土曜日だが、ウィークデイと同じ時刻に目が覚めてしまった。年のせいで眠りが徐々に浅くなって来ているので、べつに気にすることではないのだが、何となく損をしたようでもう一度眠ることにした。
カーテン越しに差し込む朝日の明るさを遮ろうと目を閉じたら、ふと、「視力が失われ、目が見えなくなったら、俺はどうしたらいいのだろう」という思いにとらわれた。
恐ろしくなって、何度かまぶたを上げて目の見えることを確認する。失明の原因としては白内障(水晶体の混濁)、緑内障(網膜の細胞の変性)や糖尿病(網膜の変化)があるが、この年になると、もうどれにかかってもおかしくない。また、事故やテロに遭遇して突然失明することだってあり得る。
目を開けたり閉じたりしながら、自分が失明した時のことを考えてみた。医者は「見立て」という言葉があるほどで、仕事をする上で視力は必須だ。標本を診て診断する病理医は言わずもがなである。そうなったら別の仕事を探さなくてはいけないだろう。収入をどう得るかを別としても、日常の生活は激変する。少しでも視力が残っていたら、フラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩に近所を回るぐらいは大丈夫かもしれないが、全く見えないとなると家の前の道を角まで往復するぐらいしかない。山奥で、車の往来が少ないことがせめてもの救いだ。
人間は生まれつき目が見えるように作られていて、人間社会は目が見える人の都合で発展してきた。したがって、目の見えない人は不自由なことを強いられる。白杖の人を駅などで見かけることがある。ホームからの転落事故も少なくないという。私にしても、同じような境遇にあっても、外に出て何かをしたい。だから、そのような人を見かけたら、遠くから気にしてあげたい。
視力を失うということに限ったことではなく、健康であるという今のところの幸せを十分感謝しながら毎日を過ごさなければいけない。そして、不肖コロ健はなにかしら健康でない人の役に立つことができるよう、今の医者という仕事を全うせねばならない。
仕事のみならず、社会生活でもそれは同じで、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人への配慮を常に忘れないようにしないといけない。そのためには、ただ単に健康上の問題だけでなく、様々な局面で私たちの誰もがいつでも社会的弱者になりうるということを意識しながら生きていく必要がある。