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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

「ユージン・オーマンディ20世紀音楽を振る」12枚組を聴いて

2016-05-15 09:51:37 | Weblog


音楽千夜一夜 第364回


 カラヤンと並んで録音大好きなオーマンディーは、彼の手兵フィラデルフィア管弦楽団を指揮して、数多くの名曲の名演奏を残したが、この12枚はコロンビアではなく後年のRCAに録れたもの。天下無双のフィラデルフィア・サウンドが心ゆくまで鳴り響いて気持ちがいいことこのうえない。

 収録されているのは、ドビューシー、ラベルから、ホルスト、エルガー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチ、ストラビンスキー、バルトーク、コダーイ、ベルク、ウエーベルン、オルフ、アイヴス、シベリウス、ガーシュイン、コープランド、バーバーなど文字通り20世紀の代表的作曲家の一大コンピレーションである。

 んで、12枚全部を聴き終えても、格別どの演奏が優れていたといえないかわりに、どの演奏が詰らなかったかとも言えない、(そこがちょっとカラヤンとは違うところだが)、万人に安心してお薦めできる指揮者であり演奏である。


 
新宿のバー「ペルル」に「丹波高原」の名前で預けたジャック・ダニエル誰かに呑まれてしまったんだろうな 蝶人

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ぐあんばれ、くまモン!~これでも詩かよ第175番

2016-05-14 11:56:48 | Weblog


ある晴れた日に 第377回


連日連夜の大震災でショックを受けたくまモンが、エコノミークラス症候群になってクマっているというので、仲良しの鉄腕アトムが駆けつけました。

「くまモン、そがん青か顔してどがんかしたと?」*1
くまモンは、鉄腕アトムが慣れない熊本弁を使ってくれたことに感激しながら
「どがんもこがんも、朝から晩まで余震が続いて眠れんけん、どがんしようもなかと」
と、よわよわしい声で答えました。*2

「くまモン、いま困っていることはなに? なにか欲しいものある?」
「ぼくのエコノミークラス症候群は、だいぶ良うなった。ばってん、ともかく余震が怖か。
一日も早よおさまってほしか」*3
「わかった。帰ったらお茶の水博士と相談してみるよ。でもあんまり期待しないでね」

「そらよかばい。よろしく頼んだもん」*4
「で、いますぐ欲しいものはなに?」
「えーと、えーと、水、下着、紙おむつ、それと生理用品があったらうれしかね」
「わかった。大至急持ってくる」

くまモンとかたく指切りゲンマンした鉄腕アトムは、たちまち大空高く飛び去りました。
「気をつけていってはいよ!」*5

その翌日、くまモンが市の避難センターでラジオ体操をしていると、バリバリバリと物凄い音がして、運動場に巨大な人型ロボットが舞い降りてきました。
見れば、鉄人28号ではありませんか。

鉄人28号の胸の扉がゆっくり開くと、その中から両手にいっぱいのお土産を持った鉄腕アトムと、ドラえもんと、のび太と、しずかちゃんと、なんとなんと、六つ子が現われました。

くまモンは「びっくりモン」とうなったきり、目を白黒させています。

鉄腕アトムは、
「遅くなったね、くまモン。ぼくのお友達のみんなも連れて来たよ。ぼくと金田正太郎君と鉄人28号は、壊れたおうちやお城を直して、怪我したひとたちをどんどん助けるぞ!」
と叫ぶやいなや、アッというまに鉄人28号と熊本城めがけて飛んで行きました。

「はじめまして、くまモン。ぼく、ドラえもん。こちらはのび太君としずかちゃん。毎日テレビを見ていて大変なことになったなあ。どうしよう。なにかできることがないかなあ、と思っていたんだけど、アトム君が一緒に熊本行こう!というもんだから、やってきたモン」

