行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

鹿瀬・隧道と吊り橋で一直線に発電所に続く道

2020年10月31日 | 旅行記・まち歩き


今回の鹿瀬のまち歩き、かなり山の中にどっぷりとつかることになる。「クマ注意!」そう、今年はクマの出没が多い。しかも、その範囲が市街地にまで及ぶことも。
クルマでの移動が可能ではあるが、撮影の時は車外に出るので注意なければならない。

既に使用されていない隧道跡、導水路といえばいいのか、管理用のトンネルといえばいいのか、その出口の先には、つづら折りの道が川沿いの道路につながり、その先に見えてきたのがなんと吊り橋。



やはり通行できない状況になっているが、ここにも時速10キロ、制限重量1.5トンの標識。やはり、車が通行していたと思われる形跡がある。
一旦鹿瀬大橋まで戻って、かなり迂回をしなければならないのだが、川の対岸の道路へ回ってみることにする。意外にも、発電所近くまで容易に行ける道がある。現在のダム関連施設の管理道路にもなっているようで、丁寧に「東北電力用地」との看板もあった。
少しだけその用地に食い込む形になってしまうが、吊り橋の反対側にたどり着くことができる。



かなり傷みが激しい。決して入らないし渡ったりしないので、草を刈ってくれませんか!というぐらい、何かひっそりと隠されているよう雰囲気さえ感じられる。



親柱の名盤がよく確認できないのだが、鹿瀬側に「東北電力株式會社 鹿瀬発電所」と「角神橋」と、発電所側に「昭和丗三年十二月架替 長岡市大原鐵工所」とある。
確実に発電所管理用の橋であり、隧道もそのために改修されたことを裏付けるもの。昭和33年に架替ということは、それ以前にも橋が架橋されていた、道として利用されていたということにもなる。
まあ、昭和3年完成の鹿瀬ダム・鹿瀬発電所だから、その前後からあったとしても不思議ではない。何せ、私が走った遠回りする経路よりも、絶対早く行けるでしょうからね。



調査の結果、ダム・発電所のための隧道と吊り橋で確定!隧道は「角神隧道」で、古い導水路を回収したもの。吊り橋は「角神橋」で昭和33年に架替られたもの。
上の国土地理院の地図を見ても、向鹿瀬の新潟昭和の工場から鹿瀬発電所まで、ほぼ直線で結ばれている。凄いこと考えたものですよねー!

ただ、ダムの建設資材を運ぶために、私が恐る恐る入った右岸側の道には、軽便鉄道が走っていたという事実も知る。(阿賀町の「阿賀の学習教材サイト」参照。)
鹿瀬が繁栄の一途にあった時の勢いと合わせ、負の部分も感じることができる足跡が、向鹿瀬にはいっぱいあるんです。ぜひ、ふるさと学習で子どもたちにも伝えてほしい。そして、東北電力さん、もう少しサービスしてPRしてほしいなっ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿瀬の山の謎のトンネルは、先人の偉業を伝える水路だった

2020年10月28日 | 旅行記・まち歩き


阿賀町の鹿瀬を紹介するのは、鉄橋シリーズを含めると今回が4回目となる。(実際、足を運んだのは、ここまで3回。)
前々回、鹿瀬ダムを紹介したが、その時に見つけた隧道を紹介しておきたい(決して、廃墟・廃道マニアではないのだが、やっぱり気になってしまうんです。

鹿瀬大橋から向鹿瀬に渡り、新潟昭和の工場をぐるっと迂回しながら山道を駆け上る国道459号。登り切ると鹿瀬ダムに通じるがその手前、新潟昭和の工場の裏側付近で、すぐ道路の側にその隧道が見える(写真上)。
すでに廃道。単管パイプでしっかりと進入できなくしてある。安全のためだろうが、中を覗いて見てみると、意外にきれいで新しい。しっかりと壁面にはコンクリートが塗られている(写真下)。
しかも、交通標識は、高さ1.8メートル制限、速度10キロ制限、一時停止?クルマが走っていたということですよね?厳しい山道を恐る恐る低速走行しながら、反対の出口にも行ってみたが、標識等も同じ感じ(写真下)。



