「雲行きが怪しくなってきたようです」
「もっと足下に集中すべきだろう」
「視野を広く持つように言ったのは監督です」
「だが、無駄に広げすぎてはならん」
「無駄とは? 何が無駄ですか」
「邪念だよ」
「何に対して純粋であれと言うんです?」
「言うまでもなく勝利だ。雲が勝利をつれて来るかね」
「見えてしまうんですよ。今はどこにいても色んなものが見えてしまう。見たくないものが見え、知りたくもない声が聞こえてしまう」
「周辺視野に入るものが多いと?」
「そういう時代なんです」
「君のせいじゃないと言うんだね」
「僕はともかく、みんなそうじゃないかな」
「数的優位を作って自分を消してしまうつもりか」
「それにどう転げてもここは空の下にあるんです」
「だから?」
「足下だけではどうにもならない」
「君のドリブルだけではどうにもならないさ」
「悲嘆に暮れては仰ぎ見て、夕焼けを見つめては憧れ、夜が来れば星に願いをかける。昔からみんなそうなんです」
「だから君もそうするのかね」
「向こうからはどう見えているのだろう……。今、僕はそのようなことを考えています」
「君には邪念が多すぎる」
「僕のせいですか?」
「私のせいかね?」
「答えですか? 問いですか?」
「向こうからはこちらは見えていないのではないかな」
「どうして?」
「人間が小さすぎるからだ」
「小さいものは見えないのですか?」
「小さすぎると見えないだろう」
「目を凝らせば見えるのでは?」
「見る目があるものには見えるかもしれないが」
「だったら意識の問題では? サイズじゃなく」
「意識するためには目的が必要だ」
「目的? それは何ですか?」
「過程の中で見失ってしまうもの」
「迷子になるのですか」
「そいつはいとも簡単だ。ほんの少し気を抜くだけでいい」
「普通にしていればいいんですね」
「私にとってはそれは普通ではないがね」
「思い詰めるとろくなことにならないでしょう?」
「だが、思い詰めなければ届かない場所もあるのだ」
「ゴール、ゴール、ゴール、ゴール、ゴール、ゴール……。寝ても醒めてもゴールのことしか考えられなくなる」
「それが愛では?」
「一つの枠の中だけにとらわれるのは正しいことでしょうか?」
「楽しくて美しいことだ」
「一方的な愛の行き着く先は破滅です。手段を選ばなくなったら目的はもう純粋じゃない」
「勿論そうだ。だから我々は相手のことを、チームのことを、みんなのことを考えなければならない」
「あまりに近づきすぎるとゴールは見えなくなるのです」
「だから空を仰ぎ見る?」
「雲が迫っている。もう、時間がありません」
「時間がないという時にだけ、時間はあるのだ」
「僕はボールウォッチャーにはならない」
「どんな時も見つめるしかないのが人間というものだ」
「言葉遊びはもうたくさん。いつまでも遊んではいられないんだ」
「私はただの話好きな監督だよ。もういきなさい」
「雨が……。時は準備さえさせてくれない」
「君の好きなようにいきなさい」
大きな雨がやって来て監督の声を断ち切った。不毛なばかりの大地をいつまでも歩き続けているような時だった。村も洞窟も伝説も宝物も仲間もラスボスも何もない。あるのは少しばかりの気配、予感、期待、夢の切れ端のようなものだけ。雨が降り続けている。終わらない夏休みを夢見ていた。「時は戻らない」。何も変わらない道が続いて行くのに歩みを止めることはできない。何がそうさせるのか。阻むものが現れないためか、はみ出す勇気を持てないせいか。闇の向こう側にはどんな邪悪なものが待ち受けているかわからない。
終わりのない夜に怯えていた。「空は飛べない」。ぽつりぽつりと雨粒が連なってやがて確かな雨となるように、昨日の自分を引き継ぎながらゆっくりと歩き始める。行き先はまるでわからないけれど、頼れるものは昨日の記憶と微かに残る自分の足跡の他に見当たらない。逃げ場のない迷路の中で役立たずの羽を震わせていた。「サンタクロースはいない」。一つ一つ幻想は打ち砕かれ、期待は弄ばれてきた。見つけるより失っていくための時間が流れた。すれ違う断片を闇雲にかき集めてみたところで、心の地図はどこにも開かれない。どれだけ遠回りしても構わない。最後にささやかな光でも見えるなら……。このままずっと大地を打ち続けていたらどうなるのだろう。洗い流すものがなくなってなお衰えることなく、延々と降り続けたとしたらどうなってしまうのだろう。「止まない雨なんてないんだよ」。
歳月が身に着けさせた知恵が、秩序と順路の内に括りつけようとした。肉体と精神の葛藤が収束をみせないまま見知らぬ土地へと運ばれていく。荒れ果てた芝の上にたどり着いてから、何かを決定づけられる時が訪れることを待っていた。その時のためだけに、ずっと大切に守っていた魂がある。生き物らしい衝動が背中を突いた。野生のヒョウが踊るように、ディフェンスの裏から走り出す。余りに突然動き出したせいで、誰も追いつくことができない。守るべき囲いを背中に置いて、キーパーが飛び出して来る。雨で球足が止まる。僕はもう止まらない。一足先にボールに触れる。すがるように伸びてくる手をかわす。先を行くボールに追いついて足先でもう一度微かに触れる。この瞬間のタッチを僕はいつでも思い出し、いつまでも愛することができる。すぎ去ったすべての風景が一瞬の夢であったとしても。口を開け勇者の訪れを待つ洞窟が目前に見える。ずっと探し続けていた場所は雨に濡れて懐かしい匂いがした。僕はいつでもゴールを決めることができた。そして、振り返ってゴールキーパーを見た。
「ずっと君を探していたよ」
ずっと話したいことがあったんだ。
「何の話?」
「サッカーの話だよ」
(終)