照る日曇る日第890回
もはや棺桶に片足をつっこんでいる歳ともなれば、とっくにこの世を去ったこの国の達人たちの遺文を熟読翫味するのがいちばん身に添う業ではないだろうか。
鴨長明の「方丈記」は、吉田兼好の「徒然草」とともにそんな読書には最適の友だが、同じ長明選手の作とされる「発心集」はこのたび初めて読んでなかなか面白かった。
発心というのは要するに出家の発心である。平安時代から鎌倉時代にかけては武家や公家の権力闘争の巷であると同時に出家全盛時代でもあったことが、この本を読むとよく分かる。
法華経を唱えつつ西方浄土に無事に往生することは宮廷や荘園で出世するのと同じくらい重要な人世の課題であり、それは信心深い高貴な貴族や僧侶、武士のみならずひろく百姓、乞食にとっても同様だった。
彼らはこの世からただちに繋がっている来世とそのもっと先の世の中の実在をかたく信じていたから、現世での短い幸不幸や貧富にまつわる有為転変は比較的かんたんに飛び越えることができた。
本書には田を鋤く牛が滅多打ちされる姿を見て「自分は牛がこんな酷い目に遭わされていることも知らずに米を口にしていた罪深い人間だ」と気づいてすぐに出家したひじりなどそれらの発心の具体例が数多く披歴されているが、とりわけ胸を打つのは次のケースである。
「鷹を好み飼ひける時、その餌に飼はむとて、犬を殺しけるに、胎みたる犬の腹の皮を射切りたるより、子の一つ二つこぼれ落ちけるを、走りて逃ぐる犬の忽ちに立ち帰りて、その子をくはえて行かんとして、やがて倒れて死にけるを見て、発心せり」(15「正算僧都の母、子の為に志深き事」)
この姿を見てすぐに出家した人物、そしてそれを記録にとどめて後世に伝えた鴨長明の繊細で明敏な感受性をば、私はじつに尊いと思うのである。
世界中のネコをじゃんじゃん撮りまくる世にも不思議な番組をみる 蝶人