行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

ユーロ2024を観戦して、バルサの若手の活躍にニヤリ!

2024年07月29日 | スポーツ・スポーツ観戦
すでに世間ではオリンピックの話題で持ち切り。早くも日本選手の活躍が華々しく報道されている。それは日本人としては誇らしいことではあるのだが、このブログでは半月前に戻ってサッカー「EURO(ユーロ)2024」の話題を総括しておきたい。まあ、これも毎回触れていることなんで。
優勝はスペインでした!まあリーガを見て、バルサのサッカーに魅了されているもの自分にとっては嬉しいことではあるが、当初の予想はフランスの連覇、それを脅かすとすればイングランドかドイツかと踏んでいた。これらのチームはスター選手ぞろいだが、クループステージを見ていてもいまひとつ飛び抜けた強さが感じない。
ただ、グループリーグ三戦全勝だったのがスペインで、しかも決勝トーナメントではドイツ、フランス、イングランドを打ち破っての優勝だから、結局スペインのテクニックや組織力によりその強さと、ボール保持を主体とする近代サッカーのあり方を見せつけた結果となった。



いつも、ワールドカップやEUROを話題とするときには、若手選手を発掘することを楽しみにしている。ただ、今回の大会では、注目の若手は多かったものの、若手の台頭とか世代交代を予感させるというものではなかった。
というのも、多くの若手選手は各国リーグで、しかもビッククラブで活躍する選手、すでに注目を集めている選手が多く、あえてここに書き込んでも「発掘」とかは言えない選手ばかりなのである。
開催国のドイツのヴィルツ(21歳・レバークーゼン)、前回マークしきれていなかったムシアラ(21歳・バイエルン)、トルコのギュレル(19歳・レアルマドリード)、イングランドのメイヌー(19歳・マンチェスターU)、フランスのザイル・エメリ(18歳・パリSG)などがすでに注目の若手ということになる。



ただ、優勝したスペインにはラミン・ヤマル(16歳・バルセロナ、写真上)というとんでもない若手がいる。このヤマルもバルセロナですでにレギュラー。EURO準決勝で16歳で最年少ゴールを決めた。(決勝戦の舞台い立つときは誕生日を迎え17歳になっていたので、何か持っているとしか言えない。)
ただスペインには、前回大会からスペイン代表歴を積み重ねているペドリ(当時18歳、今大会21歳で、東京五輪に続きまたケガをしてしまった。)、フェルミン・ロペス(21歳)も今大会に出場し活躍した。みんなオリンピック世代なのにフル代表ですよ!
そして、今夏のパリオリンピックのスペインメンバーには、クバルシ(17歳)という選手がいる。注目!これがみんなバルセロナの所属で主要選手になっている。世界の若手も注目しているが、やっぱりバルサには目が離せない時代が訪れていることに改めて気づく大会であった。
(※毎回のことで申し訳ない、写真はWOWOWの放映から借用)
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改めて「赤谷線」の廃線跡を辿ってみた

2024年07月23日 | 鉄道


少し宮城県から離れることにする。といっても「くりはら田園鉄道」の跡地を見て、廃線つながりから地元新潟の「赤谷(あかたに)線」を見てみたいと思った。会津に行くときによく通る県道沿いを車窓から廃線跡を追っていたが、少しクルマを止めながら足跡を辿ることにしてみた。
起点は、羽越線・新発田駅。駅構内から下り方面に出て東へカーブを切って終点・東赤谷へ向かう18.9キロの路線であった。官営の製鉄所の専用路線として敷設されたもので、赤谷鉄鉱山から鉄鉱石を運んでいた路線を国鉄(当時の鉄道省)が地元の請願を受けて、1925年に旅客路線も開業した。当初は赤谷駅までで、その後東赤谷まで延伸された。
私が乗車したのは高校生の頃。すでに当時から赤字路線として知られていたが、その数年後1984年(昭和59年)に廃止。小さいときには、新発田駅を通るたびに構内でC11蒸気機関車を探すのが楽しみだった。羽越線の踏切前で育った自分にとって、小型のタンク式機関車は珍しかったのだ。



