昨日書いた記事も大きく捉えれば同じようなカテゴリーに入ってくるが、人というものはどうして同時にいろいろなことをするのだろう。
当たり前のことなのかもしれないのだが、どうやら、このことは、私コロ健にとってはとても不思議なことである。これまでに、何度も同じようなことを考えてきた(記事の中のリンクをたどると、ぞろぞろ出てくる)。
これは、何も私のテンパってしまった仕事に限った話ではなく、誰しも共通したことである。
あれもこれもしている中に、仕事があったり、遊びがあったり、何も無かったりする。
具体的にいえば、
労働者であれば、あの仕事、この仕事。
作家であれば、あの連載、この連載。
主婦であれば、あの用事、この用事。
となる。
これは、社会生活に組み込まれた部分での話であって、内緒、というか心の内面的な同時進行となると、もっと複雑多様になる。
内緒の部分でもっとも、わかりやすいのは、愛情。
好きな人が何人もいる人というのがいる。「だって、みんな好きなんだもの」。”浮気性”などともいうが、それは好きになった時期の違いにしかならない。こういう人は、”マメ”なんていうけど、自分の心をいくつにも分割して同時進行させている。すごいことだ。
趣味にしても例えば、こんなだろう。
本当は、俳句をやりたい人がいるとする、けれどその人は人間関係から、昔からやっていた短歌をやめられない。どうでもいいので、とにかくどっちかに本腰を入れたいのだが、結局うまくいかず、両方とも同時進行させている。虻蜂取らずになりそう。
ここで、話が飛んでしまうが、人間、遺伝情報の大部分を相互に共有している。私もあなたも多くは同じだ。
”生物は遺伝情報の単なるキャリアー”論からすれば、おおもとの遺伝情報は一つでも、それがすごくたくさんの人間および人間以外の動物に分散させて、自分自身の遺伝情報を後世に残そうとしているところに、遺伝情報と私たちの身体の本質がある。
結果として、あの人間にも、この動物にも、同時に別々のことをやらせている。
それこそ、あれもこれも、である。
本質的に、私たちが共有している遺伝情報というのは、あれもこれもやるような性質のものであるのかもしれない。