くまモンは、ドラえもんとがっつり握手をしながら、
「はじめましてだモーン。うれしか、うれしか!」
と喜びの声をあげました。

すると、そんな2人を六つ子がワワッと取り囲んだので、あたりは急に騒がしくなりました。

おそ松「はい、くまモン。これが天然水の入ったボトルだよ。いっぱいあるよ」
くまモン「ありがトマトー!」
一松「エコノミークラス症候群には、やっぱり水がいいってさ」
十四松「それと、せっせと足を動かさなきゃだめだって」
トド松「はい、これが下着だよ。GUなんだけど、いいよね」
カラ松「ついでに、ぼくの大好きなお肉も持って来たよ」
チョロ松「こっちは、ハーバード大学特製の紙おむつだよ」
しずか「ほら、お待ちかねのナプキン類よ」
のび太「さあ、これからぼくたちは、熊本復興のボランティアとしてがんがん働くぞ!」

すると、くまモンは、
「シャキーン! ワオー、くまモン、サプライズ! うれしか、うれしか! みんな、ありがとう。ぼくも今日から百万馬力でぐあんばるぞお!」
と叫びながら元気よく飛びあがり、みんなと一緒に「くまモンもん」の歌を高らかにうたったのでした。



*1「くまモン、朝っぱらから顔色が悪いぞ。どうしたんだい」
*2「どうもこうも、朝から晩まで余震が続いて眠れないからどうしようもないんだ」
よ」
*3「ぼくのエコノミークラス症候群はだいぶ良くなったけれど、ともかく余震が怖い。一日も早くおさまってほしいんだ」
*4「それはいいね。よろしくお願いします」
*5「気をつけて行ってきてね!」


お断り この詩の熊本弁は、熊本出身の友人、田中聖一さんの協力と助言のもとに作成いたしました。田中さんのご協力に厚くお礼申しあげます。


  ゲートルを足にぐるぐる巻きながら壮丁は兵士になっていった 蝶人

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谷崎潤一郎著「谷崎潤一郎第15巻」を読んで

2016-05-13 13:46:36 | Weblog


照る日曇る日第864回


昭和5年製造の「乱菊物語」と昭和7年製造にかかる「盲目物語」の豪華2本立てに「吉野葛」のおまけがついた本巻もなかなか読みでがあるずら。

「乱菊物語」は、時代は永正から大永頃(後柏原帝の足利義澄、義植、義晴時代)、舞台は瀬戸内海、播州一国が中心で、播州皿屋敷のお菊伝説を骨子とし、将軍、大名(赤松、浦上、小寺、浮田等)や遊女、僧、海賊などが陸続と登場する。

 史実に拠るというよりは、筆と興に任せて書きに書きまくる波乱万丈の海洋ピカレスクロマンで、こういう血わき肉躍る冒険空想小説は、いじけた私小説と阿呆糞自然主義が専売特許のこの国では著者以外の誰も試みなかったと申してもよろしいでしょう。

 つまり面白い。著者みずからが宣言しているように「八方へ手をひろげて」いったのだが、あまりにも広げ過ぎてしまい、とうとう空中分解して前篇だけで唐突に終了してしまったのは痛恨の極みであった。

 こいつの後編を書くのは、谷崎が分身の術を使って六つ子に書かせない限り無理だったろうな。まあそんな荒唐無稽を平然と読ませるロマンという名にふさわしい小説です。

「盲目物語」は一転して数奇な運命にもてあそばれた薄幸の戦国武将の妻、お市の方の生涯を、そのおつきの盲目の按摩が、一人語りで滔々と見事に語りつくして圧巻というほかはない。名人の至芸とはこれであろう。

 ここで美しきヒロインのお市の方とは、すなわち新婚の夫人であり、盲目の按摩とは最愛の松子夫人の奴隷、と化した谷崎自身なのだが、そのことをわざわざ著者自らが注釈するのを聞くと、いささか鼻白むものがありますなあ。

デザートの「吉野葛」は冒頭でいったん衒学的なイントロを鳴らしておいて、本論に入ると別な主題で耳目を惹きつけて一気にフィニッシュまでもっていく手腕に唸らされます。

 ともかくみなさん、物語作家の第一人者というたら今も昔も大谷崎なのです。


  無くなると聞けば急に食べたくなるあの明治のサイコロキャラメル 蝶人
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リヒテルの「デッカ、フィリップス、ドイツグラモフォン全集」全51枚を聴いて

