行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

土木遺産・山形の石橋群6橋を見て思い巡らす

2024年10月05日 | 土木構造物・土木遺産


山形・置賜地方を散策してみた。山形県米沢や庄内、福島の会津などは新潟の自宅からも比較的アクセスも良く、クルマで片道2時間の範囲。これらの地域には何度となく足を運んでいるが、今回は明治期に作られた石橋(石で建造された橋)を探しに行く。
以前、架橋された年代は新しいものとはいえ、木の橋アーチ橋「八幡橋」を紹介した。橋とすれば木の橋は原点ということになるのだろうが、より強固なものとして石橋は江戸期から明治・大正期にかけて作られたものが土木遺産として注目を集めている。
最も多いのは九州の大分県。そのほかにも福島や今回紹介する山形では修復されながらも、保存状態も良く、かつ集中していることから、いずれも土木遺産に選奨されている。大分県の石橋は、江戸期のものもあって個別に選奨されているもののほか、緒方川のアーチ橋5か所は「石橋群」として選定されている。(写真上:中山橋2枚・上山市)



福島もそうだが山形のものもやはり九州から技術者を招へいするなどして施工されたものとのことだが、山形の場合は狭い地域に集中しているのが特徴で、特に上山市(置賜地方ではないが)、南陽市の同じ最上川の支流・須川水系に6橋が集中しているのは特筆すべきことだと思う。
須川の支川・前川には上流から南陽市に蛇ケ橋(別名・小巖橋)、その200メートル下流に吉田橋、上山市に入って中山橋、堅磐橋、須川支川の金山川に新橋、200メートルほど下流に覗橋といった具合だ。半径3キロ以内に6か所、場所を探すのを含めても2時間もあればゆっくりと回ることができる。
写真を見てわかるとおり、巧妙に弧を描いたアーチ部やきれいに積まれた取り付け(橋台部)に至るまで見どころも多い。中には石を切り抜て飾り模様が施されていたり、親柱や銘板なども実に味がある。ただ、かなり傷んでいる部分も多く、保存のための保守などは欠かせないといったところか。(写真上:蛇ケ橋(小巖橋)2枚・南陽市)



大分・九州には石橋が多く保存されているおり古いものも多くかなり広範囲に及ぶことからルーツと言っていい。福島では9か所が2022年に土木遺産。山形の場合も北は村山市から南の米沢市まで11か所が2009年に土木遺産に選奨されているが、今回の6橋は特に隣接しており、いずれも1878年(明治11年)から1882年(明治15年)と施工年も近い。
上山の楢下宿にある新橋と覗橋は羽州街道が幹線街道としての重要性があったことに起因するだろうし、前川に架かる4橋は栗子峠経由の新道開削(のちの萬世大路(ばんせいたいろ))の計画とともに建造されたのではないだろうか?いずれにしても初代山形県令の三島通庸(みしま・みちつね)が関わったとされる。
この三島通庸は薩摩の出身。山形県令に就くと反対派を押しのける謂わば強引な手法で土木事業を推進たことで有名だが、不毛の地とされた米沢をはじめ置賜地方にとって三島の手腕は、現在の都市形成や産業基盤づくり、山形県全体の流通において、後に大きな功労を与えたもので、今回紹介できなかった石橋を含め、大きな証として保存されているのである。(写真上:吉田橋・南陽市と堅磐橋・上山市、写真下:新橋と覗橋・いずれも上山市)

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台形CSGダムとしては国内最大の「成瀬ダム」の現場見学で

2024年09月30日 | 土木構造物・土木遺産


念願の「成瀬ダム」の建設現場を視察する機会をいただいた。秋田県の雄物川水系成瀬川の上流に1983年(昭和58年)から秋田県によって実施計画調査を開始し、1997年(平成9年)建設着手、ダム本体工事を2018年着手し、いよいよ2027年に完成を目指す国交省直轄の多目的ダムだ。
このダムは日本生まれの新しい技術であるCSGダムというもの。CSGは、「Cemented Sand and Gravel(石や砂れきとセメントを混合する材料)」のことで、現地で発生した材料を使用し、CSGを断面が台形に積み上げた成瀬ダムは「台形CSGダム」と呼ばれるものである。
日本でもまだ数少ない型式のダムであるが、現在建設中のものを含めても成瀬ダムの規模は群を抜いている。堤高114.5メートル、堤頂長755メートル、総貯水量7850万立方メートル。完成すればCSGダムでは国内最大級、他の形式のダムを含めても東北地方でも屈指の規模ともいえるのではないだろうか?(堤高では長井ダム(山形県)ほか、堤頂長では森吉山ダム(秋田県)、有効貯水量では玉川ダム(秋田県)ほかが上回ってはいるが…)



このダムの特徴とすれば、現地の材料を使用することで環境負荷の低減が図れること。台形という形状は構造上必要強度を小さい上に強度を保てるため永久構造物としての品質(安全性)を確保できること。工期が短くコストが低減できることなどが挙げられている(鹿島建設の見学テラスの資料などから抜粋。建設費用は約2600億円、先に紹介した八ツ場ダムの半分以下だ。)。
さらに目を見張るのは、鹿島建設が開発した建設機械の自動化建設生産システム「A4CSEL(クワッドアクセル)」など、最新鋭のICTを駆使した施工技術が採用されている。特に少人数のオペレーターが複数台の重機を操作するなど、生産性や安全性を飛躍的に高めている。
すでに堤体の工事も最終盤で、堤頂部の洪水吐のゲート工事に差し掛かっていることから、残念ながら無人のブルドーザーが動くシーンは見られなかったが、重機を遠隔操作をしていた鹿島建設「KAJIMA DX LABO(写真下)」は、見学者に説明をするスペースとして開放されている(実際、オペレーションをした部屋は見学不可でした。)。



今回の見学には、「鹿島・前田・竹中土木特定建設工事共同企業体・成瀬ダム堤体打設JV工事事務所・KAJIMA DX LABO」のコンシェルジュ・鈴木さんが現場を案内してくれた。成瀬ダムでは、見学者を積極的受け入れてくれるほか、前述のテラスからの見学や現場内へのクルマでの先導のほか、KAJIMA DX LABOでは大型スクリーンやVR・タブレットを使いながら専属のコンシェルジュが案内・説明してくれる。
その鈴木さん、契約社員とのことであったが、東成瀬村の出身でUターンでこの仕事に就いたそうである。余計なことではあったが、「ダム建設によって、村も潤いましたね?」との言葉にそっと頷いてくれた。ダム現場から10数キロを下流の場所には現場事務所が「町」を形成していた(写真下)。村の人口より工事関係者が多いのではないかと思わせるくらいだ。(東成瀬村の人口は2,363人=東成瀬村役場、工事関係者はJVと協力会社を含めて約600人(2022年10月時点))
何回となく鈴木さんとはメールのやり取りをさせていただき丁寧に対応いただいたが、なにせ2名以上での見学でないとダメだというのでこの点は苦労した。遠い秋田の山間部、往復600キロ、しかも平日、ダムの工事現場しかない場所であるから、人を誘うにも気が引けてしまう。



新潟からだとクルマで5時間、非常にアクセスは悪いし、ルートの選択も難しい。東成瀬村に入っても30分以上の山道を行かなければならない。今回はハイエース小僧の大学生・ハヤタに「運転をさせてやるから。稲庭うどんをご馳走するから」と就活中にもかかわらず頼み込み、日帰り強行に踏み切った。
もちろんダムには興味はなさそうだったが、女性の鈴木さんがダム現場で働く姿を見て、見学後、現場を走り回ったハイエースを高圧洗浄機で洗ってくれている姿を見て、何かを感じてくれたらとも思った(かなり本題からは外れてしまったが、遠くまで来て感動的なシーンも多かったはず…)。
ダムは水を貯めて人々を守り、下流に住む人の生活を潤し、田畑を潤す。ダムは村の経済も潤す。そして見学者の我々に感動を与えてくれて心を潤す。台形CSGダムの特性から、この地でなければならなかったこともあるだろうが、重厚な周辺施設整備を伴った八ツ場ダムとは一味違ったダムのあるべき姿を見たような気がする。