さて、廃線跡を辿ると、しばらく住宅街を進む。遊歩道として整備され、レールや鉄道標識などは残っていないが、ここは間違いなく路線であったことを確認できる形状痕跡は残っている。赤谷線を知らない人にとっては、あまり興味を引き付けることはないのであろうが、市民には散歩コースとして親しまれている場所のようだ。
郊外に出ると、遊歩道兼サイクリングロードとなる。途切れることなく、旧赤谷駅の手前の中々山というところまで続く。ここまで13キロの道のり。廃線当時どのような議論があったか分からないが、当時からしっかりと跡地利用が検討されてきた証のように思える。
郊外に出ると林の中を進んだり、田園地帯の真ん中を走ったり、景色を楽しみながら散歩やジョギング、軽快に走り抜けるロードバイクを楽しむ人に遭遇するが、途中駅のあったいくつかの場所では、ちょっとした憩いのスペースなども整備されていることがここに赤谷線が走っていた名残となっている。



ただ、鉄道施設として残っているのは、廃線後、利用客の弁としてバス輸送を引き継いだ新潟交通のバスの車庫があった場所に旧赤谷駅の駅舎跡(降下車したはずなのに覚えがない、多分)と、赤谷駅からすぐの棚橋川にかかる橋梁の桁がわずかに残っているだけ。旧東赤谷駅にあっては、多分このあたりにとしかご紹介できないほど痕跡は少ない。



赤谷線・東赤谷駅は、国鉄唯一のスイッチバックの終着駅だったそうだ。いまは赤谷集落からは飯豊登山口に向かう県道に「道」を譲っているが、ここからの勾配は33‰(パーミル)の急勾配。製鉄施設などが僅かな平地に作られたこともあって、渓谷に少し平らな土地が広がっているのが名残。
むしろ、鉄鉱山の集積地であった東赤谷から専用線でさらに鉱山までの4キロの間には、洞門やトラス橋の遺構が残っており、加治川治水ダムまでの間の道は狭いものの、不思議な光景や見栄えのする場所としてひそかな人気を集めているともいう。



新発田市内のお店で赤谷線の写真を飾っていた店があったような気がするのだが、どうしても思い出せない。一昨年、廃線の日の様子を「写真の町シバタ」で見たことがあるので、ちょっと拝借。赤谷線を伝える資料館などはないが、以前紹介した「新津鉄道資料館」に駅名標などの資料が展示されている(下の写真以外にも館内に赤谷線の資料展示があります)。



決して自分はダムマニアでも、廃線オタクでもない。鉄道自体も土木構造物で遺産の宝庫。各地域に眠っている(場合によってはすでに開花している)地域活性化素材として、その魅力や歴史・功績を発信していきたいと思っている。
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「くりでんミュージアム」は地元の愛を感じる施設だ!

2024年07月17日 | 鉄道


「くりはら田園鉄道」。新潟に住む私にはあまりなじみのない地方鉄道だが、名前だけは聞いたことがる。長沼ダムから至近の場所に「くりでんミュージアム」というものを見つけて足を向けることにした。
宮城県の内陸の一番北にある栗原市。くりこま高原がある町で、東北本線・石越駅(登米市)からくりこま高原方面に向かう鉄路がくりこま高原鉄道(愛称:「くりでん」)だ。終着の細倉マインパーク駅までの25.7キロの路線。1921年開業、2007年廃止。
廃線となったくりでんだが、それまでの功績を称え、思い出を残そうということから、ほぼ全線にわたって市域を走っていた栗原市が、旧くりでんの施設を使って整備したのが今回紹介することになるミュージアムや鉄道公園ということになる。