新潟昭和(旧・昭和電工鹿瀬工場、写真下)に電気を送るため設置されている鹿瀬ダム・鹿瀬発電所(写真下)用の管理道路か?川沿いの旧道は遠回りな上、かなり危険か所も多い。向鹿瀬から鹿瀬ダムまでの新しい国道459号がいつできたかは分からないが、これとて雪が降るとかなり厳しいはずだ。(未整備区間の多い国道459号は、「シゴク(至極)厳しい路線)」と言われているとか?)
ただ、この隧道に関する資料は少なく、インターネットでもなかなか有力なものがヒットしない、謎に包まれて、心霊スポットなどとも言われているようだが、その用途に使われていたことには間違いなさそうだ。



ただ、上流・発電所方向の出口付近に、石碑と看板が設置されていました。なんと新田開発のために水を引き入れる水路用の隧道だったのです(写真下)。
200歳の導水路?149間?メートルにすると350メートルですよ!これは、近代土木遺産以前の凄い代物ですよ、大発見!当時は素掘りだったはずですが、発電施設の管理のために移管・改修されたのだと考えられる。少し残念。
東北電力の発電所、ダムをはじめとする発電施設の管理上、あまりオープンにしたくないのだろうし、また安全管理・メンテナンスのことを考えると通行させるわけにもいかない。分かりますけどねー。(あくまでも、私の推測です。)

それにしても、枝村甚兵衛さんは偉い!7年間をかけて、向鹿瀬の新田(今の新潟昭和の工場敷地)に水を引き入れて、開田に成功した。
どうしても、銅山の閉山、美田開墾したものの工場に売り渡し、戦中の工場は捕虜収容所、企業城下町として繁栄を極めたものの赤字が続き、有機化学肥料にシフトしたものの新潟水俣病の被害をもたらす、何か「負」の歴史の中で、先達の偉業が見えなくなっているのはないかと思うと、複雑な気持ちになってしまう。
ところが、その先にもまだあった!(続く)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿賀町鹿瀬で見つけた、スリルが味わえる吊り橋

2020年10月25日 | 旅行記・まち歩き


さてさて、阿賀町・鹿瀬に行ったついでというわけではないが、偶然にも目に留まったのは「鹿瀬橋」という立派な吊り橋。橋マニアとしては外せないいっぴいと思い車を止めた。
場所は、旧鹿瀬町役場(現・阿賀町鹿瀬支所)近くで、国道459号の鹿瀬大橋のすぐ下流。役場や温泉地がある鹿瀬と、JR磐越西線・鹿瀬駅や昭和電工(現・新潟昭和)のある向鹿瀬を結び、重要な生活路線として活躍。以前はクルマも通行していたというが、今は歩行者専用(一般道路)となっている。



鋼製の吊り橋。トラス一連を鋼塔からのワイヤーで吊り、両端に20メートルほどのRC桁を持つ。橋長172メートル。支間130メートル。吊り橋としては新潟県内では最長(多分)。
1953年(昭和28年)に完成。以前、床材は木製だったが、自重を軽くするために昭和56年にグレーチングの橋床に変更。グレーチングの方が軽いんですね?
とはいっても、このグレーチングからは、下の川面が丸見え。頑丈にできているので、普通に歩く分にはあまり揺れることはないが、結構高さと長さがあるのでスリルが楽しめる。ここを子どもたちが学校に通った?まあ、今はスクールバスで津川まで通うそうですが、以前はあった光景です。



流量豊富な大河・阿賀野川を一跨ぎして、ロケーションも最高の地。いまの時期、紅葉もいいかもしれない。
以前紹介した磐越西線の橋梁群、前回紹介した鹿瀬ダムや赤崎山などの観光地を組み合わせれば、かなり楽しめるんじゃないですかねー。(温泉宿も何軒かあるんですが、食べるところはなさそうなので、津川で探してください。)

でもねー、まだまだ見所があるんです、阿賀・鹿瀬。また紹介しますね!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿賀野川・鹿瀬ダムは「天女の花筏(はないかだ)」から見て!

