今日もいくつかの路線が遅れ、私がいつも乗る電車は運休、また迂回しての通勤となった。
昨日今日と二日続きなのには参ってしまうが、誰かに何か文句を言っても仕方のないことだと、いつもよりずっと混雑している電車に黙って乗り込んだ。
病理診断の相談があった。
急ぐというので持参した人に横で座って待っていてもらいながら標本を顕微鏡でみて、その後診断書を書き上げた。
専門でない病理医にはとても難しい症例だったが、私にとっては幸い、これまでに経験したことのある病態がいくつか複合しているにすぎない病態だったので、それらの所見をいったん一つ一つ独立させてあらためて融合させることで診断できると考えた。
顕微鏡の中では、細胞1個1個の生死が見え、障害を補完しようとする細胞、傷害を受けた細胞の処理に動く細胞など全ての細胞が一定の目的、すなわち生命の維持のために論理的に動いていた。
そして、それを見るうちにその人の体の中で起こっていることが自分の脳内に無限に広がっていくのを感じた。
標本を十分みて、自分なりの診断を決めた後、診断書を書く。
自分の脳内に広がるイメージをこれまでの経験をもとに、文字に置き換えていく。
炎症、梗塞、壊死、線維化、腫瘍・・・そういった言葉を相互に関連づけながら、整合性のある意義のある文章を作り上げていった。
診断書を書くとは、”誰がみてもこれはそうだ”という所見を、相互に整合性を持たせた”診断”に持っていくことだ。
標本上に広がるほぼ無限といえる情報から、病態説明に重要な所見を”抜粋”し、必要最低限の文章に削ぎ落とした上で、診断文にする。
これが病理医にとっての”ゾーン”だったのだろうか。
脳にあるイメージが勝手に指先に伝わり、真っ白なディスプレイ上には、青空にまっすぐに伸びていく飛行機雲のように、診断文の一文字一文字が伸びていった。
もう一つの意識がそこに現れ、これはまるで魔法のようだと感じた。
途中でふと我に帰ると書きかけの診断文は、半分までできたデス・スターのようでもあった。
私の病理医人生の中でいまだかつて経験したことのないもので、もっとも充実した瞬間だったかもしれない。
診断書を一気に書き上げた後、推敲し、専門としない人のために説明用の顕微鏡写真を撮った。
この場合、十分言語化されていたら写真は不要だという意見もあるかもしれないが、それは専門家とそうでない人の間の差がきわめて大きいため、時間を節約しなくてはいけないため致し方のないことだ。
そもそも顕微鏡写真はいったん言語化したものを画像化するという点でさらに複雑な作業だ。
無から有を生み出すという作業は、画家がはじめ真っ白なキャンパスに絵を描く時、作曲家が五線紙に楽譜を描く時、作家が原稿用紙に文字を埋めていく時など、さまざまな場面に共通する。
もちろん、SNSやブログに文章を書くときも同じだが、これはおしゃべりに近いもので、ちょっと違う。
いずれにせよ、思いを文章化するということは人間にしかできないきわめて高度な作業だ。
病理診断という肉眼所見、顕微鏡所見を言語化するという作業は、病理医というトレーニングを積んだ人間にしかできない作業で、この技術を磨くために長い人生をかけて日々研鑽してきたのだということを実感した。
日々のエントリーもそのトレーニング
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お、いつもと違う感じの文章ですね。
迫力や臨場感があって、いいですね😄。
それではまた。
こんなことこれまでになくて、自分でもビックリして、書き残しておかなくては、と頑張って、その時の思いを書き残しました。