kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

今更気づく

2022-01-30 | 陸上競技
金曜日。この日も朝から走ることにしました。正直、体調が良いかどうかを問われると「微妙」でした。が、ここで「万全」といえるのはどんな状況なのか気になっていました。少し咳が出たり微妙な発熱があったとする。そうなると全ては「コロナ」と判断されるかもしれない。常にマスクをしていますし、極力人と接しないように過ごしていても寒暖の差で風邪をひくことがあるかもしれない。それさえも「許容されない」のかもしれない。もちろん「他者を感染させない」というのが一番重視されるべきです。自分自身、感染するリスクを避けて生活をしている。それでも「何があるか分からない」という不安に襲われる。気持ち的にやられるのかもしれません。

そんな中で走りました。走らなければ良いのに(笑)。走るとすぐに汗を拭くのではなく少し歩いてからになるのでその間に身体が冷えます。ここで風邪をひくリスクが生まれるのかもしれない。免疫力も低下するので何かに感染する危険性もある。そうなると本当に何もできなくなるなと思いますが。




最初の1キロの時点でこの日もしんどいなと感じました。4キロを目標にしました。2キロ走ったところでまた折り返すという形で。後半ペースが落ちています。うーん。別にそこにこだわりがあるわけではないですが。1ヶ月前と比べると少しはペースを上げて走れるようになっているのは確かです。

で、やはり大臀筋の付け根が痛い。筋肉痛だと思っていました。アップダウンがある場所を走っていたのでそのダメージだろうと軽く考えていました。が、この日も痛いのです。単なる筋肉なのか。自分の中でもよく分かっていません。痛いなと感じ始めた前のことを考えてみる。

そういえば火曜日、調子に乗って7キロ走りました。過去最高の距離。で、結構なペースで走れるようになってきたなと感じたので補強も追い込もうと思ってハッキング、ブルガリアンスクワット、腕立て伏せをひたすら繰り返しました。ブルガリアンスクワットの途中でめちゃくちゃしんどかったのですが、「ここで負けられない」と思って気合でやり続けました。

今更ですが間違いなくこの段階で脚を痛めていました(笑)たしかにその時に大臀筋の付け根が痛かった。かなり効いているというのが自分の中であったのですが筋力がほぼなくなっている私が限界に挑戦するような練習をしたらダメなのです(笑)学習できていない。筋肉痛とかではなく純粋に痛めているのではないかと。それなのに毎日「走るぜ!」みたいな勢いで走っていたことにより悪化。まーダメですね。

この日も遠隔授業の準備をひたすら。かなりの準備をして配信。こうなると元々の段階手間生徒たちにタブレットに触れさせておくことは必須だったなと思います。何度も言っていましたが、やはり利用しなければいけないという状況を普段の中で作っておかなければいけないなと。だからできない。必要性を感じていなかったのだから触れることがないのです。おもちゃの延長くらいにしかなっていなかったのかなと。3年生の授業の中では使っていましたが、クラスの生徒に対してはそれをやっていませんでした。反省です。

前回のコロナショックの時には「Googleが使えない」というのが否定的に捉えられる雰囲気があって本当に嫌でした。私はそれなりに順応して使っていましたが、必要ないと思う人も当然ながらいます。何が何でも使わないといけないというのは少ない部分でしたから。対面授業が始まればそこまで使わない。対面でやるのがメインであれば使わなくても全く問題ないなと思います。これは今でも変わらない部分。対面でないとできないことがあると考えています。

が、今回のことを考えるとやはり「慣れさせる」というのも必要。全教員がやらなくても少なからず私くらいはやっておかないと後で困る気がしています。他の人が使わないといけなくなった時にはこちらでサポートすれば良い。が、受講する側がタブレットで何もできないという形になると本当に意味がなくなります。この子達はこのままだと将来的に「格差」によって「利用される側」になってしまうのです。流行りに乗るとかではなく、全体の流れがそちらに向かっているのだから「抗う術」くらいは知っておかなければいけない。

そして、これをやることによって「教員側の負担」がアホほど増えるという部分。ここにも今更ながら気付きました。課題を共有して提示します。動画を作成して提供する。それに対して課題をやらせる。間違えていたらそれに対して指摘をして再提出させる。それがまた提出される。これは24時間体制になります。職場にいなくてもできるからです。更に質問にも答えることができる。もちろん質問されたら答えます。

