、常願寺川と同様、立山や剱岳の後ろ側(南東方向)斜面や、北アルプスの白馬、鹿島槍ヶ岳、野口五郎岳、鷲羽岳など3000メートル級の日本の屋根から積雪を含む雨などを集め、延長僅か85キロで富山湾に注ぐ日本屈指の急流だ。
ただ今回は、急流・黒部川が持つ1.2万ヘクタールの「扇状地」に、これまた扇状地特有の現象である沿岸部での湧き水を求めて生地に足を踏み入れる。「黒部川扇状地湧水群」として「名水百選(環境省)」にも選定されているが、黒部・生地では「清水(しょうず)」と呼ばれ、地域の中に20か所の湧水地がある。



生地の町には黒部漁港があり、港近くには「魚の駅・生地」がある。その目の前にも「魚の駅の清水」があるし、隣接する名水公園にも「名水公園の清水(おしょうず、写真上)」がある。少し歩くと月見嶋の清水、清水庵の清水、弘法の清水(同名の清水が3か所)、絹の清水、殿様の清水、神田(しんでん)の清水、中島の清水、新明町の共同洗い場、寺の庭先にある前名寺の清水などなど(写真下)。
どれもきれいに整備され、丁寧に看板を掲げられ自由に見学・使用することができる。地域住民が共同で使うので、利用するときはルールを守ってということだが、井戸から段々に整備されているのは、上から飲用、炊事用、洗い物用ということだそうだ。地域住民に愛されるがゆえに、きれいに整備され、案内板があり、一般にも開放されているのだと感じる。
飲んでもとても美味しい。上手くレポートできないが、実は生地の各湧水は湧出量や水質、味わいがそれぞれ異なるそうだ。ただ、水温は1年を通して11℃前後で適度なミネラルを含んだ「おいしい水」ということである。全部は飲めなかったが、自分好みの水を探すというのもいいかもしれない。



富山県の調査では、黒部市には700か所以上の自噴井戸があるそうだ。黒部ダムや水力発電所、川沿いの宇奈月温泉、黒部川に沿って走る黒部峡谷鉄道など、黒部川沿川にはいろいろな観光地や見どころも多い。しかし、最大の恩恵は扇状地の地下に流れる伏流水にある。
富山は水力発電が盛んなことから電気料金が安いといわれているが(本当なのか?どれくらい安いのかは分からないが)、その電気も然り。加えて生地をはじめ黒部市や近隣の住民はこの水を飲用のほか家事や産業に使用することで、途方もない恩恵を受けていると言って過言ではない。
扇状地上にあるYKK(生地周辺のあちこちに広大な工場がある)やアサヒ飲料の工場(黒部市のお隣の入善町)も黒部川の水を使っている。少なからず、日本の産業経済にも寄与し、私たちの生活を支えてくれている。黒部川の水は、冷たいけれど「黒部の太陽」であり「日本の太陽」なのである。
(写真下:生地の中心地にある「新明町の共同洗い場」の外観・内観)


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神通川「馳越線工事」でできた「松川」周辺の見どころを探る

2024年12月03日 | 旅行記・まち歩き


先に紹介した常願寺川が流れる富山市。ただ、富山の市街地にはもう一つの暴れ川・神通川がある。北アルプスの西側、飛騨高地の東側の雨水や雪解け水を集めて富山湾にそそぐ一級河川。古から地域を潤してきた川であるが、急流上に富山市や沿川各地では洪水の被害にも悩まされてきた。
以前神通川は、富山市内で大きく蛇行していた。市内の富山城のすぐ北を流れて、現在の富山駅の東側(現在は西側)を流れて環水公園付近で現在の神通川となっていた。この大きく蛇行することにより洪水が多発するため、明治期に河川を直線化を図るため「馳越線(はせこしせん)工事」が行われたのである。馳越線?実は初めて聞いた言葉であった。
この神通川の馳越とは、直線化する場所に小さな水路を築き、その上流部の本川堤防が洪水時にわざと越水する場所を設けておいて、徐々に馳越線の川幅を広げて直線化を図るというもので、実はデ・レーケが提案した方法。1903年に馳越線が完成、その後1914年に起こった洪水により現在の河道となった。(写真上:神通川の流れの変遷を紹介する富岩運河の看板と富山県土木部資料、富山駅周辺市街地の国土地理院地図・空中写真)



馳越線工事により、蛇行していた旧神通川(現松川)にはほとんど水が流れなくなった。市街地のど真ん中にしばらく廃川地として放置される状態が続いたが、富岩運河建設時に出る掘削土を旧神通川跡地の埋め立てに利用することにしたのだ。これも赤司貫一の都市計画構想に含まれていたもの。
現在、その埋立地には県庁(写真上)や市役所(写真上)、NHK富山放送局、教育会館など公共施設が立ち並んでいて、下流側には環水公園や市総合体育館、県美術館がある。まさに市街中心地に都市の中心施設を配置している。ここでもコンパクトシティを目指す富山市の「とやま都市MIRAI地区事業」と位置付けることができる。
また、松川は桜の名所として変身。「日本さくら名所100選」にも選定されているほか、両岸には遊歩道も整備されていて、隣接する富山城(写真上)・富山城址公園とともに市民の憩いの場、観光客の人気スポットにもなっている。市役所には展望塔があって、立山連峰や富山湾を一望できるそうだ。



松川沿川には見どころホントに多いんですよ!富山城(国指定史跡)や県庁本館(登録有形文化財)をはじめ、富山の文化遺産が集結している。「桜橋(写真上)」は国の登録有形文化財。1935年完成。鋼製2ヒンジのアーチ橋。都市計画事業の一環により川に対して斜めにかけられていて、橋の長さより幅のほうが長い。
船を連ねて作る橋「舟橋(ふなはし)」で、かつて神通川に架けられたものは日本一と言われていた。馳越線工事により「神通橋(現・神通大橋)」が完成し、現在松川に架かるものは1989年(平成元年)に完成したものだが、橋中央部に舟形のバルコニーが設けられていて、以前の舟橋が再現されている(写真上)。
松川には遊覧船も就航しているが、鉄道好きは市電で松川の橋を渡るというのはどうだろうか?前回紹介した富山地方鉄道軌道線(市電)区間には松川を渡る橋が3か所(路線)、富山港線もにも1か所ある。フリー切符を手にして3か所は走破しておきながら、目の前を走る電車を確認しながらも桜橋を渡る路線に乗ることを失念しておりました。あとで気づいた話。(写真下:安住橋を渡る軌道線T100形市電)



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