行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

楢下宿で「こんにゃく番所」に捕まってしまう

2024年10月30日 | 食(グルメ・地酒・名物)


楢下宿というと「こんにゃく番所」?聞いたことある人、すでに行ったことがある人も多いかと思う。
山形県は各地で大鍋に玉こんにゃくを煮て販売する光景を、あちこちて見かけることが多いこんにゃく県であるが、そのこんにゃくの名店が「丹野こんにゃく店」。国道13号沿いの山形観光物産会館やJR山形駅のエスパルなどにも売店を構える。
上山から楢下宿に入る手前にある「こんにゃく番所」はその本店でもあり、こちらではこんにゃくを多彩にアレンジした料理を提供していることから、全国各地から多くの人たちが訪れるのである。



料理は「懐石」をお勧めする。初めは「こんにゃくでは、淡白すぎて物足りないのでは?」と思っていたのだが、次々提供される料理は「これは、本当にこんにゃく?」、「こんにゃくでこんなことができるの?」というものばかり。
前菜のサーモン、黒豆、はまぐり、揚げ物のホタテ貝柱、お刺身の盛り合わせなどは、すべて「〇〇風の蒟蒻(こんにゃく)」である。そばもこんにゃくをつなぎに使っていて、正にこんにゃく尽くしの懐石なのである。
食感(硬さ)や形、色を微妙に変えて、おなじみの食材に見立ててきれいに盛り付ける。見た目ではこんにゃくであることは分からず、提供する際に係の人が丁寧に説明を添えてくれると、「へー!」の連続だ。
どの料理にもに職人の技が十二分に発揮されているとともに、こんにゃくにかける情熱が料理や技術を進化させているのではないかと思う。「たかが蒟蒻、されど蒟蒻」と店頭に掲げられた文字が印象的だ。



売店でもお馴染みの玉こんにゃくはもちろん、懐石に使用されていたもののほか、いろいろな商品が並べられており、お土産にすることができる。串に刺した海苔巻き団子風、焼き鳥風などこれも面白いというより感動もの。
別棟には、スイーツショップ「日々蒟蒻」があり、タピオカに見立てたこんにゃくドリンクや、寒天の代わりにこんにゃくを使ったあんみつなど、これまたこんにゃく料理を極めたといっていい品々を口にすることができる。
行く前は、まあ物の話として行っておかないとと思う反面、二回目はないな!と思っていたのだが、ぜひまた行きたい感動と美味しいスポットになる。楢下の「番所」で引っかかった!てなところです。
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楢下宿の魅力、文化財の街並みと文化財級の人材も

2024年10月28日 | 旅行記・まち歩き


山形・置賜地方での滞在が長くなっているがもう少しだけお付き合いいただきたい。
最初に断ったとおり、山形県の地域区分によると、上山は「置賜」ではなく「村山」に地域区分されるのだが、置賜地域の石橋群を追いかけていると、南陽から上山に足を踏み入れてしまっていた。まあ、お隣ですからね。
先に紹介していたが、金山川に架かる新橋、覗橋があるところは楢下宿(ならげしゅく)。江戸時代、羽州街道の宿場町で、江戸方向からすると金山峠を越えて本陣を置く楢下宿は結構規模も大きく、今でも魅力的な風情を醸し出している。
宿場内の街道は、「コ」の字型に曲がるという特殊な形状をしていて(写真下:パンフの地図)、金山川を新橋、覗橋で二回渡る(写真上:宿場内の金山川と新橋、写真下:覗橋から山田屋を望む)。金山峠は仙台藩との国境で、楢下には上山藩の口止め番所(関所)が設けられており最前線の要害宿場ということからなのであろうか?



