行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

まじまじと「デッドセクション」を見学してきた

2020年11月25日 | 鉄道


隣接するM市に数日滞在する機会があったので、休日を利用して「デッドセクション」を確認してきた。
デッドセクション?鉄道の電化区間において、電流や電圧、周波数などの違いにより「死電区間」、つまり電気を動力とする列車への給電するための架線に、切り替えのために電気を通さない区間、デッドの区間を設ける場所のことを言う。

JR東日本管内では、幹線では東北本線、常磐線、羽越線に交直(交流・直流)切替のためのデッドセクションが設けられており、羽越線では村上駅と間島駅間に設けられているのである。(そのほかにも電圧や周波数の違いや、乗り入れる会社間の違いによって、全国各地のJR線・私鉄などでも各所で設けられている。写真下:デッドセクションを示す表示と予告標識)



何が面白い?何が違う?って感じですよねー。
確かにこの区間を走る電車や電気機関車は、交直両用のものを使用しているので特に問題はないのだが、JR東日本のデッドセクション三線におけるローカル輸送で、常磐線以外は完全乗り換え方式になっている。
東北本線からすると黒磯駅から下り方向、羽越線では村上駅から下り方向が交流区間。普通列車は、必ず乗り換えなければならない。羽越線では直通の気動車が何本かあるが、もちろん気動車はディーゼルエンジンなので、電化・非電化そのものが影響しない。東北本線は、黒磯駅で完全に別路線になるかのように電車を乗り換えることになる。



その中で、交直両用電車がいくつかあって、現在羽越線で使用されている特急「いなほ」のE653もそのひとつ(写真上)。
実はこの車両、常磐線の「フレッシュひたち」として活躍した経歴を持つ。(以前にも何回か触れている。2013年7月7日記事参照)常磐線や羽越線など、交直切替が必要な路線を走れる電車は限られているのだ。
羽越線の三面川の鉄橋付近で車内灯が消えるでしょ?あれは死電区間・デッドセクションを通過しているときのサインでもある。最近、常磐線では普通電車でもE501、E531など蓄電装置の改良で消灯しない列車が登場して、惰性で通過する際、車内灯が消えるというのは羽越線ならではの光景となった。

羽越線に限って、村上以北のローカル輸送を気動車に頼るのは、同じ運転区内ある米坂線や磐越西線などの非電化区間で車両の相互運用を行っていることからによるもの。
長年、色とりどりのキハ40形シリーズを用いてきたが、キハ110や最近ハイブリッド型のGV-E400系(写真下)などを導入し、随分乗り心地もよく、スピード化されてきた。
電化区間を気動車が走るという、これも新潟・羽越線ならではの光景なのだ。

また、貨物を牽引する電気機関車は、長年、交直用に全国的にもEF81が使用されてきたが、現在羽越線ではEF510(交直用、写真下)を使用している。
「それがどうした?」の世界ですよね、意味のない記事で、すいません。近所にあるデッドセクションですので、通過時に思い出していただければ。




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新津油田、日本の近代化に灯をともした一丁目一番地

2020年11月22日 | 土木構造物・土木遺産


先に、中野貫一と中野邸記念館・泉恵園を紹介したが、中野貫一が石油王として活躍したことや、新潟の石油の歴史に触れることのできるのが「石油の里」だ。
新潟市秋葉区(旧新津市)の新津油田・金津鉱場だった場所には、先の中野邸・泉恵園のほかに、石油関連施設が点在し、歴史公園化されている(写真上)。
石油の世界館(写真下:世界館の内観)、里山ビジターセンター、古代館などの石油に関連する施設のほか、石油の精製施設跡(写真下)、油井跡が公園内の丘陵に点在する。金津から草水町にかけての新津丘陵北部には、煮坪という自噴の油井跡のほか手掘り・機械掘りの井戸が160本以上確認されている。