2016-05-12 10:46:26 | Weblog


音楽千夜一夜 第363回


 こないだはリヒテルの未発売セットを聞いてそれなりに面白かったが、そのあとまたしても同じリヒテル選手のデッカ、フィリップス&DG全録音という次第で、これほど朝から晩までリヒテルのピアノの音が流れていると、いささかげんなりしてきます。

 じつはこの大全集でも、「ああいいなあ、素晴らしいなあ」なぞと手放しで思うのはそれほど多くはなくて、例えば1991年にドイツの田舎で録音された3枚のバッハ、1987年にイタリアのマントヴァでいれたハイドンの1枚かな。

 あとは改めて聞いて「こんなに心にしみるモザールがあるんだ」と再認識したスタニスラフ・ウイスロフスキー指揮ワルシャワ国立フィルのk466の協奏曲くらいでした。

 それからこの偉大なピアニストの名品で忘れてはいけないのは、このコンピレーションには入っていないけれど、1972年とその翌年にザルツブルグの教会で録れた(録音は悪いけど)バッハの平均律の全曲ですね。

 それにしても最近古いCDの盤面がどんどん腐って地金が露出したりするのは困る。むしろLPのほうが音は圧倒的にいいし、物質としても丈夫で長持ちするんじゃないかしら。


  リヒテルのバッハやハイドンが腐ってゆく盤面に醜い亀裂が生じて 蝶人
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ジェームズ・キャメロン監督の「ターミネーター」をみて

2016-05-11 10:48:59 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1012



昔の印象ではターミネーターは善玉だったはずなのに、久しぶりに見直してみると悪辣非道な殺し屋サイボーグだったのでびっくりぽん。私の記憶ほどあてにならないものはない。

こういうSFものは物語がはじまる前にすでに結果が出ている訳なので、2時間かけていろいろ運命なるものを操作しても虚しいわけだなあ。


  1964年自由が丘の道場に私が預けた柔道着いまどこにあるんだろう 蝶人

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クリント・イーストウッドの2本立てをみて

2016-05-10 10:54:52 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1010、1011



○クリント・イーストウッド監督の「スペース・カウボーイ」をみて

1958年に宇宙に行けなかった4人のパイロットたちがオールド・カウボーイよろしくスペースシャトルに乗り組み、地球にミサイル攻撃寸前の旧ソ連の衛星を爆破し、1名の犠牲者を出しながらもなんとかかんとか奇跡的に帰還するという人情武勇伝。自己を犠牲にして月に果てるトミー・リー・ジョーンズがいい味を出している。

○ジェームズ・ファーゴ監督の「ダーティハリー3」をみて

最初は嫌がっていた女性の相棒との交情が次第に深まり、それは彼女の殉職で哀しくスパークする。この哀愁の情はクリント・イーストウッド監督では絶対に出せなかっただろう。


  なんとか宮家のなんとか嬢がなんとか展を見に行ったとさそれがどうした 蝶人
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エリア・カザン監督の「革命児サパタ」をみて

2016-05-09 11:00:52 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1009


 貧しい農民の地位向上めざして損得抜きに権力者と戦う純粋な革命家は、結局大人な政治家の奸佞邪知にひっかかって、あわれ無惨な死を遂げる。いつかどこかで見たような悲劇がここメキシコでも繰り返されていたのだ。

 純白の愛馬との再会を喜ぶサパタ。それが敵の陰謀であると知った愛馬の揺れ動く黒い瞳。それまで主人公の悪戦苦闘に寄り添っていたエリア・カザンは、ここで初めてサパタを突き放す。

 やがて革命家の全身をつんざく無数の弾痕。見事というも愚かな名監督畢生の名シーンだが、サパタに成りきったマーロン・ブランドとその兄アンソニー・クインの演技が素晴らしい。



  酔っ払いが切断された両足を呆然と眺めている昼下がりの小田急桜が丘駅 蝶人
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「ブルーノ・ワルター・エディション」39枚組を聴いて

2016-05-08 11:02:48 | Weblog


音楽千夜一夜 第362回



 久しぶりにワルター選手のいろんな曲、すなわちベートーヴェン、ブラームス、モザール、ブルックナー、マーラーの交響曲などを聞いてみましたが、聞き進むにつれて、時代の音楽的進化ということについて思いを新たにさせられました。

