”考え方は人それぞれなのだから、自分の考えを他人に無理強いするようなことをしてはいけない”と考えることは、社会的に諦めていることになるのだろうか。生きていく上では、"こうあるべき"だと考えることは、それこそ人それぞれがしていることのように思う。仮に具体的な言葉としてそれを持っていなくても、それなりに持っている思う。でも、中には本当に何も持っていない人もいる。ところで、ここのところ、自分とSNSとの関わりについてよく考える。ブログやツイッターの中で自分の考え方をもっとはっきりさせたほうがいいのではないかと思うが、自分の考え方、想像力の限界はこの辺りで、今以上の、自分の考えのありのままはかけない。もっと必死になったら多少はセンスのいい文章が思い浮かぶかもしれないが、それは時間的に難しい。さらにはそのためには核となる考え方が必要で、それに基づいた”対立軸”を掲げなくてはいけない。”一人ディベート”のような状況をこの場に作り出し、自分の頭の中での喧々諤々を書き出す。
例えば、”病理医VS臨床医”、”神奈川都民VS東京都民”、”中高一貫男子校VS公立校”、"男VS女”、”理系VS文系”とかいう図式は次々と思い浮かぶ。自分の立場に立って、他方を思い切り攻撃したら興味を持って読んでくれる人がいるかもしれないが、ブログが炎上することは間違いない。なぜならどちらかに属して生きている人はいて、それぞれの立場を否定することは不可能だからだ。相互に行き来することが可能なものもあるし、不可能なものもある。でも一見不可能に見えても、相互に行き来することができるものも考え方によっては出てきている。でも、それは”人それぞれだから”ということになって誰もが勝手気ままに生きていくことを許容することになるだろうか。
絶対的に正しいもの、は無い。宗教では、”教祖様”が絶対的に正しいということになるので、そのコミュニティーに属さないものは正しく無いものとして定義づけられる。だから、教祖が勝手なことを考えたら、信者はそれにつき従うしかなくなる。どんなに間違っていても、教祖が自分の拠り所となっていたら、それを否定することはできない。宗教以外にも、盲目的につき従うしか無い生き方というのはいくらでもある。というか、突き詰めて言えばどこかの国家に属している限り、人は何らかの拘束を受け、それに逆らうことはできない。ならば一人で生きていけばいいというかもしれないが、人間にはそれは不可能だ。
いつものことだけど、このままだと堂々巡りになっ。
ここで、私が人間はこう生きるべきだ、と書けば、誰かの生き方の参考になるかもしれないけど、私はその”誰か”の人生に責任を持つことができるわけでは無い。その”誰か”はその人自身の社会の中で生きていて、それぞれの社会が要求してくる生き方にしたがって生きている。
そう、人はそれぞれの多層化された生き方に由来する考え方を持って生きている。
”人それぞれだから”という考え方を社会への諦めと考える意見もあるけれど、”人それぞれ”という考え方自体多くの要素の上に成り立っているものであり、許容しなくてはならない。
”人それぞれだから”私の思うような方向に社会が進んでくれるわけがない、と思ってなどいない。このブログを読んで、いささかでもそれぞれの人が思う、良い社会が実現されることを祈っているだけだ。もちろん、私自身も良い人間になりたいという願いも込めて書いている。
それでもそれぞれ