歯ブラシをくわえたまま歩き出した。デッキに出て気分を変えて席に戻る。ん? どこだったか。何も荷物がないので自分の席がわからなくなってしまった。疑わしい辺りにいくつか空席がある。
「あなたは確か、あそこでしたよ」
親切な人がいるものだ。僕のことを知っている人だろうか。
ランチタイムが近づいていた。
デッキに出て気分転換して席に戻ると周りに女性の姿が増えていた。誰かが友だちを呼んだようだ。
「私たち席をまわします」
それにはどうも逆らえない空気だった。
僕は一旦デッキまで歩き気持ちを整理して席に戻った。
「僕は外に行きますから」
愛想良く答えたつもりだった。僕の荷物は何者かの手によって既に棚上げされていた。
「温泉に行こう!」
ガキ大将だろうか。子分を引き連れて通路を歩いて行った。あるいは、大人かもしれない。
徐々に減速してホームに着くと新幹線の両扉が開いた。右か、左か……。どちらに降りるべきかわからない。既に降りた人の影は見えない。これから降りようとする人も見あたらない。
(あのガキ大将たちはどこに行ったんだ)
微かに明るく見えた左を僕は選んだ。逆だったか……。
降りたところは列車の中だ。列車はすぐに動き始めた。回送車両のようだ。座席がしっかり固定されておらず入り口付近に集まってくるのを、何とか両腕を広げて支えた。
暗がりに目が慣れてきて、後ろの方に人の気配を感じた。作業員だろうか。やっぱり座席がずれるのを必死になって支えている。
あの服装は? 作業員らしくない。
彼らも乗り間違えたのかな……。
「2名様ですか。
座敷へどうぞ! ご注文はパネルの方でお願いします。
奥2名様入りまーす!」
「3名様ですか。
奥の座敷へどうぞ! 続いて入りまーす!
おひとり様? 座敷へどうぞ! どうぞどうぞ!」
「はい。4名様、カウンターへどうぞ!
5名様、続いてカウンターの方へどうぞ!
詰めてお願いしまーす!
はい、ちょうどピッタリでーす!」
「お2人様? 座敷へどうぞ!
はい、席埋まりました!」
「満席でーす!」
「ごめんなさい。今、満席なんですよー。
2時間待ちです。
またお願いしまーす!」
「まーたお願いしまーす!」
「よーし休憩!
みなさん休憩取ってくださーい!」
思ったことを素直に口にすることができたなら……。物心がついた頃から、言葉を呑み込み始めた。何かを伝えることはいつだって難しい。相手は自分とは違う。それは取るに足りないこと? 既に知っていること。余計なお世話かもしれない。自分から発信することを迷い、躊躇い、ほとんどはスルーすることが多い。相手のことを想像すると怖くなる。他人は誰かと似ているようでも、常に未知の存在なのだから。
肩についたほこりなどを、どうして見過ごせなかったのか。きっとその時の私はどうかしていた。いつもの私ではなかったのだ。完璧な身なりの一点に浮いたそれをわざわざ声に出してまで伝えようとは。
「あの、ちょっとよろしいですか……」
紳士は無言のままゆっくりと動き出した。
振り返った刹那、肩が瞬いた。
・
放熱の冥王星がこびりつく
ロングコートの紳士の肩に
(折句「ほめ殺し」短歌)
日が経つにつれて次第に無が優雅にも思えて、漫画を読むのをやめてみたり、自画像を描くのをやめてみたり、家に帰った時にするうがいはまだやめる気にはなれなかったけれど、壁画の中の兄がコーヒーを混ぜている時に、首も一緒に動いているように見えておかしくなったり、恐ろしくなったりしたのだった。
それがね、世が世ならば版画の中で詩がガガーリンの自我を凌駕することもあるのだって。そう言って茶々を入れてくるのは、毒牙を持った蛾の一種で、流石に夜が更けてくるにつれて意外なゲストがもがき出しもするものだったが、しゅん先生は無我夢中で生姜を剥くことに決めたのだった。
「ドゥンガはサンガにはいなかった」
そう伝えてください、と夜が言った。
そういえば兄はじゃがりこミサイルが飛んでくる時などは、機体が我が本体とでもいうように身をよじってよけようとしたものだった。無が優雅にも思え始めたところで、そのような些細なことが思い出された。コントローラーだけでいいのに。
