そろそろ本題に入らないといけないのですが。
それでもあえて話をそらす(笑)。いや、ワザとではないのですが色々と考えることがあり書いておきたいなと。
授業の中で「ビジネス実務」という科目を担当しています。昨年に引き続きです。ビジネスマナーを身につけようという感じでしょうか。その中で「ビジネスコミュニケーション」についての内容があります。それを伝えるために「導入」として色々なことをやりました。
私が書いた「ある絵」を用紙に書き写させます。それは何を書いたのかは教えません。私が描いた絵を見て判断してもらいます。そこから「絵を使ったしりとり」を始めます。制限時間内にどれだけしりとりができるか。約束事としては「何を書いたのか」は教えない。自分が描いた絵を隣の人が見てなんと判断するかです。時間が来たあとに「何を書いたのか」をそれぞれが説明していく。きちんとしりとりになっているのかどうかです。私は「パンダ」の絵を描いたのですが受け取る側は「タヌキ」だと判断しました。その時点ですでにしりとりにはなっていないのですが・・・。「チョコレート」の絵をかいていたのですがそれを「ドア」と判断してしりとりを続けるところもありました。
何が言いたいのか。自分は「こういうつもりで書いている」と思っていても相手は「自分の判断基準」で読み取ります。絵にしても言葉にしても「受け取る側」と「伝える側」にきちんとコミュニケーションが取れていて「共通認識」がなければだめなのです。伝わるべきものが伝わらない。それでは同じものを共有できないと思います。こちらが伝えたい「真意」が本当に相手に伝わっているのか。そこが重要なのです。
更には「地図」の絵を描いている子もいました。「ず」から始まるしりとりはなかなか難しい。自分が「これだ」と思って書いたものであっても次の人が困るのです。「自分の立場だけ」で考えていると上手くいかなくなります。自分さえよければいいという考え方ではなく「これをやると次の人がどうなるのか」まで見越した行動が必要になるのです。このあたりのことをどうするのか。普段の生活をしているだけでは身に付きません。意識して行動させるのは大きいと思っています。それをやるのはぼんやり授業をするのではなく「大切なものは何か」を理解しながらやっていくことです。
「○」の絵を見て「マル」と感じる人もいる。「ボール」だと判断する人もいる。シンプルであればあるほど実は分からないことがある。だからと言ってしつこくしつこく説明をしていけば伝わるのかというとこれもまた違うのだと思います。ある程度のところまでは引っ張っていけると思うのですがそれ以上は「こういうことだな」という正確な判断ができるようにならなければいけないのです。全部をやってもらうことがその人のためになるわけではない。
教科書を使います。だからと言って「教科書を暗記すればよい」とは思いません。「実学」として学んでいくことが重要。授業も部活動も同じだと思っています。これもあくまで「観点」としての部分。こういう切り口が正しくてそれ以外のことが間違っているとは思いません。それぞれのとらえ方がある。それが正しいかどうかを判断するのは難しいと思います。「一般的」と言われる考え方がどうなのか。
今、熊本や大分の震災がマスコミで報道されています。ある芸能人が「寄付をした」と書く。するとそれに対して「売名行為だ」「偽善だ」とネット上に書き上げる。それはどうなのか?実際に助けたいという気持ちで寄付をしたのだと思います。それに対してなぜ叩く必要があるのか。偽善だとしても売名行為だとしても「寄付という行為」に対してあれこれいう必要があるのか。被災者が「お前のお金なんかいらない」と言っているのか?全然関係ない第三者が「目立つ行為」に関して叩いているだけ。誰かを攻撃することで自分自身が優位に立っていると感じるのかもしれません。わざわざ言わなくてもいいという価値観もあるでしょう、。自分がやったことを他者に知ってもらう必要はない、と。そういうのが「美学」だと考える人もいれば「自分はやりました」と公にする人もいる。どちらが間違っていてどちらが正しいとは言えない。