楢下宿は、江戸期の参勤交代で東北13藩が立ち寄る主要な宿場だった。出羽三山詣での行者や各藩の家中、商人も数多く宿泊したとの記録があるそうだ。最盛期には23軒の旅籠や民家も70戸ほど立ち並んでいた。
現在も200年以上の時間を超えて数件の古民家が保存(一部移築)されており、室内も公開されている。脇本陣だった滝沢屋をはじめ、庄内屋(写真下:外観)、大黒屋(写真下:内観)、山田屋、旧武田家などの古民家がタイムスリップを演出してくれる。
特に宝暦年間(1750年頃代)に建築された滝沢屋(旧丹野家)は県の指定文化財。宿場外れ(実は、峠に近い奥の方が宿頭)に1993年(平成5年)に移築・復元されたもので、上山市教育委員会からの委託を受けた地元の方々が常駐・管理し、来訪者を案内してくれる(入館料220円)。



案内人の木村富夫さんは楢下生まれ楢下育ちの82歳。歴史に詳しいことはもちろん、饒舌でユーモアたっぷり、熱い話し口は正に文化財級。床に落ちているカメムシを何気なく足で払いながら室内を案内してくれる(写真下:滝沢家外観と案内してくれた木村さん)。
滝沢屋は久保田(秋田)藩の佐竹氏と深い関りがあったようで、定宿(じょうやど)として使われていたそうだ。室内の展示物は年代もバラバラの感があって、説明も時代を行ったり来たりするが、佐竹氏関連のものが多く、説明にも力が入っていたような気がする。
宿場町の面影を色濃く残す楢下宿。石橋は明治期のものだが妙に風景にマッチしているし、お宝(文化財)の宝庫でもあり、そして木村さんのようなお宝(文化財級)地元民もいる。ぜひ一度訪問いただきたい。(「羽州街道楢下宿・金山越(かなやまごえ)として国指定文化財史跡になっている)
(滝沢屋では、説明時間を最初に告げたほうがベスト!あっという間に1時間が過ぎたのだが、まだまだ説明が続くところでした。この日は次の予定がキャンセルになってしまった。)


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まほろばの里にあった廃線跡は、いまも東西「高畠駅」を結んでいる

2024年10月24日 | 鉄道


山形の石橋を探して高畠の町を歩いていると、「高畠駅」という看板を目にした。高畠駅はJR奥羽線の駅のはずだがー、そうだ!ここには旧高畠線があって、高畠駅は高畠町役場などがある市街地にあったことに気が付く。
奥羽線の米沢・山形間が開通したのは1900年(明治33年)、前回、前々回紹介している米沢までの開通の翌年で、高畠鉄道は奥羽線の旧糠ノ目駅(現高畠駅)と旧高畠駅の間が1922年(大正11年)に開通。その後、二井宿まで延伸され、1943年、山形鉄道高畠線となった。
旅客輸送のほか、貨物の取り扱いも行っていた。というより、高畠周辺では製糸業が盛んで、生糸や製品の輸送や材木、果物などの地域の特産物を輸送する目的が強かったとも言われている。1974年(昭和49年)、水害によるダメージをきっかけに全線廃止。先に紹介した「くりはら田園鉄道」よりかなり前に廃止。「赤谷線」の廃止よりも10年前のことだ。



旧高畠駅は高畠鉄道開通後、それまでの木造駅舎から、1934年(昭和9年)立派な駅舎が完成(写真上)。これは地元の特産品である凝灰岩「高畠石」を使用しているが、石で作られた駅舎は珍しいこと。石造りのプラットホームなどとともに、登録有形文化財として保存されている。
駅舎の色彩や大正ロマンを感じさせるデザインは高畠のシンボル的な存在である。また、駅構内はきれいに公園化されており、一角には当時活躍したED1電気機関車やモハ1などの車両も展示されていることから地域住民や鉄道ファンにも親しまれているという(写真上)。



廃線跡は、赤谷線と同じくサイクリングロード「まほろば緑道」として整備がされていて、現高畠駅から「日本のアンデルセン」といわれた童話作家・浜田広介の記念館、高畠市街・旧高畠駅、「まほろば古の里歴史公園」や道の駅「たかはた」、蛭沢湖など高畠町の観光スポットを結んでいる。
高畠市街と奥羽線・現高畠駅までは5キロほど。まほろば緑道は通勤・通学など生活路線として利用されているが、沿道は桜並木があって、さぞ桜の時期には見事なのではないかと思う。前述のとおり、かなり早い時期に廃線となってはいたが、跡地はしっかりと保存されている。竹ノ森駅はポケットパークに、和田川の橋梁は桁部こそ架け替えられているようだが、橋脚は以前のもののようだ(写真下)。
まほろば緑道整備にあたっても、沿線に浜田広介記念館や道の駅などを配したことは地域の熱意を感じるし、観光面でも効果的ではないだろうか。(「高畠ワイナリー」は、奥羽線の上り方面で奥羽線を跨ぐが、高畠駅からも1キロほどなのでレンタサイクルでも行ける。)



