電脳化社会には情報が溢れている。その多くがが様々な立場の人が述べているそれぞれの意見。
ツイッターなどは、合衆国大統領から子供まで皆同じ条件下で情報が表示される。ブログも似た様なもので、私の様な一般人が10年もの間、延々と日々の想いを綴っている。自らの考え方を発信する、ということに一体どんな意味があるのだろう。
自分の考え方は正しいから、それを他人に押し付けようという気持ちがあるのだろうか。それとも、誰にも明かすことのできない胸の内を、顔の見えないだれかに向かって明かすことで、心を落ち着かせているのだろうか。数千万人の人が様々な形で、中には制限を受けても、ネット世界に関わり、それを利用して生きている。目に見えない電脳化社会の中で生きているのだ。
電脳化社会、というかこういう機器は感覚器、運動器が不自由な人にとっては福音となりつつある。聴覚障害の人にとってLINEの”既読”は必須のものだし、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人にとって、目の動きで入力できるシステムは外界との唯一のチャンネルとなっている。
その様な意味で、電脳化社会はこれまで意思疎通が困難であった人たちとも分け隔てなく、時空を越えて交流できるシステムとなってきている。
その様なシステムの中で、情報を発信する、ということは旧来の”拡声器型の情報発信”とは意味合いが異なってきていることを示している。情報の質とか意義、そういったものが日々変化している。玉石混淆の情報が溢れる中、私はこのブログとともに、どうやって生きて行ったらいいのかわからなくなることがある。
結局、拠り所は自分自身の意思であり、それを決定するのは自分自身だ。ある意味、この電脳空間の中でそれらのことを自由に行うことができるというのは、私は幸せな境遇にあるのだと自覚しなくてはいけないのかもしれない。
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