今回はラージヒルの葛西の8位入賞が最高と、あまりふるわなかった日本ジャンプ陣ですが、久しぶりに日本ジャンプチーム総監督になっていた原田雅彦さんの顔を見たので、懐かしくなって記事にします。
原田といえば、「予選落ちから金メダルまで」天と地の落差が大きい選手だったことが印象的です。どうしても話題に上ってしまうのが、リレハンメル五輪団体戦で最後の試技だった彼の失敗ジャンプで、確実だった金メダルを逃したことです。もちろん、銀メダルですから、決して非難の必要はないのですが、原田にとっては悪い意味で目立った痛恨事でした。
しかし、その後4年間、日本ジャンプ陣はW杯で結果を出して、メダル候補の名前をひっさげて、地元長野五輪に再挑戦します。原田はノーマルヒルでは1本目でトップを奪いながら、2本目で失速してメダルなしに終わっています。
しかし、今でも印象的なのは、ラージヒルの2本目のジャンプでした。彼らしく1本目は出遅れているのですが、2本目に飛んだ大ジャンプは、これ以上飛ぶと危険な距離で転倒の恐れがあったので、立て!立ってくれ!という実況を今でも思い出せます。
原田は何とか立つことはできましたが、当時の白馬のジャンプ台で自動測定が可能な距離は135mでした。原田のジャンプはそれを超える136mだったので、距離の測定が手動になったため、原田の飛距離は最後の船木のジャンプが終わるまで出ませんでした。
船木の金メダルは確実だが原田は?とテレビ観戦の多くの方が思っていたでしょうが、アナウンサーの「原田は銅メダル」の言葉で、原田にとって悲願だった個人戦のメダルが確定しました。
その後も原田は長く現役を続け、2002年ソルトレイク、2006年トリノの両大会に出場しましたが、注目を浴びたのは長野五輪が最後でした。しかし、横綱相撲は取れず毎回波乱万丈だった原田のドラマ性は心臓には悪かったものの、船木の大活躍を吹っ飛ばすインパクトがありました。
今は選手の代わりにメディア対応している立場ですが、あれだけ激しい選手生活を送れば選手の気持ちは大抵わかるでしょう。日本ジャンプ陣の復活に、一役買って欲しい存在です。
原田といえば、「予選落ちから金メダルまで」天と地の落差が大きい選手だったことが印象的です。どうしても話題に上ってしまうのが、リレハンメル五輪団体戦で最後の試技だった彼の失敗ジャンプで、確実だった金メダルを逃したことです。もちろん、銀メダルですから、決して非難の必要はないのですが、原田にとっては悪い意味で目立った痛恨事でした。
しかし、その後4年間、日本ジャンプ陣はW杯で結果を出して、メダル候補の名前をひっさげて、地元長野五輪に再挑戦します。原田はノーマルヒルでは1本目でトップを奪いながら、2本目で失速してメダルなしに終わっています。
しかし、今でも印象的なのは、ラージヒルの2本目のジャンプでした。彼らしく1本目は出遅れているのですが、2本目に飛んだ大ジャンプは、これ以上飛ぶと危険な距離で転倒の恐れがあったので、立て!立ってくれ!という実況を今でも思い出せます。
原田は何とか立つことはできましたが、当時の白馬のジャンプ台で自動測定が可能な距離は135mでした。原田のジャンプはそれを超える136mだったので、距離の測定が手動になったため、原田の飛距離は最後の船木のジャンプが終わるまで出ませんでした。
船木の金メダルは確実だが原田は?とテレビ観戦の多くの方が思っていたでしょうが、アナウンサーの「原田は銅メダル」の言葉で、原田にとって悲願だった個人戦のメダルが確定しました。
その後も原田は長く現役を続け、2002年ソルトレイク、2006年トリノの両大会に出場しましたが、注目を浴びたのは長野五輪が最後でした。しかし、横綱相撲は取れず毎回波乱万丈だった原田のドラマ性は心臓には悪かったものの、船木の大活躍を吹っ飛ばすインパクトがありました。
今は選手の代わりにメディア対応している立場ですが、あれだけ激しい選手生活を送れば選手の気持ちは大抵わかるでしょう。日本ジャンプ陣の復活に、一役買って欲しい存在です。