まほろば緑道は、廃線跡をそのままに奥羽線の現高畠駅(起点・旧糠ノ目駅)まで続く。旧糠ノ目駅は、1991年(平成3年)に「高畠駅」と改称される。山形新幹線の開業前年のことである。17年振りに「高畠駅」の復活だ。
国鉄分割民営化の以前に無人駅(簡易委託駅)になった糠ノ目駅であるが、高畠駅と改称したことにより東西の自由通路の開設、東側に「太陽館」の建設に伴い駅舎機能を東側に移転、新幹線が停車する駅としてJR直営駅としても復活を遂げた(2015年から業務委託駅)。
それ以後も店舗、温泉施設、ホテルなどができて、市街地方向の東口が名実ともに高畠町の玄関口となった。高畠線の起点・糠ノ目駅のあった場所だ。まほろば緑道は、「まほろばの里」にある町の東西・新旧の高畠駅を今もしっかりと結んでいるのである。(写真下:JR奥羽線高畠駅の東口付近、自由通路入口は高畠線の始発地点であり、奥羽線東側の現高畠駅舎・太陽館は市民や観光客の憩いの場所にもなっている。)




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奥羽線・峠駅で「峠の力餅」の立売りの声が響く

2024年10月22日 | 食(グルメ・地酒・名物)


奥羽線・峠駅と言えば「峠の力餅」。ご存じだろうか?峠駅開業は奥羽線の福島・米沢間の開通とともに1899年(明治34年)、それ以前の1894年に創業したのが「峠の茶屋(屋号は、最上屋?小杉商店?とも言うらしいが)」である。店は峠駅前にポツンとたたずむ(写真上)。
創業130年なのだが、駅開業とともに「峠の力餅」というあんこ入りの餅を販売。なんと今現在もホームで立売りをしているお店で、取扱商品は「峠の力餅」のみ。自身のホームページなどでも「絶滅危惧種」と紹介している。確かに肥薩線・人吉駅や鹿児島本線・折尾駅で見たことはあったが、どうなっているだろう?
地元の新津駅や直江津駅でも、ホームの傍らに立売箱を置いた形での販売を見かけたことはあるが、パッピを覆い、立売箱を持ってホームを行き来し、車窓越し(ドア越し?)に売る光景は珍しいというより懐かしく、「未だにあったのか?」との驚きしかない。東日本では唯一ということのようだ。



峠駅は、乗降客が一日平均4.7人(山形県「駅別乗車人員の推移」、2004年)の秘境中の秘境、正に峠駅でなぜ?という思いがこみ上げてくる。以前は鉱山があって駅周辺にも人家があったらしいが、現在は秘湯として知られる滑川温泉、姥湯温泉の最寄り駅ではあるのの(確かに、宿の迎えのクルマらしいものが)、駅構内も駅前も極めて静寂に包まれている。
立売り対象列車は、早朝・夜間を除く3往復6列車。それ以外にも予約をすればホームまで届けるそうで、私が訪れた午前8時30分を挟んだ上り下りの2列車にも、入線の際に深々と頭を下げ、停車時間30秒間で4両編成の後方から立売箱を持ってくまなく売り歩いていた。
ホームに立つのは5代目の店主・小杉さん。頑固なまでに立売りを残したいという気持ちがある。日に6往復の、しかも生活路線である各駅停車のみ「奥羽本線」とは名ばかりのローカル区間の秘境駅で、鉄道とともに歩んできたという心持ちで「最後の砦(峠の茶屋ホームページから)」を守っているのである。