古くから石油が取れることは確認されていたが、本格的に採油が始まったのは江戸時代。そして明治期に入って中野貫一が上総掘りをはじめとする機械掘りを導入し、大正期には年間で12万キロリットルを産油する日本一の油田となった。
この明治期から大正期の機械掘りの施設群が、日本の石油業界だけでなく、日本の産業界に大きな光明をもたらしたということで、「近代化産業遺産」に認定(経済産業省・平成19年)されている。
保存されている油井の多くは、綱式機械掘り。ポンピングパワー(写真下:外観内観の2枚)という動力源から、ケーブルを動かして油井に伝えられて原油を汲み上げるるという方法だ。その足跡が丘陵の遊歩道から容易に確認できる。ここが日本の近代石油採掘の「一丁目一番地」なのだ。



阿賀町から新津丘陵へ、「クマ出没」の危険を顧みず山歩き。私にとっては結構険しいハイキングコースであったが、そこにで見ることのできる近代日本の繁栄を支えたであろう重厚な施設群は、静かなれどもその栄華を伝えてくれている。
近代化産業遺産のほか、平成18年度に日本の地質百選選定委員会により「日本の地質100選」に選定、令和元年に一般社団法人日本機械学会から日本国内の機械技術面で歴史的意義のある「機械遺産」に認定、平成30年に文化財保護法に基づく「新津油田金津鉱場跡」の国史跡指定、土木学会の現存する重要な土木構造物2800選で金津鉱場油井群がAランク(選奨土木遺産ではありません。)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新津油田、まずはもみじの中野邸の紹介

2020年11月20日 | 土木構造物・土木遺産


近代産業資産として、新潟市秋葉区にある「石油の里・新津油田金津鉱場」を紹介するつもりだったが、先にこの油田の採掘に成功し、「石油王」と呼ばれた中野貫一の邸宅「中野邸記念館」を紹介したい。
というのも、紅葉の名所で、紹介する写真は11月上旬に撮影したものだが、まだこの三連休も見頃は過ぎたとはいえ、まだ十分楽しめるという情報から、少し遅くなってしまったが、「赤色は弥彦にも勝るとも劣らない」と言われる邸宅内の庭や隣接する庭園・泉恵園があるからだ。

中野家は、代々庄屋でいわゆる豪農。自宅近くの新潟市秋葉区(旧新津市)の丘陵で、早くから自噴する石油に目を付け、明治期に苦難の末に商業ベースの油田を掘り当てることに成功。当時、日本の三大油業者(中野興業、日本石油、宝田(ほうでん)石油=いずれも新潟県が発祥の地、いずれも現・ENEOS)となるまでに至った。
この新津油田は、西山・東山油田(現長岡市・柏崎市・出雲崎町)からすると、中野貫一を筆頭とした中野家の事業とされていて、帝国石油から日本石油に引き継がれ平成8年まで採掘されていた。まあ、日本一の油田と言っていいでしょう。(まあ、新津油田は、後日紹介するとして…)



中野邸記念館は、そんな中野貫一の偉業と中野家繁栄の足跡を紹介してくれるところ。公益財団法人により管理・公開されている。
建坪は往時650坪(現存するのは250坪)。邸宅の本館は応接室や賓客室をいくつもそろえ、5つの蔵や大玄関とともに公開されている。
最初に紹介した写真のとおり、前庭・主庭・中庭も見事であるのだが、圧巻は隣接する山をまるまる回遊式の庭園にした「泉恵園」だ。中野家の庭であり墓所でもあるこの場所に、日本でも有数の数を誇るもみじが植栽されている。
これが知る人ぞ知る「赤」の紅葉のスポット!(ちょいと健脚向けのコースで、滑りやすいところもあるので、履き慣れた運動靴でお出かけください。)



「泉恵園」ですかー。泉のように石油が湧いて、恵みをもたらした?もみじの赤は、燃えるような石油のイメージでもあったのでしょうかね?
中野寛一の熱意によって開発され、近代化されていった新津油田であるが、何か閑静な庭園を回遊していると、遠くから機械掘りの音がかすかに聞こえてくるかのよう。ここで、いろいろ考えたんだろうなー、中野さん。
(本当に、私の写真は紅葉のピークに少し早かったようで、書き込んでいるような燃える「赤」を紹介できずに申し訳ありません!)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長生橋は、長岡市民の愛で東西をつなぐ

2020年11月16日 | 土木構造物・土木遺産


「新潟ブルース」つながりであれば、残る古町について触れるところだが、あまりに安直なので土木遺産の方向に!
萬代橋が、新潟市民のシンボルならば、長岡市民のシンボルは?そう、「長生橋(ちょうせいばし)」ですよね。長岡花火でも、ナイアガラなどが仕掛けられる橋である。

