あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

孝壽聰監督の「水筒と飯盒」「華開世界起」「The Painter」をみて

2016-05-03 10:23:10 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1009、1010、1011



 昨年1月に急病で倒れた友人の回復を祈念する3部作の上映会が開催されたので四谷区民センターへ行ってきました。

「水筒と飯盒」はインパール作戦から奇跡の生還を果たした5人の老兵が、当時の軍装を身につけながらみずからの過酷な戦争体験をみずからの言葉で訥々と語ります。

 普通の戦争インタビュー番組ですと、激しい戦闘の実写が頻繁にインサートされたり、爆撃音が鳴り響いたりするのですが、ここでは元兵士の語りと同時録音の野良のウグイスの鳴き声などが聞こえるばかり。もっぱら彼らが戦場で見聞きした具体的な事実の語りだけで戦争と戦場の日々の実相を再現しようとしています。

 その具体性は、例えば冒頭の兵士が脚絆(ゲートル)を巻くシーンにあります。かつて私も亡き祖父に教えられてこれを脚に巻いてみたことがありますが、驚くほど柔らかく軽快になり、なるほどこれなら長駈行軍することが出来るだろうと実感しました。

 ゲートルをぐるぐる巻いている間に、男は陸軍兵になっていったのです。

 そしてその兵士は、みずからの体験を語りながら時折地面に横たわって死んだ戦友を演じたり、ビルマから持ち帰った水筒と飯盒を使って炊爨したりすることが、おのずから死者への供養と重なってくるという次第です。

 ハリウッドや日本の戦争映画がスクリーンの上だけのドンドンパチパチの「戦争の虚像」を描いている人間不在のハリボテ映画だとしたら、「水筒と飯盒」は、血と肉を備えた生身の人間が実行する「戦争の実像」をリアルに描いている「等身大の戦争映画」といえましょう。

 それは戦場で生活し、戦っている生身の人間を等身大で描きながら、もう一度語り手自信と私たち観客に戦争をリアルに追体験させるという不思議な効能を持つ映画でもある。

 そして「戦場で一番大事なのは三八銃ではなく水筒と飯盒だ」というある兵士の言葉が、なによりも雄弁にこの戦争の真実を伝えているようです。


 2011年製作の「華開世界起」は、道元の「正法眼蔵」の「花開いて世界起こる」という詩的哲学を、フランスで禅をひろめた弟子丸泰仙老師が開いた観照寺と、フランスの禅道尼苑で撮影された美しい自然と修行僧の言動をコラージュさせながら映像化した高踏的な作品です。

 不勉強な私は、大本教の出口なおの「三千世界一度に開く梅の花」には共感できても、道元なんか読んだこともないし、「木石を通じて花開き、世界が起こる」と言われてもよく分からないので、この映画を適切に評価することはできません。

 しかし梅の香ばしい匂いに惹かれた虻がぶんぶん飛び回りながら蜜を吸うている長回しを見ていると、ここにこそ生きとし生けるものの未来永劫変ることなき営みがあり、宇宙の普遍の真理が存在しているような気がしてくるのは、ピエール・ピュシューの卓抜なキャメラワークと一体化した孝壽聰の世界認識の賜物なのでしょう。


 2015年製作の「The Painter」は、池田龍雄氏の作品制作過程を氏のスタジオで撮影したドキュメンタリー映画です。

 クルーゾーがピカソを描いた「天才の秘密」もそうでしたが、作家の創作現場を覗いたキャメラからは、一期一会の創造の炎がめらめらと燃え上がる奇跡的な瞬間が定着されています。

 制作の技法や、特攻隊員であった自分の半生や前衛運動、絶対的平和主義について語る主人公にも惹かれますが、もっと面白いのは、彼の妻君の存在感です。その威風堂々とした風貌と夫を評する「随分長いこと描いてきたわね」の一言を耳にすると、この夫人あってこその「世界的な前衛画家」であることが、ほんのワンカットで体得できてしまうのでした。

   憲法を冒涜し侮辱し毀損する者どもを厳罰に処すべし五月三日 蝶人
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