ところで、この成瀬ダム、「念願の」と最初に強調したことに触れておきたい。成瀬ダムについては、3年ほど前の「ICTセミナー」で講演を聞いたことがきっかけとなる。自分は技術者ではないが、「成瀬ダム」の話があるということで、お手伝いとして参加した。(CSGダムについては<リンク>で詳しく解説してある。)
とにかく、最先端のICT技術が駆使されているDX LABOの話を聞いて、「絶対に行かなくてはならない!」と思った。が、時はコロナの渦中にあり、新しいプロジェクトのお手伝いをすることになって、なかなか行く機会を見出せなかった。こんなに工事が進んでしまっているとは。
あれ!セミナーの時に講演をされて、その後の懇親会で「見学させて!」と頼んだ三浦悟さん?鹿島建設の技術研究所のプリンシパル・リサーチャー?自動化施工推進室長?DX LABOに写真とコメントを発見(写真下)。そんな偉い人に気安くお声がけして申し訳ありませんでした。これまた感動で涙が出るほど潤いました。

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奥会津「柳津西山地熱発電所」の熱で可能性を感じる

2024年09月24日 | 土木構造物・土木遺産


ダムを見に行くわけでもないのに、今回もまた山の中を走っている。これまでも奥会津地方には何回か訪れ、只見川の電源開発に関連施設を求めて行き来してきたが、今回は少し山の中に入ることになった。今回の目的地はダム式の水力発電所ではなく、地熱発電所である。
走り慣れた国道252号から少し県道を入り、柳津町と三島町の境界を何回かまたぐ道のりは10キロ弱。西山温泉を通り過ぎて寂しい山の中ではあるが、道路は完全に舗装されておりくねった道を進んだところに突如大きな建物が現れる。東北電力の「柳津西山地熱発電所」である(管理は「奥会津地熱」、熱源供給会社)。
地熱発電は、地中深く地熱によって暖められた蒸気を利用しタービンを回す発電方式で、二酸化炭素の発生は火力にと比べてはるかに少なく、再生可能エネルギーとして注目を集めている。ダムばかり追いかけ、揚水発電の蓄電装置やコストなどの課題にぶち当たり、他の発電方式にも触れておこうと調べてみると、新潟からも日帰りのできる場所に、しかも白洲次郎氏が日本の発電事業のため力を注いだこの地に地熱発電所があることを知り出かけてみた。
(写真下:柳津西山地熱発電所の本館(発電所)と冷却塔)



この発電所では、最大出力3万kW(キロワット)の発電を行っているが、以前は6万5千kWで一つのユニット(タービンを回すまでの一連の設備セット)では日本で最大の地熱発電所を誇っていたという。完成が1995年(平成7年)ということで、運転開始から20年経過し、蒸気量が減少し効率化を求めてタービンの更新をしたため計画出力の変更に至ったそうだ。
確かにこの発電の運用は低迷していた時期があった。火力発電用の燃料が安かったことが大きな要因であるが、最近の化石燃料の高騰や価格不安定、輸入に頼らざるを得ない状況に加え、災害事故のリスク回避やクリーンエネルギーの活用などが叫ばれてきたことにより、再び熱を上げているようである。
再生可能エネルギーの中でも風力や太陽光は自然の力を利用するが、水力と同様に天候にも左右される。その点、無限ともいえる地熱エネルギーは安定性は抜群で、発電施設も更新を続ければ長寿命化が図れる。そして、何と言っても純国産という点で今後無限の可能性があるというところであろうか?
(写真下:発電所に続く道路脇に見ることができる蒸気パイプ(送水用か還元用かは不明)と2017年まで使用されたタービン(実物))



地熱発電は、地下深くマグマ溜まりの上層から蒸気を汲み上げる。柳津西山の場合も、複数の掘削井を地下1,500~2,600メートルへ折れ曲がるように掘られている。地中深いことから高度の技術必要であり、開発にかかる時間や経費は掛かる。綿密な調査と的確な掘削が採算のカギを握る。ただ、日本を含む火山帯の多い太平洋沿岸や構造帯付近はその可能性が大きいという。
発電所にの近くには大概温泉がある。温泉への影響は全くないとは言えないが、地底のキャップロック(帽岩=ぼうがん)の存在により地熱貯留層のほうが深い場所にある。むしろ、国内では山の中とはいえ自然公園内に設置されているものが多く、自然環境への影響や景観上を問題、火山性ガスの排出を指摘する声もあるとか。
ただ、柳津西山では発電所建設のための森林伐採は最小限にとどめているし、発電に使用した熱水や冷却水は再び地中に還元している(他の地熱発電所でも同様)ことや、地中から噴出する硫化水素等を改修する設備を設置し肥料などに利用している。他の地域では地下還元熱水を利用したハウス栽培などの例もある。環境への配慮、地域への社会貢献という面でも魅力が多いと感じた奥会津での柳津西山地熱発電所との出会いであった。
(写真下:発電所に併設されている「PR館」と掘削井を示した模型の展示物)

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地域を支え、林業を支える生活道路にある木製アーチ橋「八幡橋」

2024年09月17日 | 土木構造物・土木遺産


前回、新潟県村上市の寝屋漁港を紹介したが、今回は、その近くにある橋を紹介したい。以前から気になっていたものだが、近くに出かけたら立ち寄ろうと決めていた。
橋の名前は「八幡(やわた)橋」、木製の2径間の下路式アーチ橋だ。長さ42.4メートル、幅7メートル(有効幅員)。市道に架かる橋で、2002年(平成14年)に市の単独事業として現在の橋に架け替えられた。床板にプレストレストコンクリート(PC)板、横桁に鋼材を使用しているものの、アーチ部・主桁・吊材・補材を含めて杉の集成材を使用している。
一度姿を消しかけた木製橋だが、日本の林業を見直しの動きや木製材の製造・加工技術の進化向上により、主に公園や観光地での歩道橋、もちろん神社や仏閣の参道などに取り入れられているが、この八幡橋はれっきとした生活道路上の橋であり、もちろん車両の通行も可能な橋なのである。



以前、九州・大分の佐伯市浅海井(あざむい)にある「合掌大橋」という木橋を紹介したことがある(この時は感動ものだった)。群馬・碓氷峠を紹介した時には碓氷湖の「夢のせ橋」に触れたが、いずれも公園内のシンボリックな位置づけの橋である。
日本三大名橋の山口・岩国の「錦帯橋」、静岡の大井川に架かる「蓬莱橋」などは歴史的な橋で有名であるし、木製トラス橋である埼玉・日高市の高麗川にかかる「あいあい橋」(日高市には個性的な橋の宝庫!)、長野県南木曽町の「桃介橋(福沢桃介にちなみ命名)」は吊り橋で全長247メートル。ただ、これらの橋はすべて歩道橋である。
今回の八幡橋は、それほど交通量はないとしても、生活に溶け込み、道路橋としてひっそりと市民を支えている。地味で、あまり脚光を浴びることのない橋であるが、自分はそれが橋の本来の姿であると思っている。その奥ゆかしさと担う役割こそ土木構造物の真価なのである。



地域的な事情というか、これまた生活産業に密着した所以がある。これは橋が架かる村上市山北地域(旧山北町:「さんぽくまち」)は、9割以上の土地が山林。地元の特性や地場産業、特産品を利用し、何とか林業を活性化させたいとの思いが込められている。現にこの地域にある小・中学校、市役所の山北支所は木造でできている(写真上)。
このような地域は、日本の国土の各地にある。しかも古くから林業は日本の建築物を支えてきている中、外材の輸入などにより地域産業として衰退し、少子高齢化、過疎化を生んでいる山間部の小さな村も多い。そんな中で国産材をアピールするための八幡橋の存在意義は大きいのではないだろうか?
八幡橋には、2径間の途中の海側にバルコニーがあって、日本海に沈む夕陽や八幡(はちまん)岩を見ることができる(写真下)。林業の町でありながら、前回紹介した寝屋漁港や笹川流れの海の景色も楽しめる。これまたなかなかない特徴なので、今後のまちづくり・地域おこしの展開が楽しみな「マディソン郡の橋(クリントイーストウッド監督主演映画。ストーリーはフィクションらしいが、木製橋はアイオワ州で実在)」ならぬ「岩船郡の橋」なのである。(「岩船郡」=旧山北町を含む郡名)