2020年10月22日 | 土木構造物・土木遺産


まずは惜しげもなく、最初から大パノラマ写真を見ていただこう!
川のネタ、土木遺産ネタに戻って、今回は阿賀野川の「鹿瀬ダム」を見に行ってきたのでご報告。
以前にも書き込んだことだが、阿賀野川水系のエネルギー量は包蔵水力・既開発とも国内第三位。明治期から開発が進められ、国力増強が叫ばれていた1928年(昭和3年)に完成した、当時としては東洋一とも言われたコンクリート式の重力ダムである。
水量も多く、流れも速い、川幅や水深もあるという阿賀野川に、発電目的のために「半川締切工法」という、川の流れを左右に偏らせ、ダムを半分ずつ建設するという珍しい工法が採用された。

堤長304メートルに、ゲートが20門。鹿瀬発電所と鹿瀬第二発電所(ダムの左右)で10万4500キロワットを発電する。事業主体は東北電力。地元では地名からあ「角神(つのがみ)ダム」と呼ばれている。
当初は、すぐ川下にある昭和電工鹿瀬工場(現・新潟昭和)に電気を供給するなど、工業用の電力を発電していた。
阿賀野川の電力開発計画の中で、最初に作られたコンクリート式のダムで、シンボリックな存在。「日本の近代土木遺産」の中でもAランクです。



重厚なダムは、間近に見ることも可能なのだが、最初の写真でご紹介したとおり、ダムだけでなく、ダム湖や川の流れ、付近の山々を一望できるスポットがある。赤崎山がそれ。
ダム一帯は、赤崎山公園として整備されていて、観光地となっている。標高371メートルの赤崎山は、登山道も整備されているが、実は林道を使ってクルマで頂上近くまで上ることができる。
写真撮影のスポットは、クルマで行ける道としては終点。切り立った崖のところに展望台「天女の花筏」が設置されており、ご覧いただいた眺望が楽しめる。

林道は道路が狭く、急坂とカーブの連続。クマも生息しているというので注意が必要です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

設立40年を迎える「県立自然科学館」は、今なお面白い

2020年10月19日 | 旅行記・まち歩き


久々に孫を連れて「新潟県立自然科学館」に行ってきた。久々と言っても何年ぶりになるだろうか?自分の子どもを連れて行った以来ということも考えられるので、数十年振りかも?
自然科学館は、1981年(昭和56年)の設立。青少年の健全育成のためにと建設され40年余り。いまなお県内の教育施設の中でも中心的な役割を担っている。



この施設の売り物は、実は日本海側最大級のプラネタリウム。この日もいくつかのプログラムが上映されていて人気を博していたが、4歳の長男の長男、10カ月の長男の次男を連れての入場は無理だと諦める。
途中出場・途中入場は固くお断りと言われ、30分ほどの間じっとしていられる訳もないので仕方ない。実物大の恐竜が動く「マイアサウラ劇場」はオープンなスペースだが、迫力あるシーンこそおとなしくしているものの、すぐに動き回っていましたからねー。



それでも展示スペースはいくつかのコーナーに分かれていて、見て触れて、遊びながら科学について学習?いやいや、これもまだまだだが、親子一緒に楽しむことができる。今時点の我が家では、間違いなく親の方が勉強になります。
子どもが手を出したくなる展示物が豊富で、スイッチを押すと動いたり光ったりするというだけでも十分!スペースも広く、小さい子どもが走り回っても大丈夫なくらい(走ってはいけません!)。

設立から40年を迎える施設とは思えないほど館内は整備されているし、きれいです。展示物は、「確か見たような?」というものなのですが、古いという感じはしない。もちろん新しい展示物を随時紹介している。科学技術は日進月歩ですからねー。
どっぷり半日遊ぶことができたし、孫は「帰りたくない!もう一度回ってから帰る!」とそれなりにお気に召した様子。今度はプラネタリウムに挑戦しましょう!
※「開館記念ウィーク」として、11月1日~7日は、入館料が無料となる(開館日が、1981年の11月1日)。今がチャンスだ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地交通インフラ2、三陸のローカル線は?

2020年10月17日 | 鉄道
三陸地方の公共交通は、震災後、新しい交通体系により復旧整備が図られてきた。
鉄道は、東北本線から三陸へ向かう支線は、比較的被害が少なかったこともあり、JR大船渡線(一ノ関~気仙沼間)や釜石線をそのままJR東日本が運営している。
ただし、津波により壊滅的な被害を被った海岸線は、気仙沼線の柳津から気仙沼間、大船渡線の気仙沼から盛間)は、JRにより「BRT(バス・ラピッド・トランジット)」というシステムで運行されている。
また、おなじみの三セクの「三陸鉄道」だが、昨年3月、JR山田線の釜石・宮古間が移管され、盛から久慈までの163キロという三セク鉄道の中では最も最長路線を持つことになった。