「誰に伝えればいいのかな?」
「しゅんさん、湯が沸きましたよ。また新しい湯がね」
「今、ちょうど湯に浸かっていたところですけど」
「もうすっかりそれは冷めてしまっているじゃないですか。さあさあ、新しい湯に入りなさい」
「ありがとう。いつも世話してもらって」
春になるとテル坊はメルボルンに出かける。無類のイルカ好きだからか、あるいは軽いめまいを覚えた春だからかはわからなかったが、テル坊は丸い顔をしていたし、古いナルトを好んで食べることもあった。その時は、狂ったようにフルスイングするのだったが、それは特に野球をしていたというわけでも、猿に習ってゴルフに興じていたというわけでもなく、むしろ彼は単純なナルシストに近いくらいだったのだが、苦し紛れにあまり得意でもないカテゴリーに対しても、軽く手を出してしまうことがあった。
緩やかなケルト民話のあるところに住んでいたおじいさんが、丸顔をして言うには、セルフのエルフはまるでやる気がないし、知る人ぞ知る春から最も遠いところにあるやるせない森の中から逃げ出してきたためだというのが、もっぱらの町の噂なんだとか。噂があるところにはなるようになるさという寛大なまでの春らしさも潜んでいるから、おじいさんはまるでそんなことには無頓着なのだとテル坊は思うし、どうせうるうるとしても結論を蹴り上げるとしたら、いつだって猿のすることだったのだから。
「ところで何か軽く飲めたりします?」
「知るか、んなこと」
という受け答えが、2人の間で春先のキャッチボールのように行なわれたのだった。
「古新聞はある?」
おじいさんはケルト民話がわんさと転がっている、倉庫の片隅からあるあると古新聞を持って来ては、その山のような古新聞の中から、どれでもいいやとばかりに、テル坊に向かって投げつける。テル坊は、まるで運任せに適当なところから、決して耳寄りではないはずの言葉の羅列に向かって腕を割るようにして入っていったのだった。あるある。
「何だこれは、みんな昔の話だ!」
テル坊は、抗議の声を上げた。
「昼は歩くし、夜はそれに比べてずっと気楽なものさ」
と言っておじいさんはテル坊を諭したのだった。ずっと、昔から春とはそういうものだった。
「その代わりと言ってはなんだが」
おじいさんは、代案があるとばかりに、台所に行くとくるぶしをこんこん叩きながら、ランランと踊りながら戻ってきた。
そして、おじいさんはテーブルの上にぽんとカルアミルクを置いた。
「雲行きが怪しくなってきたようです」
「もっと足下に集中すべきだろう」
「視野を広く持つように言ったのは監督です」
「だが、無駄に広げすぎてはならん」
「無駄とは? 何が無駄ですか」
「邪念だよ」
「何に対して純粋であれと言うんです?」
「言うまでもなく勝利だ。雲が勝利をつれて来るかね」
「見えてしまうんですよ。今はどこにいても色んなものが見えてしまう。見たくないものが見え、知りたくもない声が聞こえてしまう」
「周辺視野に入るものが多いと?」
「そういう時代なんです」
「君のせいじゃないと言うんだね」
「僕はともかく、みんなそうじゃないかな」
「数的優位を作って自分を消してしまうつもりか」
「それにどう転げてもここは空の下にあるんです」
「だから?」
「足下だけではどうにもならない」
「君のドリブルだけではどうにもならないさ」
「悲嘆に暮れては仰ぎ見て、夕焼けを見つめては憧れ、夜が来れば星に願いをかける。昔からみんなそうなんです」
「だから君もそうするのかね」
「向こうからはどう見えているのだろう……。今、僕はそのようなことを考えています」
「君には邪念が多すぎる」
「僕のせいですか?」
「私のせいかね?」
「答えですか? 問いですか?」
「向こうからはこちらは見えていないのではないかな」
「どうして?」
「人間が小さすぎるからだ」
「小さいものは見えないのですか?」
「小さすぎると見えないだろう」
「目を凝らせば見えるのでは?」
「見る目があるものには見えるかもしれないが」
「だったら意識の問題では? サイズじゃなく」