私の場合は、峠駅のスイッチバックの旧駅を見学するため下車したため、購入するのに慌てる必要はなかったが、どの列車も30秒との戦いがあるようだ。そのため売値は1000円!お釣りのやり取りがないようにとのことだが、それでも売れたとしても一列車で5~6個の販売が停車時間内では限界とのこと。
さほど苦労をせずに力餅を手にすることはできたものの、最後の砦を守る力を分けてもらったような気がするのだが、家に持ち帰って写真を撮ろうと箱を見ると、すでに妻がひとつ食べてしまっていた。そりゃ力を込めて「私に買ってきたんでしょ?何が悪い!」みたいな態度でした。
なお、米沢駅前にも「峠の力餅米沢支店」というのがあって同様の力餅を販売しているが、こちらは先代の時に暖簾分けした店で全く別会社(写真下)。山形新幹線「つばさ」車内で販売しているのはこちらのお店のもの。お味は変わらないということだが、さて力が付きそうなのは?私は、ぜひまた峠駅を訪問して購入したいと思っている。


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奥羽線のスイッチバック駅跡をジグザグで踏破

2024年10月15日 | 鉄道


米沢訪問するからには、ぜひ行ってみたいと思い続けていた場所、それは奥羽線のスイッチバック式の駅跡だ。奥羽線の福島・米沢間には、かつて4つのスイッチバック駅が存在したが、山形新幹線開業に伴い全てが本線上に駅を移転、スイッチバックも廃止されたが、新幹線で通過する際は旧駅を車窓から眺めながら、いつか行こうと思っていた。
クルマで行くのは簡単だと思っていたが、なかなかの難所。萬世大路の栗子峠(明神越えを含む)とともに、この間を結ぶ峠道はなかなか人を寄せ付けない。古くからの難所で、米沢藩は峠越えに危険が伴うことや戦略上の理由で通行を禁止していたこともあったそうで、前回登場の土木の鬼で山形県令・三島通庸が山形発展のために明治期に入ってようやく開削を試みた場所なのだ。
どうせ鉄ちゃんを自称するなら、電車で行こうと思い立つ。しかし、そんな県境の場所を通る路線ということもあり、福島・米沢間を通しで運行する列車は一日6往復しかない。これはハイブリット方式で行くしかないなと、地図と時刻表を読み解き早朝、米沢駅に向かうことになる。(写真上:早朝の米沢駅舎とホーム)




奥羽本線は、東北本線福島駅を起点に、米沢から山形・新庄・大曲と出羽山地の内陸部を北上し、秋田、大舘、弘前、終点・青森までの484.5キロ結ぶ路線。青森、福島の両側から建設が進められたが、福島・米沢間が開通したのは1899年(明治32年)のこと。萬世大路より南の板谷峠を超えるルートである。
しかしこの板谷峠も難所。最大勾配38‰(パーミル)で碓氷峠で紹介したアプト式の採用も検討された路線。かつ豪雪地帯であったことから、米沢までの40キロ区間だけで20か所のトンネル(開通当初)と急カーブの連続、谷間を走ることから高所に鉄橋をかける必要もあった。実際、列車故障事故や積雪、豪雨などの自然災害などによる不通も多かった路線だ。
その急勾配路線に駅を設置するため、本線から平坦地に線路を引き込むのが通過可能型のスイッチバックである。それがこの区間14キロほどに4駅連続で設置されるというなかなか他では見られない路線・区間。スイッチバックでジグザグに刻まれた動脈の開通が米沢をさらに開化させた。(写真上:大沢駅とその周辺、写真下:峠駅のスイッチバック旧駅への引き込み線とスノーシェッド)



