昨日、blogにうどんカルタの事を書きました。私のblog検索のキーワードに「うどんカルタ」が入っていました(笑)。
あーこうやって話題になっている事を記事にしたら微妙にアクセス数を稼げるんだと。アフィリエイト収入を目指すならこういう手もあるなと気づきました。そんなことは狙っていないのでどうでもいいのですが。ちなみにアフィリエイトとはblog上に広告などを載せて広告会社から報酬を受け取る仕組みです。これだけでかなりの収入になるらしい。一時期話題になった「ステマ」はこの最たるものかもしれませんね。
うどんカルタ、多くのニュースでも取り上げられているようです。聞いてみると「不適切な部分があるのではないかな?」と電話が一件あったとのこと。今回の件だけではなく「おいでまい」で苦情が来たことからこの対応になったという報道がされていた。コメンテーターは「どこに問題があるのか?」「過剰反応だ」「日本の社会は...」とうどんカルタに対して肯定的なコメントをしていた。まさに私もその感覚だった。
が、あるコメンテーターが「これにより一気にうどんカルタは有名になりましたね。担当者の狙いはそれだったのでは?」という指摘をしました。「え??」という感覚でした。そこまで策略を練って今回のことをマスコミ報道した可能性を指摘。周りの人は何も言えなくなりました。ある意味鋭い意見だったということです。
あくまで私見ですが担当者はそこまで狙ってやったとは思えません。「おいでまい」の件があったから迅速に対応したのだと思います。「おいでまい」のキャンペーンガールの募集の時にどれだけの数の電話があったかは分かりません。公の機関ですからそういう指摘に対して対応しなければ、論点が変わって「対応が悪い」という批判となります。だからすぐに対応したのだと思います。
が、実際のところこれは私の「願望」や「きっとそうだろう」という思い込みであって実際のところとは異なります。本当にコメンテーターの言うように「有名になることを狙っての行動」ではないも言い切れる要素はない。基本的に私はすぐに人を信じます。裏切られたり、利用されたりすることもたくさんある。私のスタンスは「信じる」というところから始まる。が、そうではない「モノの見方」をする人もいる。
当たり前のことですがかなり衝撃を受けました。
私がやっている事、やろうとしている事を「善意」だと捉える人もいれば完全に「裏がある」と思う人もいる。こちらが意図していなかったとしても捉え方によっては「行動に裏がある」と思われる。そういう事なんだなと今更ながら感じました。考え方も捉え方も千差万別。同じ事をしたとしてもそれをどう受け取るか。セクハラやパワハラも同様の捉え方だと思います。同じものを見ても感覚が違ったり、否定的な目で見ればその事は全く違う結果となる。
こんな見方をされたら担当者はかなりしんどいだろうなと思います。何かやればそれを否定的に捉えられる。これ以上話が大きくならないようにしようと販売を検討しようとしたのに(したはずなのに)、自分が思っていた以上に事が大きくなる。そしてその事を「炎上商法ではないか」と疑問視される。全て事が否定的に捉えらる世の中になっています。一つの事に対して過剰に反応する。さらにその過剰に反応している事に対して過剰に反応する(分かりにくい?)。
モノの見方は様々です。どこの立ち位置に立つかで変わってくる。それを理解しながらやっていかなければいけないと思います。それができなければ偏ったフィルターの中で生きる事になる。私はそうならないようにしたいと強く願いながらもきっと偏見や思い込みから抜け出せない。実際に人を騙したり、振込詐欺のように善意の人からお金を取ろうとする者もいる。それがなくなる事はない。
うーん、複雑ですね。上手くまとまりません。
あーこうやって話題になっている事を記事にしたら微妙にアクセス数を稼げるんだと。アフィリエイト収入を目指すならこういう手もあるなと気づきました。そんなことは狙っていないのでどうでもいいのですが。ちなみにアフィリエイトとはblog上に広告などを載せて広告会社から報酬を受け取る仕組みです。これだけでかなりの収入になるらしい。一時期話題になった「ステマ」はこの最たるものかもしれませんね。
うどんカルタ、多くのニュースでも取り上げられているようです。聞いてみると「不適切な部分があるのではないかな?」と電話が一件あったとのこと。今回の件だけではなく「おいでまい」で苦情が来たことからこの対応になったという報道がされていた。コメンテーターは「どこに問題があるのか?」「過剰反応だ」「日本の社会は...」とうどんカルタに対して肯定的なコメントをしていた。まさに私もその感覚だった。
が、あるコメンテーターが「これにより一気にうどんカルタは有名になりましたね。担当者の狙いはそれだったのでは?」という指摘をしました。「え??」という感覚でした。そこまで策略を練って今回のことをマスコミ報道した可能性を指摘。周りの人は何も言えなくなりました。ある意味鋭い意見だったということです。
あくまで私見ですが担当者はそこまで狙ってやったとは思えません。「おいでまい」の件があったから迅速に対応したのだと思います。「おいでまい」のキャンペーンガールの募集の時にどれだけの数の電話があったかは分かりません。公の機関ですからそういう指摘に対して対応しなければ、論点が変わって「対応が悪い」という批判となります。だからすぐに対応したのだと思います。
が、実際のところこれは私の「願望」や「きっとそうだろう」という思い込みであって実際のところとは異なります。本当にコメンテーターの言うように「有名になることを狙っての行動」ではないも言い切れる要素はない。基本的に私はすぐに人を信じます。裏切られたり、利用されたりすることもたくさんある。私のスタンスは「信じる」というところから始まる。が、そうではない「モノの見方」をする人もいる。
当たり前のことですがかなり衝撃を受けました。
私がやっている事、やろうとしている事を「善意」だと捉える人もいれば完全に「裏がある」と思う人もいる。こちらが意図していなかったとしても捉え方によっては「行動に裏がある」と思われる。そういう事なんだなと今更ながら感じました。考え方も捉え方も千差万別。同じ事をしたとしてもそれをどう受け取るか。セクハラやパワハラも同様の捉え方だと思います。同じものを見ても感覚が違ったり、否定的な目で見ればその事は全く違う結果となる。
こんな見方をされたら担当者はかなりしんどいだろうなと思います。何かやればそれを否定的に捉えられる。これ以上話が大きくならないようにしようと販売を検討しようとしたのに(したはずなのに)、自分が思っていた以上に事が大きくなる。そしてその事を「炎上商法ではないか」と疑問視される。全て事が否定的に捉えらる世の中になっています。一つの事に対して過剰に反応する。さらにその過剰に反応している事に対して過剰に反応する(分かりにくい?)。
モノの見方は様々です。どこの立ち位置に立つかで変わってくる。それを理解しながらやっていかなければいけないと思います。それができなければ偏ったフィルターの中で生きる事になる。私はそうならないようにしたいと強く願いながらもきっと偏見や思い込みから抜け出せない。実際に人を騙したり、振込詐欺のように善意の人からお金を取ろうとする者もいる。それがなくなる事はない。
うーん、複雑ですね。上手くまとまりません。