現在の長生橋は三代目。これは萬代橋と同じだが、竣工は1937年(昭和12年)だから、8歳年下。でも長さは850メートルと万代橋を上回る。
下路式カンティレバー(ゲルバー=片持ち橋梁)鋼トラス橋という構造で、しかも13径間を持つのは非常に稀で、というか他にはないのではないかと思うのだが、そこまでマニアックでないし、調べきれないところがあるので明言は避けたい。



しかしながら、初代の長生橋となると1876年(明治9年)に完成しているので、これは万代橋の初代より10年早く架橋されたことになる。
それまで信濃川は長岡城の守りの要となっていたが、戊辰戦争により長岡城が落城(1868年)。その後、川を境に川西・川東に分かれていた長岡の町を、一つに結び付けるために架橋された。
この辺の信濃川は、流量も多く流れも速いため、架橋前には渡し船の事故が頻発。念願の橋であったこともあり、これら市民の思いが受け継がれ、今なお愛される橋となっているのではないか?



上の写真は、初代の長生橋の建設に力を尽くした広江椿在門の功績を称える碑。橋の西詰に設置されている。功績を忘れないように!
そしてもう一枚は、市民有志がで組織された現長生橋の80周年の記念事業において、親柱にロゴマークを配したプレートが設置されたもの。
まあ、これらも市民が長生橋を愛してやまない証というものですかね?現在83歳となりますかね。
2013年(平成25年)、土木学会選奨土木遺産に認定。

長生橋は、ライトアップされているというのですが、ちょっと夜長岡まで出向くチャンスがないので、長生橋を愛する会と新潟県が設置した看板でお許しを。(この看板も西詰に設置されています。)









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬代橋の歴史こそ文化財としての価値を高めている

2020年11月14日 | 土木構造物・土木遺産


新潟ブルースつながりではないが、新潟をまちあるきする機会があったので、萬代橋(ばんだいばし)を紹介しておきたい。これまた新潟県民ならずとも、新潟のシンボルとして誰もが知っている橋である。

日本一の長さを誇る信濃川。そこに1886年(明治19年)に初代の木製橋が架橋されて、現在の萬代橋は3代目。鉄筋コンクリートのアーチ6連、橋長306メートル、幅22メートルで、1929年(昭和4年)6月に竣工した。
当時としては、最新のコンクリート橋で、充腹アーチ橋として国内最大の支間長を誇った(中央部の2連)。
言わずと知れたニューマチックケーソン工法(空気潜函工法)で橋脚の基礎が作られたが、初めて日本人技術者のみでこの工事を行った。



側面に御影石を張り付けて、石積み風の化粧張りが風格を醸し出しているほか、橋上のライトや橋側灯がアクセントとして設置されている。
当時新潟県が建設した橋であるが、財政厳しい折に、このような意匠にお金を費やすことに、大きな議論を呼んだようだが、結果、これらがあったからこそ国の重要文化財に指定されるに至ったようだ。(2004年(平成16年)指定。これをきっかけに、「万代橋」とされていた漢字表記を「萬代橋」に戻した。)

初代は、橋長780メートルもあったという。現在の東詰めは、中州の万代島で、当時は東側にさらに川があった(万代シティなどは川の中?)。新潟市(左岸、古町等がある現在の新潟島。旧長岡藩)と沼垂町(右岸、旧新発田藩の河港・内陸水運の拠点として栄えた)の古くからの対峙を架橋により結び付けたとされる。
新潟大火(1908年、明治41年)で半分以上焼け落ちた初代をリニューアルして完成した二代目は、広大な土地を抱える沼垂町に現在の都市機能を形成する意味で、文字通り大きな橋渡しとなった。1914年(大正3年)新潟市と沼垂町は合併。沼垂に市営の港が設置された。

