東日本大震災から今日で四年。毎朝通る、私と同い年の石灯籠が倒れた神社で、震災で亡くなられた多くの方々のご冥福を祈って手を合わせた。
四年経ち、不肖コロ健、いまだ生きている。
人間というものは、社会的な存在でいるしかないという点で、極めて矛盾に満ちている。自分が存在するために他人は必要なのに、しばしば他人は邪魔になる。
そして、人と人とのいさかいは尽きることなく、身近なところも含め、あらゆるところで日々悲劇が起こる。
だが、そのことがいやだからといって、おいそれと退場することもままならない。
人は生きるために生まれてきたのであると、自分の存在を肯定しながらも、死ぬために生きているのだと、自らの生を否定しながら日々を送る。
それでも、きっと、私たち生きながらえているものは生きていかなくてはいけないのだろう。
いつ死ぬかもしれない、生というあやうい状態を延ばすことができるのであれば、そうしたほうがいいに違いない。
残念ながら私にはその正しい理由はわからない。
だけど、四年前の今日、津波に巻き込まれて亡くなっていった人、寒さで亡くなっていった人、火災で亡くなっていった人、そのほかいろいろな、理不尽な亡くなり方をした人たちのことを思うと、今ある自分の命を粗末にしてはいけないと思う。
この命が何かの役にたてばと思うことは、私が生き延びることの目的になるだろうか。
来年の三月十一日に