ミュージアムは、くりでんの若柳駅(起点の石越から2つ目の駅、3.1キロ地点)の構内・機関車庫を利用して整備された。ミュージアム本体は新設された様子だが、併設の機関車庫や客車庫、道路を挟んで公園内にある旧若柳駅はそのまま保存されている。
ミュージアム内の展示品や資料が凄い!細倉鉱山線として延伸、軽便路線から改軌(762ミリ→1067ミリ)、電化、度重なる社名の変更、三セク化などなどの数々の歴史も多く、廃線間もないことから旧鉄道設備をしっかりと保存、展示している。
ジオラマがこれまた一見の価値ありですよ。25キロの営業キロをぎゅっと10数メートルに縮めて再現。それは、しっかりとした栗駒の自然風景や沿線の生活を反映しているもので巧妙かつ美しい。この路線を知らない自分が引き込まれるくらいだから、地元の人にとっては永遠の原風景となるジオラマではないのか?(写真一番上)



旧機関車庫は当時そのまま保存され公開されているといった感じ。保存状態もとてもよく、古めかしい機械類もしっかり整備されており、今でも動かせそうなものや整備員の汗や息遣いまで見えてきそうなものばかり。
車両もきれいに保存されている。ついこの間まで使用されていた気動車から、古い電車や貨車なども本物が展示され、内部も公開している。一部、旧若柳駅構内に保存されたものは動態保存(動かせる状態での保存)されているという。
くりでんミュージアムの最大の特徴は、廃線跡を少しだけ残して、これら動態保存の車両に乗れるイベントを実施している。加えて、気動車の運転体験もできるんです(特別講習を受講した場合。廃線跡は各所で見ることができるが、体験乗車・運転体験やレールバイク用に若柳駅付近の公園内に体験専用軌道として900メートルを保存)。



東北の地方路線で、平成の合併の人口6万人弱の栗原市が、これだけの投資をして、今後の保存にかかる経費を費やす覚悟をして整備したのか?くりでんミュージアムは単に観光資源としてだけではなく、地元の人たちの愛情や熱意を感じる施設なのである。
この愛は、先に少しだけ触れたがその歴史にあると思う。多くは語れないが、旧国鉄路線でもない約100年の歴史の中に、地元民の足として運営され、宮城県や旧沿線の行政、地域住民、細倉鉱山を受け継いだ三菱マテリアルの数々の支援など、社名を変更してきた中にもしっかり地元に根付いていた鉄道路線だったのであろう。
ミュージアムを運営するNPO法人・Azuma‐reは、旧くりでん社員や運転士を職員として採用・雇用している、これもアッパレ!このミュージアムとくりでんを愛する人たちの愛に、これまでいくつか触れてきた廃線跡地を訪問する気分で足を踏み入れた鉄道オタクの私は、頭をぶん殴られたような気がした。

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治水目的のユニークな形式のダム、長沼ダム&最上小国川流水型ダムを訪ねて

2024年07月11日 | 土木構造物・土木遺産
一泊二日という時間と費用をつぎ込んで鳴子ダムだけいてくるのはもったいないと、あらかじめ見どころを探って宮城県北部に足を踏み入れる。大崎・栗原・登米の各地区は、県と仙台の喧騒と賑やかさを離れて、栗駒山地のふもとで豊かな自然を感じる土地である。
決して土木構造物の中心にダムがあるわけではないし、マニアでも固執しているわけでもないのだが、鳴子に行くなら近年完成した珍しい機能を持つダムがあるので紹介しておきたい。



一つは「長沼ダム」。こちらも大倉ダムと同様、ネーミングライツにより「パシフィックコンサルタンツ長沼ダム」の愛称がつけられている。2014年(平成26年)完成、宮城県土木部の施工による県営の多目的ダムで、既存の自然湖「長沼」を利用した極めて珍しく、国内でも最大規模のダムである。
堤高は15.3メートル、ちょっとした堰堤。ダムといても主堤体の中央に見えるのは少し大きめの水門にしか見えない(写真上)。しかし、これがアースダムの中では湛水面積、総貯水容量で国内最大規模のダムなのである。(北海道・雨竜第一ダム(朱鞠内湖)の副堤である「雨竜土堰堤」を除く。)
堤長が1,050メートル。農業用水・発電用水を貯めるアースダム(堰堤)の特性として堤長が長くなることは多いが、多目的ダムとしてはこれまた一番長いという。また、レクリエーション機能(いわゆるダムの役割(目的)記号の「FAWIP」にない「R(=Recreation)」)を有していて、この役割を担うダムは国内2基でだけ、長沼ダムと兵庫・石井ダムしかない。めちゃくちゃ地味だけど、非常に貴重なダムなのである。(写真上:長沼の湖畔にある公園「長沼フートピア。奥の湖面に漕艇場のコース看板が見える。)