三代目の最大の危機は、昭和39年の新潟地震。太平洋戦争の空襲に会わなかった新潟(原爆投下の候補地だったから?)だが、天然ガスと地下水の汲み上げで地盤沈下が頻発。そこに、液状化という言葉が初めて使われた新潟地震の影響で、現橋は1.2メートルも沈下。(その後も沈下して、当初より1.4メートルのマイナスとなっている。)しかしながら、上流に架けられた完成間もない昭和大橋が落橋したのに対し、萬代橋は物資補給路としての機能を担い、災害復旧に貢献したのである。

単に、当時の最大級の構造物としてだけでなく、苦難を乗り越え、地域を結んできた歴史も、萬代橋の風格や趣に花を添えているのかもしれない。だからこそ、国の重要文化財として、土木学会選奨土木遺産としての価値も高い。



実は三代目は、電車軌道が敷設される予定で、当時としては破格の橋幅がとられていた。そういえば、新潟交通が白山前と燕間で営業運転していた電鉄線があった。新潟駅まで延伸されていれば、いまの新潟市街地の交通体系も変わっていたはず。
クリーンな動力で、東大通のグリーンな並木の中を、「新潟グリーンレール」とか言われては路面電車の姿、見たかったなー。

そして、橋を設計したのは、かの田中豊(関東大震災後、永代橋や清洲橋などの墨田川の橋梁建設に携わる。東京帝国大学(現東京大学)教授。土木学会会長)という説があるが、実はその指導を受けた若い技術者・福田武雄という人(大阪市出身。東京大学・名古屋大学・千葉工業大学教授を歴任。土木学会長)。それも24歳の時、5カ月で設計を終えた。これまた凄い!

橋などの土木施設を、単なる構造物だけとして見てはダメですよ!私たちに便利を提供してくれる中に、歴史とその歴史を作ってきた人をしのび、感謝しなければなりません。













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新潟駅の「青い灯」が消える時に立ち会いました

2020年11月12日 | 鉄道


「忘れられなくて、一人さまよえば、青い灯がゆれる、新潟駅よー」は、美川憲一の「新潟ブルース」。カラオケなどでは、新潟県人であれば歌ったことがある人多いですよね?私も大学生時代から歌っていました。いつの間にか、下宿の友人が歌えるようになるほどですから。
この歌の歌詞では、「万代(萬代)橋」、「古町通り」、「新潟駅」が一番から三番まで盛り込まれているが、「青い灯がゆれる」の表現は、新潟を訪れる県外の人にとっての玄関口である新潟駅で、実際見て取れるところが印象深いものになっているようだ。ノスタルジックな駅前バスセンターとともに、故郷の風景ですよね!



新潟駅は、都市再開発のため、万代口と南口の道路を結び、バスターミナルなどを設置する。それに伴い新潟駅はというと、平成19年から高架化の工事が進められている。かれこれ13年。
その工事も、昭和33年に建設された万代口の駅舎ビルが解体工事に取りかかるということで、いよいよ再開発計画の工事も終盤を迎えることになった。(上の写真は、万代口に設置されたこれまでの駅の歴史をまとめた看板と万代口の仮設改札口)

駅の南口の開発や在来線の3階(新幹線と同じ階)への立体化、特に羽越線の特急「いなほ」は、新幹線ホームと対面ホームに到着し、乗り換えの利便向上と乗り換え時間の短縮なども行われてきたが、これも駅周辺整備事業・連続立体交差化の一連の計画に盛り込まれたものである。
あとは万代口駅舎の改築やバスターミナルの整備を行い、高架下に南北の道路を結ぶという工事になる。来年度中には高架化を完全に終え、その2年後に広場などの工事を終えて完成となる。



昨夜、11月11日の24時(12日の午前0時)、いよいよ解体工事を迎える万代駅舎に掲げられた「駅名標」、そう「青い灯」で県内外の人たちに印象深かった看板の灯が消された。(上の写真は、午前0時をまたいで、駅名標の点灯・消灯の写真)
私も立ち会いました!大勢の方々が、私の一つ先輩である新潟駅万代駅舎の青い灯が落ちるのを見届けた。
少し寂しいものの、新しい新潟駅と駅前広場がどんな風に生まれ変わるのかを楽しみにしたい。駅前バスセンターも名残惜しいなー。(バスセンターカレーは、駅前にはありません。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小千谷「星野屋」が、この時勢に積極的な店舗改装に踏み切った

2020年11月08日 | 食(グルメ・地酒・名物)


夏に発電所を見に行って、以前紹介したことのある「星野屋」に立ち寄った。(2017年5月7日の記事参照)
行ったばかりだったのに、先日娘が遊びに来て「小千谷の星野屋に連れて行け!」というので、再び小千谷へ。
まあ、小国の次は小千谷、続けざまに十日町へ、はたまた西会津に鉄橋を見に行くこと数回、長井も2回、そして前回まで紹介してきた津川・鹿瀬にどっぷり浸かっている身。星野屋なら、目をつむっても行けまっせ!

