石原慎太郎都知事が昨日、辞職した。
『都知事』で、こんきもの過去の記事を探すと、ぼんぼり祭りで憂国の思いを揮毫していることのほかに、橋下徹大阪市長の「船中八策」のような「救国八策」を考えている、というような記事もあった。この、橋下徹大阪市長が「船中八策」を打ち出したのが、今年の2月のことだったとは、時間の流れは本当に早い。
あれから、いろいろあったが、合従連衡か、野合となるかはわからないが、依然として政治状況は流動的だ。
民主党は一度掴んだ権力の座、どうやら最後まで頑張りそうだ。4年間というのは短いようで長い。政権を付託するというのは大変なことで、次の選挙がいつになるやらわからないけれど、今度こそ、自分の頭で真剣に考えて一票を投じねばなるまい。とは言っても、一体誰に、となるのが悲しい。
民主党が負ければ、政権にノーというわけだし、自民党が復権しなければ既成政党にノー、ミニ政党が拮抗して連合政権なんてことになれば政権運営はよけいに不安定になりそうで、なにがどうなっても心配だ。
政治がダメでも官僚がしっかりしているから日本は大丈夫、なんていっていたが、その官僚機構もなんだか心配だ。右肩上がりの日本経済に乗っかっている幻想の元に行政を行っていないだろうか。少々失敗しても、金があったから上手くいっていただけなのかもしれない。
たとえば、文教行政、ゆとり教育のことは昨日の記者会見でも述べられていたが、日本経済がおつりが来るほど潤っていたころであれば、少々ゆとりも良かったかもしれないが、これはまずかった。
自分の子供を見ていて思うが、結局、ゆとり教育というのは何も残さなかったように思う。私の立場からすると、子供達一人一人の個性を伸ばしてくれることに期待していたが、それは親まかせ。
学校のシステムは、カリキュラムが変わっただけで、学校は誰の個性も伸ばしてくれなかったように思う。
医療行政にしてもそう。臨床研修制度の是非を言う気はないが、それが失敗だったとき、元に戻せるようになっていなかったというのは失敗ではなかったか。大学という、大きな組織で多様な人に接しながら育つ医者と、どれほど大きくとも一つの施設という、上中下の人間を簡単に見渡すことのできる少人数の中で育つ医者、どちらがいい医者となるか。
エネルギー行政、産業行政、環境行政、外交どれをとっても、官僚主導で良かったということはあるだろうか。
わからない。官僚には顔がないので、誰がやったのか、ということがわからないので、責任というものが、基本的に官僚には無い。
政治家が政治主導を訴えるのは良いが、どれほどの政治家が私利私欲を捨て国のために滅私奉公してくれているだろうか。おかしな献金問題が明るみに出る度に、不安になる。
二世三世議員の多さにも違和感を感じる。
日本経済を引っ張ってきた産業界は今、危機に瀕している。
これまであったアドバンテージは、失われつつある。
欧米が競争相手だった時は、胸を借りて競争をして、勝ち取るところは勝ち取ってきた。
だが、今では、その競争の方法も変わってきている。
相手の情報、人材を奪ってでも戦う企業。
国が完全にバックアップして戦う企業。
どれも日本は遅れを取ってしまっている。
みなで力を合わせて、よその国より努力しなければいけないのは、企業、学問に限らない。
百家争鳴を悪いとは言わないけれど、駆け引きばかりが目に付く今の政治状況は何とかならないものか。