何か問題を起こしてマスコミが取り上げる。「ネット」上では名乗らない人たちがそれをたたく。謝罪会見を行いますが正直「自分には関係ないこと」で謝罪しているので「許す」とか「許さない」ではない。だから一生解決しない。だって「自分の生活には一切影響はない」のですから。こいういう場合、「声が大きい者」の意見があたかも「多く人間の意見」として受け取られる。たった1人の人間が何度も何度も批判をすればそれはまるで「万人の意見」のように錯覚される。
被災にあった芸能人が「現状」をblogで公開していた。「辛い思いをしているのはあなただけではない」という意見が書き込まれ本人は更新を辞めた。いやいや、なぜ「被災者」をそれほどまでに批判するのか。芸能人だから「辛い」と言ってはいけないのか?一般人だったら辛いといってもいいのか?なぜ傷口に塩を塗りこむような行為ができるのか?理解できない。ひょっとしたら「悪意ない言葉」なのかもしれない。被災した方々に手を差し伸べる人を批判する意味が分からない。被災した人を批判する意味が分からない。
「同じもの」をみてどのように感じるか。「コミュニケーション」というのもあれば「価値観」というのもある。同じものを見て「美しい」と感じられる人が近くにいてくれたらそれがとても幸せなことなのかもしれない。こうやってblogを書く。言葉で書いているので「良く思われない」こともあるだろう。それでも「書く」という行為で何かできるではないかと思っている。思っているだけだから。blogに「批判的なコメント」は入らなくなった。が、いつ入るかわからない。「許可制」にしたので「面白くない」と思って書かなくなったのかもしれない。そこは分からない。が、このblogを見て「感じるもの」があれば幸いだと思う。
私は「パンダ」の絵をかいてそれを「タヌキ」と認識する。そこから自分が意図しないところでしりとりが続いていく。世の中なんてそんなもんなんだと思う。自分の「本当の考え」や「本当の姿」は近くで理解してくれる人にしかわかってもらえないのかもしれない。
特に何かがあったわけではありません。ご安心ください。更新が滞っていたので病んでいたのではなく「疲労していた」からです(笑)。お許しを。真面目に更新します。
それでもあえて話をそらす(笑)。いや、ワザとではないのですが色々と考えることがあり書いておきたいなと。
授業の中で「ビジネス実務」という科目を担当しています。昨年に引き続きです。ビジネスマナーを身につけようという感じでしょうか。その中で「ビジネスコミュニケーション」についての内容があります。それを伝えるために「導入」として色々なことをやりました。
私が書いた「ある絵」を用紙に書き写させます。それは何を書いたのかは教えません。私が描いた絵を見て判断してもらいます。そこから「絵を使ったしりとり」を始めます。制限時間内にどれだけしりとりができるか。約束事としては「何を書いたのか」は教えない。自分が描いた絵を隣の人が見てなんと判断するかです。時間が来たあとに「何を書いたのか」をそれぞれが説明していく。きちんとしりとりになっているのかどうかです。私は「パンダ」の絵を描いたのですが受け取る側は「タヌキ」だと判断しました。その時点ですでにしりとりにはなっていないのですが・・・。「チョコレート」の絵をかいていたのですがそれを「ドア」と判断してしりとりを続けるところもありました。
何が言いたいのか。自分は「こういうつもりで書いている」と思っていても相手は「自分の判断基準」で読み取ります。絵にしても言葉にしても「受け取る側」と「伝える側」にきちんとコミュニケーションが取れていて「共通認識」がなければだめなのです。伝わるべきものが伝わらない。それでは同じものを共有できないと思います。こちらが伝えたい「真意」が本当に相手に伝わっているのか。そこが重要なのです。
更には「地図」の絵を描いている子もいました。「ず」から始まるしりとりはなかなか難しい。自分が「これだ」と思って書いたものであっても次の人が困るのです。「自分の立場だけ」で考えていると上手くいかなくなります。自分さえよければいいという考え方ではなく「これをやると次の人がどうなるのか」まで見越した行動が必要になるのです。このあたりのことをどうするのか。普段の生活をしているだけでは身に付きません。意識して行動させるのは大きいと思っています。それをやるのはぼんやり授業をするのではなく「大切なものは何か」を理解しながらやっていくことです。