ところが、夏に行った時と秋になった今回行った時と店構えが大きく違っている(写真上)。プレハブになっていました。どうやらお店の改装中のようです。
星野屋は、果物店?パーラーか喫茶店?以前の店構えは果物店と軽食が取れるイートインスペースが同じフロアにあった。しかし、8月時点ではすでに店先のテイクアウトのみで営業。「やはりコロナの影響か?」と思っていた。
そんな時、突然プレハブになってしまったので、何事が起きたのか心配になったものの、実は「コロナウイルスに対応した、明るく楽しいお店に変身するため」の店舗改装とのこと。いやいや、人気店ならではの積極的な営業展開の改装だったとは。



上の写真のとおり、3年前に訪れたときの写真(再掲)と仮店舗のプレハブでの行列は、何ら変わりない!変わっていたのは、間違いをなくし、接客時間を短く、そして素早く調理するために、あの膨大なメニューから番号を紙に書いて出すこと。
待ち時間も少なくなっていたし、回転もいい。これは、今のご時勢で重要なことではないだろうか。きっと新しい店舗も、必ずこのテイクアウトの流れを意識した造りになることは間違いないだろう。



もちろん、フルーツてんこ盛りのクレープ類も変わらない。シャインマスカットのクレープは季節感もあり、フレッシュで爽やかな味。テイクアウト用のプチクレープ8個入りやタピオカなどもあるし、もちろん市民に人気のたこ焼きもあるし、
果物の販売は別のところでやっているようで、店員に声をかければ案内してくれると言っておりました!
新装開店は、12月20日頃を予定しているとか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津川の風景・街並み・文化風土は「やる気」の塊

2020年11月05日 | 旅行記・まち歩き


本当に阿賀町の皆さんには、うるさいほど付きまとってしまいごめんなさい。6回連続は、初めてのことではないだろうか?
先に津川の町のことについて触れていればいいのに、ついつい美味しいものを先に紹介してしまったが、津川の町自体とても魅力的なので、シリーズ(?)の最後としてご紹介する。

上の写真は、阿賀町の中心地である津川のまちのシンボル「麒麟橋」と「麒麟山」である。この辺りには、切り立った山が多く、これまでも紹介してきたとおり阿賀野川の景色と組み合わさった景勝地があちこちと多い。
かのイザベラ・バートは、「日本奥地紀行」で1878年7月1日に津川に到着し、見所多い津川のまちを散策。津川から阿賀野川を船で下る途中、「ライン川より美しい」と絶賛している。日本の農村部の文化水準の遅れと汚さなど、津川に入る前は酷評が多かったバードだが、津川だけは至極お気に入りの場所だった。
津川は江戸時代、会津藩の要所で「河港」として栄えた。上の麒麟山を間近にした写真の下流100メートルほどのところに、「大船戸」という港があり、会津から陸路で峠越えをした荷物や、新潟から川船で運ばれた荷物をたがいに積み替える場所だったようだ。



この写真は、当時の大船戸と言われている場所を撮影した貴重なもの。旧蔵屋敷・代官所に建設された「狐の嫁入り屋敷・川屋敷」に展示されていた。
街並みもいわゆる「宿場町」スタイル。通り沿いに間口が狭く奥行きが長い屋敷が連なる。雁木(いわゆる雪よけの私設アーケード)は、上越市高田のものより古くからある。前回紹介した「塩屋橘」付近から、有名な鉤型(かぎがた)クランク方向を撮影している。宿場とはいえ、会津藩にとっては重要な拠点だったことが分かる。
そうした拠点だったことで、人が集まり、情報が行き来し、文化が栄え、町自体が魅力的なものとなったのだろうが、実は江戸初期に大火に見舞われて、歴史的な建造物は少ない。



