今、いじめの問題で、日本中がピリピリしている。いじめに関する報道を目にしない日は無い。
いじめなどというもの、たかだか子供同士のじゃれ合いだったはずだったのに、いつのまにか方法はエスカレートし、陰湿かつ過激になり、盗みなどの犯罪を強いるようになってしまった。逃げ道を失ったいじめられっ子が自殺という選択をするようになってしまっては、解決のために私たち大人も、事後処理を含め、その問題を真剣に考えなくてはいけない状況になっている。
だが、いじめというのは、子供同士の問題に過ぎないのだろうか。
あるクラスでそこそこ裕福な家の子がいじめられていた、とする。
その子をいじめていたのは、目端のきく、裕福かつ、ちょっと勉強の進んでいる子達だった。最初は、いじめられっ子から小遣いを巻き上げていたくらいだったが、そのうち家の金まで盗んでこさせるようになった。
それを見ていた普通の子がいた。いじめられっ子の家とは近所で、昔から何となくつきあいがあり、時々ケンカもしたが、一緒に遊ぶことも多かった。普通の子といっても、小学校時代は目立たず、ややいじめられる方の子だったのだが、中学入学とともに一念発起、急に目立とうとするようになった。
中学デビューであった。
いじめられっ子がいいようにいじめられ、小遣いを巻き上げられているのをみていた普通の子。最初はただ傍観しているだけだった。だが、中学デビューの手前、何か目立つことをしなくてはならない。いじめをやめさせるという手があったのだが、それには、いじめっ子グループは人数が多くて、逆に自分がやられてしまいそうで、それはやめた。そうこうするうちに自分もいじめグループに入ってしまった。いつのまにやら、自分が先頭を切っていじめをするようになり、いじめられっ子をどんどん蹂躙していった。
面白くないのは、最初からいじめていたちょっと賢い子達。元はといえば、いい金づるだったのをあとからきた奴に横取りされてはたまらない。自分たちこそ、もともといじめられっ子とは仲良しで、守ってあげるべき立場にある、というわけで、その中学デビューの今や”元”普通の子を懲らしめることにした。
賢い子達とうまくいかなくなったことに気がついた”元”普通の子は、ほかのクラスの同じように中学デビューした子に応援を頼んだりしたけど、賢い子達の方が経験も人数も多かった。ほかのクラスの仲間達は次々とつぶされ、ついには”元”普通の子も孤立無援となり、一人で破れかぶれになって暴れたけれども、結局は学年のみんなによってたかって徹底的に潰された。
そして、8月15日、学年のみんなの前で、いじめを謝った。
「ごめんなさい、もう二度といじめなんかしません。だから、許して下さい。」
もちろん、それを仕切ったのは賢い子達で、それより過去のいじめを謝ったりする必要は無かった。
だが、話はこれだけでは終わらないのがいじめである。
”元”いじめられっ子は”元”普通の子にいじめられたことを決して忘れなかった。
クラスが変わっても、、学校を卒業しても、社会に出ても、そのことを忘れなかった。社会的に成功し、ついにはその”元”普通の子に追いつき、追い越したように思えるほどの自信も持てるようになった。
”元”いじめられっ子は、”元”普通の子が謝った相手が、賢い子達であったのを知っていた。決して自分たちへの謝罪ではない。それが悔しくてならなかった。
”元”普通の子にとっては、さんざん謝ったのだし、この先二度といじめをしなければいいだろう、ぐらいに思っていたのだが、それでは済まなかった。
”元”いじめられっ子は今や、賢い子達の助けがなくてもかつて自分をいじめた”元”普通の子に対して、いじめの償いをするように迫るようになった。仕返しだ。
そして、今年もまた8月15日がやってきた。
私自身、いじめられたことを思い出そうと思えば簡単に思い出せるけど、いじめた過去は都合の悪いことだから、いじめたことを思い出そうとしてもなかなか難しい。
いじめとは、してはいけないことだし、一度してしまったら、取り返しがつかないほど、相手を深く傷つけることだ。相手はそのことを絶対に忘れないということを、今一度、自覚しなくてはいけない。
いじめに対する償いは、とても重い。それは、個人対個人であっても国対国であっても同じだ。
もういい加減いいだろう、はいじめっ子の論理である。