 彼の音楽そのものの価値は、もちろん彼が死んでしまった時点からまったく変わらず、とりわけモザールの交響曲のNYフィルとのモノラル録音なんかは、つい最近亡くなったばかりのアーノンクールの、感動のひとかけらもない虚ろな最新録音と比べても、圧倒的に深い感銘を与える名演奏と断言できるでしょう。

 さりながら、これと具体的に指差すことは致しませんが、かつては天下の名演奏と絶賛されたそのほかの曲を久しぶりに聞いて、「なあんだ、これってこの程度の演奏だったのかあ。これに負けない演奏なら他にも仰山あるぞえ」と我知らず呟いてしまうような、いわば想定外の失望と落胆があちこちにあったのも事実です。

 これはなんのかんのというても過去半世紀以上を閲するあいだに、音楽の奏法や技術の進歩、解釈と楽器の改善改良が進んだ結果、わが頑迷なる左脳にも、かつての名品が相対的に時代遅れで陳腐なものに感じられてきた、ということだと思われます。

 私は昔からすべてにおいて超保守的な人間でして、クラシック音楽の演奏についても現代の若手指揮者の演奏よりも60年代から70年代のかつての巨匠の演奏を好み、高く評価してきました。

 その点はこれからも変らないでしょうが、それらの古き良き時代の名演奏のなかにも、いつのまにか台湾栗鼠に喰われて中身が腐って空洞化している巨樹のような過去の遺物が混じっていることを認めざるをえません。

 さらばワルター! 嗚呼、なんちゅう悲しいことずら。

 
  デロンギのエソプレッソマシン30周年断線しつつもまめに仕える 蝶人
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谷崎潤一郎著「谷崎潤一郎第14巻」を読んで

2016-05-07 11:08:07 | Weblog


照る日曇る日第863回



1928年12月4日から翌年の6月19日まで大阪毎日新聞と東京日日新聞にリレー連載された「蓼喰ふ虫」を中心に変質狂的で奇妙な味わいを持つ怪奇小説「青塚氏の話」やもしこれが完成されていたらどんなに素晴らしい作品になっただろうち惜しまれる未完の傑作「顕現」ややはり未完に終わったスタンダールの「カストロの尼」やド・クインシーの「藝術の一種として見たる殺人に就いて」の興味津津たる翻訳などを美味しいおかずに添えた第14巻である。

「蓼喰ふ虫」は作者が相性の悪い妻君を相性の良さそうな知人に譲渡しようとして腐心した実話をもとに創作された中編であるが、終生女性に対して紳士的というより女性的に振る舞った作者の本心が吐露されており、淡路浄瑠璃のエピソードも効果的に挿入されていて面白く読める。

 ぜんたいをとおして、離縁寸前の主人公夫妻の醒めた性愛と老人(妻の父親)と若い妾の熱いそれが対比されるように描かれているのだが、最後にどういう風の吹きまわしか、蚊張が吊られた真っ暗な部屋の中で男と義父の妾が二人切りになる。

「襖が明いて、五六冊の和本を抱へた人の、人形はらぬほのじろい顔が萌黄の闇の彼方に据わった」という二行で終わるこの小説を読みながら、胸をどきどきさせない人はいないだろう。


  一〇指に余る巨乳を揺らすねえチャンがセフレになろうよと迫る広告 蝶人


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池澤夏樹著「日本文学全集19」を読んで

2016-05-06 09:24:35 | Weblog


照る日曇る日第862回


 本巻では石川淳、辻邦夫、丸谷才一の中短編を8本収めている。

 石川淳の「紫苑物語」は「今昔物語」「宇治拾遺」泉鏡花などを踏まえて練達の擬古文を駆使し、中世への浪漫を自由奔放にときはなった佳作であるが、「焼跡のイエス」は今更ながら詰らない凡作。「小林如泥」や「鈴木牧之」などの歴史小説はやはり鴎外、荷風に迫らんとしてなお遠く及ばない。

