(第5話からの続き)
私の目の前に、180センチぐらいの大柄で肩幅の広い男が現れたのは、ちょうど乗り換えの階段を登りおえたところだった。
帰宅時刻のターミナル駅のコンコースは人でごった返していた。朝よりも人の歩く方向は無秩序で、余計に歩きづらい。そんな中を男は誰彼構うことなくぶつかりながら歩いていた。その男を中心として、悲鳴と怒号が飛び交っていた。男がやってきた方にはあちこちに血が飛び散っていた。
男は紺色の毛糸の帽子を被っていて、血まみれの右手にはナイフのようなものを握っているのがすぐにわかった。急に立ち止まり辺りを見回し、事態を呆然としてみていた私の目と男の目が合った。
次の瞬間、男は私たちの立っている方に前屈みとなって突進してきて、私のすぐそばで立ちすくんでいた中学生ぐらいの制服姿の女の子に切りつけた。女の子は逃げる間も無く男に腕を切られ、制服のブラウスはあっという間に血に染まった。女の子はその場でしゃがみこむように倒れた。男は振り向きざまに初老の男性の腹にその刃物を突き立て、刺された男性は腹に刃物をさしたまま仰向けに倒れてしまった。
とんでもない事件が起こっているということに、あたりの人が気がつき、逃げようとするが、辺りはパニックとなっていて、男から少しでも離れようとしても、逃げ場などない。そんなつもりはないのに、毛糸の帽子の男を囲むような格好になっていた。
男は、背中のデイバッグから別の刃物を取り出し、逃げようと背中を向けた中年のサラリーマン風の男性を後ろから追って、その刃物を突き立てた。私が男の凶行を知ってから、これまでのことは、ほんの1分程度のうちに起こったことだった。
その中年男性から抜いた刃物を握り直し、男は私の方へと近づいてきた。
逃げようにも、私の後ろはたくさんの人がいて、私に隠れるように立っている。私を押し出すようなことはしないが、明らかに私を盾にしている。さっき、目を合わせてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。このまま殺されてしまうのかと思うと、恐怖のせいだろう戦慄が走り、下腹が掴まれるような感じがする。声は出したくても出てこない。
このまま刺されてはたまらない、少しは抵抗しようと、PCの入っているショルダーバッグを体の前に持ってきた。男の突進を少しでも食い止められたらいい。そして男の目を睨み返した。再び男と目が合った。
男が一歩踏み出した、その瞬間、韓国料理フェアーをやっていたワゴンのほうから、黄白色の大きなプラスチック製の桶が男めがけてとんできた。
それは、キムチの入った大桶で、男の頭にぶつかって、キムチのタレにまみれた。あたりにはキムチがばら撒かれ、匂いが立ち込めた。大声をあげながら、頭に着いたタレを振り払おうとする男に向かって、二人の売り子が突進していった。男は無茶苦茶に包丁をふりまわし、売り子の一人の腕に当たり、突き刺さった。腕を刺された売り子は包丁が刺さったまま、男の腕をつかみ、そのまま男の腕をキメて組み伏せてしまった。
二人の売り子の一人はチマチョゴリを着た女性で、もう一人は作務衣風の割烹着を着た男性だった。男を組み伏せたのは、チマチョゴリを着た女性の方だった。そして、彼女の腕から血は流れていなかった。
制服を着た警官が駆けつけてきたのは、そのすこし後のことだった。
あっという間の出来事
第7話に続く