福島県側から赤岩駅(福島県福島市、2021年廃止)、板谷駅、峠駅、大沢駅(いずれも山形県米沢市)。今回は米沢市域にある3駅を訪問したが、これらの駅は山形新幹線建設に伴い標準軌に改軌を行った際に、本線上に新駅を建設することになり引き込みスイッチバックは旧駅とともに使用されなくなった。
碓氷峠と同様、勾配克服に補助機関車(4110系蒸気機関車など)を必要としていた時代からすると、山形新幹線開通に伴い導入された「つばさ(初代400系)」や719系5000番台交流型近郊電車の開発・導入により、安全性やスピードアップ化の波がこの板谷峠を通る奥羽線の路線や駅の姿、車両を大きく変えたのである。
いずれも旧駅舎などは取り壊されているが、本線から旧駅にかけての区間は現存の3駅はスノーシェッドに覆われていて、引き込み線の部分は新駅に通じる通路などとして利用されながら、鉄道遺構として保存されている。これらは近代産業遺産に認定されている。(写真下:板谷駅のホーム上からのスイッチバック線と旧駅のホーム跡)



今回、米沢駅の駐車場にいったん車を止めて、米沢7:16発→大沢7:27着、(大沢駅滞在22分)大沢7:49発→米沢8:00着、(米沢駅滞在8分)米沢8:08発→峠8:25着、(峠駅滞在12分)峠8:37発→米沢8:54着と、数少ない列車を自分自身もスイッチバックしながらこまめに乗り継いで二駅を訪問。
その後、クルマに乗り換えて、萬世大路の第三世代にあたる国道13号で西栗子トンネル経由で板谷駅へ。大沢駅、峠駅はクルマでももちろん行ける場所ではあるが、険しい山道を通る上、大沢駅と峠駅の間は道なき道(一応県道だが)を大きく迂回しなければならないことから、今回の移動手段となった。(赤岩駅跡へは、周辺の道路事情などから訪問を断念。)
最後の訪問地の板谷駅に立った時、警報機が鳴りだし列車の接近を知らせる。福島方面から下りの山形新幹線「E6系つばさ」が線路脇にある36‰を示す勾配標をものともせず「翼」を得た如く軽快に急坂を登り終え走り抜けていった。苦労してスケージュールを練って、そして時間を費やしながら鉄道遺構を見た後だったので、技術の進化を目の当たりにした感じがした。(写真下:今回使用した二往復分の切符と、板谷駅を通過する「つばさ」。左の速度制限標識の下に「36.0(‰)」の勾配標が見える。)

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東洋のアルカディアを潤す「水窪ダム」と国営米沢平野農業水利事業

2024年10月10日 | 土木構造物・土木遺産



前川ダムを紹介したついでと言っては何だが、米沢市の「水窪ダム(写真上)」にも触れておきたい。最上川水系刈安川にあるロックフィルダムで、農林水産省東北農政局が建設したかんがい用のダムで、米沢平野土地改良区が受託管理しているダムだ。
堤高52メートル、堤頂長205メートルで、主に農業用水を確保するための目的であるが、上水道や工業用水にも供給されており、まさに米沢市を含めた周辺地域の水ガメ。1975年に完成した後、管理用発電の機能も加えられた多目的ダムである。
前川ダムを紹介するときに少し触れたが、山形市・米沢市を含むの山形県の内陸盆地にはため池が多い。これは盆地特有の山が浅く、そこに流れ込む川は延長が短く急流、古くから洪水や渇水に悩まされたが、水窪ダムにより米沢盆地の水不足を一気に解消を図るというもの。ただ、今回の見どころはダムだけではない。



以前、米沢地域は、土地は荒廃しやせていたため、なかなか作物が育つ場所ではなかった。特に渇水期には川には水が流れなくなることもしばしばで、農業を営むには難しい土地とされていた。そこに現れたのが上杉家9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん、写真上:米沢市内松が岬公園の鷹山公銅像)である。江戸中期のことである。
鷹山というと質素倹約のイメージだが、現代にも受け継がれる米沢の特産品の礎ともなった殖産事業を奨励した。それに伴い新田開発、加えてかんがい施設(黒井堰、飯豊の穴堰などは有名)の整備も積極的に推進し、次第に農地も拡大、藩の財政は好転、米沢の町も潤ってきたのである。
鷹山が藩主に就いてから100年ほど後の1878年(明治11年)、「日本奥地紀行」で米沢を訪れたイザベラ・バードは、米沢盆地を見て「東洋のアルカディア(桃源郷)」と表現するほどに。その時代の日本に対して辛口の評価が多かったバードの旅行記であるが、それほどまでに米沢は発展したのである(写真上:川西町フレンドリープラザの庭にあるイザベラ・バード訪問の記念碑と記念塔)。