 辻邦夫の「安土往還往還記」は、その晴れやかで抒情的な文体で読者を酔わせながら一大の領袖、織田信長の生と真実に異教徒の視線から迫る快作。

 丸谷才一の「横しぐれ」は、恐らく彼の最高傑作だろう。主人公の父親と漂泊の歌人山頭火とのミステリアスな遭遇を、著者の博識と博引傍証、国文学の知見と作家的想像力の限りを尽くして追究した力量は、まことに尋常ならざるものである。


  メーデーメーデーと救助信号を発しつつ労働者たちはとぼとぼ歩く 蝶人
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クリストフ・ヴォルフ著・磯山雅訳「モーツァルト最後の四年」を読んで

2016-05-05 09:31:36 | Weblog


照る日曇る日第861回

 
 「栄光への門出」という副題が付けられているように、この本は、1788年から1791年12月5日までのモザールの最後の4年間を、早すぎる死という悲劇的な破局に固定化せず、むしろ新しい音楽史のはじまりとして取り扱おうとしている。

 1987年の終りに皇帝ヨーゼフ2世から「皇王室尊賓室楽団」の作曲家、1791年5月の聖シュテファン大聖堂次期楽長という権威ある称号と特権をフルに活用しながら、その音楽生産力をフル・スロットルで駆動させ始めたこの天才は、深刻な負債を抱えながらも、ウイーンの内外で深謀に満ちた野心的なコネクション作りと営業を仕掛け、それは彼の死の直前には「幸運の扉の前」に立ち、かつていかなる音楽家も達成したことのない豊かな藝術的・商業的果実をもたらそうとしていたという。

 本書の後半は、頂点に達したモザールの音楽的成果が譜例を交えて具体的に指摘されており、とりわけ超超革命的なオペラ「魔笛」と“崇高劇的様式”による教会音楽の先駆としての「レクイエム」「アベ・ヴェルム・コルプス」の再評価は、大いにうなずけるものがある。

 バッハやベートーヴェンと違ってモザール選手は常に曲の全体を頭の中で作曲してから一気に書き下ろすのが常であったが、本書で紹介されている「ついに聞かれることなく終わった」数多くの未完成曲の断片やリストを眺めていると、著者の意図とは裏腹に、やはりこの異常な天才の夭折がますます惜しまれてならなくなるのである。

 心身ともに尾花打ち枯らした衰弱死ではなく、未聞の黄金時代への飛躍を目前に頓死した、というのが著者の自信満々の主張なんであるが、さて実態はどうじゃったんだろうなあ、モザール君。


 なにゆえにモーツァルトをモザールと打つキーボードでァを打つのが面倒くさいから 蝶人
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なにゆえに第26回~西暦2016年卯月蝶人花鳥風月狂歌三昧