まず、JR線と三陸鉄道。BRTを含め、各沿線主要の都市でJRと三陸鉄道は連絡し、ホームなどを共有している。背骨である東北本線の各駅から、肋骨のように伸びている線をJRが、リアス式の海岸線を縫って走る三陸沿岸を三陸鉄道が運営する形となっている。どちらも、険しい地形の中を縫って走る路線である。
地方鉄道の役目である沿線の地元民の通勤通学の貴重な足として利用されていることはもちろん、東北新幹線の各駅から観光客を誘導するのがJRで、三陸鉄道は鉄道そのものを観光に取り入れた形で人気を得ている。

ただ、乗客は少なく、運営にも厳しさを持つローカル線には違いない。
三陸鉄道は、1994年の赤字転落を機に、徹底的な合理化と観光客の誘致を図ろうと経営改善計画を策定したが、その計画を実行する最中に震災に襲われた。それでも岩手県や国の補正予算により復旧にこぎつけ、キャラクターを用いたり会員制度や各企業からの支援を得るなどして、さらに震災学習列車などを走らせるなどアイディアを続々と出し続けている。
赤字や震災などの逆境を逆手に取ったチャレンジ精神は、多くの人に感動を与えていることも確かである。

(写真上:JRは釜石線のキハ110系気動車使用の「快速はまなす」2枚、三陸鉄道・新潟トランシス製の「36-700形」は震災後クウェートの支線で導入された車両。)
(写真下:BRTの車両(陸前階上駅付近)と車内、専用車線(大船渡付近)、駅(盛駅)。)




一方、一部の鉄路をBRTにしたJR東日本。こちらは会社全体が黒字企業ということで、国からの支援が得られず、海岸線の鉄路について独自再開の道を断念した形となっている。もちろん、鉄路再開を望む声は大きかったが、代行輸送のバスが、そのままBRTに移行してしまった感が強い。
BRTは、鉄道のあった敷地をバス専用船として使用することにより、鉄道ほどではないが、一般的な路線バスよりもスピードと定時運行を高めるシステムである。ただ、気仙沼線・大船渡線のBRTは、一部一般道を使用するところがあり、スピード確保と定時運行というメリットを少し減少させている。

BRT専用路線内にも信号や踏切という設備は必要である。信号機や標識、駅という名の停留所の整備、ロケーションシステム(運行状況確認システム)などのも導入されている。しかし、それでも鉄道の復旧と運営からすると安いというところの思いがあったことは間違いない。
実の運行は、ミヤコーバス(宮城交通の子会社)と岩手県交通に委託されている。「JRは赤字路線を見限った!」ともいえるかもしれないが、何と運行本数は震災前の鉄道の時より3倍に増えている。
設備に対する投資も、旅客輸送そのもののランニングコストも安く、鉄道車両を動かすというより、バス(クルマ)を運転(運行)するというそのものが手軽(?)なんでしょうしね。「投資を抑え、運行頻度を高める!」BRTのメリットもそれなりにある訳であります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地交通インフラ1、全線開通の常磐線は?

2020年10月13日 | 鉄道


今回訪れた東北の被災地での交通事情に触れておく。
まず、福島浜通りを南北に結び、首都圏とも直結する路線であるJR常磐線は、この春に全面復旧した。最後まで残っていたのは上り方向・富岡駅と下り方向の浪江駅区間。やはり原発事故の影響が色濃い地域で、避難指示の解除に伴い運転再開された。

以前紹介したのは、2013年9月に上り方向の広野駅まで一部開通したとき(すでにこのとき二つ先の竜田駅までの開通が決まっていた)。そして仙台方向からは、2013年3月、復旧したばかりの浜吉田駅まで足を運んだことがあった。
今回全通ということで、どうしても「いわき」と「岩沼」間は通しで乗りたかったので、新幹線を乗り継ぎ、仙台経由で特急・ひたちで双葉駅へ。その後の目的地が三陸方面にあるなら仙台に戻るのが普通だが、いわき出て、磐越東線で郡山へ、そして仙台というループコースを選択した。



ひたち・ときわで使用されるE657系は乗った記憶が飛んでいたが、調べてみると2013年の春のダイヤ改正で、スーパーひたち、フレッシュひたち(当時)のE657への置き換えはすべて終了していたということだし、2013年に撮影した写真が残っていたので、前回いわきへ行くときに乗っていたことは間違いない。
首都近郊通勤用電車のグリーン車のように、指定券販売済みの状況が座席上のランプで分かる。全席指定席だが、座席未指定券にも配慮して、最寄り駅から間もなく乗車してくる席については、黄色の店頭でお知らせするという優れもの(写真上)。
路線としては、内陸移設工事なども施されていて、いわき・仙台区間ではほとんどが単線、そして高架区間が多い。路線移設に伴うもののほか、前回紹介した双葉駅のように、新設された真新しい駅も目立つ(写真下)。