個に応じた指導。素晴らしいことです。オンラインで様々なことができるようになったからこそ細かい指導ができるというのはあります。が、それは教員側の負担を半端なく増やしている。一方的な授業ではなく理解度を高めるためには課題を提示してそれに対してきちんとやらせなければいけない。スタディサプリなどもありますが、これを県が負担して全ての学校にやらせようとしていた費用の大半は無駄になっている。必要としていない生徒に対しても契約を結んでお金を払っているのだから。

仕事の負担は増えます。県の経済的な負担も増えていたはずです。それってどうなのかなと今更ながら。まー常識的に考えておかしいと思うことであっても、この内容を踏まえて「教育批判」とか「愚痴を書くな」みたいなことを言われるのかもしれません。何が間違っていたどうすればそれを是正できるのか具体的なことであれば意味があるのかもしれませんが、私が嫌いというだけで何が言われても全く意味がないとは思います。これも今更ですが。

今更。多くのことに今更ね、と感じることは増えます。どうにかできると良いなとは思うのですが。

まー。感じたことを記録しておきます。

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「死神の精度」と「死神の浮力」

2022-01-30 | 陸上競技
ヘロヘロではありましたが図書室で借りた本を読みました。先日から伊坂幸太郎さんの書籍を読んでいます。その流れの中で。素人なので時系列ではなく本棚にあるものを無作為に手に取って読み始めるという形です。

伊坂さんの作品には前の作品の登場人物がゲスト出演するというような流れがあるというのも知らず。無知は罪。とはいえ手に取ったのが「死神の浮力」でした。




読んでみるとこれは「死神の精度」という短編集?の続編とのこと。先に読んでおなければいけない作品があった。が、後日図書室に行くとその本はない(笑)あーということで本屋で文庫本を購入しました。




表紙のイメージが全く違います。ネット上に本来の表紙があったので載せておきます。




先に「死神の浮力」を読んでしまっていたので何か書く前に「死神の精度」を読んでからでないとダメだなと思っていたので。

人は誰も「最後」を迎える。その中でどのような「感情」があるのかというだけではない話です。大抵この手の話であれば「死神」が出てきて登場人物と関わっていく中で生き方が劇的に変わっていって「新しい自分」に気づき前向きに生きていく。「死神」本来の仕事である「最後」を与えることなく去っていくというようなパターンのものが多い。

が、この作品の「死神」は基本「先送り」と「可」の選択肢の中で「可」を選ぶ。何もしないと自然に「可」になるという形です。先に「死神の浮力」を読んでいたのでよく分かっていない部分もありましたが。

「死神の精度」は優れた作品だと感じました。最後に「え?」と2箇所思わされる部分が。そういう流れになるとは思っていなかったので。人にはそれぞれ背景があって、悔いること、もっとやりたいと思うことがある。だからといって「先延ばし」にならない。後のことは自分で想像するしかないという場面が多くあります。「恋愛と死神」の部分に関しては本当に苦しくなる感じがありました。この部分だけは始まってすぐに「最後」があってそこから逆に話が進んでいくというものでした。


「死神の浮力」。これはとにかく惹きつけられました。サイコパス。その人に向き合う時に人はどんな感情を抱くのか。他人の人生をゲームのように支配する。絶望を与えることに喜びを感じる。どう立ち向かうのか。複数の「死神」が出てきて途中、私の中で「え?まじか?」と思う部分がありました。そこからは想像力を働かせながらどんな展開になるのかを考えながら読んでいきました。

とにかく印象に残っている言葉。「寛容は不寛容に対して不寛容になるべきか」というもの。分かりにくいので意訳。「良い人は悪い人に対して許さずに悪い行為をしても良いか」というものです。大抵、「嫌な事をする」人の行為が勝ってしまう。こういう時に酷い目にあうのは「良い人」です。「良い人」は「良い人」が故に「悪い人」に騙されます。だから今度は「良い人」が「悪い人」に対して「許さずにやり返す」ことに関してどうか?という投げかけ。

「死神の浮力」はまさにそこが話の中心だからです。考えさせられらなが読むことができました。

また、「その日を摘め」という言葉も。普通の人がある事で自分以外の「最後」な事を考え始め不安で自分が保てなくなる。自分自身の「最後」ではなく大切な人の「最後」を考える耐えられない。その中出会った言葉が「その日を摘め」という言葉。ローマの詩人の言葉。紀元前1世紀の人の言葉です。調べてみたら本当にその時代の言葉でした。「今この瞬間を楽しめ」とか「今という時間を大切に使え」という感じの意味。