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八ツ場ダム!建設費は日本ダム史上最高額というが

2024年08月29日 | 土木構造物・土木遺産


決してダムづいている訳でもないのだが、群馬を訪れたからにはこのダムを紹介しないわけにはいかない。それが「八ツ場(やんば)ダム」だ。
利根川の支流である吾妻(あがつま)川の中流、群馬県長野原町にある国土交通省関東地域整備局が管轄する多目的ダムだ。堤高113メートル、堤頂長291メートル、重力式コンクリートダムで、洪水調節、不特定利水、上水道、工業用水、発電を目的として2019年に完成した若いダムである。
大規模ダムの多い利根川水系において、奈良俣ダム、八木沢ダムの大きさにはかなわないものの、群馬の最大観光地・草津温泉に続く国道145号沿いにあり、山奥のダムと違って容易に目にすることのできる巨大多目的ダムとして、その観光面でも機能し始めている。丁度、景勝地の「吾妻峡」の上流部にダムがある。



なぜこの若いダムを取り上げるかというと、八ツ場ダムの着工は1967年(昭和42年)、利根川改訂改修計画が打ち出されたのは1952年(昭和27年)ということは、着工して52年、計画発表段階からだと67年もの長い時間をかけて、ついこの間出来たというダムなのである。
経済成長にあった当時、度重なる台風被害や高まる電力需要とも相まって必要性が叫ばれていたが、建設予定地のいたるところで地域住民の建設反対運動が巻き起こっていた。利根川の悪例として「沼田ダム」という日本でも屈指の大規模ダム(総貯水量8億トンとも9億トンともいわれた。)は、計画途中の1972年に中止が決まったというのも八ツ場ダム建設にとっては逆風だったのではないだろうか。
ダム建設によって固定資産税を確保しようとする地元自治体の思惑やダム建設反対の町長の就任、中曾根康弘(地元選出、当時自民党幹事長、建設反対)vs金丸信(国土庁長官、建設推進)といった中央政界の大御所を巻き込んだ対立も生んだ後、このダムを一躍有名にした民主党政権の中でのマニュフェスト・事業仕分けなど、幾多の困難を乗り越えて2011年に建設は再開、本体工事は2014年になってから始まったダムなのである。
(写真上:整備局八ツ場ダム管理支所建物と建物内に設置されている「なるほど!やんば資料館内部の展示室。苦難の歴史を紹介する年表パネルも見える。)



この八ツ場ダム、何が日本一かというと総事業費5320億円で、まあ年々事業費はかさむ傾向は否めないが、長期にわたったということからしても日本のダム建設史上では最高額になる。まあ、決して誇れることではないかもしれない。
次々に目的が付け加えられてダム自体重厚な設備になったこと、移転補償はもちろん、堤体脇に資料館や「やんば見放台」という展望所、堤体内のエレベーターの開放などの見学者サービス施設の設置、地元の要望などによりダム管理施設の八ツ場資料館、JR吾妻線の付け替え工事と新駅(川原湯温泉駅)、道路・橋梁の整備、「道の駅・八ツ場ふるさと館」や「川原湯温泉あそびの基地NOA(日帰り温泉・キャンプ施設)」などのいわゆる地元に対する見返り施設も建設されている。
先にも触れたとおり、既存の観光地と八ツ場ダム関連施設がさらなる観光客を呼び込むことになっている現状はあるようだが、「ダムで発展した町」だけでは長続きしない。前回、歴史深い土地(吾嬬橋)と紹介したが、その辺の眠った観光資源を発掘しリンクさせるとともに、首都圏を守るというダムそのものの役割や計画から半世紀以上の歴史を発信していくことも、新たな魅力を創造することになるのではないだろうか?
(写真上:堤体内に設置されているエレベーターは見学者にも開放されている、下から八ツ場ダムを見上げるとその大きさを感じることができる。写真下:「道の駅・八ツ場ふるさと館」脇の「不動大橋」は世界初の複合トラスエクストラドーズド橋、パンフレットはJR吾妻線の付け替えにより廃線跡を利用したレールバイク「アガッタン」のPR用。)








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大切にされている群馬の橋、土木遺産の4橋の紹介

2024年08月24日 | 土木構造物・土木遺産


群馬に2泊3日、新潟からの往復の時間を考えると正味2日間という中で、朝から晩まで走り回る。
群馬には魅力的な「橋」が多い。坂東太郎「利根川」の源流部を持ち、その支流の数々は上州の赤城、尾瀬、三国、白根、榛名、妙義の名だたる山々を駆け下り、山肌を削り、深いⅤ字渓谷を作る。県北部や西部などは河岸段丘の上に街並みが存在するケースが多い。よって、橋は都市間を結ぶために重要な存在にもなっている。
群馬県では、その橋のある風景を大切にしている感じがする。県土整備部がPRしているのをはじめ、テレビや新聞などでも特集として取り上げ、財産・資源として活用し保存する取り組みが行われている。今回の群馬訪問では、数々の橋の中から土木遺産として認定されている4橋を紹介したい。



「鷺石橋(写真上)」は、群馬県沼田市の利根川に架かる橋だ。今こそバイパスが完成して交通量も変化したのかもしれないが、高崎方面から17号線が沼田市街地に入る直前にある。以前から、橋の西詰付近で直角に近い形でカーブを切る国道を上越線の車窓から見ると、いよいよ県境が近づいてきたという感じを持ったものだ。
1929年完成。鋼プラットトラス2連で、橋長104メートル。幅員が5.5メートル?架橋当時との交通事情は違ったとしても、国道としてはやけに狭い。まあ、1970年にはすぐ下流に新鷺石橋が完成しているので、現在は歩道橋として使用されている。そうすると、電車の窓から見ていたのも新鷺石橋なんだなー。
鷺石橋は3代目。上流・下流に川の狭窄部があって、過去に架けられた木製の橋は洪水で流されたこともあったが、現在3代目・4代目が仲良く並んで沼田市民や訪れる人たちを迎え入れてくれる。群馬の数ある橋の中で、現存する鋼プラットトラス形式の橋としては唯一のもの。2020年、土木学会選奨土木遺産。



次の橋は少し山あいに入る。利根川の支流・吾妻川、長野原付近で合流する支川の白砂川をクルマで10分ほど遡った場所に目的の橋「吾嬬(あづま)橋(写真上)」がある。群馬県中之条町六合(くに)(旧・六合村)という歴史ある土地にあるが、草津町、長野原町とではなく、中之条町と2020年に合併。いろいろあったようだが、ここでは言及しない。
そんな歴史の中で、吾嬬橋は1901年(明治34年)に完成した現・渋川市の坂東橋の架け替え(1959年)により、3連のトラス橋のうち1つを旧六合村などが譲り受けたもの。坂東橋からは1世紀以上、かなり年代物でレアな橋が山の中にひっそりと眠っていました。(新吾嬬橋の開通(1980年)により、現在は通行規制中)
国内唯一のピン結合タイプのペンシルベニア形鋼トラス橋、橋長69メートル。2006年土木遺産に選奨。ピン結合?ペンシルベニアトラス?というと鉄道橋のような感じもするが、実は坂東橋時代には、東武鉄道の軌道が路面に併設されていたのだそうだ。こちらもなかなかの歴史を持っていますな!



