行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

「いしのまきかわまち」は、「元気のまち・石巻」を象徴する施設に

2024年06月29日 | 旅行記・まち歩き
せっかく日帰りという強攻で石巻まで足を延ばすことを想定し、朝早く新潟を出発したんだから、せめて昼メシぐらいは地元の名物でもと思ってお店を探す。まあ、健康上の理由もあって、食べれるものは限られているのだが、その中でもやっぱりここまで来たのだからおいしい魚でもと思う。石巻魚港がありますからねー。
以前訪れた、女川や気仙沼、釜石などでも地物をいただいてきたが、ここでもおいしいものを探すと「かわまち交流拠点」なるものが。市街地を流れる旧北上川のすぐそばにあって、その中に地元の物産や食材をそろえた「いしのまき元気いちば」なるものを見つけた。どうやら食事も楽しめそうな場所だ。
「かわまち」とは、確か前回貞山運河で取り上げた名取川河口の「かわまちてらす閖上」もちょっとだけ紹介した。国土交通省の制度で、川と深くかかわる地域の資源を活かし、川を理解し親しんでもらおうという取り組みがあるようで、多分、石巻の場合もその制度によるものだろう。



市街地のど真ん中、ちょっと狭い道路を入らなければならないが、川の土手沿いに「いしのまきかわまちパーク」にたどり着く。立派な交流施設や公園などのエリアの一角に「元気いちば」がある。広々とした1階フロアには、海産物を中心とした地元の物産、加工品やお土産品、生鮮なども並べられている。
クジラ肉をお使ったイタリアンバーグという缶詰は、アル・ケッチャーノの奥田シェフ監修。東北のこだわりか?オイスターパテやフレークの瓶詰?金華さばの干物やホヤを使った加工品、そのほかにも地元の銘菓や個性あふれる特産野菜なども並べられている。
そしてお目当ての「元気食堂」はその二階。140席を誇るフードコートだが、ここでも金華山沖で捕れた数多くの種類の魚介類を調理して提供するコーナーがある。テラス席からは、旧北上川から河口方面を望むことはできて、さわやかな川風を浴びながら地元の味をいただくことができる。そりゃ一人だったけどテラスのテーブル席に陣取りました。



メニューも、カキフライや牡蠣ラーメン、石巻焼きそば、金華さば焼き定食、ローストホエール丼などのここならではのメニューが並んでいるが、まあ欲張りな自分は様々ネタがたっぷり乗った海鮮丼をチョイス。白飯で!ちょっと、イクラが健康上の理由で失敗した感があったのだが、せっかくなので少しだけいただいた。場所や雰囲気も合わせ、ちょっと贅沢なランチになった。
この元気いちばの片隅にも仮面ライダーの像がった。とにかく石巻市街地には、仮面ライダーやサイボーグ009の像があちこちに設置されている。作者の石ノ森章太郎氏は、石巻市の北にある登米市の出身だが、石巻市がいち早く市街地の賑わいをもたらしたいと石ノ森氏のゆかりの地として「マンガミュージアム」構想を打ち立てた。
旧北上川の中瀬には、石ノ森氏がデザイン(原案)した宇宙船のような「石ノ森萬画館(2001年開館)」があって、元気食堂のテラス席から正面に見ることができる。もちろんこの萬画館も東日本大震災の際の津波により甚大な被害を被ったが、仮面ライダーやサイボーグ009はすでに市民のヒーローで、こちらの施設も石巻の象徴であることから、震災の翌年にはこちらも「元気に」開館したという。

※「石巻地区かわまちづくり」は、2022年度の「かわまち大賞」を受賞。河川空間を活用し、地域の賑わいを創出した先進的な事例として国土交通大臣から表彰を受けている。



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宮城・震災遺構の訪ねて、復興支援と鎮魂・祈りの旅は続く

2024年06月24日 | 旅行記・まち歩き
これまでも、岩手県や福島県の太平洋沿岸を「復興支援の旅」と称して訪問してきたが、今回訪れた宮城県の沿岸部でも東日本大震災における津波の被害は甚大なものがあったことはご承知のとおり。
以前、女川を訪れた時に記事を掲載しているが、今回訪問の名取市から仙台市、石巻市にかけても震災の遺構や伝承施設、慰霊碑、メモリアル公園など、震災関連施設が数多い。青森県を含む4県中、その施設数が一番多いのが宮城県で、137か所。
震災以降には一部民間の被災ホテルなどが保存・公開されている場合もあるが、その多くは公共施設。震災やそれに伴う津波の脅威を教訓とするため、今回の宮城県訪問の中で立ち寄ることのできた震災遺構3か所をご紹介しておきたい。