「不安」抱えるだけではない。誰にも分からない先のことを考えるよりも目の前のことを楽しめば良いじゃないかという言葉にもとらえられます。ここも考えさせられました。場当たり的な生き方をしなさいという話ではないと思います。その時その時が楽しければ良いというのではない。言葉だけをみると「瞬間的なこと」を最優先するという感じかもしれません。が、考えても仕方ないことをひたすら考え続けてたどうにもならないという捉え方をすれば、だから今目の前にあることをしっかりやろうという部分に置き換えられます。何が正解か分かりませんが。

話が飛び飛びになっていますが、どちらも非常に良かった。作家さんが何ヶ月もかけて生み出した作品を僅かばかりのお金で読ませてもらうというのも申し訳ない気持ちになります。とにかく作品に触れることで考えさせられるものがあります。

あえて作品の中身にはほぼ触れずに書いています。機会があれば作品に触れてみてもらいたいです。

ぼちぼちやっていきます。



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ヘロヘロと報道の仕方

2022-01-30 | 陸上競技
更新滞る。またものパターン。若干の体調不良。こうなるともう不安しかありません。少し身体が重いなと感じたら感染しているのではないか。この期間は臨時休業となっていたのですが、教員側から生徒に感染させたというのが少しでもあると恐ろしいほどのバッシングを受けます。逆パターンはそうでもない。うーん。

この日も少しだけ身体を動かそうと。大臀筋の付け根の部分に痛みがありました。これは筋肉痛なのかなと思っていましたが想像以上のに痛い。ひょっとすると肉離れをしているのではないかという不安も。何をやっても不安が残ります。

この日は実際に持久走大会で走る女子の4キロを走ってみることに。前回途中で気持ちが折れてしまったので別のコースを走ったのですが今回はきちんと走ろうかなと。最初の1キロを走り終えた時点で若干しんどいなというのもありましたが走り続けることに。そこから登ったり降りたりが3箇所。気持ちが切れそうになりながらも走る。

こう考えてみるとなんで走っているのか疑問を感じる部分も出るのですが。元々そんなに走るのが大好きという訳ではありません。どちらかというと長距離走は好きではありません。パッとやってパッと終わる方が得意だからです。短期集中。それが何も目的がないのにひたすら長い距離を走っている自分。客観的に見ると笑えてきます。

誰かから強制されているわけでもない。かといって目標もない。それなのに意味もなく走る。ランニングハイという言葉があります。走っているうちに気持ち良くなってくる。私は全くありません(笑)。しんどい中でひたすら走っているだけです。どこかに面白かわ求めないといけないのかなとも思いますが。

軽快にジョギングをしている方が複数いらっしゃいます。楽しいんだろうなと。まー短距離やハードルに関しても周りから見れば「何が楽しいの?」と思われるでしょう。特別刺激的なことはなく地味な事を繰り返している部分が多くあります。分かる人にしか分からないというのがたくさんあるんだろうなと。



大したペースではなく走り終えました。後で確認してみると駅伝部の女子は14分台で走るとか。一般の生徒でも18分くらいで走るようです。いやいや(笑)私には到底無理ですね
。わかりにくいですがアップダウンがかなりあります。高低差が20mくらいある場所を登るというのはダメージが大きい。またもヘロヘロ。

前回の反省を活かしてこの日はプロテインバーを事前に購入しておき走り終わってから食べることに。水分補給も。かなり汗をかくのでその辺りの処理も。何を目指しているのか全く分からない状況ではありますが。

この日ニュースで県内のコロナ感染者が400人を超えたというのが報道されていました。常に感染者数がメインの報道。この決まりきったニュースがあとどれくらいで続くのか。人数が増えて「過去最高」という言葉で煽り続けることで何が変わるのか。「注意を促す」というのとは全く別の何かがあるような気がします。

朝通勤時にカーテレビを付けていると「○○大学」の教授が毎日出演依頼を受けてコメントされています。この方は「数だけではない」と言われています。が、人によっては「不安を増長させる」発言をする人もいます。やはり「報道」は伝える側の「意図」によって全てが大きく変わってきます。同じものを見ても「良い」部分を前面に出すのが「悪い」部分を出すのかによって全く違ってきます。

流れがあって「叩いても良い」と思ったことに対しては袋叩きのようにバッシングする。が、一部に対しては過剰なまでの忖度をする。更に偏向報道がなされることで表面的な情報を受け取るだけになると考え方や思考も誘導されることになります。これって本当にいいのかなという気がずっとしています。

ちょっと真面目に書いているような気はしますが。まーぼちぼちやっています。ぼちぼち。


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