都市部にもありました!藤岡市と高崎市の旧国道17号線(主要地方道・前橋長瀞線)、烏川に架かる「柳瀬橋(写真上」。ポニートラスの10連は見事!1930年架橋で、ポニートラス橋としては現存する中で最長の349メートルという貴重な橋である。
確かに昭和初期に架橋されたポニートラス橋は、どんどん姿を消していっているし、そもそも長径間には向かない構造である。しかし柳瀬橋は、国道17号の倉賀野バイパスが完成(1969年)してからは交通量も減ったとはいえ、旧中山道の「渡し」同様に、群馬の主要都市間を結ぶ重要な位置で現在も活躍中だ。
橋の下流方向から西方を望むとJR高崎線の橋梁があり、観音山、そして遠くに榛名山や浅間山なども望める。夕景などは高崎周辺の人たちには「上州の風景の象徴(高崎新聞・橋の風景から②)」として印象付けられているようであるが、下流方向には歩道専用橋が架けられていて、この点少し残念な気もする。2013年土木遺産に選奨。



最後に紹介するのは、私がベースキャンプとした富岡市と下仁田町の境である鏑(かぶら)川に架かる「只川橋(写真上)」だ。前回、雄川でも触れたように、この地域の川は深く、鏑川もその代表格。この地点は特に深い場所であるが、下仁田の人たちにとって重要な生活道路である県道(旧国道254号)の橋である。
橋長は82メートル、1931年完成の2ヒンジ鋼ブレースドリブアーチ橋。鏑川には、コンクリートアーチ橋は多いが、当時の技術では60メートルが限界、そこで満を持して群馬県では初の鋼トラスアーチ橋が採用されたという。トラス構造が美しいというが、両岸絶壁で谷が深く河原に降りることができず、その全景を写真にとることはできなかった。
現在の只川橋は4代目。富岡市立吉田小学校の副教材からすると、以前はかなり川面近い低い場所に木製の橋があったが流されたり、幅30センチの吊り橋だけだった時代もあったりしたという。美しく、芸術的なこの4代目・只川橋は地域の念願の橋であり、自慢の橋であるということが伝わってくる。2011年、土木遺産選奨。

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世界遺産もいいけど、お隣の「小幡」の町も必見ですよ!

2024年08月20日 | 土木構造物・土木遺産


群馬での滞在先は富岡市。群馬県の南西部にあり人口4万5千人強。妙義山や上州一の宮・貫前神社、県立自然史博物館、群馬サファリパークなどを市域に持つが、何といっても「富岡製糸場と絹遺産群」として世界遺産に登録、大河ドラマにおいて渋沢栄一が登場したこともあって一躍脚光を浴びる町になった。
富岡市は、ご承知のとおり官営の製糸工場である富岡製糸場(写真上:富岡製糸場正面と富岡の町の玄関口である上信電鉄の富岡駅)の設置により繁栄をした。明治初期のことで、古い町並みは確かに魅力的で、富岡製糸場とともに当時の雰囲気を味わうことができるが、一方で市街地は道幅が狭く道路も一方通行が多い。富岡製糸場付近には駐車場もない。
そもそも富岡製糸場や世界遺産について私がここで紹介・説明するのはおこがましいことでもあるし、世界的な観光都市よりももっとマニアックな場所を求めて探していると、富岡市街から車で10分ほどのところに土木遺産があるではないか!



お邪魔したのは富岡市のすぐ隣り町の甘楽町(かんらまち)。「甘楽(甘良・から)」という地名は、奈良時代までさかのぼるという歴史ある土地。その中で注目は、小幡(おばた)地区。江戸時代に、織田信雄が所領として与えられて初代・織田信良により陣屋が置かれ城下町として発展する。
陣屋や数々の武家屋敷、その中を貫く中小路、御殿(陣屋)に併設された大名庭園で池泉回遊式庭園である国指定名勝「楽山園(写真上)」などなど、江戸時代の貴重な文化財が保存されているとともに、復元されている(写真上:小幡藩陣屋の絵図)。これらが2010年、全国でも16番目の歴史的風致維持向上地区(歴史まちづくり法)の認定都市ともなっている。
街並みをぐるぐるっと巡ってから、小幡の中心部にある大手門跡のすぐそばにある「甘楽町歴史民俗資料館」にお邪魔して、係員の方に甘楽や小幡の歴史について懇切丁寧に説明いただいた。大手門を境に南側が武家屋敷、北側が商家や養蚕農家の街並みを見ることができる。(時代は、若干違うのだが、街並みはマッチしている。)



確かに養蚕が盛んになったのは大正期。歴史民俗資料館は繭倉庫として造られたものだが、農協倉庫などを経て資料館に改装したもの(写真下:資料館全景と展示写真)。1926年(大正15年)、レンガ造りの養蚕最盛期を象徴する建造物であることから町の文化財に指定さた後、近代化産業遺産、日本遺産にも認定されている。
武州・上州・信州では養蚕業が盛んであったが、この甘楽町もその産地のひとつ。官営の技術者を養成するといった目的で設置された富岡製糸場、全国の養蚕業を支える器械製糸の指導者である工女を輩出していった。その下支えをしたのが富岡周辺の養蚕農家であった。(熱く語ってくれた資料館の係りの方の受け売りですがー。)
富岡製糸場の周辺には、甘楽社、大仁田社、松井田社といわれた組合式の製糸工場が設置されていて、実は官営の富岡製糸場とともに富岡の製糸業と日本の外貨獲得のための模範的工場が立ち並んで一大産地を形成していた言ってもいいようだ。そのひとつの供給地が近郊の甘楽であり、江戸期から大正期にかけての武家社会や養蚕業を中心とした日本の産業革命による繁栄などを、街並み全体で表現しているのが小幡なのである。



さて、その小幡にある土木遺産はというと「雄川堰」というかんがい設備である(写真下:小幡中心街と路地裏の用水路)。正確な築造時期は不明だが、鏑川をはじめとした深い谷を形成する土地形状から、織田氏が所領するころから整備が進められたという。この趣のある街並みに古くから生活用水を供給してきたものである。
小幡の中心地から鏑川の支流・雄川を3キロほど上流にある大口(取水堰)から、町中に引き込んだ用水を小堰を各所に設けながら武家屋敷に生活用水を供給するとともに、下流北部の水田を潤す農業用水として、また動力源として多目的に活用された。これが世界かんがい施設遺産(2014年)をはじめ、名水百選、水の郷里百選、疎水百選に認定され、2010年に土木学会選奨土木遺産に選奨されている。(果たしてこのエリアにいくつの認定項目が存在しているのだろう?)
藩主の織田氏・松平氏は水奉行をおいてこの用水を管理していたが、一時水の汚染が心配された時期(昭和50年以降)には住民の手で浄化運動が始まり、現在も当番制で清掃・管理が行われているそうだ。富岡もいい町との印象だけど、甘楽・小幡の街並みを支える住民の姿は感服する次第だ。世界遺産へ行った際には、ぜひ足を向けてもらいたい町だ。






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ここでも太平洋と日本海が結ばれている?(神流川発電所訪問記③)

2024年08月17日 | 土木構造物・土木遺産


純揚水式水力発電所でも、世界最大規模になるはずの東京電力神流川発電所。確かに揚水式発電は、電力需給がひっ迫した際には蓄電池としての役割を果たすが、経済的効率から設備利用率が低い上、日本では世界的に見ても貯水量が少ないと多くの課題を抱えている部分もある。大金投じて巨大な設備を導入したけど、縁の下の力持ちの出番は少ないといったとこだろうか?
貯水率?そう、神流川発電所を支えるダム(調整池)を紹介しておかなければならない。前々回触れたとおり、上部ダムは「南相木ダム(写真上)」、下部ダムは「上野ダム(写真下、下にあるのに「うえの」ダム)ということになる。有効貯水量はともに1,267万立方メートル(総貯水量では少しだけ南相木ダムが大きい。)。
南相木ダム、行ってきました!道路は整備されていたし、周辺も公園整備がされているのであるが、とにかく寂しい山の中。堤体下部の「ウズマクヒロバ」という広場にはグッドデザイン賞のモニュメントなどがあるものの誰もいない上に「クマ出没注意」看板が。同広場へのアクセスで利用するトンネルも真っ暗で、入っていいものかどうか怖かったくらい。



