6年前から、スポーツジムに通っている。
ストレッチ体操、水泳、スカッシュ等を自分流で楽しんでいる。
子どもの頃は、結構器用で、いろいろなスポーツをこなしていたように思う。(本人の甘い自己評価)
その後、全くスポーツとは縁がなく身体はガチガチ、ジムに通い始めた頃は、ひどいものであった。
ジムでは、ストレッチを中心に進めてきたが、前期高齢者見習いでもそれなりに身体が柔軟になるものである。
3年目で、ようやく、足の裏を合わせた状態での前屈で、頭がフロアーにつくようになった。
その後が、また大変だった。
両脚を開いての前屈であるが、身体が立って頭とフロアーの距離が遠いこと。
少しずつ少しずつ挑戦して、本日ようやくフロアーに頭をつけることが出来るようになった。
身体が柔軟だと、街など歩いていても快調なのです。何度か転倒しそうになったこともあるが、大事にならないで済んだ。
今日は、ささやかではあるが、私の「記念日」になった。
現在の課題は、それぞれの脚を頭にかけることに挑戦中である。
マイミクシーのtomokenさんの日記で、次の記事を読ませていただいた。(一部分を抜粋させてもらう)
父親参観のイベント終了後、一旦帰宅し、夕方から「父親のための勉強会」に参加した。園長先生が「父親の役割や振る舞いが、子どもにとっていかに大切か」を熱心に語ってくれた。その内容について私は一つ一つうなづきながら、最後に先生が発した次の言葉には心底から感銘を受けた。それは、 「今年度はひとつの課題として、“いつも自分が話していることを、どれだけ自分が実際に行為できているか?”という点について、問題意識を持って取り組みたいと思っています」 という内容の発言だった。 要するに「意識レベルと行動レベルとの隔たりの問題」を言ってるわけだが、この問題の意味するところがどれほど重要かについては、言葉を尽くしても表現し切れないように思う。「カウンセリングにおける最大の問題点も、じつはこの点にある!」と断言したいくらいだ。
tomokenさんの記事を読みながら、蓮如上人の「おふみ」の言葉を思い出し、聖典を開いてみました。
そして、その言葉についての味わいを毎田周一の言葉からお届けします。
◆蓮如上人の「おふみ」
それ、八万の法蔵を知るといふとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世を知るを智者とすと言へり。
◆毎田周一の味わい
ここに、「後世を知る」とはいかなることであるか。生きている間は徹頭徹尾うだつが上がらず、死んではじめて佛にさして戴くのだと知ることである。生きている間は、最後の瞬間まで邪見驕慢の悪衆生以外の何ものでもないと知ることである。「八万の法蔵」を知るといふ。いろいろなことを深く広く知っているのである。例へばヘーゲルの如くである。これが愚者であると蓮如上人は仰言る。「一文不知の尼入道」は世間のこと。まして学問のことなど何も知らないのである。だが彼はただ一つのことだけを知っている。それは、自分が邪見驕慢の悪衆生以外の何ものでもないことを知っているのである。根本智に目覚めたる人である。だから智者である。ここに一文不知の尼入道の恐ろしさがある。水洟たらして念仏している老婆の恐ろしさである、つまり念仏の恐ろしさである。
tomokenさんの記事に触発されて、右往左往、楽しませてもらいました。
komokenさん、ありがとうございます。
昨日、午前中は《くりのみ会》。
午後から伊豆に出かけ、通夜・葬儀ををすませて、先程帰宅しました。
岩手・宮城地震のニュースも詳細を知らぬままに過ごしていました。
帰宅して、テレビと《くりのみ会》の講師であるtenjin95先生のブログで詳細を知ったところです。
大勢の死者・不明の方々もいるようです。
早い救出・復興を念じます。
実は、講師のtenjin95先生のご実家のお寺が、栗原市とのことです。
お寺では、人の被害はなかったようですが、本堂の壁 灯籠 墓石等々、被害が出ているようです。
余震も続いているようです。
被害のこれ以上広がらないことを念じたいと思います。
被害をうけられた皆さんが 早くお元気になると良いですね、
本当に心配です。
今日の《くりのみ会・教育とカウンセリングコース》は、6名の方々で進めました。
メンバーは、臨床心理士 スクールカウンセラー 養護学校(中・高校)担任 特別支援学級担任 他の方々で、今回の学習会はスクールカウンセラーの在り方や特別支援の具体的な話が中心でした。
具体的な事例についての話ができ、中身の濃い学習会になりました。
ロージャズのカウンセリング理論の構成概念の要である「無条件の肯定的な配慮」に関して、ロージャズは、次のように述べている。
この構成概念は、セラピィの経験から発展してきたものである。このセラピィの関係において、大きな影響をもつ要素の一つは、セラピストがクライエントの全人格を“尊重”することであると思われる。クライエントがおそれ、恥じているような経験に対しても、また、クライエントが喜び、満足しているような経験に対しても、同じようにセラピストが無条件の肯定的な配慮を感じ、示すことは事実である。そしてそれが、クライエントを変化させるのに効果があるように思われるのである。
さて、この「無条件の肯定的な配慮」に重なるような記述を、親鸞聖人の『教行信証』の中で見つけたので引文してみる。
佛の捨てしめたまふ者は即ち捨て、佛の行ぜしめたまふ者は即ち行じ、佛の去らしめたまふ処をば即ち去る。是を「佛教に随順し、佛意に随順す」と名く。
ロージャズの「無条件の肯定的配慮」=随従(クライエントに随順する意)と理解しようと考えます。