まず仙台市若林区の「震災遺構、仙台市立荒浜小学校」。仙台市街地から10キロほどのところにあり、海岸から約700メートルに位置している。先に紹介した貞山運河に近く、震災当時2,200人ほどが住む集落を学区に、91人の児童が通っていたという。
3.11の際の津波は、地震発生後1時間ほどで校舎の2階部分まで押し寄せた。先生は校庭にいた児童を校舎内に入るように促し、上階に避難。児童は全員無事だったものの、周辺の住民も多くが学校に避難し、水没した周辺地域の中に数多くの人が取り残されることになった。
自衛隊の駐屯地が近くにあったっことなどもあり、その日の夜から翌日にかけて、学校の屋上から一人一人をヘリコプターで釣り上げ避難に成功したという。それほど規模が大きい学校ではないので、屋上も狭く決死の救出作戦だったに違いないが、先生方の機転や自衛隊員の使命感に敬意を表し、拍手を送りたい。



途中、野蒜築港後に行く前に立ち寄ったのが「東松島市震災復興伝承館」。目の前に東名運河があって、旧JR仙石線「野蒜(のびる)駅」を改修したもの。そう、停車中の電車に津波が押し寄せて、無残にがれきに押し流された現場がここである。
電車こそ撤去されたが、旧野蒜駅のホームなどは、震災当時そのままに残されており、駅舎を活用した伝承館には、東松島市の被災者が自らの体験を語る映像を見ることができるし、多くの被災写真などが展示されている。元の駅周辺は公園整備され、慰霊碑や市内犠牲者の名前が記されたプレートも設置されている。
甚大な被害で長期間にわたり仙石線は不通となっていたが、JR東日本はこの区間(陸前大塚から陸前小野までの間)の路線を高台に移設・付け替えすることになり、2015年野蒜駅も新線に移転・営業を開始したのである。ここでも街並みが大きく変わったが、震災の記憶は周辺住民の目や心に刻まれて伝承されていいく。



石巻市は、東日本大震災の死者数・行方不明者数が3,970人(石巻市ホームページ、令和6年2月現在)で、被災した市町村別の中では最多の町である。旧北上川河口があり石巻湾に近いところに市街地・住宅地など人口密集していたと地形にもよるが、津波というだけでなく、津波がもたらした市街地の火災により被害が拡大、多くの犠牲者を出したという。
旧北上川の河口に近い復興祈念公園の前に「石巻市震災遺構門脇(かどのわき)小学校」がある。津波被害のほか火災にも見舞われたのが石巻のあるが、こちらも幸い登校して避難した児童に死者は出ていない(正確には、震災直後、親が迎えに来て帰宅途中に災難にあったケースはあるとのこと)。震災直後、津波の危険を察知した教職員は、学校の裏山(日和山公園)に教壇を立て掛けて、児童を避難誘導したという。
これまでに見た震災伝承館の中でも、当時を被災状況を目の当たりにできるほか、展示物やメッセージ、被災当時の伝承映像などは説得力がある。伝承館の職員は、「津波の際の垂直移動(避難)だけでなく、平行移動も考えないといけない」と語ってくれたのも印象的であった。

いずれも痛ましいく、悲惨な現場でもあるが、目を背けてはいけないし、教訓として伝えなければならないと思いから、まだまだ東北復興支援の旅、鎮魂と祈りの旅は続く。
(以前、同じ宮城県気仙沼市の「東日本震災遺構・伝承館(気仙沼向洋高校旧校舎)」を訪れた時(2020年10月)の記事も参照いただければと思う。)
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「野蒜築港」建設は運河を結び、川を結び、太平洋と日本海を結び

2024年06月18日 | 土木構造物・土木遺産


広瀬川から少し離れて、もう少し「貞山運河」とその関連事業の話をしたい。日本最大・最長の50キロに及ぶ貞山運河(写真上)が土木学会選奨土木遺産とも紹介した。しかし、ただの仙台城下の水上交通網として整備されたわけではなく、その後、国を挙げての大きな構想の中で重要なポジションに位置付けられていた。
確かに貞山運河・北上運河の中でも、江戸前期に開削された阿武隈川から名取川河口に及ぶ「木曳堀」は、伊達政宗が殿様であった時代のもの。その名のとおり船が引いた材木が仙台城下の街並み整備に活用されたことだったのだろう。
次に、七北田川河口と塩釜湾を結んだ「舟入堀(一部、砂押川を活用。現仙台港の建設により一部寸断)」が完成。明治期に入って、成瀬川河口と旧北上川を結んだ「北上運河(写真下・2枚目)」(北上運河は、定川を挟んで南北上運河・北北上運河と呼ばれる)、その後松島湾と成瀬川を結ぶ「東名(とうな)運河(写真下・1枚目)」、そして明治期にすでに開削されていた名取川と七北田川を結んだ「新堀」の改修事業の完成で、全線開通となるわけである。



