思うことを。
時間を有効に使う。「有効」というのがどういう意味合いを持つのか分かりませんが。何かに向けてやろうと思えば「最大限のことをする」というのは当然だと思っています。が、それは私にとっての「当然」であって、それ以外の人にとっては「特別なこと」なのかもしれません。ここは非常に難しい。
例えば「課題」がある。それを提出しない。別に構わないと思います。提出はするが答えを写して提出する。これも結局は「自分自身」の問題です。しかし、そこに意味があるのかどうか。徹底的に課題を出さない。それはそれで自分の考え方だと思うのでいいのかなと。しかし、「評価」としては厳しくなります。社会に出たときに「与えられた仕事をやらない」とか「期限を守らない」というのは許される行為ではありません。学生時代は「忘れていた」ということで済むかもしれませんが。
次年度から高校での評価が変わってきます。中学校の時に近づくのかなという感じです。我々としてはかなり煩雑になるのでメリットはありません。生徒にもわかりにくくなると思います。それでも偉い人が「意味がある」と思って導入するのだからやらざるを得ない。その中で「知識」を問う部分の割合が小さくなります。共通テストでもそれを受けて出題形式が大きく変わっています。得点が過去最低になるくらいの変化です。偉い人がそれをやるので受験生はかなりの被害にあっていると思います。
とはいえ、それを導入せざるを得ない。そうなると「評価」は物事に対する姿勢も大きく影響してきます。上述のように「時間を有効に使えない」生徒に関しては間違いなく評価が下がります。「課題」をやる時間は確保できないが「スマホ」でゲームをする時間は確保できる。それが自分にとってどのような意味があるのかが分からないのです。それはそれで「選択」なのでいいのかなと。
「転ばぬ先の杖」だと思って「きちんとやる」ほうがいいと話します。が、それは転ばない間は分からない。転んだ時に気づく。そうであれば普段からは一般的なことだけ、業務だけを遂行するほうが圧倒的に楽になります。結局、「課題をやる」ことを伝えてもやらないのだから。仕事として「授業をする」のは当然のことです。プラスアルファで「資格取得」に対しての援助をする。しかし、「その気」がなければ課題もやりませんし、検定取得しようともしません。そうであれば別に「協力」する必要はないのかなという気もします。
以前は「教員なんだから自分自身を犠牲にして生徒のためにやる」ことが「当然」と言われていました。多分、今でもその感覚を持っている人は多いと思います。が、「やりがい」があるのだから「生徒のために」やるのが当たり前という風潮は如何なものか。もちろん、「一生懸命にやりたい」と思っている生徒に対してはサポートする必要があります。目標に向かって進んでいくことに対しての協力は当然かなと。が、それは「強制」されるものではない。自分自身の「意思」で行動するべきだと思っています。
「課題」を提出しない。ここに関しては「記録」していく。「評価」が低い時に抗議されたら「根拠」を示して説明する。好き嫌いでやるわけではありません。きちんとやっている人間に対して正当な評価をする必要があるからです。こうやって考えることが自分自身にとって「時間」を有効に使うことになるのかどうか分かりませんが。
いつもいつも気楽に考えているわけではありません。きちんと「考え方」をもってやっています。そこに対して不満を感じる人もいるのかもしれません。が、実際問題「正当な評価」なんかはこの世には存在しません。社会に出たときには「不当な評価」のほうが多くあります。まーやるべきことをやらないで「権利」だけを主張するのも違いますから。「主観」ではなく「客観的指標」が必要になるのでしょう。陸上競技の「記録」は「客観的指標」になる。「努力」をしたからといって「記録」が伸びない選手だっている。これは「不当」なのかもしれません。「努力」をすれば「夢」は叶うという「幻想」だけではよくないなと思います。
時間をどのように使うか。何のために使うか。重要なことだと思います。限られている時間です。その部分は人それぞれ。長い目で見たときに後悔するかもしれませんし、しないかもしれない。その時になってみないと分からない。それはそれでいいのかなと。人生の長い時間の中で何が失敗なのか分かりませんから。
まとまりのない文章になっていますが。記録しておきます。