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盛田剛平の記憶

2022-08-18 22:17:01 | 浦和レッズ
先日の浦和OB戦にいた、現ハートフルクラブコーチ、盛田剛平さんの記憶です。盛田は1999年、駒大を卒業して大学No.1FWの期待を集めて浦和に入団してきました。開幕戦ではスタメンだった盛田ですが、なかなかゴールを挙げることができずに、当時下位を低迷していた浦和で戦犯扱いされる苦難のシーズンを送ります。結果的に、この年は最後まで点を取れず、浦和はJ2に降格することになります。

翌2000年もJ2に降格した浦和でプレーしましたが、浦和では失意の中、セレッソ大阪にレンタル移籍して浦和を去ることになります。その後はJ2の大宮に移籍して、ゴールも何点か取りましたが、本人によれば「(J2でも試合に出られていない)自分にオファーが来るなんてありえない」という、J1広島から完全移籍でのオファーが届きます。

この広島時代に、CBに転向したことが、盛田の選手生命を延ばすことにつながります。もともと、左足のテクニックは持っており、無理に難しいプレーをせずにシンプルにクリアすることでDFへの適応を見せます。広島時代の盛田で印象的なのは、2008年の天皇杯決勝でのプレーです。当時広島を率いていたミシャが、自分たちのストロングポイントを消しに来た鹿島相手に、右ストッパーの盛田を上げることで対抗したオプションを見せました。

広島時代には、Jリーガーのセカンドキャリアを支援するイベントで、ラーメン店で一日店員を務めたこともあります。店主が盛田の働きぶりを評価して、秘伝のスープを作るところを見せてくれたというエピソードもありました。そのラーメンは盛田の特技となり、甲府時代にはファン感謝祭で臨時のラーメン店を出して、用意した300食を完売したという逸話もあります。

甲府時代は、「点を取ることはあまり期待していない」と、ポストプレー専用FWとしてのFW再転向もありました。この年に、キャリアハイの5得点を挙げて、38歳にして「最も成長した選手」に挙げられたこともあります。そうやって、いろんなポジションをやったことと、ベンチスタートでも腐らずに準備してきたことが、その長いキャリアの要因でした。

今は浦和の少年少女向けにサッカーを教えています。もし、レッズフェスタが復活するなら、盛田のラーメンは目玉になるでしょう。果たして、甲府時代のような売れ行きを見せるか、見てみたいですね。
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