伊藤比呂美著「いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経」を読んで
照る日曇る日 第1856回
仏典は、中村元氏がバーリ語から訳したオリジナルしか意味がない、と愚かにも思っていたのだが、そうではなかった。
著者が言うように、経典は何語に翻訳されようが、世界的な詩人が歌い、物語る「カタり」の世界で、インドに端を発した源流が、中国、朝鮮を経由してこの島国に流れつき、「源氏」、「平家物語」、「梁塵秘抄」のような随筆文学、語り物、説話集、説経節になったり、和歌や謡曲、歌舞伎、そして「法華経」や「般若心経」のようなお経の主題や基調音に滔々と流れ込んだのだった。
本書で伊藤選手は、そんなお経を、現代詩としてホンヤクしているのだが、それが抜群に面白い。
中村元「ブッダ最後の旅」(大パリニッパーナ経)」の
「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』」を鳩摩羅什が翻訳した個所を、伊藤選手は、
「きみたち、乞食をして生きようとする者は、一心に道をゆけ。求めろ。励め。世間の一切。動くものも。動かぬものも。いつか壊れる。そして減くなる。」と意訳し、ここで突然「ソクラテスの弁明」が登場する。
「さあもう行かなくちゃ。私は死ぬため。きみたちは生きるため。どっちがいいかは、誰も知らない。かみさまだけがご存じだ」
というて、ソクラテスは死んでいくのだが、その姿は、どことなくブッダの最期に似ているようだ。
くわくわと昼寝している息子なりこのままずっと寝ていてもいい 蝶人