長沼ダム(長沼)は、迫川(はさまがわ)に接している。迫川は北上川の支流で、昔から暴れ川といわれ、毎年のように農地や宅地に湛水被害を及ぼしていた。迫川に限らず、北上川下流の支流では北上川の水が逆流して被害を大きくしてきた。
そのため、隣接していた長沼に導水路を築き、増水時に水を引き入れて下流部を守るというのが長沼ダムの大きな役目である。そのため平場の沼に水を引き入れるため、どでかいコンクリート式のダムが必要ということではなく、2,700メートルの導水路(写真上)もダム施設の一部で、ダムの構造を示す各ランキングで上位に押し上げているのである。
迫川に接する導水路末端には、川の堤防より低い越流堤(写真上)が設けられていて、迫川の水位が上がると水が長沼に流れ込むという仕組みだ。迫川を挟んだ迫川左岸には南谷地遊水地もあって、非常時には長沼ダム付近は下流部の登米地域を守る要となっているのである。



もう一つのダムは、鳴子からの帰路、県境を越えた山形・赤倉温泉の上流にある「最上小国川流水型ダム」だ。「流水型」?ちょっと聞きなれないことだけでも貴重な気がするが、初めにこのダムのある場所の背景や環境に触れておきたい。
最上小国流水型ダムのある赤倉温泉は、山形県最上郡最上町、宮城県の県境に位置する秘湯だ。小規模な温泉宿が数軒、今年の暖冬少雪の中、冬季国体の会場となった赤倉温泉スキー場がある。そこに流れているのが最上川の支流・小国川は急流で清流、「松原アユ」というブランドにもあっているアユの遡上地であり、手つかずの自然が残されていた。
「脱ダム宣言」の運動が高まる中、最上川の有力支流の中でダムのなかった小国川でのダム建設は、当然のように漁協を中心として建設反対、温泉への影響や森林伐採による環境変化を憂う声も上がる中、度重なる温泉街の浸水被害から守るということから、環境にやさしい「穴あきダム」の建設が計画された。それが今回紹介する「最上小国川流水型ダム」だ。



堤高41メートル、堤頂長143メートル、2020年完成、山形県が事業主体の見た目は普通の重力式コンクリートダム。ただ、堤体下部にある常用洪水吐は小国川の水面レベルとほぼ同じで、常時、流れ込んだ水をそのまま流す仕組みになっている。つまりコンクリートの壁(ダム)に穴をあけただけのシンプル構造で、いざという時に一時的に水を受け止める。これが流水型ダムといわれるものである。
洪水調整に特化したダムで、普段は水を貯めないため水質の悪化はなく、川の流れとともに土砂も流れる。計画高水流量(ダム計画において設定される、河川に流れ込む計画上の流量)330立方メートルのうち、洪水時にはダムに設けられた洪水吐口から80立方メートルを下流に流すという仕組み。(写真上:ダム上流部。普段は水を貯めこまない。)
流水型ダムは歴史的には以前からあるものの、「脱ダム宣言」からも環境にやさしく、工費や管理費削減にも貢献するとのことで注目が高まっている。小規模ダムがいくつか建設中であるが、2029年完成予定の福井・足羽川ダムは流水型ダムのなかでも大規模なものとなる。治水目的のダムは、「命を真ん中に考える」ことでもある。

※今回紹介に二か所のダムは現地管理所に人は常駐しておらず、ダムカードについては、長沼ダムはクルマで10分ほどの「宮城県登米合同庁舎」で、最上小国川流水型ダムはすぐ下流の赤倉温泉「赤倉湯けむり館」で配布している。
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東北随一のアーチダム「鳴子ダム」のすだれ放流裏話