2016-05-04 10:20:29 | Weblog


ある晴れた日に 第376回



なにゆえに100分の1秒に涙するそれが非情な勝負の世界

なにゆえに北島選手は引退するできるすべてをやりつくしたので

なにゆえになんでもないのに心急く料理教室の初日だからさ

なにゆえに春から料理教室へ通う「バベットの晩餐会」に刺激されたので 

なにゆえに里芋の皮はうまく剥けないつるつる滑って逃げていくから

なにゆえにシュウマイの皮を上手にくるめない仲間はうまくやっているのに

なにゆえに春巻きの皮はちょんぎれる早く揚げなきゃならないのに

なにゆえにタケノコは甘くてやわらかい男の料理に奉仕するため

なにゆえに朝日歌壇は入選しない上手な人がいっぱいいるので

なにゆえに朝日は両論併記する主義がないから自分がないから

なにゆえに突如胃腸を襲うこの激痛そろそろ年貢の納め時か

なにゆえに君寝たきりになりしや溢れる思いをもう口に出来ない

なにゆえに広島参観に大喜びする張本人の核に寄り掛かっているくせに

なにゆえにまた大地震はやって来る原発再開に地霊の怒りか

なにゆえに安倍蚤糞は九州へ行く北海道で負けたくないので

なにゆえに北海道民は自公を選ぶ戦争とファシズムに加担すると知らずに

なにゆえに大地震はたびたび起こる原発は危険と思い知らせるため

なにゆえに川内原発を即止めぬ福島の教訓を忘れたのか

なにゆえに川内原発を即止めぬ電車電気飛行機ガス水道皆止まりしに

なにゆえに共産党が革命政党革命のかの字も忘れているのに

なにゆえに時代は戦前に逆戻りする戦中派の反省が消去されたから

なにゆえにアオスジアゲハに尻尾がある若冲は昆虫採集をしなかった 

なにゆえに携帯電話がかかってこないメールの署名をミスプリしていた

なにゆえに1日40本も電話がある誰も息子にかまってくれない

なにゆえに公式見解のみを報道する籾井NHKは官報なるや

なにゆえにNYヤンキースは最下位に転落イチローや黒田を手放したから

なにゆえにマスコミは権力者の顔色をうかがう思想も信念もなき猿面冠者よ

なにゆえに交通マヒの寿司屋に駆けつけるワサビはあとから抜けばいいじゃないか

なにゆえに昔の友が次々大病を患う明日は我が身か

なにゆえに憲法を軽んじ憲法を罵倒する憲法がそれを許すがゆえに

なにゆえに憲法を批判し改憲を口にする憲法がそれを許すがゆえに


  なにゆえに政治家は連休に外遊するそれは遊びで仕事じゃないよね 蝶人
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孝壽聰監督の「水筒と飯盒」「華開世界起」「The Painter」をみて

2016-05-03 10:23:10 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1009、1010、1011



 昨年1月に急病で倒れた友人の回復を祈念する3部作の上映会が開催されたので四谷区民センターへ行ってきました。

「水筒と飯盒」はインパール作戦から奇跡の生還を果たした5人の老兵が、当時の軍装を身につけながらみずからの過酷な戦争体験をみずからの言葉で訥々と語ります。

 普通の戦争インタビュー番組ですと、激しい戦闘の実写が頻繁にインサートされたり、爆撃音が鳴り響いたりするのですが、ここでは元兵士の語りと同時録音の野良のウグイスの鳴き声などが聞こえるばかり。もっぱら彼らが戦場で見聞きした具体的な事実の語りだけで戦争と戦場の日々の実相を再現しようとしています。

 その具体性は、例えば冒頭の兵士が脚絆(ゲートル)を巻くシーンにあります。かつて私も亡き祖父に教えられてこれを脚に巻いてみたことがありますが、驚くほど柔らかく軽快になり、なるほどこれなら長駈行軍することが出来るだろうと実感しました。

 ゲートルをぐるぐる巻いている間に、男は陸軍兵になっていったのです。

 そしてその兵士は、みずからの体験を語りながら時折地面に横たわって死んだ戦友を演じたり、ビルマから持ち帰った水筒と飯盒を使って炊爨したりすることが、おのずから死者への供養と重なってくるという次第です。

 ハリウッドや日本の戦争映画がスクリーンの上だけのドンドンパチパチの「戦争の虚像」を描いている人間不在のハリボテ映画だとしたら、「水筒と飯盒」は、血と肉を備えた生身の人間が実行する「戦争の実像」をリアルに描いている「等身大の戦争映画」といえましょう。

 それは戦場で生活し、戦っている生身の人間を等身大で描きながら、もう一度語り手自信と私たち観客に戦争をリアルに追体験させるという不思議な効能を持つ映画でもある。

 そして「戦場で一番大事なのは三八銃ではなく水筒と飯盒だ」というある兵士の言葉が、なによりも雄弁にこの戦争の真実を伝えているようです。


 2011年製作の「華開世界起」は、道元の「正法眼蔵」の「花開いて世界起こる」という詩的哲学を、フランスで禅をひろめた弟子丸泰仙老師が開いた観照寺と、フランスの禅道尼苑で撮影された美しい自然と修行僧の言動をコラージュさせながら映像化した高踏的な作品です。

 不勉強な私は、大本教の出口なおの「三千世界一度に開く梅の花」には共感できても、道元なんか読んだこともないし、「木石を通じて花開き、世界が起こる」と言われてもよく分からないので、この映画を適切に評価することはできません。