この南相木ダム、中央遮水型ロックフィルダム。白い堤体(表面に石灰岩を配置)が目の前に現れた時の感動は忘れられない。これまで見た中でも最も美しいダムと言っていいだろう。堤高136メートル、堤頂長444メートルの巨大ダムであり、日本では一番高所(標高1,532メートル)にあるダムとしても知られている(写真下)。
水利権や漁業権、環境や生態系への影響に配慮して、南相木川の水はそのままダム湖(奥三川湖)を経由することなく、下流に放流される仕組みになっている(増水時にはダム湖に流れこむ仕組み。)。同じ東京電力の玉原(たんばら)発電所(群馬県)と同じ方式が採用された。
山深い上野村で巨大秘密基地の神流川発電所を見学させてもらい、時間を費やして大きく上信越道を迂回してこれまた山奥の南相木村でも美しいダムを見学させてもらい、二枚のダムカードを手にしたときは何とも充実した訪問になったと余韻を楽しんでいた。(写真下:位置図)



待てよ⁉神流川を遡ってきたはずなのに、南相木川というと千曲川水系?つまりは、信濃川水系ということになるし、神流川は烏川から利根川に合流している。つまりは神流川発電所が持つダム湖は、分水嶺どころか日本の峰をまたにかけて設置されていることになる。
つまり、群馬県上野村の神流川と長野県南相木村の南相木川は、神流川発電所の揚水発電用の管路によってつながっていて、それは利根川と信濃川が結ばれたことになり、以前紹介した猪苗代湖を介して阿武隈川と阿賀野川がそうだったように、太平洋と日本海がここでもつながっているということになる。
二県にまたがってというのは、新豊根発電所(愛知県だが下部貯水池の佐久間ダム・佐久間湖は静岡・愛知の県境、J-POWER)、俣野川発電所(鳥取県・岡山県、中国電力)がある。分水嶺をまたいでというのは、奥多々良発電所(兵庫県・関西電力)の黒川ダム(市川・瀬戸内海)と多々良木ダム(円山川・日本海)などがある。(どの揚水式発電も巨大な発電量を誇っている。)



上野村から南相木村へは、当然ながら峠越えが必要である。ぶどう峠、十石峠など過酷な道を進まなくてはならない(私は、帰り道がてら上信越道・中部横断道を利用したが…)。しかし、地図上、長大で真っ直ぐな一本のトンネルが二つ村を結んでいるのに気づく。「御巣鷹山トンネル(全長2キロ)」で、ダム・発電所の管理用道路だ(写真上:御巣鷹山トンネル南相木村坑口)。我々が見学用にマイクロバスで利用したトンネルとは明らかに別ルートである。
このトンネルこそ超レアな場所であるが、ここを活用したイベントが9月29日(日)に開催される。「上信国境ダムtoダムハイランドラン大会」という山岳ロードレースの売りモノとしてコースに組み込まれているのだ。さすがに20キロ超えの山岳マラソン大会に自分は出場できないが、健脚自慢のランナーの方、まだエントリーは間に合いますよ!(写真下二枚とも:大会事務局のホームページから引用)
世界最大規模の神流川発電所は、二つのダムを結び、二つの村を結び、そして上信国境・群馬県と長野県を結び、太平洋と日本海を結んでいる。ハイランドランのコースにある秘密基地内の御巣鷹山トンネルは、過疎化に悩む自治体を結ぶ架け橋ではなく、「架け穴」になるんでしょうね!(神流川発電所訪問記:終わり)



※初回掲載後、「俣野川発電所」について追記した。なお「分水嶺」という言葉は、河川水系の分かれ目という観点から、太平洋・日本海を隔てる峰ということではないので、揚水式発電のすべてを調査したものではないことから「奥多々良発電所など」との表現に変更した。
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地下500メートルの巨大秘密基地に潜入(神流川発電所訪問記②)

2024年08月12日 | 土木構造物・土木遺産


東京電力「神流川(かんながわ)発電所」は、群馬県上野村の山深い場所にある。御巣鷹山の山中、地下500メートル、そこには巨大空間が存在する。上野村が東京電力と協力して開催している見学ツアーに申し込み潜入に成功した。
神流川発電所の1号機は、2005年(平成17年)に運転開始。翌年2号機が稼働し、47万キロワット×2基、最大94万キロワットを発電する日本でも屈指の純揚水式水力発電所である。上部ダムは南相木ダム、下部ダムは上野ダムである。
分水嶺をまたいで、全長6,000メートル強を地中の導水路・水圧管路・放水路で結び、この間落差653メートルを利用して発電電動機6基を設置し、最大282万キロワットの発電を行う計画である。これが完成すれば、世界最大級の揚水式発電となるが、現在そのうち2基が稼働中ということである。(見学ツアー時は、1機がメンテナンスのため運転停止中だった。)



見学通路入り口から、排気用の機材が設置されているスペースを抜けると、突如広がる巨大空間に発電設備がある。天井には、無数のアンカーボルト(高張力鋼)で補強されているが(写真下)、一般者が立ち入る場所でないことから、トンネルを含めてコンクリートは打ちっ放し。確かに秘密基地の様相を極めている。
ここには日本初の技術がいくつかある。勾配48度の水圧管路の掘削にはトンネルボーリングマシーン(TBM)を採用し、斜坑を下から一気に掘削。また、水車のスプリッタランナ(立軸形フランシス水車の翼に長短を設けて出力増を可能にしたもの)を東芝と東京電力が共同開発したものが採用されている。
見学時、作業用クレーンが1号機と2号機の間にあり、多少視界を妨げているところはあったが、メンテナンス中ということもあって取り出された貴重な水車ランナの部分を僅かであるが見ることができた(写真下)。これに関心を示した見学者は私以外にはいなかったようだがー。



注目は世界最大級の揚水式発電。実に大掛かりなものであり、早くから世界最大級を謳っていた東京電力だが、その点を同行説明にあたってくれた係員に尋ねてみたが、3号機以降の設置予定は具体化していないようだ。蓄電装置の進化によりここまで大掛かりなものがコスト的にいかがなものか!ということなのであろうか?
大規模蓄電装置がどのように改良を遂げていて、メリット・デメリットがあるかないかは自分には分からないが、揚水式水力発電は自然を利用した再生可能エネルギーであり、しかも3号機・4号機用の水圧管路もすでに完成しているというのに、電力需要が切迫している中で何を躊躇しているのであろう?
東京電力では、神流川発電所の付帯施設として設置したPR施設を福島第一原発の事故後廃止した。同じく、東京電力の揚水式発電を行う葛野川発電所(こちらは最大出力120万キロワット)のPR館も然り。いまこそ揚水式発電をアピールする時だと思うのだが。(続く)



(※神流川発電所は、御巣鷹山の地下にあるが、日航機事故の現場とされる「御巣鷹の尾根」は発電所より南1.7キロほどの谷を隔てた場所であり、事故現場の地下に発電所があるわけではない。実際の事故現場は、正式には「高天原山(たかまがはらやま)」の中の一つの尾根であり、当時、墜落現場となった場所を特定するために当時の上野村村長が命名したとされる。この書き込みが、図らずも39年前の事故当日になったことは偶然であるが、事故犠牲者の冥福を祈るとともに、今回上野村にお世話になり、事故当時救助活動で尽力された村民の方々に敬意を表したい。)
(※葛野川発電所(山梨県)については、規制区域があるので紹介できるかどうかわからないが、J-POWERや東京電力その他の揚水式を含む水力発電施設(ダムや概要など)についても、順次紹介していきたい。)

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世界最大級の入口である群馬県上野村を目指せ!(神流川発電所訪問記①)

2024年08月09日 | 土木構造物・土木遺産


さて、いよいよ群馬に向かうことにする。ベースキャンプにしたのは群馬県南西部の富岡市。いわずと知れた世界遺産の町である。
新潟の自宅からだと高速で300キロ、4時間といったところだが、途中寄り道などをして初日の走行距離は700キロ近く。これは予想していたことでもあり、最初から車中泊は諦めてホテル宿泊することにしてトレーラーハウス型の宿を予約した。(禁煙だったこと以外は、かなり快適に過ごせた!)
ただ、目的地はさらに山道を小1時間ほど走った先にある群馬県多野郡上野村。ここへのアクセスは実に難関だ。藤岡方向から神流川(かんながわ)沿いに国道462号で向かうつもりでいたが、下仁田・南牧経由がいいだろうと観光案内所のアドバイスから、富岡で前泊した後出発。南牧から上野村へもかなりの山道(県道)だが、湯の沢トンネル(2004年開通)により飛躍的に便利になったようだ。