特急以外は、上り下り方向とも原ノ町駅で折り返し。直通の特急ひたちは、一日三往復。(以前は、直通3往復のほか、上野・原ノ町間に2往復、いわき・仙台間に1往復あった。運行距離373.9キロ(品川・仙台間)、運行時間4時間31分(ひたち3号)は、JR東日本管内で最長。)ダイヤ改正により、浪江駅までは東京近郊区間、下り方向・小高駅までは仙台近郊。ただし、Suicaのエリア間の相互利用はできない。まあ、いいことなのかどうか?
不通の時からすると利便性は格段に上昇したとはいえ、帰還困難区域(特定復興再生区域)を走るということからして、乗車利率は極めて低いと思われる。地域住民の足になろうと思っても、住民がいない区間を走り抜けるのだから。
この状況からこそ抜けなければ、通勤者、通学者などを乗せる、本来の公共交通の役目はなかなか果たせない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復興に向かう東北各地の中で、双葉町の現実を見ると…

2020年10月09日 | 旅行記・まち歩き
東北3県を巡り、3か所の震災関連施設を見学させていただき、思うところが多かった復興支援の旅。
原子力災害はまだまだ復興には時間がかかること、津波の恐ろしさを後世に伝えようとする人々の力を感じるなどの思いを新たにするが、気仙沼で10年前の梶原裕太さんの映像に出会ったことは大きな感動と収穫だった。
気になるのは、福島原発のお膝元である双葉町の現状である。気仙沼も陸前高田も釜石も、訪れるたびに確実に復興は進んでいるのを感じられるのに、福島県双葉町では行きかうダンプカーや建設用の重機は多いものの、何やら重苦しい感じがする。



常磐線双葉駅に着き、私のほかに降り立った客は一人だけ。カメラを抱えているところを考えると、同じ目的を持つ初老の男性。
駅前は閑散としており、建設用の機械だけがあちこちでうなり声をあげているのが印象的。
併設のステーションプラザなる案内施設を覗いてみても、誰もいない。係の人から声を掛けられ、放射線の線量計の貸し出しやシェアサイクルなどの説明を懇切丁寧に教えてくれる。あまりの丁寧さに、申し訳ないことをしているような気になってくる。
整備されたシェアサイクルのステーションの脇に、駅を利用する人の自転車置き場があるが多くの自転車が止まっている。しかし、よく見るとすべてがホコリをかぶったままの放置自転車?10年前のあの日からそのままの状態になっている。(写真上:真新しい双葉駅舎とステーションプラザ内部、写真下:駅前のシェアサイクルのステーションと駅併設の自転車置き場)



しかし、ここに来て線量計とは?まあ、携帯するか否かは任意であり、貸し出しも無料。ただ、測定結果を残すために、免許証をコピーして念入りに個人情報を記入させられるので、後日追跡調査とかもあるのではないかと、ある意味放射能災害の危険性を実感することになる。
線量計を貸し出す事務所(双葉町役場コミュニティーセンター連絡所)で手続きをしていると、飲み物とお菓子を渡された。購入できる場所がないので持っていったほうがいいとのこと。これまた申し訳ないほど。確かに駅の真ん前の商店の自動販売機ですら稼働していない。(写真下:貸し出しを受けた線量計と駅前の自販機)



自転車に乗って町に出てみると、すぐさまゴーストタウンが広がる。
道路わきには草が生い茂り、あの日から使用されてない公共施設や商店、一般住宅も雑草に覆われており、放置されたクルマはやはりホコリをかぶってタイヤが潰れた状態。住宅ではガラスの割れているところも多い。避難後、火事場泥棒的な空き巣被害にでもあったのではないかと気になる。
新設された双葉駅舎とは正反対に、まさに時間は止まったままなのである。(写真下:駅前の市街地の様子)