ただ、水は足りない。大正期には電気ポンプで地下水や最上川(松川)などから用水を汲み上げるとともに、明治期から昭和初期までにため池も数多く造成されていった。それでも足りずに、1958年(昭和33年)、この地方は大干ばつに見舞われる。
農業用水確保のためのダム建設が求められ続けてきたが、1970年(昭和45年)国営米沢平野土地改良事業が起工し、水窪ダムの建設を核に盆地を縦断するように東西幹線用水路の整備、頭首工や揚水機場などが整備され、現在、米沢を真のアルカディアに仕上げたといえる。(写真上:黒井堰は土地改良事業より改修された(米沢市窪田)。もう一方の写真は、市内西側を流れる西幹線用水路の開渠部(米沢市笹野町付近))
この整備を機に、周辺の17の土地改良区・連合が合併。新たに設立された米沢平野土地改良区は、2002年(平成14年)農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)受賞。江戸期には藩主だけでなく家臣や領民が、現代も行政や土地改良区の関係者、そして受益者が心をひとつにしながら、2世紀をかけて「豊穣の土地」を作り上げたのだ。



※ダムカード(写真上)は、米沢市内、米沢市役所に隣接する「米沢平野土地改良区(写真下:米沢市金池)」の事務所受付で配布している。子ども向け(?)のパンフレット(写真上)も一緒にもらった。とても分かりやすい!
※水窪ダムは、洪水調整機能は持ち合わせていない。圏内で洪水調整をするダムは、最上川水系の鬼面川(おものがわ)支川の綱木川にある山形県営の綱木(つなき)川ダム(不特定利水、上水道、発電機能も持つ多目的ダム、写真下:米沢市簗沢)がある。
※黒井堰は、計画を立案し工事の責任者となった米沢藩の家臣・黒井半四郎忠寄(くろい・はんしろうただより)にちなむもの。黒井は「飯豊の穴堰」も計画立案したが、完成を見ないまま死去する。53歳の生涯だった。和算術に優れ、それが測量にも活かされた。
※静岡県にも「水窪ダム」があるが、こちらは「みさくぼ」と読む発電専用ダム。






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河道外貯留方式の「前川ダム」発見!石橋めぐりの思わぬ釣果

2024年10月07日 | 土木構造物・土木遺産


最上川水系の須川の支川・前川で石橋を探していると、とても珍しいダムがあることに気が付いた。「前川ダム」は、山形県営のダムで、洪水調整を目的に建設されたロックフィル式のダムだ。1983年(昭和58年)完成。堤高50メートル、265.5メートル、総貯水容量440万立方メートル。
まあ諸元だけみると普通規模のダムであるが、同じ前川から新たに河道を作り、同じ支川の小河川にダムを建設し水を貯留。ダムからの放流水をまた前川に戻すという「河道外貯留方式」という全国的に見ても珍しい方式を用いるダムなのである。
上山市や下流の山形市や山辺町などの前川・須川沿川は洪水被害が多い場所であったが、前川沿いにはダム建設の適地がなかったため、このような方式となったそうだ。ダム貯水池(忠川湖→山形県パンフレットに記載、写真下)へは約2.9キロ導水路で水を引き込み洪水調整を行うというものだ。(ダム建設前に、農業用水確保のためのため池があったことから、忠川湖にも常に水を貯留し不特定利水の目的も担っている。)



