あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

「谷崎潤一郎全集第12巻」を読んで

2017-06-10 11:27:35 | Weblog


照る日曇る日 第970回


本巻では、大正15(1926)年から昭和2(1927)年にかけて出版された「潤一郎喜劇集」、「赤い屋根」「近代情痴集」「饒舌録」の4冊の単行本その他を収録しています。

まず「赤い屋根」の中の「友田と松永の話」は谷崎の中編の最高傑作ではないでしょうか。どこから見ても同一人物とは思えない友田と松永が、最後の最後に正反対のライフスタイルと相貌を内蔵する同じ人物であったと種明かしされるとき、読者は作家の卓抜な構成力と精緻な人物描写、そして小説を流れる時間設計の巧みさにひそかに舌を巻かされるのです。これぞ谷崎!これぞ小説の快楽というものです。

同じ「赤い屋根」の中の戯曲「白日夢」は、同名の武智映画の原作ですが、これは映画の方が遙かに面白かったなあ。

「「九月一日」前後のこと」では谷崎選手が九歳の時に遭遇した明治27(1894)年の大地震の惨状をつぶさに記述していますが、私はこれほど真に迫って物すごい地震の描写を読んだことはありません。

「饒舌録」は小説ではなく、文芸や演劇などを自由に裁断する随筆ですが、無類に奔放な物言いで面白い。死んだばかりの芥川を追悼する谷崎は、彼はあれほど見識、学殖、批評眼があったのだから、小説家よりもエッセイストなったほうがよかったなどと持ちあげながら、なったとしてもその立派な意見を発表する勇気がないから駄目だと以下のように一刀両断しています。

「兎にも角にももっと馬鹿であるか、もっと健康であるか、いずれかであればもっと幸福に暮せたであろうに」

なんのことはない、これは小説家としてもエッセイストとしても自分の方が凄い、というているのと同じことではないでしょうか。


 「たとへ神に見放されても私は私自身を信じる」と潤一郎言いき 蝶人

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