2024年07月08日 | 土木構造物・土木遺産


北上川をさかのぼるのは少し後回しにさせていただき、今回宮城県に長居をしてしまったきっかけを作ったダムである「鳴子ダム」を紹介することにしたい。申し訳ないことに、ここを訪れたのは今年4月の下旬。広瀬川や貞山運河、石巻を訪れたのと前後しての話になる。(すでにFacebookには投稿済み。)
きっかけは、鳴子ダムに限ったことではないが、毎年春先にダムの水を観光放流するという情報を入手。このダムの放流は「すだれ放流」と言われ、美しいと評判。しかも、観光公社が主催する「鳴子ダム直下見学ノルディックウォーキング」というイベントに参加できることになった。
ノルディックウォーキング?まあ、片道3キロというから大丈夫!新潟からだとちょっと遠いし、午前中のイベントということもあって、前泊して鳴子に向かうことになった。まあ、鳴子ダムのあるのは江合(えあい)川(別名「荒雄川」ともいう。)といって、北上川の支流。北上川についに踏み込むことにもなった場所でもある。



鳴子ダムの完成は1957年(昭和32年)。外国人技術者に頼らず、日本で初めて日本人だけで建設をしたアーチ式コンクリートダムだ。堤高94.5メートル、堤頂長215メートル。東北地方整備局直轄の洪水調節、不特定用水、発電などを目的とする特定多目的ダムで、2016年に土木遺産に選奨。
すだれ放流は観光の意味合いが強いが、今回実施したのは3日間のみ。雪解けの水をダムにため込み、農業用水にも利用されていることから、毎年春先に実施されている(そのほか、利水目的で自慢の斜坑トンネルの常用洪水吐からの放流ももちろんある)。鳴子ダムは鳴子峡とともに鳴子温泉郷のシンボル的なダムであり、すだれ放流は一大イベントでもある。
今回のウォーキングツアーは、ガイド付きで管理用の道路を歩いてダムの直下まで行けるのが魅力。高さが100メートル近くあるアーチ式ダムで、堤頂付近の非常用洪水吐から流れ落ちる水は、さぞ迫力があるかと思っていたら、むしろ華麗で美しい。



ところで、鳴子ダムのすだれ放流、3年前まではゴールデンウィーク中に実施され、夜のライトアップなども行われていた。観光の度合いが強いといったとおり、鳴子温泉の春の風物詩として定着していたのだが、ライトアップは2022年の開催途中で突如中止。すだれ放流も2023年からは4月中の平日開催になってしまった。
これもコロナの影響?もあるのかもしれないが、ウォーキングツアーのガイドの話では、あまりにも人が押し寄せて、温泉街を貫く国道47号にまでも大渋滞を引き起こし、警察から中止を要請されたのだそうだ。なにせ、2022年のすだれ放流&ライトアップ時には、ダム脇の駐車場までの2キロは3時間以上の渋滞だったとか。
地元の観光資源であり、住民や観光客の交流の場所でもある鳴子ダム。整備局のダム管理所が掲げるダムビジョンでも「地域の連携」を大きく掲げているが、ダム見学に関係ない人まで巻き込む大渋滞は確かに困りもの。渋滞対策などを施した計画の練り直しが必要であるとのことだが、ダム駐車場は狭く山あいの一本道であることから、根本的解決策は容易には見つかりそうもないとのことだ。




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東日本大震災、最大の悲劇・大川小学校を訪ねて「命を真ん中に」を考える

2024年07月05日 | 旅行記・まち歩き
仙台市内から名取川河口へ、そして運河伝いに石巻へたどり着いたが、実は一回の滞在ですべてを取材しているわけではなく、春先から何回となく新潟から宮城へと訪れて記事にしている。
自分としては最終的に北上川を紹介したいと思っているがその布石であり、本流を前に寄り道してしまっている感がある。確かに常願寺川や只見川などにも何回も足を運び、次々に見どころを見出しては話をつないでいたことを思い出す。川沿い見渡すと(今回は運河などの紹介も含んで)、話は長くなってしまいがちなんですよねー。
ただ北上川の話に行く前に、震災支援で石巻に足を踏み入れたことによって、どうしてもここの場所は避けて通れない場所。これから紹介しようと思っていた北上川ではあるが、奇しくもその河口に位置する「石巻市震災遺構・大川小学校」がそれである。