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いじめなどというもの、たかだか子供同士のじゃれ合いだったはずだったのに、いつのまにか方法はエスカレートし、陰湿かつ過激になり、盗みなどの犯罪を強いるようになってしまった。逃げ道を失ったいじめられっ子が自殺という選択をするようになってしまっては、解決のために私たち大人も、事後処理を含め、その問題を真剣に考えなくてはいけない状況になっている。
だが、いじめというのは、子供同士の問題に過ぎないのだろうか。
あるクラスでそこそこ裕福な家の子がいじめられていた、とする。
その子をいじめていたのは、目端のきく、裕福かつ、ちょっと勉強の進んでいる子達だった。最初は、いじめられっ子から小遣いを巻き上げていたくらいだったが、そのうち家の金まで盗んでこさせるようになった。
それを見ていた普通の子がいた。いじめられっ子の家とは近所で、昔から何となくつきあいがあり、時々ケンカもしたが、一緒に遊ぶことも多かった。普通の子といっても、小学校時代は目立たず、ややいじめられる方の子だったのだが、中学入学とともに一念発起、急に目立とうとするようになった。
中学デビューであった。
いじめられっ子がいいようにいじめられ、小遣いを巻き上げられているのをみていた普通の子。最初はただ傍観しているだけだった。だが、中学デビューの手前、何か目立つことをしなくてはならない。いじめをやめさせるという手があったのだが、それには、いじめっ子グループは人数が多くて、逆に自分がやられてしまいそうで、それはやめた。そうこうするうちに自分もいじめグループに入ってしまった。いつのまにやら、自分が先頭を切っていじめをするようになり、いじめられっ子をどんどん蹂躙していった。
面白くないのは、最初からいじめていたちょっと賢い子達。元はといえば、いい金づるだったのをあとからきた奴に横取りされてはたまらない。自分たちこそ、もともといじめられっ子とは仲良しで、守ってあげるべき立場にある、というわけで、その中学デビューの今や”元”普通の子を懲らしめることにした。
賢い子達とうまくいかなくなったことに気がついた”元”普通の子は、ほかのクラスの同じように中学デビューした子に応援を頼んだりしたけど、賢い子達の方が経験も人数も多かった。ほかのクラスの仲間達は次々とつぶされ、ついには”元”普通の子も孤立無援となり、一人で破れかぶれになって暴れたけれども、結局は学年のみんなによってたかって徹底的に潰された。
そして、8月15日、学年のみんなの前で、いじめを謝った。
「ごめんなさい、もう二度といじめなんかしません。だから、許して下さい。」
もちろん、それを仕切ったのは賢い子達で、それより過去のいじめを謝ったりする必要は無かった。
だが、話はこれだけでは終わらないのがいじめである。
”元”いじめられっ子は”元”普通の子にいじめられたことを決して忘れなかった。
クラスが変わっても、、学校を卒業しても、社会に出ても、そのことを忘れなかった。社会的に成功し、ついにはその”元”普通の子に追いつき、追い越したように思えるほどの自信も持てるようになった。
”元”いじめられっ子は、”元”普通の子が謝った相手が、賢い子達であったのを知っていた。決して自分たちへの謝罪ではない。それが悔しくてならなかった。
”元”普通の子にとっては、さんざん謝ったのだし、この先二度といじめをしなければいいだろう、ぐらいに思っていたのだが、それでは済まなかった。
”元”いじめられっ子は今や、賢い子達の助けがなくてもかつて自分をいじめた”元”普通の子に対して、いじめの償いをするように迫るようになった。仕返しだ。
そして、今年もまた8月15日がやってきた。
私自身、いじめられたことを思い出そうと思えば簡単に思い出せるけど、いじめた過去は都合の悪いことだから、いじめたことを思い出そうとしてもなかなか難しい。
いじめとは、してはいけないことだし、一度してしまったら、取り返しがつかないほど、相手を深く傷つけることだ。相手はそのことを絶対に忘れないということを、今一度、自覚しなくてはいけない。
いじめに対する償いは、とても重い。それは、個人対個人であっても国対国であっても同じだ。
もういい加減いいだろう、はいじめっ子の論理である。
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