交流センターで話を聞いてみると、特定復興再生拠点地域と言っても、他の被災地と比べ復興は始まったばかりだとか。その先駆けが常磐線の開通と双葉駅改築、そして東日本大震災・原子力災害伝承館の設置だった。私の訪れた翌日には伝承館脇に双葉町の「産業交流センター」もオープンした。
しかし、帰宅困難地域に変わりはないんですよね。交流センターの係の方も、町民でありながら他の居住地から通いながら訪れる人の対応に当たっているという。双葉町の行政機能は、いわき市内に役場を置いている。
伝承館で復興はまだまだと感じたところではあるが、生活感のない市街地を目の当たりにして、その思いはさらに強くなる。また、双葉を確認する機会を得て、私も伝えていきたいと思う。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いわてTSUNAMIメモリアル」で、過去の津波に学ぶ

2020年10月05日 | 旅行記・まち歩き


さて、岩手県の震災関連施設としては、昨年オープンした陸前高田市にある「いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)」を紹介したいと思う。
こちらはアクセスは抜群。BRTの駅が施設の真ん前の駐車場に設置されている。高田松原津波復興記念公園内にあり、道の駅「高田松原」も併設、例の「奇跡の一本松」のすぐ脇にあることからも、この日も多くの観光客が訪れていた。人の入りでは今回紹介している中では群を抜いている。まあ、唯一無料だしね。

ネーミングのとおり「津波」に特化したした施設。というのも、東日本大震災で犠牲となった方が1600人以上(不明者200人)という陸前高田市は、市町村別では宮城県石巻市に次ぐ死者数だが、そのほとんどが津波によるものである。それを教訓とし、悲しみを繰り返さないために、岩手県は公園とともに整備を進めているものである。
海岸線から市街地のほとんどが津波により浸水。唐桑半島と広田岬に囲まれ、複雑かつ奥深い広田湾、そして幾分海岸線に平野が広がる土地で、人口がこの平地に密集していたということが、津波被害を大きくしたのだと考えられる。



ここでもガイダンスシアターがあって、「命を守り、海と大地と共に生きる」というテーマで、施設設置の趣旨や全体の構成を紹介している。
ただ、入口を進むと、中央のホールに折れ曲がった橋桁(鋼製)とめちゃくちゃに潰れた消防車が展示されており、来場者に強烈なインパクトを与えるとともに、何の解説も必要とせずとも津波の脅威が伝わってくる。
また地方整備局だろうか県庁だろうか、防災指令室のようなところがあって、当時のやり取りが音声で流れ、被災地の映像などが映し出されるコーナーもリアルで緊迫感がある展示でした。

ここには岩手県三陸沿岸を中心として、各地から提供された資料や展示物も集められているので、三陸全体が受けた被害や惨状、復旧・復興などの対策についても知ることができる。
被災直後、消防団や地元建設業者の活躍などを紹介するコーナーなどもあり、他の施設にはなかなか見られなかった視線がある。「逃げる、助ける、支える」などの視点から津波時の人々の行動をひも解くことで、命を守る教訓にしようという展示もいい。



特に気になるのは、津波の歴史を紹介するコーナーで、三陸は何度となく津波の被害を受けているということ。明治の「明治三陸地震」によるものからひも解いてみると、30年から50年というスパンで大津波の被害に見舞われていることが分かる。
更に専門家の調査によると、M9級地震による津波は3500年間で7回は襲来し被害が出ているものと思われるとのこと。まさに津波と戦ってきた地域であることが分かる。
この施設でも多くの語り部がガイドとして活躍しているが、他の団体を案内している解説に耳を傾けてみると、繰り返す津波被害を教訓にして生きてきた地域の方々の思いが伝わってきます。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気仙沼の「東日本大震災遺構・伝承館」で中学生に泣かされた

2020年10月04日 | 旅行記・まち歩き


東北の太平洋沿岸で震災の伝承施設の数が一番多い宮城県。その中で、気仙沼市にある「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」にお邪魔することにした。
震災遺構として、旧向洋高校の校舎を震災直後の姿をそのまま残しながら、伝承館を併設し、市民や観光客のために周辺を含めた整備が進められている地域にある。

気仙沼から南下、本来なら風光明媚な場所で、私のお気に入りだった気仙沼線だが、今はBRT(bus rapid transit=バス・ラピッド・トランジット)という、旧線路を利用したバスシステムで陸前階上駅へ。
前回紹介した東日本大震災・原子力災害伝習館と同様、徒歩だと駅から20分はかかりそうな場所で、調べてみると地元にタクシー会社があるので、BRTの到着時間合わせお迎えをお願いした。目的地が同じ初老のご夫婦がいたので、声をかけて一緒に乗り合わせることにした。(歩けない距離ではなさそうだが、来訪の際は事前にチェックした方がよさそうです。)

