休日中は一日一本、サッカーネタを出すつもりですが、今日は浦和の選手のネタが浮かばなかったので、元大宮アルディージャFW、デリー・バルデス選手のネタにします。バルデスは36歳まで日本でプレーした息の長いFWで、長年パナマ代表にも入っていたパナマの英雄です。
ただ、そのキャリアのほとんどは、JFL(当時2部相当)、もしくはJ2でのものでした。双子の弟のバルデスが、セリエAのカリアリ、スペインリーグのマラガなどの華やかなキャリアを過ごしたのとは対照的な、地味な道です。しかし、バルデスのすごいところは、どこにいても点を取る技術だけは常に突出していたところです。
かつて在籍していた、JFLの東芝では、JFL得点王の常連でした。その後、C大阪、鳥栖、札幌と渡り歩き、その間無数のゴールを決めています。一時、札幌のJ2降格でMLS(アメリカ)のチームに移籍して、日本とは縁が切れたかに見えましたが、2001年に当時J2の大宮に移籍してきて、再び「昇格請負人」の役目を担うことになりました。
2001年の5月、当時仙台にいたJ2得点王、マルコスを見るために大宮サッカー場に出かけたときに、私の目を引いたのは対戦相手のバルデスでした。映像で見ると、単にゴールを決めた瞬間しか映されませんから、バルデスの良さを見るには生で見るしかありません。
バルデスは、決して足も速くなく、守備意識に至ってやほとんど皆無に近いです。ボールが来るまでは、オフサイドラインに引っかからないことくらいしか意識していません。しかし、バルデスのいいところは、相手守備陣と駆け引きして、いつの間にかフリーになっているところです。ある程度精度の良いパスを送れる味方さえいれば、バルデスのワンタッチシュート(ほとんどがヘディング)を見せることができます。
この選手に限っては、「点を取ったから動きが良い」と単純に断言していい、稀なFWです。ただ、バルデスの活躍で昇格戦線に絡んでいた大宮は、パナマ代表の試合でバルデスが重傷を負ってしまったことで失速してしまいました。大宮にとって悲願のJ1昇格は、2004年シーズンを待たなければなりませんでした。
2002年シーズンには復帰しましたが、13ゴールと、彼にしては少ないゴールにとどまり、2003年の川崎Fを最後に、日本でのキャリアを終えました。ただ、その点を取る秘訣は、人材不足が言われる日本のFWには参考になるものでしょう。今でも埼スタの柱に写真が残っています。大宮の伝説的FWでしょう。
ただ、そのキャリアのほとんどは、JFL(当時2部相当)、もしくはJ2でのものでした。双子の弟のバルデスが、セリエAのカリアリ、スペインリーグのマラガなどの華やかなキャリアを過ごしたのとは対照的な、地味な道です。しかし、バルデスのすごいところは、どこにいても点を取る技術だけは常に突出していたところです。
かつて在籍していた、JFLの東芝では、JFL得点王の常連でした。その後、C大阪、鳥栖、札幌と渡り歩き、その間無数のゴールを決めています。一時、札幌のJ2降格でMLS(アメリカ)のチームに移籍して、日本とは縁が切れたかに見えましたが、2001年に当時J2の大宮に移籍してきて、再び「昇格請負人」の役目を担うことになりました。
2001年の5月、当時仙台にいたJ2得点王、マルコスを見るために大宮サッカー場に出かけたときに、私の目を引いたのは対戦相手のバルデスでした。映像で見ると、単にゴールを決めた瞬間しか映されませんから、バルデスの良さを見るには生で見るしかありません。
バルデスは、決して足も速くなく、守備意識に至ってやほとんど皆無に近いです。ボールが来るまでは、オフサイドラインに引っかからないことくらいしか意識していません。しかし、バルデスのいいところは、相手守備陣と駆け引きして、いつの間にかフリーになっているところです。ある程度精度の良いパスを送れる味方さえいれば、バルデスのワンタッチシュート(ほとんどがヘディング)を見せることができます。
この選手に限っては、「点を取ったから動きが良い」と単純に断言していい、稀なFWです。ただ、バルデスの活躍で昇格戦線に絡んでいた大宮は、パナマ代表の試合でバルデスが重傷を負ってしまったことで失速してしまいました。大宮にとって悲願のJ1昇格は、2004年シーズンを待たなければなりませんでした。
2002年シーズンには復帰しましたが、13ゴールと、彼にしては少ないゴールにとどまり、2003年の川崎Fを最後に、日本でのキャリアを終えました。ただ、その点を取る秘訣は、人材不足が言われる日本のFWには参考になるものでしょう。今でも埼スタの柱に写真が残っています。大宮の伝説的FWでしょう。