 しかし梅の香ばしい匂いに惹かれた虻がぶんぶん飛び回りながら蜜を吸うている長回しを見ていると、ここにこそ生きとし生けるものの未来永劫変ることなき営みがあり、宇宙の普遍の真理が存在しているような気がしてくるのは、ピエール・ピュシューの卓抜なキャメラワークと一体化した孝壽聰の世界認識の賜物なのでしょう。


 2015年製作の「The Painter」は、池田龍雄氏の作品制作過程を氏のスタジオで撮影したドキュメンタリー映画です。

 クルーゾーがピカソを描いた「天才の秘密」もそうでしたが、作家の創作現場を覗いたキャメラからは、一期一会の創造の炎がめらめらと燃え上がる奇跡的な瞬間が定着されています。

 制作の技法や、特攻隊員であった自分の半生や前衛運動、絶対的平和主義について語る主人公にも惹かれますが、もっと面白いのは、彼の妻君の存在感です。その威風堂々とした風貌と夫を評する「随分長いこと描いてきたわね」の一言を耳にすると、この夫人あってこその「世界的な前衛画家」であることが、ほんのワンカットで体得できてしまうのでした。

   憲法を冒涜し侮辱し毀損する者どもを厳罰に処すべし五月三日 蝶人
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すべての言葉は通り過ぎてゆく 第34回

2016-05-02 09:59:58 | Weblog


西暦2016年卯月蝶人狂言畸語輯&バガテル―そんな私のここだけの話 op. 228


滅びの美意識を三十一文字の和歌に表現したのが「古今和歌集」であり、色好みを主題とする歌物語に表現したのが「伊勢物語」だとすれば、それを四季の変化や社会の実相や人間心理の襞を映し出す類想的・瞑想的・回想的な散文表現へと拡大し細密化していたのが「枕草子」だということができようか。長谷川宏「日本精神史」

「枕草子」「源氏物語」という散文文学の二大傑作は、貴族社会が百年の文学的成熟を経て、事柄を的確に綿密に描写するという、まさにそのことにおもしろさを感じ取るところにまで至ったことを示している。長谷川宏「日本精神史」

上流貴族に愛されて一見仕合わせそうに見える女たちといえども、その内面に錘鉛を下ろしてみれば、そこには苦渋・苦悶・悲哀・悲痛がうごめいていると考えるのが紫式部の人生観だった。長谷川宏「日本精神史」

「源氏物語」を読むと、仏教的な生き方としてあった出家が、仏道修行や仏教信仰とは直接かかわらぬ社会的な制度として認知されていたことが分かる。それは追い詰められた人にもなんとか生きる場を提供しようとする、知恵と懐の深さを示す仕組みだったのだ。長谷川宏「日本精神史」

死にゆく大君の腕、肌、白衣、夜具、髪のを見つめる目は薫の目であるとともに、いやそれ以上に作者・紫式部の目だ。人の世の暗部を見詰めるまなざしと人々の古心の奥に去来する苦悶と悲傷を文字に定着する筆の力は、物語に衰亡や退廃の気配が濃くなるなかでも、その力強さと鋭さを失うことがない。長谷川宏「日本精神史」

重源が周防の山に入ったのが一一八六年、以後良木を選抜し伐採し、陸路・海路を運搬し、はるばる奈良まで持ってくるのにまる四年。そして集めた木材を使って高さ四五メートルに及ぶ大仏殿を作りあげるのにさらに五年の歳月を要した。長谷川宏「日本精神史」

一方は宗教の世界、他方は政治の世界と生きる場は異なってはいたが、秩序の全体が崩れゆく末法の世にあってみずからの力と行動によって新しい何かを作り出そうとする重源と頼朝はたがいに気脈の通じる存在だった。長谷川宏「日本精神史」

法然は称名念仏以外の難行、すなわち造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律のおこないをそれがどのようなものであるかよく知った上できっぱりと斥けた。長谷川宏「日本精神史」

「善人なを往生す、いかにいかんや悪人をや」は死後のあの世で通用する論理だと答えるほかはない。親鸞はこの世では逆説に見える論理こそが、弥陀の本願にかなうあの世の絶対的な宗教論理だと考えたのだ。長谷川宏「日本精神史」