明治期に入って、貞山堀が脚光を浴び、その他の運河群の建設に拍車がかかったかというと、成瀬川河口に日本初の近代的港湾を建設するという国家の一大プロジェクト「野蒜築港(のびる・ちくこう)」が建設されることになったからである。
明治政府の大久保利通は、東北地方の発展のためにと河川の活用と港湾の建設を推進するため、拠点となる港の候補地選定をかのお雇い外国人のファン・ドールンに依頼した。さあ、ドールン大先生はいくつかの候補地の中から野蒜を最適地として推挙。築港建設事業とともに、そこにつながるように貞山運河の延伸、北上・東名の各運河が建設されていったのである。
1882年、野蒜築港は一応完成したものの、風や波浪、漂砂・流砂の影響を受ける場所であったことから、3年後の台風で壊滅的被害を受け廃港・廃棄されることになる。ドールン設計の鳴り物入りの港は鉄道網の発達など陸上交通の台頭もあって、波の中に消えてしまった。
運河はそのまま残されたが、野蒜築港の遺構についてはあまり残っていない。土木学会は、2000年(平成12年)に、野蒜築港跡地や北上運河、東名運河、貞山運河、北上運河が旧北上川に接続される場所に建設された「石井閘門(一番下の写真)」の一連の施設を「野蒜築港関連事業」として土木遺産に選奨している。(写真下・野蒜築港の碑・遺構群)



ところで、お雇い外国人土木技師・ドールンだが、先にこのブログに登場している。そう、福島の「安積疎水」を紹介した記事で、ドールンは野蒜築港と同時期に福島でも偉大な功績を残している。疎水と築港、同じ土木事業でも少し色合いが違うように感じられるが、これは密接に国家プロジェクトでつながっている。
今回紹介した運河は、北からいうと北上川と阿武隈川をつないだものであり、阿武隈川を遡って五百川、猪苗代湖へ。ドールンの功績によりそれが日橋川、阿賀川、阿賀野川、信濃川へと続くことになる。つまり、東北の太平洋岸と日本海側がつなぐ内陸水上交通網を整備するという構想があった。
現に、明治期にはこの構想をもとに、新潟港を整備するためドールンの後継者であったムンデル、エッセル、後に常願寺川の記事で紹介したデ・レーケなどが新潟港や信濃川の改修に送り込まれている。常願寺川に調査に入る以前に新潟にそうそうたる技術者が結集していたのである。こちら余談ですが。







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広瀬川(名取川)河口に目をやれば、ここにも偉大な事業があった

2024年06月13日 | 土木構造物・土木遺産


さて広瀬川物語、最終章は河口へ向かってみることにしたい。実は広瀬川に河口はない。広瀬川は一級河川の名取川の支流で、河口から5キロほどの仙台市街で名取川に合流している。したがって今回紹介するのは、正確には名取川河口付近ということになる。
海岸線に沿って砂丘地が続く場所だが、その砂丘地の中、つまり内陸に日本最大級の運河が存在する。これが「貞山運河(ていざんうんが)」と言われるもので、外海を通らず船が安全に航行できるようにと、江戸時代から明治期にかけて掘られたものである。
各時代にわたり、数か所ことに掘られたものだが、その長さは50キロにも及ぶ。途中、松島湾でいったん海とつながる部分はあるが、南の阿武隈川河口から北の旧北上川まで、名前や時代を変えながら川船による水上交通網として結ばれたものである。(貞山運河と呼ばれているのは、この中の阿武隈川河口から松島湾(塩釜)までの区間を言う。)