この上野村、人口が1,028人(上野村ホームページ、8月1日現在)。群馬県では最も人口が少ない自治体であり、関東でも島しょ部を除くと最も少ない。人口密度も県内で最下位、居住可能面積も最も低い。過疎地で、山の中のへき地といえる場所であるが、かの平成の大合併でも「合併しない宣言」をした村である。
産業は林業と観光。「上野スカイブリッジ(写真上)」という巨大なつり橋と不二洞なる関東随一の鍾乳洞が観光のメイン。お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、航空史上最大の事故といわれている日航ジャンボ機が墜落した「御巣鷹の尾根」のある村というと、あーっという方もいるかもしれない。
今年も8月12日が近づいて、多くの遺族・関係者が慰霊登山の時期を迎えている。とにかく山深い地で、事故当時は村へのアクセスや林道の整備もされていなかったため、墜落現場の特定が難しく、救助作業も地元消防団が頼りだったことも容易に想像できる。(村に到着して、まず「慰霊の園(写真上)」で手を合わせさせてもらった。)



この山の中にあり各ランキングで最下位ばかりの村、実は財政的には群馬県内の市町村で3番目と高い位置にある(財政力指数0.85、隣の南牧村や神流町は0.1ポイント台)。というのも、上野村には、東京電力リニューアブルパワー「神流川発電所」がある。この発電所が世界最大級の揚水発電所だというのだ。(発電所1号機が運転開始したのが2005年、それまで財政力指数は0.2、完成後2008年には1.73に急上昇、当然不交付団体となる。)
村では、東京電力と協力し、この発電所の見学会を実施しているという。数日前の問い合わせ・応募であったが、直近開催日に空きがあるということでその場で申し込みをして、そして上野村に足を踏み入れ集合場所の「川の駅・上野」にある「上野村森の体験館(上野村産業情報センター、写真上)」に向かったのである。
村の用意したマイクロバスに乗り換えたのは10人ほどの団体客に、一匹狼の自分だけ。バスは、急登とカーブ続きの道をゆっくりと御巣鷹の尾根方向に進む。ただ道幅は確保されているし、長大トンネルも通過。発電所建設のため整備された道なのか?そして、山中のゲート前に東京電力の社員がバスを出迎えると、いよいよ地下500メートルへの世界最大級の発電所に潜入することになる。(続く)






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下郷発電所で、揚水発電所は「自然の蓄電池」との解説を聞いて

2024年08月06日 | 土木構造物・土木遺産
久々、会津に足を踏み入れることになった。会津は、ダムや発電所、橋梁、歴史的な建造物や物語、豊かな自然、そして美味しいものの宝庫として取り上げてきた。さらに興味をそそるものとして、前回も紹介したとおり、猪苗代湖を中間点として、太平洋と日本海を川で結ぶ海運の拠点ともいえる場所で、どうしても外せない場所になっている。
これまで阿賀野川・阿賀川、日橋川などのお雇い外国人が力を注いできた現場を何回か紹介してきているし、阿賀野川の最大支流・只見川にはJR只見線の風景や電源開発の歴史に取りつかれてもいる。とにかく自分にとっては、会津探訪はライフワークとなっている。
今回紹介する大川ダムも2021年6月に訪問、すでに紹介したものであるが、再度訪問することに。というのも、前回訪問時はコロナ感染防止の影響により、下郷発電所の展示館や国交省の資料室が閉館中。ダムカードもゲットできないでいたのでリベンジ的な訪問。ちょっと安直な動機によるものである。



大川ダムは、国交省(福島県にあるが阿賀野川水系であることから北陸地方整備局が事業主体・管轄)の多目的ダムである。コンバインダムという珍しい型式であること。治水・利水の目的から阿賀野川総合開発事業(1973年計画策定)の主要な構造物として、1978年完成したダムである。
大川ダムの建設とともに計画されたのが下郷発電所。電源開発(J-POWER)が管理するもので、先に紹介したとおり大川ダムの建設によりできた若郷湖(わかさとこ)を下部ダム、大内ダムを上部ダムとする揚水発電所である。4基の発電機で最大100万キロワットを発電する。
有効落差387メートル、導水路を通って揚水発電特有の地下に発電所を設けるという方式で、夜間に余剰の電力でまた大内ダムの調整池に水を汲み上げて電力需要に備えている。発電所の事務所に併設される展示館で、「自然の蓄電池といえる」とのガイダンスを聞く。なるほど!(写真上:下郷発電所と大川ダム、発電所事務所と併設の展示館、写真下:展示館内部と展示資料の一部)



同じくJ-POWERの奥清津発電所を訪れた時、展示館の「電力ミュージアム・OKKY(オッキー)」は、展示館の窓から発電所の内部を見ることができたし、庭の奥に設けられたトンネルに入って導水管も拝むことができた。(奥清津発電所は、清津川の沿いに地上に建てられていて、奥清津第二発電所が展示館を併設している。)
奥清津と同様、大規模揚水発電所である下郷発電所であるが、その施設としてはダム湖畔の送電所や送電線が見て取れるだけ。その代わりとして、展示館には何とも丁寧に、そしてわかりやすく揚水発電を解説してくれる模型があった(写真下)。これは録画しないとと思い、何回も音声ガイダンス付きのスタートボタンを押した。(容量の関係で、動画がアップできない、申し訳ない!)
揚水発電かー!今後の電力需要に応えられる再生可能エネルギーとして注目していきたいと思うが、沼沢発電所も行ったことがあるが、果たしてほかにもあるのか?調べるとあるある!栃木に群馬に長野、山梨にも、憧れの佐久間ダムにも、岐阜や兵庫、全国各地に40か所以上ある。中でも「世界最大規模?」と銘打つ東京電力の発電所が目にとまる。よし、次は群馬だ!




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県営20ダム(土木部管理)を完全踏破!最後は地元のダム群へ

2024年08月01日 | 土木構造物・土木遺産
この度、新潟県土木部が管理する20ダムすべて訪問、踏破することができた。このブログでも何回か紹介してきた県営ダム、2年前の上越地方の4つのダム、そしてその後訪問した魚沼の「広神ダム」から2年間のブランクがあったが、地元の3つのダムを訪問しコンプリートとなった。
広神ダム、このブログで紹介していなかったが、信濃川水系破間川の支川・和田川にある重力式コンクリートダム。堤高80.5メートル、堤頂長225メートルで、洪水調整、不特定利水(河川環境保全)、発電の目的を持つ多目的ダム。2011年(平成23年)完成の比較的若いダムである(写真下)。
広神ダムの建設時には、魚野川の河川工事で発生した河床材を利用して本体コンクリート骨材にした経緯がある。建設途中で平成16年の新潟福島豪雨や中越地震などの自然災害にも見舞われたが、この骨材の採取作業が計画的に実行されたことから、工程も大きく遅れることもなく無事完成した。



さて、広神ダム訪問の時点で、残るは新潟でも下越地方といわれる県北の3ダム。地元でもあることから、いつでも行けるということもあって後回しになっていたし、すでに何回か訪れたことのあるダムであるが、敬意をもって再度訪問。
先に紹介した「旧赤谷線」の終点・東赤谷からさらに奥にある「加治川治水ダム」、赤谷駅から少し脇に入ったところにある「内の倉ダム」を廃線探訪の際に、また地元の「胎内川ダム」は数日後、孫とのドライブがてらに大取に訪問。
地元であるからして時間的には一日で3か所の訪問は可能なのであるが、考えてみると先に紹介している県最北・村上市の三面(みおもて)ダム、奥三面ダムや、五泉市の早出川ダムを含め、下越地方の県営ダムは他の地域のダムよりもかなりアクセスが厳しい気がする。まあ急登の山道と道路の幅員の狭さなどは、ダム訪問には付きものなんですがね!