やはり復興が進んだとはいえ海に近い目的地周辺は、広々とした土地に倉庫らしい建物のほかに建物がポツポツとしかなく、新しく整備されたグランドゴルフ場に高齢者の生き生きとした声が弾んでいるという印象。
その脇に、震災遺構として保存された校舎が痛々しい姿を見に飛び込んでくる。グランドゴルフ場は、旧向洋高校のグランドを活用して作られていた。



エントランス施設である伝習館自体は新しく建設されたもののようで(写真上:伝習館入口とエントランスホール)、まずシアターで13分ほどの映像を見る。震災時やその直後の様子などを映像で見る。その後、いよいよ校舎へ。
津波は4階の教室まで及び、窓だけでなく校舎そのものに大きな傷跡を付け、部屋の中まで漂流物を押し流してきた状況を当時のままの姿で残してある。学校で使われていた道具が散乱し、流木やクルマなども流れてきた。クルマガあったのは3階ですよ!
如何に津波の威力が凄いものであるかを目の当たりにできるし、自然の中での人間の無力さを感じざるを得ない。当時、学校にいた生徒170人は屋上に避難し全員無事だった聞いてホッとしましたがー。
(写真下:旧校舎外観、車が突っ込んだ3階教室、中庭で折り重なるクルマや瓦礫、そして旧体育館は外側の壁だけが残る)



その悲惨な旧校舎を巡って戻ろうとした出口付近で、当時の報道報道番組のビデをが流されているコーナーがある。
ここで私は、10日遅れで挙行された階上中学校の卒業式での映像が目に留まる。「苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからのわたくしたちの使命です。」卒業生代表の梶原裕太さんの言葉。私は人目もはばからず泣いた。はじめは嗚咽だったが、しまいに号泣。
地元の階上中学校は、当然ながら避難所となっており、避難民が一緒になって卒業式を見守り一緒に涙し、大きな拍手。きっと15歳の少年の立派な言葉から、大いに勇気を得たに違いない。

このシーンはもちろん10年近く前の震災直後、NHKの番組で取り上げられたもので、当時から大きな反響をがあったらしく、あちこちの震災関連施設やメディア、ネットサイトでも取り上げられいます。(私は初めてで、とにかく衝撃でした。)
YouTubeなどでもアップされているのですが、全文を読み上げるという映像はなかなか見つからない(文字だけというのはあります。)ただ、ぜひ、これは現地に行ってみてほしい。私はここを訪れ、彼に会えただけでも来た甲斐があったと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「東日本大震災・原子力災害伝承館」、これは福島だけの問題ではない

2020年10月03日 | 旅行記・まち歩き
さて今回の東北復興支援と旅は、被災地である太平洋沿岸各地にある東日本団震災の脅威を後世に伝えるために設置された伝承施設を巡ることとして入念な計画を立てた。
国土交通省(震災伝承ネットワーク協議会)の調べでは、青森から福島の4県で、3.11以前から設置されているものも含めると239件(施設)あって、震災後10年を迎えようとしているいま、増加傾向にあるという。
今回は、福島・宮城・岩手の3県の代表的な施設を訪問したのでご紹介したい。



最初は福島県。先月20日にオープンしたばかりの「東日本大震災・原子力災害伝承館」。海岸にほど近い復興計画ゾーンの中にある広大な敷地に、真新しい近代的な建造物が、福島県が設置したもの。ここのオープンの情報に触れたため今回の旅を思い立った。

JR常磐線の二葉駅からは約2キロ。歩けば30分ほどかかる場所だが、駅前にシェアサイクルがあって無料(デポジット制)で利用できる。場合によってはタクシーも止まっていることもあるらしいが、交流センター案内の方に教えていただき助かった。
双葉町は、駅前を中心に特定復興再生拠点区域に認定されているものの、帰宅困難区域には違いなく、人気のない街並みを抜けると、ダンプカーや建設用重機だけが音を立てながら動いているのが印象的な広い場所に出る。その奥の方に見えるのが今回目指す伝習館だとすぐにわかる。



