長男が生まれるにあたって、妻が仕事を辞めてから20年以上経った。当時はマタハラ、イクハラという概念もなく、当然のように職場から退場させられた。私が家に入るという選択肢もあるにはあったが、結局妻に我慢してもらった。大好きだった仕事を辞めるのは妻にとって、宝物を手放すようなものでずいぶんつらかっただろうと、今さらながら思う。
仕事を辞めるとき妻に頼まれたことが一つある。「私はこれで社会との縁がきれてしまうの、だから(コロ)健ちゃんを通じてしか、社会のことを見ることができなくなる。外の世界のこと、ちゃんと教えてね。」というものだ。
妻にそう言われた時は、「もちろんわかっているよ」などと返事したと思うが、果たして妻の真意を私は理解していただろうか。家庭で子育て中心の生活になるからといって、新聞もテレビもある。そういったものを見ていれば、社会のことなど私よりよほど詳しくなるのではないかといつの間にか思うようになっていった。子供たちが成長して、地域の子供会、学校のPTAの仕事をしているのを見ても、いろいろと社会貢献していて、けっこう充実しているじゃないかなどとも感じ、熱心にやっている時など、そのことに対して嫌みのようなことすら言った。もちろん、家のあれこれも手を抜くこと無くよくやっていたのにだ。
妻がそうやって家のことを切り盛りしてくれている間、私は自分のことしかしていなかった。もちろん自分なりに努力はしたし、給料はすべて家に入れてきた。それほど金のかかる遊びもしない。でも、家のことに関しては、全て妻任せだった。そして、それは妻の人生を家族のために使わせることだったではないかと思う。
時代が違うので、いまさら何を言っても始まらないが、20年前、子育て支援施策がもっと充実していたら、妻は仕事を続け、もっと自分のやりたいことをすることができたのではないかと思う。女性は家事、子育てのためだけに生まれてきたわけではない。それならば神様は紫式部に源氏物語を書かせることはなかったはずだ。
私を通じて社会を見たいと言った妻の気持ちが、私なりに少しわかる。子供を持ったところで自分の人生の方向を換えるというのは実は大変で孤独な作業だったのではないか。そういう困難を、妻一人にやらせてきてしまったように思う。なのに私は妻の頼みに十分答えてあげられなかったように思う。申し訳ないと思うけど、過ぎてしまったことを取り返すことはできない。遅きに失した感はあるが、これからでも少しずつやっていくしかない。
女性に甘えてばかりでは