「意識するためには目的が必要だ」
「目的? それは何ですか?」
「過程の中で見失ってしまうもの」
「迷子になるのですか」
「そいつはいとも簡単だ。ほんの少し気を抜くだけでいい」
「普通にしていればいいんですね」
「私にとってはそれは普通ではないがね」
「思い詰めるとろくなことにならないでしょう?」
「だが、思い詰めなければ届かない場所もあるのだ」
「ゴール、ゴール、ゴール、ゴール、ゴール、ゴール……。寝ても醒めてもゴールのことしか考えられなくなる」
「それが愛では?」
「一つの枠の中だけにとらわれるのは正しいことでしょうか?」
「楽しくて美しいことだ」
「一方的な愛の行き着く先は破滅です。手段を選ばなくなったら目的はもう純粋じゃない」
「勿論そうだ。だから我々は相手のことを、チームのことを、みんなのことを考えなければならない」
「あまりに近づきすぎるとゴールは見えなくなるのです」
「だから空を仰ぎ見る?」
「雲が迫っている。もう、時間がありません」
「時間がないという時にだけ、時間はあるのだ」
「僕はボールウォッチャーにはならない」
「どんな時も見つめるしかないのが人間というものだ」
「言葉遊びはもうたくさん。いつまでも遊んではいられないんだ」
「私はただの話好きな監督だよ。もういきなさい」
「雨が……。時は準備さえさせてくれない」
「君の好きなようにいきなさい」
大きな雨がやって来て監督の声を断ち切った。不毛なばかりの大地をいつまでも歩き続けているような時だった。村も洞窟も伝説も宝物も仲間もラスボスも何もない。あるのは少しばかりの気配、予感、期待、夢の切れ端のようなものだけ。雨が降り続けている。終わらない夏休みを夢見ていた。「時は戻らない」。何も変わらない道が続いて行くのに歩みを止めることはできない。何がそうさせるのか。阻むものが現れないためか、はみ出す勇気を持てないせいか。闇の向こう側にはどんな邪悪なものが待ち受けているかわからない。
終わりのない夜に怯えていた。「空は飛べない」。ぽつりぽつりと雨粒が連なってやがて確かな雨となるように、昨日の自分を引き継ぎながらゆっくりと歩き始める。行き先はまるでわからないけれど、頼れるものは昨日の記憶と微かに残る自分の足跡の他に見当たらない。逃げ場のない迷路の中で役立たずの羽を震わせていた。「サンタクロースはいない」。一つ一つ幻想は打ち砕かれ、期待は弄ばれてきた。見つけるより失っていくための時間が流れた。すれ違う断片を闇雲にかき集めてみたところで、心の地図はどこにも開かれない。どれだけ遠回りしても構わない。最後にささやかな光でも見えるなら……。このままずっと大地を打ち続けていたらどうなるのだろう。洗い流すものがなくなってなお衰えることなく、延々と降り続けたとしたらどうなってしまうのだろう。「止まない雨なんてないんだよ」。
歳月が身に着けさせた知恵が、秩序と順路の内に括りつけようとした。肉体と精神の葛藤が収束をみせないまま見知らぬ土地へと運ばれていく。荒れ果てた芝の上にたどり着いてから、何かを決定づけられる時が訪れることを待っていた。その時のためだけに、ずっと大切に守っていた魂がある。生き物らしい衝動が背中を突いた。野生のヒョウが踊るように、ディフェンスの裏から走り出す。余りに突然動き出したせいで、誰も追いつくことができない。守るべき囲いを背中に置いて、キーパーが飛び出して来る。雨で球足が止まる。僕はもう止まらない。一足先にボールに触れる。すがるように伸びてくる手をかわす。先を行くボールに追いついて足先でもう一度微かに触れる。この瞬間のタッチを僕はいつでも思い出し、いつまでも愛することができる。すぎ去ったすべての風景が一瞬の夢であったとしても。口を開け勇者の訪れを待つ洞窟が目前に見える。ずっと探し続けていた場所は雨に濡れて懐かしい匂いがした。僕はいつでもゴールを決めることができた。そして、振り返ってゴールキーパーを見た。
「ずっと君を探していたよ」
ずっと話したいことがあったんだ。
「何の話?」
「サッカーの話だよ」
(終)