施設内に入ると、各展示室に入る前の導入部とっして、円形のシアター(写真下)に案内され、震災前の様子や地震・津波の状況、そして原子力発電所の事故や住民の避難などの経緯をまとめた10分ほどの映像を見ることになる。
何が起こって、何を目指すべきかをしっかり考えるための時間を共有することは大事ですからね。シアターから螺旋状に上がっていく通路にも、これまでの歴史や地震発生当初からの対応について紹介する展示がある。

その後、福島第一原子力発電所の事故直後の対応、県民の思い、長期化する原子力災害の影響、復興への挑戦という各コーナーでの展示室を回りながら、教訓とするとともに、未来について考えることのできる構成となっている。
最初のシアターの映像を見た後、らせん通路を通って、時系列に各コーナーが設置されているのは理解がしやすい展示になっている。
(展示室内は撮影禁止のため、外観やエントランス、周りの状況等の写真だけになってしまうことをお許しいただきたい。)



展示物を見ての印象とすると、まだまだ復興に時間がかかるということ。既に10年経過しているものの、これから原子炉の核燃料を取り出すことや解体すること、そしてそれをどのように処分していくかということは、私が生きている間には解決できないことである。
くしくもこの施設を訪れた日に、この原子力災害における国を相手取った裁判で、国の責任も東京電力と同等であるとの2審判決が下った。宮城や岩手にはない震災後の課題を抱えるの福島県。福島県民や双葉町・大熊町の町民だけが考えるのではなく、国や国民が一緒に考えていかなければならない。未来のために…そんな思いにさせられた今回の訪問だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀河鉄道人気を支える2つのRCアーチ橋

2020年10月02日 | 土木構造物・土木遺産
「大人休日倶楽部パス」(JR東日本管内、4日間、15,270円)がGOTOキャンペーンに合わせてなのか、年間予定以外に発売されるというので購入、仕事を休ませていただき、何回目になるのかは忘れてしまったが、自分なりの「東北復興支援の旅」に出かけることにする。

今回は、震災関連のメモリアル施設を中心に、被災地の状況をお知らせするつもりだが、前後逆になるものの、ミッションを終えて一息ついて釜石線を途中下車。鉄道好きには聖地とも言われている宮守川橋梁と達曽部川橋梁を訪れる時間があったので、秋田駅での時間調整に先にそちらを紹介しておく。
(ちょっと、被災地における感想などは、デリケートなものになりそうなので、写真や記憶を厳選しながら慎重に書き込んでいきたいと考えている。そのような事情により、本題より趣味が先行し失礼します。)



宮守川橋梁は、釜石線の路線全体を宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を題材にのせ、そのイメージがぴったりと近年急に人気のスポットなった。
「道の駅・みやもり」は、宮守川橋梁の愛称となっている「めがね橋」の冠も付けられている道の駅で、宮守駅の下り方向に少し行って国道がその橋梁下をくぐり終えたところにある。
橋が見える広場からは、宮守川橋梁の全容を眺めることができて、夜にはライトアップされる。これが幻想的のようで、そこを走る列車はまさに銀河鉄道のようだとか。

半面、達曽部川橋梁は、同国道沿いにはあるものの、人里離れた山の中、森の中にひっそりとたたずむ。
達曽部川の深い谷が宮守川との出会いの部分にあることもあって、その全容は対岸からか川の中からしか見ることができない。ちょっと寄り道の鉄道ファンの私のような者をばは、近寄せられないといったところなのか?
アクセスやロケーションの違いで宮守川橋梁に人気を奪われているところがあるが、実は宮沢賢治のイメージはこちらの橋梁の方がマッチしているという話もある。



宮守川橋梁が5連のアーチ、達曽部川橋梁が6連のアーチの違いがあるが、径間も景観も似ており、同じRC(鉄筋コンクリート)の充腹アーチ橋で、釜石線の歴史の中で共に昭和18年に竣工。
もちろん釜石線の歴史はもっと古いのであるが、宮守川橋梁は架け替えによって誕生し、以前の橋脚がすぐ脇に残っているのが写真でも分かる。
一方、達曽部川橋梁は、以前はプレートガーダー橋だったが、そこに型枠を組んでコンクリ―を流し込んだという、ちょっと強引な工法が用いられおり、ガーダー橋の鋼部分を今でもコンクリートが包み込んだままになっているという。工期と工費の関係か?

もちろん、二つとも選奨土木遺産です。
ちょっと私も強引に途中下車をして、鉄道ファン必見ののスポットに行ってきましたのでご報告まで!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする