
西暦2016年卯月蝶人狂言畸語輯&バガテル―そんな私のここだけの話 op. 228
滅びの美意識を三十一文字の和歌に表現したのが「古今和歌集」であり、色好みを主題とする歌物語に表現したのが「伊勢物語」だとすれば、それを四季の変化や社会の実相や人間心理の襞を映し出す類想的・瞑想的・回想的な散文表現へと拡大し細密化していたのが「枕草子」だということができようか。長谷川宏「日本精神史」
「枕草子」「源氏物語」という散文文学の二大傑作は、貴族社会が百年の文学的成熟を経て、事柄を的確に綿密に描写するという、まさにそのことにおもしろさを感じ取るところにまで至ったことを示している。長谷川宏「日本精神史」
上流貴族に愛されて一見仕合わせそうに見える女たちといえども、その内面に錘鉛を下ろしてみれば、そこには苦渋・苦悶・悲哀・悲痛がうごめいていると考えるのが紫式部の人生観だった。長谷川宏「日本精神史」
「源氏物語」を読むと、仏教的な生き方としてあった出家が、仏道修行や仏教信仰とは直接かかわらぬ社会的な制度として認知されていたことが分かる。それは追い詰められた人にもなんとか生きる場を提供しようとする、知恵と懐の深さを示す仕組みだったのだ。長谷川宏「日本精神史」
死にゆく大君の腕、肌、白衣、夜具、髪のを見つめる目は薫の目であるとともに、いやそれ以上に作者・紫式部の目だ。人の世の暗部を見詰めるまなざしと人々の古心の奥に去来する苦悶と悲傷を文字に定着する筆の力は、物語に衰亡や退廃の気配が濃くなるなかでも、その力強さと鋭さを失うことがない。長谷川宏「日本精神史」
重源が周防の山に入ったのが一一八六年、以後良木を選抜し伐採し、陸路・海路を運搬し、はるばる奈良まで持ってくるのにまる四年。そして集めた木材を使って高さ四五メートルに及ぶ大仏殿を作りあげるのにさらに五年の歳月を要した。長谷川宏「日本精神史」
一方は宗教の世界、他方は政治の世界と生きる場は異なってはいたが、秩序の全体が崩れゆく末法の世にあってみずからの力と行動によって新しい何かを作り出そうとする重源と頼朝はたがいに気脈の通じる存在だった。長谷川宏「日本精神史」
法然は称名念仏以外の難行、すなわち造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律のおこないをそれがどのようなものであるかよく知った上できっぱりと斥けた。長谷川宏「日本精神史」
「善人なを往生す、いかにいかんや悪人をや」は死後のあの世で通用する論理だと答えるほかはない。親鸞はこの世では逆説に見える論理こそが、弥陀の本願にかなうあの世の絶対的な宗教論理だと考えたのだ。長谷川宏「日本精神史」
現実が本来のすがたを取る世界に近づこうとする試み、それが只管打座の行だ。その試みの中で現実の事物や事実がいっそう現実的なものとしてあらわれる。その充実感および開放感は打座の行を重ねる道元が、おのれの身心にみなぎる実感として感じ取ったものだった。長谷川宏「日本精神史」
その充実感と開放感を道元は「身心脱落」ということばで表現する。身心の拘束を抜け出していうならば純粋な思考体として本来の現実と向き合うのが打座の試みだというのだ。長谷川宏「日本精神史」
そのように現実のすべてが現実化されてあらわれるとき、あらわれるすべてのものには存在の輝きとでもいうべきものが具わっている。現実よりもいっそう現実的であるという輝きだ。現実世界では一般に負なるもの、劣ったものとされるものまでが存在の輝きをもってあらわれる。長谷川宏「日本精神史」
「正法眼蔵」第一「現成公按」の「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」というときの「迷」や「死」や「衆生」は、もはや低次元の忌避すべきものではなくなる。長谷川宏「日本精神史」
「悟」や「生」や「諸仏」と同じように価値ある存在であり、「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」というときの「迷」「悟」「諸仏」「衆生」は、そのいずれもが輝く存在として、真の現実世界に位置をあたえられているのである。長谷川宏「日本精神史」
啄木は根っからの音楽好きで、フルート、ヴァイオリン、ハルモニウムを独学で身に付けている。啄木の日記は、(彼が)楽器を演奏したことには何度か触れている。また啄木自身が考案した楽譜の断片が幾つか残っている。ドナルド・キーン「石川啄木」
詩人たる資格は三つある。詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通人の有つておる凡ての物を有つてゐるところの人でなければならぬ。石川啄木「食ふべき詩」
人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却って便利だと思ってゐる。一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。それを現すには形が小さくて手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。石川啄木「利己主義者と友人の対話」
おれは初めから歌に全生命を託さうと思ったことなんかない。何にだって全生命を託することが出来るもんか。おれはおれを愛してはゐるが、其のおれ自身だってあまり信用してはゐない。石川啄木「利己主義者と友人の対話」
ぼくは音楽で何かいうためには、1曲3分もあれば充分だと思っています。武満徹
ぼくは音楽の最も本質的な内容は響きにあると思っているんです。ある響きを作り出すということがぼくの音楽表現です。だから自分はほしい響きを作るためにいろんなことをしています。武満徹(立花隆の武満評伝から引用)
応仁の乱で絶えた雅楽は江戸時代に復活するが、後水尾天皇が楽人に「右手で弾くこともままならぬのに左手まで使って演奏するのか」と皮肉ったので誰もあえて左手による「押し手」を使おうとせず、それ以来タブーとなって現在に至っている。
武満徹(立花隆の武満評伝から引用)
「保育園落ちた日本死ね」という匿名メールで保育園に予算や人がつくなら、その前に「社会福祉施設の介護看護スタッフ(特に夜勤)にも、少なくとも他の職種並みの手当てをつけてもらおうじゃないか。でなきゃ「007も日本も2度死ね」。4/24
北海道補選の惜敗は残念だが、ファシズムへの道を一瀉千里に辿る安倍蚤糞の野望を封じ、よりましな政治を実現するためにはこの野党共同戦線しか方法はない。くたばれ自公!4/25
美空ひばりや三波晴夫の頃は歌詞がよく聴こえたが、少数の例外を除いて、ポップスもクラシックもラップも(字幕無しでは)何を歌っているのかほとんど聴き取れない。この一事を以てしても現代音楽がいかに駄目かが分かる。
「さわり」という言葉は実にいろんな意味を含んでいます。漢字で書けば「障」という字。ところが日本では最も美しいもののことも「さわり」という。これは障害があるからこそ、自分たちは本当に自由になれるという発想なんですね。武満徹(立花隆の武満評伝から引用)
戦争中に勤労動員の陸軍基地で偶然聴いたリュシエンヌ・ボワイエのシャンソン「パルレ・モワ・ダムール」が、作曲家武満の出発点となった。
ウェーべルンの曲はみんな短い。短いけれども、1小節の中にすべてが含まれている。武満徹
身自らやられない限りは所詮他人事也 蝶人