「加治川治水ダム」は、新発田市加治川の上流部にあり、飯豊登山の登山口にある(写真上)。有効貯水量1,800万の規模でありながら、その役目は治水のみ。全国的に見ても、治水専用のダムとしては最大規模のものだ(先に紹介した「最上小国川流水型ダム」は、有効貯水量210万立方メートル)。
堤高106.5メートル(県管理ダムでは、奥三面川ダムに次ぎ第2位)、堤頂長285.5メートル、重力式コンクリートダムで、1974年(昭和49年)に完成。内の倉ダムや胎内川ダムと同様、昭和41年に発生した下越水害を契機に、下越地方の守り神として建設が計画された。
治水専用ということもあって、普段は水を貯めない。いざという時のためのダムであり、普段は流入する水量をそのまま下流に流すようになっている。山奥にあって、武骨なフォルム、機能的にも地味な存在ではあるが、大きな役割を担っているダムだ。



同じく加治川(内の倉川)にある「内の倉ダム」は、加治川治水ダムより1年先輩で1973年(昭和48年)完成した。当初、農業用水が不足していた下流域のためかんがい用に農政局によりダムの建設が検討されてたが、先の水害により洪水調整などの機能を加えて多目的のダムとなった。(農林省施工、写真上:内の倉ダムの看板を複写)
堤高82.5メートル、堤頂長166メートル、国内でも珍しい「中空重力式コンクリートダム」で、岩盤が脆弱なことから負荷が少なく、コンクリート材の使用を減らす目的などから採用された方式。逆に、コンクリートの型枠工事が複雑であることから、国内では最後の中空重力式となっている。今後この方式のダムは建設されないだろうとのことである。
ダム堤体の内部に、6つの大きな空間(ホロー)が中空といわれる所以。このホローの残響音を利用してコンサートなどが開催される。幻想的で不思議な音の響きをシャワーのように浴びることができると評判だが、コロナ禍で中断、ここ何年間は収録にてダムの魅力発信をしているとのことだった。



最後20番目に登場するのは、地元の「胎内川ダム」。奥三面ダムと同様、県営(土木部)ダムの中でも厳しい道のりを経て、短いトンネルを抜けるとその大きな堤体を見せてくれる(写真上)。下越水害、羽越水害(1967年・昭和42年)の二年連続の災害により、1976年(昭和51年)に完成。
重力式のコンクリートダムで、堤高93メートル、堤頂長215メートルで、その容姿は加治川治水ダムに似ている。この上流には同じく県営の奥胎内ダム(2018年完成、県営ダムの中では最も新しい)がある。(こちらは、国立公園内にあって一般公開していない。が、建設時に何回か見学に訪れたことがある。写真上のダムカードも建設時のもので超レアなカードだ。)
洪水調整、正常な流水機能維持、上水道の機能に加え、ダム完成後に新潟県と地元・胎内市(旧黒川村)が共同で発電設備を設置。県は管理用の給電に、市は公共施設への給電をしている(現在は売電して、公共施設の維持管理に充てている)という変わり種の機能もある。

以上で新潟県営(土木部監理)ダム、コンプリート!そのほか、以前紹介した「鵜川ダム」が着工から20年の歳月を費やし建設中(2026年竣工予定)、上越・「儀明川ダム」が調査・設計中である。(各ダムの諸元・解説は、新潟県土木部資料を参考。)


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治水目的のユニークな形式のダム、長沼ダム&最上小国川流水型ダムを訪ねて

2024年07月11日 | 土木構造物・土木遺産
一泊二日という時間と費用をつぎ込んで鳴子ダムだけいてくるのはもったいないと、あらかじめ見どころを探って宮城県北部に足を踏み入れる。大崎・栗原・登米の各地区は、県と仙台の喧騒と賑やかさを離れて、栗駒山地のふもとで豊かな自然を感じる土地である。
決して土木構造物の中心にダムがあるわけではないし、マニアでも固執しているわけでもないのだが、鳴子に行くなら近年完成した珍しい機能を持つダムがあるので紹介しておきたい。



一つは「長沼ダム」。こちらも大倉ダムと同様、ネーミングライツにより「パシフィックコンサルタンツ長沼ダム」の愛称がつけられている。2014年(平成26年)完成、宮城県土木部の施工による県営の多目的ダムで、既存の自然湖「長沼」を利用した極めて珍しく、国内でも最大規模のダムである。
堤高は15.3メートル、ちょっとした堰堤。ダムといても主堤体の中央に見えるのは少し大きめの水門にしか見えない(写真上)。しかし、これがアースダムの中では湛水面積、総貯水容量で国内最大規模のダムなのである。(北海道・雨竜第一ダム(朱鞠内湖)の副堤である「雨竜土堰堤」を除く。)
堤長が1,050メートル。農業用水・発電用水を貯めるアースダム(堰堤)の特性として堤長が長くなることは多いが、多目的ダムとしてはこれまた一番長いという。また、レクリエーション機能(いわゆるダムの役割(目的)記号の「FAWIP」にない「R(=Recreation)」)を有していて、この役割を担うダムは国内2基でだけ、長沼ダムと兵庫・石井ダムしかない。めちゃくちゃ地味だけど、非常に貴重なダムなのである。(写真上:長沼の湖畔にある公園「長沼フートピア。奥の湖面に漕艇場のコース看板が見える。)



長沼ダム(長沼)は、迫川(はさまがわ)に接している。迫川は北上川の支流で、昔から暴れ川といわれ、毎年のように農地や宅地に湛水被害を及ぼしていた。迫川に限らず、北上川下流の支流では北上川の水が逆流して被害を大きくしてきた。
そのため、隣接していた長沼に導水路を築き、増水時に水を引き入れて下流部を守るというのが長沼ダムの大きな役目である。そのため平場の沼に水を引き入れるため、どでかいコンクリート式のダムが必要ということではなく、2,700メートルの導水路(写真上)もダム施設の一部で、ダムの構造を示す各ランキングで上位に押し上げているのである。
迫川に接する導水路末端には、川の堤防より低い越流堤(写真上)が設けられていて、迫川の水位が上がると水が長沼に流れ込むという仕組みだ。迫川を挟んだ迫川左岸には南谷地遊水地もあって、非常時には長沼ダム付近は下流部の登米地域を守る要となっているのである。



もう一つのダムは、鳴子からの帰路、県境を越えた山形・赤倉温泉の上流にある「最上小国川流水型ダム」だ。「流水型」?ちょっと聞きなれないことだけでも貴重な気がするが、初めにこのダムのある場所の背景や環境に触れておきたい。
最上小国流水型ダムのある赤倉温泉は、山形県最上郡最上町、宮城県の県境に位置する秘湯だ。小規模な温泉宿が数軒、今年の暖冬少雪の中、冬季国体の会場となった赤倉温泉スキー場がある。そこに流れているのが最上川の支流・小国川は急流で清流、「松原アユ」というブランドにもあっているアユの遡上地であり、手つかずの自然が残されていた。
「脱ダム宣言」の運動が高まる中、最上川の有力支流の中でダムのなかった小国川でのダム建設は、当然のように漁協を中心として建設反対、温泉への影響や森林伐採による環境変化を憂う声も上がる中、度重なる温泉街の浸水被害から守るということから、環境にやさしい「穴あきダム」の建設が計画された。それが今回紹介する「最上小国川流水型ダム」だ。