分水口は、前回紹介した石橋・吉田橋の下流300メートルほどのところ(南陽市小岩沢、写真下一枚目:右のトンネルがダム貯水池への導水路。)。この分水口を探すのに苦労したが、必ず建設時や現在も管理用として道路はあるはずだと踏んで、またまた山道にハイエースを乗り入れる。ダムを経て再び前川と合流するのは、やはり石橋・堅磐(かきわ)橋のある場所(上山市川口)である(写真下の二枚目:右に堅磐橋のある本流、左のコンクリート護岸部から流れ込んでいるのがダムからの放流水。)
導水路は5本のトンネルと開渠で構成、トンネル部は直径約8メートル。高水流量135立方メートル/秒中、分水口へは110立方メートルを導水路に導き、ダム流域から忠川湖に流れ込む30立方メートルと合わせ全量カット方式で防災に寄与することができる。
ダム本体へは、国道13号線上山バイパスの川口交差点から奥羽線のガードをくぐって5分ほど。道は狭く急坂か所もあるが、道路状況は良好。ダム貯水池はヘラブナの釣り場として愛好者に親しまれているが、釣り人は全国的に珍しいダムであることを知っているだろうか?まあ、私にとっては石橋めぐりの思わぬ釣果ではある。


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土木遺産・山形の石橋群6橋を見て思い巡らす

2024年10月05日 | 土木構造物・土木遺産


山形・置賜地方を散策してみた。山形県米沢や庄内、福島の会津などは新潟の自宅からも比較的アクセスも良く、クルマで片道2時間の範囲。これらの地域には何度となく足を運んでいるが、今回は明治期に作られた石橋(石で建造された橋)を探しに行く。
以前、架橋された年代は新しいものとはいえ、木の橋アーチ橋「八幡橋」を紹介した。橋とすれば木の橋は原点ということになるのだろうが、より強固なものとして石橋は江戸期から明治・大正期にかけて作られたものが土木遺産として注目を集めている。
最も多いのは九州の大分県。そのほかにも福島や今回紹介する山形では修復されながらも、保存状態も良く、かつ集中していることから、いずれも土木遺産に選奨されている。大分県の石橋は、江戸期のものもあって個別に選奨されているもののほか、緒方川のアーチ橋5か所は「石橋群」として選定されている。(写真上:中山橋2枚・上山市)



福島もそうだが山形のものもやはり九州から技術者を招へいするなどして施工されたものとのことだが、山形の場合は狭い地域に集中しているのが特徴で、特に上山市(置賜地方ではないが)、南陽市の同じ最上川の支流・須川水系に6橋が集中しているのは特筆すべきことだと思う。
須川の支川・前川には上流から南陽市に蛇ケ橋(別名・小巖橋)、その200メートル下流に吉田橋、上山市に入って中山橋、堅磐橋、須川支川の金山川に新橋、200メートルほど下流に覗橋といった具合だ。半径3キロ以内に6か所、場所を探すのを含めても2時間もあればゆっくりと回ることができる。
写真を見てわかるとおり、巧妙に弧を描いたアーチ部やきれいに積まれた取り付け(橋台部)に至るまで見どころも多い。中には石を切り抜て飾り模様が施されていたり、親柱や銘板なども実に味がある。ただ、かなり傷んでいる部分も多く、保存のための保守などは欠かせないといったところか。(写真上:蛇ケ橋(小巖橋)2枚・南陽市)



大分・九州には石橋が多く保存されているおり古いものも多くかなり広範囲に及ぶことからルーツと言っていい。福島では9か所が2022年に土木遺産。山形の場合も北は村山市から南の米沢市まで11か所が2009年に土木遺産に選奨されているが、今回の6橋は特に隣接しており、いずれも1878年(明治11年)から1882年(明治15年)と施工年も近い。
上山の楢下宿にある新橋と覗橋は羽州街道が幹線街道としての重要性があったことに起因するだろうし、前川に架かる4橋は栗子峠経由の新道開削(のちの萬世大路(ばんせいたいろ))の計画とともに建造されたのではないだろうか?いずれにしても初代山形県令の三島通庸(みしま・みちつね)が関わったとされる。
この三島通庸は薩摩の出身。山形県令に就くと反対派を押しのける謂わば強引な手法で土木事業を推進たことで有名だが、不毛の地とされた米沢をはじめ置賜地方にとって三島の手腕は、現在の都市形成や産業基盤づくり、山形県全体の流通において、後に大きな功労を与えたもので、今回紹介できなかった石橋を含め、大きな証として保存されているのである。(写真上:吉田橋・南陽市と堅磐橋・上山市、写真下:新橋と覗橋・いずれも上山市)

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