この河口付近、いやここに限らず東北の太平洋沿岸の海岸線は東日本大震災で発生した津波より、甚大な被害を受けた場所である。確かに人家は移転をしたり、新しい街並みとして整備されたりしながらも、見事復興を果たしているというのも目を見張るところでもある。
名取川の河口左岸の若林区藤塚地区には、以前紹介したことのある「アクアイグニス仙台」がある。右岸側は、閖上(ゆりあげ)漁港が再整備され、防災拠点(写真上)や「かわまちてらす閖上」(写真下)などが設置されている。
右岸の漁港付近のゆりあげ港朝市やかわまちテラスなどでは、魚だけではなく地元の食材をふんだんに使ったレストラン、カフェ、ショップなどが集まり、大勢の観光客や地元の買い物客で賑わう場所になっている。テラス席などもあって海風・川風を浴びながら、ゆっくりできる新しいスポットになっている。



貞山運河も海からすぐの内陸にあったため、津波によるダメージは大きかったが、宮城県による運河の再生・復興事業により復活を果たした。(現在は、物流の機能は担っていないが、一部は市民の憩いやレジャーの場所として、またシジミやシラスの漁場として活用されている。)
かつては、阿武隈川を使って福島県内からも木材を搬出し、貞山運河から名取川、そして広瀬川を通って仙台の城下に運んでいたという。「貞山」という名前は、伊達政宗公の「おくりな(=瑞巌寺殿貞山禅利大居士)」から命名されたものであるとのこと。ここでも伊達政宗や伊達家が登場する、どれだけ大事にされているんでしょうねー。(写真上:ゆりあげ港朝市メイプル館内の貞山運河パネル展などでも紹介。)
貞山運河は2000年(平成12年)に「選奨土木遺産」となっているが、その選奨経緯にはまだ続きがある。広瀬川を後にして、もう少し北に足を向けることにするので、後日紹介していきたい。
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広瀬川上流にもありました、魅力的な土木遺産

2024年06月06日 | 土木構造物・土木遺産
まだ仙台から離れられない?といっても、何回か仙台に通って、見どころを見つけ出しては、その都度各地を訪ねているという現状にある。
前回は、仙台市街地にある広瀬川に架かる2橋を紹介、前々回は広瀬川の水を利用した水力発電所を紹介してきているが、今回は青葉区でも市街地からは10数キロ山間部に入った場所にある構造物を紹介する。



一つ目は、広瀬川に架かる鉄橋「広瀬川第二橋梁」だ。JR仙山線は、「仙山線鉄道施設群」として土木学会選奨土木遺産に選奨されているが、その主要施設としてこの橋梁も構成構造物になっている。
ご覧になってピンと来た人もいると思うが、日本でも数か所しかなくなった架台の上に橋桁の乗せた「トレッスル橋」である。そのほか、広瀬川に絡むように走る仙山線にも魅力的な場所は尽きないのだが、今回は時間の関係上この橋梁のみの紹介になる。
青葉区熊ヶ根という場所にあって、国道48号の熊ヶ根橋から全容を間近に見ることができるが、歩道と反対側、橋にはフェンス、深い谷に架かっていることから撮影ポイントが限られるため、同じアングルからの写真でごめんなさい。



熊ヶ根橋を天童方向に渡りきると右手に入る道路があるが、クルマで数分ほど進むと「青下水源地」がある。ここにあるのが「青下第一ダム」。なんと昭和9年(1934年)完成した玉石貼りの水道専用のダムだ。
戦前の物資の少ない時代に、仙台市民を潤すために作られた水源確保用のダムで、現在なお現役である。玉石貼りのダムというのも貴重だが、水がその玉石に沿って緩やかなカーブをを流れる姿は実に美しい。
ダムを含め仙台市営のこの場所は、水源地の公園として整備されており、旧管理事務所(写真上)や記念碑、隧道入口などは登録有形文化財。水源地として近代水道百選にも選定。立派な水道記念館も公園内に設置されていて、大事に保存公開されていることがわかる。



そして3か所目は、青下水源地から5分ほど上流(水源地とは別の河川)にある「大倉ダム」。ネーミングライツにより正式には「仙台環境開発大倉ダム」との名称で、旧建設省が昭和37年に建設完成、その後宮城県に移管された多目的ダムである。
実はこのダム、ダブルアーチ式ダムで、日本で唯一の構造。ダムサイトの中心にどでかい支柱(スラストブロック)を設置し、左右に同じようにアーチダムを配置している。(クレストゲートが配置された左岸側だけに見えるが、右岸側が写真では確認しづらいのが申し訳ない)
広瀬川を調べていると、面白い形のダムを見つけてぜひ紹介したいと思い現地を訪ねてみると、なんと選奨土木遺産に選定されたと管理事務所の入口の掲示を見てびっくり!昨年度の土木学会で選奨されていました。
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