ちょうどバンクーバー五輪の時期なので、札幌五輪で70m級で表彰台を独占した「日の丸飛行隊」の話をします。この五輪は私が生まれた頃の話なので、昨日のNHKアーカイブスで初めて映像でこの頃のジャンプ競技を見ました。
まず、当時のジャンプ台は、今のようにカンテにバーを通して腰掛ける形ではなく、横に待機路を用意して割り込むようにジャンプする形だったことが、一つのカルチャーショックでした。この形だと、風向に応じて「ゲートを上げる」ことはどうやってやっていたのだろうと、今となっては解決しない疑問を抱いてしまいます。
また、ジャンプ競技のレベルも、V字ジャンプ以前の時代ということもあり、70m級(ノーマルヒル)で80m飛べば大ジャンプの部類に入っていました。今のジャンプはノーマルヒルでは90m以上を要求されますから、やはりジャンプの世界も日進月歩で、38年という時間の長さを感じます。
当時、金メダルに笠谷、銀メダルに金野、銅メダルに青地というメンバーで表彰台を独占したのですが、まず一つ目の衝撃の事実は、銀メダルの金野が一発の大ジャンプに期待されて最後の4人目の枠で滑り込んだ選手だったということです。以前、Numberでも同様の話を聞いたことがありますが、金野は「自分が期待度は一番低かった。出来すぎの銀メダル」と語っていた記憶があります。
また、初めて見た映像にも衝撃を受けました。それは銅メダルの青地の2回目のジャンプです。当時ベテランの域に入っていた青地にしては、このジャンプは失敗ジャンプで、スキーの板が上下左右にぶれているのを必死で押さえ込んで、まさに根性で飛んだ77.5mでした。当時としては、この距離は標準的な距離で、1回目で2位につけていた青地は銅メダルに滑り込むことができました。
笠谷に関しては、今見ても抜群の安定感でしたが、当時はマスコミのシャッター音が気になるほど精神的にピリピリしていたようです。迷惑をかけるにしても身内数名だけだと開き直った結果、2本とも大ジャンプをそろえた結果の金メダルでした。笠谷は今でもジャンプ競技の飛形点の審査員として、ジャンプの会場に姿を見せるそうです。笠谷が審判として見守った長野五輪の日本勢の活躍は彼らにとっても嬉しいものであったに違いありません。
まず、当時のジャンプ台は、今のようにカンテにバーを通して腰掛ける形ではなく、横に待機路を用意して割り込むようにジャンプする形だったことが、一つのカルチャーショックでした。この形だと、風向に応じて「ゲートを上げる」ことはどうやってやっていたのだろうと、今となっては解決しない疑問を抱いてしまいます。
また、ジャンプ競技のレベルも、V字ジャンプ以前の時代ということもあり、70m級(ノーマルヒル)で80m飛べば大ジャンプの部類に入っていました。今のジャンプはノーマルヒルでは90m以上を要求されますから、やはりジャンプの世界も日進月歩で、38年という時間の長さを感じます。
当時、金メダルに笠谷、銀メダルに金野、銅メダルに青地というメンバーで表彰台を独占したのですが、まず一つ目の衝撃の事実は、銀メダルの金野が一発の大ジャンプに期待されて最後の4人目の枠で滑り込んだ選手だったということです。以前、Numberでも同様の話を聞いたことがありますが、金野は「自分が期待度は一番低かった。出来すぎの銀メダル」と語っていた記憶があります。
また、初めて見た映像にも衝撃を受けました。それは銅メダルの青地の2回目のジャンプです。当時ベテランの域に入っていた青地にしては、このジャンプは失敗ジャンプで、スキーの板が上下左右にぶれているのを必死で押さえ込んで、まさに根性で飛んだ77.5mでした。当時としては、この距離は標準的な距離で、1回目で2位につけていた青地は銅メダルに滑り込むことができました。
笠谷に関しては、今見ても抜群の安定感でしたが、当時はマスコミのシャッター音が気になるほど精神的にピリピリしていたようです。迷惑をかけるにしても身内数名だけだと開き直った結果、2本とも大ジャンプをそろえた結果の金メダルでした。笠谷は今でもジャンプ競技の飛形点の審査員として、ジャンプの会場に姿を見せるそうです。笠谷が審判として見守った長野五輪の日本勢の活躍は彼らにとっても嬉しいものであったに違いありません。