これまでも東北沿岸沿いを何回か訪れ、震災関連施設で遺構や伝承館、メモリアル施設などはこのブログでも紹介をしてきた。被害の大きかった宮城県沿岸であるが、以前に紹介した「旧気仙沼向洋高校」や石巻に入ってこのブログでは前々回紹介した「宮脇小学校」、「荒浜小学校」は学校にいた児童・生徒は全員無事であった。
津波の高さ、石巻市は9メートル、「釜石の奇跡」といわれた岩手県釜石市では12メートル。しかし、釜石市の小中学生でも、登校していた児童生徒が津波により死亡した例はなく、欠席や下校途中で5名が亡くなっている(生存率は99.8%)。
ただ、大川小学校では、震災直後校庭に待機した児童78名中、70名が死亡、4名が行方不明。校内にいた教職員11名中10名が津波により命を落としている。これは東日本大震災だけではなく、学校管理下にあって児童等が亡くなった事案としては戦後最悪の惨事なのである。どうして、大川小学校だけが?これは震災後も様々な場面で問われることになる。



ご承知の方も多いかと思うが、この惨事を生んだ経緯として、まず地形。河口5キロにあった大川小学校は海抜1.2メートル。学校から海岸方向には小高い丘があって、海の様子を確認することはできなかった。大きな揺れに見舞われた後、児童は寒い校庭に集められて、教職員は点呼や保護者への連絡にあたっていた。時間は50分も経過していた。
釜石の奇跡とは全く違っていた点として、防災教育は実施されていたものの、教職員や避難住民には津波が襲来するという危機感がなく、児童を迎えに来た保護者が「大津波が来る」と叫んでも、教職員は「落ち着いてください!」と諫めていた。児童の中にも「早く逃げよう」という子どももいた。スクールバスも会社から「子どもを載せて避難」の無線が入っていたが、その日は校長が不在で避難を判断する大人の統制が取れていなかったのか、教頭と学校に避難してきた地区住民の間で、避難する場所で口論となっていたともいう(教頭は「山に上がらせてくれ!」と訴えていたそうだ)。
危険回避の認識の欠如、避難の遅れに加えて、こともあろうか川の土手を目指して避難してしまった(写真下:新北上大橋付近の右岸道路から見る北上川)。実際、校庭を挟んで校舎の反対側には小高い山(標高75メートル、写真下)がある。子どもたちも自然学習などでよく上っていた山だそうである。認識がなかったことで、情報の確認、避難の時期や方向判断を完全に誤ってしまったことなどが被害を大きくしてしまった理由である。



ボロボロになった校舎を目の当たりにしてショックは大きいのだが、すぐそこに裏山があるのを見上げて複雑な気持ちになる。荒浜小学校や宮脇小学校、釜石の小中学校で伝えられた「不幸中の幸い」や「間一髪の避難」、「大人や子どもの機転」などは、ここにはない。
大川小学校があった地域は津波により壊滅状態であったために、この大惨事が発生していたことは次の日になってから詳細が伝えられることになるが、十数年経過したいま、「大川伝承の会」が作成したパンフレットには、「じっとしゃがんで待っていた校庭はどんなに寒くて、怖かったでしょう。黒い津波を見たときに何を思ったでしょう。事実に向き合うことは容易ではありません。」との記載され、後世に悲惨な出来事を継承している。
校庭や周辺は公園化され、校舎脇には「大川震災伝承館(写真下:館内の展示の様子)」が整備された。土手への避難経路の途中、多分津波に多くの児童や住民が巻き込まれた地点には慰霊碑(写真下)があり、ただただ何回となく涙し、手を合わせることしかできなかった。とにかくいざという時に、「命を真ん中に考える」ようにしたいとの思いを強くするばかりだ。


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