「○」の絵を見て「マル」と感じる人もいる。「ボール」だと判断する人もいる。シンプルであればあるほど実は分からないことがある。だからと言ってしつこくしつこく説明をしていけば伝わるのかというとこれもまた違うのだと思います。ある程度のところまでは引っ張っていけると思うのですがそれ以上は「こういうことだな」という正確な判断ができるようにならなければいけないのです。全部をやってもらうことがその人のためになるわけではない。
教科書を使います。だからと言って「教科書を暗記すればよい」とは思いません。「実学」として学んでいくことが重要。授業も部活動も同じだと思っています。これもあくまで「観点」としての部分。こういう切り口が正しくてそれ以外のことが間違っているとは思いません。それぞれのとらえ方がある。それが正しいかどうかを判断するのは難しいと思います。「一般的」と言われる考え方がどうなのか。
今、熊本や大分の震災がマスコミで報道されています。ある芸能人が「寄付をした」と書く。するとそれに対して「売名行為だ」「偽善だ」とネット上に書き上げる。それはどうなのか?実際に助けたいという気持ちで寄付をしたのだと思います。それに対してなぜ叩く必要があるのか。偽善だとしても売名行為だとしても「寄付という行為」に対してあれこれいう必要があるのか。被災者が「お前のお金なんかいらない」と言っているのか?全然関係ない第三者が「目立つ行為」に関して叩いているだけ。誰かを攻撃することで自分自身が優位に立っていると感じるのかもしれません。わざわざ言わなくてもいいという価値観もあるでしょう、。自分がやったことを他者に知ってもらう必要はない、と。そういうのが「美学」だと考える人もいれば「自分はやりました」と公にする人もいる。どちらが間違っていてどちらが正しいとは言えない。
何か問題を起こしてマスコミが取り上げる。「ネット」上では名乗らない人たちがそれをたたく。謝罪会見を行いますが正直「自分には関係ないこと」で謝罪しているので「許す」とか「許さない」ではない。だから一生解決しない。だって「自分の生活には一切影響はない」のですから。こいういう場合、「声が大きい者」の意見があたかも「多く人間の意見」として受け取られる。たった1人の人間が何度も何度も批判をすればそれはまるで「万人の意見」のように錯覚される。
被災にあった芸能人が「現状」をblogで公開していた。「辛い思いをしているのはあなただけではない」という意見が書き込まれ本人は更新を辞めた。いやいや、なぜ「被災者」をそれほどまでに批判するのか。芸能人だから「辛い」と言ってはいけないのか?一般人だったら辛いといってもいいのか?なぜ傷口に塩を塗りこむような行為ができるのか?理解できない。ひょっとしたら「悪意ない言葉」なのかもしれない。被災した方々に手を差し伸べる人を批判する意味が分からない。被災した人を批判する意味が分からない。
「同じもの」をみてどのように感じるか。「コミュニケーション」というのもあれば「価値観」というのもある。同じものを見て「美しい」と感じられる人が近くにいてくれたらそれがとても幸せなことなのかもしれない。こうやってblogを書く。言葉で書いているので「良く思われない」こともあるだろう。それでも「書く」という行為で何かできるではないかと思っている。思っているだけだから。blogに「批判的なコメント」は入らなくなった。が、いつ入るかわからない。「許可制」にしたので「面白くない」と思って書かなくなったのかもしれない。そこは分からない。が、このblogを見て「感じるもの」があれば幸いだと思う。
私は「パンダ」の絵をかいてそれを「タヌキ」と認識する。そこから自分が意図しないところでしりとりが続いていく。世の中なんてそんなもんなんだと思う。自分の「本当の考え」や「本当の姿」は近くで理解してくれる人にしかわかってもらえないのかもしれない。
特に何かがあったわけではありません。ご安心ください。更新が滞っていたので病んでいたのではなく「疲労していた」からです(笑)。お許しを。真面目に更新します。