高見順著「昭和文学盛衰史」を読んで
照る日曇る日 第2143回
昭和27年から32年まで途中2年間の休載をはさんで足掛け6年間に亙って「文学界」に連載された労作を読んでの感想を記しておきたいと存じます。昭和43年に再版された人名索引付き639Pの角川文庫です。
その一つは明治は知らず大正、昭和の文学界は思いのほか数多くの同人雑誌が地方を中心に跋扈しており、それらの書き手が当時の文学世界のみならず思想や社会に大きな役割を果たしていたことです。
著者自身からして「文芸交錯」「大学左派」(これいい名前だなあ、大好き!)、「十月」、「集団」、「日暦」、「人民文庫」などに関わりつつ、ようやく昭和10年代になってから「故旧忘れ得べき」で文壇にのし上がってきた文学者ですが、本書で何度もカウントされている同時代の同人雑誌の幅広さには驚くほかありません。
しかも同人誌の作品は現代と同様に名が知られている有名な商業誌よりも文芸愛に富む骨のある作品と作家によって支えられていることは、例えば佐藤幹夫氏の個人雑誌である「飢餓陣営」や添田馨氏の「ネメシス」、水島英己氏等の「アンエデティッド」、白鳥信也氏の「モーアシビ」等を一読すれば誰もが頷ける真実でありましょう。
本書の第2部の後半を読めば、昭和のはじめから軍靴を響かせて怒涛のように進行する愛国主義と軍国主義の嵐が、いかにマルクス主義も純芸術派文芸も、上っ面だけの転向者も日和見主義者も叩き潰していったかが、戦慄的な恐怖と肉体的な苦痛を伴って体得されますが、そういう意味では、これくらい現代的な「時局」の読み物はありません。
「右翼的日本主義者にならなければ転向とは認めない」、という極限まで突き進められたリベラル派狩りに協力したのは官憲だけでなく、そのスパイと化した一部の文学同業者で、彼らが所属する「日本文学者会」(「日本文学報国会」の前身)は、同人雑誌団体「日本青年文学会」に右翼的恫喝をかけて解散要求という仲間苛めをしますが、昭和16年、彼らは当時50数雑誌出ていた同人誌を自主的に8誌に統合し、昭和19年に「日本文学者」1誌になるまでそれなりに果敢に抵抗し続けたのでした。
著者の言葉を借りるなら、「当時の同人雑誌を全体としてみると、右翼的偏向からかたくみずからを守っていた。暴力的言辞が跳梁していた当時、それはずいぶんと苦しいことだったと思うが、その苦しさにたえながら、いまにも絶えようとする文学の火をみずからのうつに守りつづけていたという事実は特記しておかねばならない」
本書の「第11章右翼的文学論」には極右結社や雑誌の断伐的言動によっていかに自由な言志が恐怖と共に圧服されたかが詳述されていますが、昭和20年7月26日、「日本文学報国会」によって他の文学者や山田耕筰、伊藤喜朔等の文化人共々警視庁前の情報局5階に呼び出された著者は、軍の尻馬に乗って居丈高な右翼雑誌「公論」社長上村哲弥の態度に頭にきますが、それをたしなめる者は誰一人いませんでした。
すると吉植庄亮とおぼしき「もんぺ姿」の歌人が勇を鼓して「農民は荒れ地を耕したいのだが、収穫以上の供出を強要されるので困っている」と訴えたところ、情報局の栗原部長が「民間から何人、佐倉惣五郎が出ているか。何人死んでいるか。特攻隊は毎日死んでいる」と怒声を発して、万座を沈黙させたそうです。
「そのとき、私の隣のひとが静かに発言をもとめる手をあげた。見るからに温厚そうなひとを私は誰だか知らなかったが、そのひとは会がはじまるとともに眼をつぶって、ずっとつぶりつづけていて、居眠りをしているかのようだった。それがいきなり手をあげたので私ははっとしたが、そのひとが言葉こそおだやかだけれど、強い怒りをひめた声で、『安心して死ねるようにしていただきたい』と言うのに、私はまた、はっとした。民を信ぜよという声を頭から押しつぶしたことに対して、そのひとは黙っていられないというふうだった。すると上村哲弥が、『安心とは何事か。かかる精神で……』とやり出した。軍にたてつくとは何事かと言わんばかりで、まるでそのひとが売国奴であるかのような罵倒をはじめた。そのひとは黙って聞いていたが、罵倒が終わると、もの静かに、『おのれを正しゅうせんがために、ひとを陥れるようなことを言ってはなりません』と低いが強い声で上村哲弥をたしなめた。これはそのひとの言葉そのまま、そのものである。胸に刻まれたその言葉を私は家へ帰ると、日記に書きしるしたのである。――そのひとが折口信夫だったのである」
と高見順は、限りなき驚嘆と尊崇の面持ちで、その日の出来事を書きとどめていますが、翻ってもしもその日その場に自分がいたとして、かの折口信夫大人のように、毅然として、言うべきことを言えるだろうか、と何度も何度も考えさせられたことでした。
フランソワーズ・サガンが見たような素晴らしい雲がしののめの空に 蝶人