現実が本来のすがたを取る世界に近づこうとする試み、それが只管打座の行だ。その試みの中で現実の事物や事実がいっそう現実的なものとしてあらわれる。その充実感および開放感は打座の行を重ねる道元が、おのれの身心にみなぎる実感として感じ取ったものだった。長谷川宏「日本精神史」

その充実感と開放感を道元は「身心脱落」ということばで表現する。身心の拘束を抜け出していうならば純粋な思考体として本来の現実と向き合うのが打座の試みだというのだ。長谷川宏「日本精神史」

そのように現実のすべてが現実化されてあらわれるとき、あらわれるすべてのものには存在の輝きとでもいうべきものが具わっている。現実よりもいっそう現実的であるという輝きだ。現実世界では一般に負なるもの、劣ったものとされるものまでが存在の輝きをもってあらわれる。長谷川宏「日本精神史」

「正法眼蔵」第一「現成公按」の「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」というときの「迷」や「死」や「衆生」は、もはや低次元の忌避すべきものではなくなる。長谷川宏「日本精神史」

「悟」や「生」や「諸仏」と同じように価値ある存在であり、「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」というときの「迷」「悟」「諸仏」「衆生」は、そのいずれもが輝く存在として、真の現実世界に位置をあたえられているのである。長谷川宏「日本精神史」

啄木は根っからの音楽好きで、フルート、ヴァイオリン、ハルモニウムを独学で身に付けている。啄木の日記は、(彼が)楽器を演奏したことには何度か触れている。また啄木自身が考案した楽譜の断片が幾つか残っている。ドナルド・キーン「石川啄木」

詩人たる資格は三つある。詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通人の有つておる凡ての物を有つてゐるところの人でなければならぬ。石川啄木「食ふべき詩」

人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却って便利だと思ってゐる。一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。それを現すには形が小さくて手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。石川啄木「利己主義者と友人の対話」

おれは初めから歌に全生命を託さうと思ったことなんかない。何にだって全生命を託することが出来るもんか。おれはおれを愛してはゐるが、其のおれ自身だってあまり信用してはゐない。石川啄木「利己主義者と友人の対話」

ぼくは音楽で何かいうためには、1曲3分もあれば充分だと思っています。武満徹

ぼくは音楽の最も本質的な内容は響きにあると思っているんです。ある響きを作り出すということがぼくの音楽表現です。だから自分はほしい響きを作るためにいろんなことをしています。武満徹(立花隆の武満評伝から引用)

応仁の乱で絶えた雅楽は江戸時代に復活するが、後水尾天皇が楽人に「右手で弾くこともままならぬのに左手まで使って演奏するのか」と皮肉ったので誰もあえて左手による「押し手」を使おうとせず、それ以来タブーとなって現在に至っている。
武満徹(立花隆の武満評伝から引用)

「保育園落ちた日本死ね」という匿名メールで保育園に予算や人がつくなら、その前に「社会福祉施設の介護看護スタッフ(特に夜勤)にも、少なくとも他の職種並みの手当てをつけてもらおうじゃないか。でなきゃ「007も日本も2度死ね」。4/24

北海道補選の惜敗は残念だが、ファシズムへの道を一瀉千里に辿る安倍蚤糞の野望を封じ、よりましな政治を実現するためにはこの野党共同戦線しか方法はない。くたばれ自公!4/25

美空ひばりや三波晴夫の頃は歌詞がよく聴こえたが、少数の例外を除いて、ポップスもクラシックもラップも(字幕無しでは)何を歌っているのかほとんど聴き取れない。この一事を以てしても現代音楽がいかに駄目かが分かる。

「さわり」という言葉は実にいろんな意味を含んでいます。漢字で書けば「障」という字。ところが日本では最も美しいもののことも「さわり」という。これは障害があるからこそ、自分たちは本当に自由になれるという発想なんですね。武満徹(立花隆の武満評伝から引用)

戦争中に勤労動員の陸軍基地で偶然聴いたリュシエンヌ・ボワイエのシャンソン「パルレ・モワ・ダムール」が、作曲家武満の出発点となった。

ウェーべルンの曲はみんな短い。短いけれども、1小節の中にすべてが含まれている。武満徹


        身自らやられない限りは所詮他人事也 蝶人
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