堤高41メートル、堤頂長143メートル、2020年完成、山形県が事業主体の見た目は普通の重力式コンクリートダム。ただ、堤体下部にある常用洪水吐は小国川の水面レベルとほぼ同じで、常時、流れ込んだ水をそのまま流す仕組みになっている。つまりコンクリートの壁(ダム)に穴をあけただけのシンプル構造で、いざという時に一時的に水を受け止める。これが流水型ダムといわれるものである。
洪水調整に特化したダムで、普段は水を貯めないため水質の悪化はなく、川の流れとともに土砂も流れる。計画高水流量(ダム計画において設定される、河川に流れ込む計画上の流量)330立方メートルのうち、洪水時にはダムに設けられた洪水吐口から80立方メートルを下流に流すという仕組み。(写真上:ダム上流部。普段は水を貯めこまない。)
流水型ダムは歴史的には以前からあるものの、「脱ダム宣言」からも環境にやさしく、工費や管理費削減にも貢献するとのことで注目が高まっている。小規模ダムがいくつか建設中であるが、2029年完成予定の福井・足羽川ダムは流水型ダムのなかでも大規模なものとなる。治水目的のダムは、「命を真ん中に考える」ことでもある。

※今回紹介に二か所のダムは現地管理所に人は常駐しておらず、ダムカードについては、長沼ダムはクルマで10分ほどの「宮城県登米合同庁舎」で、最上小国川流水型ダムはすぐ下流の赤倉温泉「赤倉湯けむり館」で配布している。
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東北随一のアーチダム「鳴子ダム」のすだれ放流裏話

2024年07月08日 | 土木構造物・土木遺産


北上川をさかのぼるのは少し後回しにさせていただき、今回宮城県に長居をしてしまったきっかけを作ったダムである「鳴子ダム」を紹介することにしたい。申し訳ないことに、ここを訪れたのは今年4月の下旬。広瀬川や貞山運河、石巻を訪れたのと前後しての話になる。(すでにFacebookには投稿済み。)
きっかけは、鳴子ダムに限ったことではないが、毎年春先にダムの水を観光放流するという情報を入手。このダムの放流は「すだれ放流」と言われ、美しいと評判。しかも、観光公社が主催する「鳴子ダム直下見学ノルディックウォーキング」というイベントに参加できることになった。
ノルディックウォーキング?まあ、片道3キロというから大丈夫!新潟からだとちょっと遠いし、午前中のイベントということもあって、前泊して鳴子に向かうことになった。まあ、鳴子ダムのあるのは江合(えあい)川(別名「荒雄川」ともいう。)といって、北上川の支流。北上川についに踏み込むことにもなった場所でもある。



鳴子ダムの完成は1957年(昭和32年)。外国人技術者に頼らず、日本で初めて日本人だけで建設をしたアーチ式コンクリートダムだ。堤高94.5メートル、堤頂長215メートル。東北地方整備局直轄の洪水調節、不特定用水、発電などを目的とする特定多目的ダムで、2016年に土木遺産に選奨。
すだれ放流は観光の意味合いが強いが、今回実施したのは3日間のみ。雪解けの水をダムにため込み、農業用水にも利用されていることから、毎年春先に実施されている(そのほか、利水目的で自慢の斜坑トンネルの常用洪水吐からの放流ももちろんある)。鳴子ダムは鳴子峡とともに鳴子温泉郷のシンボル的なダムであり、すだれ放流は一大イベントでもある。
今回のウォーキングツアーは、ガイド付きで管理用の道路を歩いてダムの直下まで行けるのが魅力。高さが100メートル近くあるアーチ式ダムで、堤頂付近の非常用洪水吐から流れ落ちる水は、さぞ迫力があるかと思っていたら、むしろ華麗で美しい。



ところで、鳴子ダムのすだれ放流、3年前まではゴールデンウィーク中に実施され、夜のライトアップなども行われていた。観光の度合いが強いといったとおり、鳴子温泉の春の風物詩として定着していたのだが、ライトアップは2022年の開催途中で突如中止。すだれ放流も2023年からは4月中の平日開催になってしまった。
これもコロナの影響?もあるのかもしれないが、ウォーキングツアーのガイドの話では、あまりにも人が押し寄せて、温泉街を貫く国道47号にまでも大渋滞を引き起こし、警察から中止を要請されたのだそうだ。なにせ、2022年のすだれ放流&ライトアップ時には、ダム脇の駐車場までの2キロは3時間以上の渋滞だったとか。
地元の観光資源であり、住民や観光客の交流の場所でもある鳴子ダム。整備局のダム管理所が掲げるダムビジョンでも「地域の連携」を大きく掲げているが、ダム見学に関係ない人まで巻き込む大渋滞は確かに困りもの。渋滞対策などを施した計画の練り直しが必要であるとのことだが、ダム駐車場は狭く山あいの一本道であることから、根本的解決策は容易には見つかりそうもないとのことだ。




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「野蒜築港」建設は運河を結び、川を結び、太平洋と日本海を結び

2024年06月18日 | 土木構造物・土木遺産


広瀬川から少し離れて、もう少し「貞山運河」とその関連事業の話をしたい。日本最大・最長の50キロに及ぶ貞山運河(写真上)が土木学会選奨土木遺産とも紹介した。しかし、ただの仙台城下の水上交通網として整備されたわけではなく、その後、国を挙げての大きな構想の中で重要なポジションに位置付けられていた。
確かに貞山運河・北上運河の中でも、江戸前期に開削された阿武隈川から名取川河口に及ぶ「木曳堀」は、伊達政宗が殿様であった時代のもの。その名のとおり船が引いた材木が仙台城下の街並み整備に活用されたことだったのだろう。
次に、七北田川河口と塩釜湾を結んだ「舟入堀(一部、砂押川を活用。現仙台港の建設により一部寸断)」が完成。明治期に入って、成瀬川河口と旧北上川を結んだ「北上運河(写真下・2枚目)」(北上運河は、定川を挟んで南北上運河・北北上運河と呼ばれる)、その後松島湾と成瀬川を結ぶ「東名(とうな)運河(写真下・1枚目)」、そして明治期にすでに開削されていた名取川と七北田川を結んだ「新堀」の改修事業の完成で、全線開通となるわけである。



明治期に入って、貞山堀が脚光を浴び、その他の運河群の建設に拍車がかかったかというと、成瀬川河口に日本初の近代的港湾を建設するという国家の一大プロジェクト「野蒜築港(のびる・ちくこう)」が建設されることになったからである。
明治政府の大久保利通は、東北地方の発展のためにと河川の活用と港湾の建設を推進するため、拠点となる港の候補地選定をかのお雇い外国人のファン・ドールンに依頼した。さあ、ドールン大先生はいくつかの候補地の中から野蒜を最適地として推挙。築港建設事業とともに、そこにつながるように貞山運河の延伸、北上・東名の各運河が建設されていったのである。
1882年、野蒜築港は一応完成したものの、風や波浪、漂砂・流砂の影響を受ける場所であったことから、3年後の台風で壊滅的被害を受け廃港・廃棄されることになる。ドールン設計の鳴り物入りの港は鉄道網の発達など陸上交通の台頭もあって、波の中に消えてしまった。
運河はそのまま残されたが、野蒜築港の遺構についてはあまり残っていない。土木学会は、2000年(平成12年)に、野蒜築港跡地や北上運河、東名運河、貞山運河、北上運河が旧北上川に接続される場所に建設された「石井閘門(一番下の写真)」の一連の施設を「野蒜築港関連事業」として土木遺産に選奨している。(写真下・野蒜築港の碑・遺構群)



ところで、お雇い外国人土木技師・ドールンだが、先にこのブログに登場している。そう、福島の「安積疎水」を紹介した記事で、ドールンは野蒜築港と同時期に福島でも偉大な功績を残している。疎水と築港、同じ土木事業でも少し色合いが違うように感じられるが、これは密接に国家プロジェクトでつながっている。
今回紹介した運河は、北からいうと北上川と阿武隈川をつないだものであり、阿武隈川を遡って五百川、猪苗代湖へ。ドールンの功績によりそれが日橋川、阿賀川、阿賀野川、信濃川へと続くことになる。つまり、東北の太平洋岸と日本海側がつなぐ内陸水上交通網を整備するという構想があった。
現に、明治期にはこの構想をもとに、新潟港を整備するためドールンの後継者であったムンデル、エッセル、後に常願寺川の記事で紹介したデ・レーケなどが新潟港や信濃川の改修に送り込まれている。常願寺川に調査に入る以前に新潟にそうそうたる技術者が結集していたのである。こちら余談ですが。







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