「狐の嫁入り行列」は、地域活性化のイベントであるとして数々の賞を受賞。(上の写真は、「狐の嫁入り屋敷」で。)
麒麟山に狐火(いわゆる謎の人だま・鬼火)が多かったと言われ、それが世界一の出現率?(誰が言ったが分からないが…)まあ、それにあやかる幻想的なイベントとして、いまでも注目を集めている。
行列には、市民や観光客がきつねに扮した化粧やお面をつけて練り歩き、公募により択ばれた花嫁・花婿が、麒麟山の麓の城山橋で出会い、結婚式・披露宴を上げるというものだ。
祭りの当日(毎年5月3日)は、係員はもちろん、高速道路の料金所職員や警備にあたる警察官までメイクするんだとか。意外と新しくできた祭りとはいえ、地元に伝わる文化・風土が生んだ「やる気」なんでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿賀来訪、ついでに美味しいものも探してみた

2020年11月03日 | 食(グルメ・地酒・名物)
阿賀町を探訪する中で、ベースキャンプとなる津川の町。合併後の役場や県施設、高校なども設置されている阿賀町の中心地だ。ここがまた魅力的な街並みを見せてくれるのだが、先に美味しいものからご紹介しておきたい。



まず、川港茶や「塩屋橘」。津川のまちの中心地に位置し、外観はご覧のとおり、宿場町として栄えた津川の商家のイメージを再現している。ここではご紹介できないが、店内も魅力的な空間が広がる。
西会津産のそば粉を使った手打ちそばが人気。コシとのどごしを売りにしているとのことで、うどんやわっぱめし、ランチメニューもあるのだが、人気の「かき揚げおろしそば」を注文する。結構テレビや雑誌でも取り上げられている品で、満足のいくものでした。
超人気店だけに、土日などは並ぶこと必至(以外に、回転は速いようですが。)で、早く入店しないと看板メニューのそばが売り切れることも(追い打ちをする場合もあるとか)。



馬刺しも名物。馬肉料理というと熊本が生産量・消費量とも全国ナンバーワンだが、第2位は福島。その馬肉文化のある会津地方の色濃く受けづぐ町の中で、この馬刺しを販売するのが「あおやぎ肉店」だ。
馬肉は低カロリー、低脂肪、低コレステロールの上、高タンパク質でアミノ酸の種類豊富、各種ビタミンの含有量も多い。ただ、生産コストの関係でお値段も張るが、この店では1人前が1,000円とお手頃とは言えないまでも、手のとどく範囲。(写真は2人前)
あおやぎ肉店では、会津地方の店と同様、薬味のにんにく味噌を添えてくれる。これが絶品!。店頭でも買えるし、道の駅にも売っているとの情報あり。更なる調査の必要がありそうだ。



津川の人たちにこよなく愛される中華食堂、それが「桃園楼」。かの老舗中華料理店の「東華楼」で修業を積んだ主人が、本格的な味をリーズナブルに提供している。これは観光客も見逃しませんよ。
やっぱり自慢はぎょうざ。ただ、タンメンも麻婆麺も美味しい?いろいろなサイトを見るとチャーハンも絶品という。つまりは、何でも美味しいということではないのか?
写真は、広東麺。阿賀町飲食店組合が地元の地域おこし団体との企画として、各店であんかけラーメンを提供している。その応援企画として注文。これも美味しかった!



最後にご紹介するのは、パンとおやつの「奥阿賀コンビリ―」。ちらも、街並みにフィットした店構えと、地元の素材を使って丁寧に手作りされたパンが、老若男女、地元・観光客に大人気。遠方からもお客さんが訪れる。
コンビニ?「こんびり」とは、この地方の方言で「おやつ」ということだそうだ。ちょっとしたおやつ感覚でいただけるものもあるし、サンドイッチや調理パンもあって、店内にはカフェスペースが設けられている。
阿賀産のおにぐるみ入りのパンが人気。渋皮栗やエゴマを使った商品もある。若い女性が3人がその感性、感覚をマックスで発信していることが伝わってきて、僅かな店内滞在だったが、非常に心地がよかった。火曜・水曜定休日。こちらは平日でも品切御免!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする