尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東京で、また「失職者」問題①

2012年07月11日 21時50分55秒 |  〃 (教員免許更新制)
 7月6日付都教委のサイトに、「東京都公立中学校教員の失職について」という発表が掲載された。僕はこの事実に対し、もちろん起こった事実の重大性を訴えたいと思うけど、それ以外にもいろいろショックを覚えた。そのことから始めて、教育問題について何回か書きたいと思う。折しも再びみたび、「いじめ」が大きな問題となっている。一方、「大阪維新の会」が発表した「維新八策」には、全く理解しがたい「教員の非公務員化」などという文言が挿入されている。

 僕は6月上旬頃は毎日都教委のサイトで失職者が出ていないかをチェックしていた。東京で失職者が相次いでいることを知って、このブログにも「東京で「失職者」!」「都教委の責任」を書いた後のことである。しかし、しばらく見続けたけど、新しい失職者の情報がないので、東京都では今年度に教員免許更新制に関わる失職はもう起こらないものと判断していた。何故かというと、5月7日付の発表の中に、「再発防止策」という項目があって、「(1) 区市町村教育委員会及び都立学校長に対して、公立学校教員全員を対象として、有効な教員免許状を所有しているか、教員免許状の原本確認を求めるなど、5月中に総点検を実施」と出ていたからである。

 5月中に総点検を実施すれば、遅くとも6月初めには失職者の有無が判明するはずである。だから、要するに「総点検」なんてやってないのである。それはやってる校長はやってるだろうけど、多忙で取り組めない学校では「やったことにしている」ということなんだろう。そうじゃなければ、今頃失職者が出るわけがない。

 僕が不思議に思うのは、なんで都教委が自分で調査しないのかということである。講習に合格していても手続していないだけで失職するという仕組みの問題性はひとまず置き、失職の発令を何回もしてるんだから、都教委は「失職させなくてはならない」と思っているわけである。だとするならば、失職発令は早い方が「まだいい」だろう。その学校の生徒に取っても、教員自身に取っても。(今回の事例は35歳の教員だから、4月当初に判明していたら、来期の教員採用試験を受験して来年度からの職場復帰をめざすという可能性もあった。)教員の人事管理は都教委の管轄であり、教員免許の更新事務、免除事務も都教委の管轄である。自分のところで免許が更新されたかが判るんだから、普通は自分で調べるだろう。昨年度の熊本県の事例も、2月になって県教委から失職と言われたということだから、それは遅すぎるけれども、新年度になる前に県教委自身で確認作業があったわけである。全国で都道府県教委自身が確認作業をしてるのかと思ったら、都教委はしてないらしいのである。それは本当なんだろうか。

 今回の事例は、市部の35歳の中学教員(主任教諭)である。
 「3 事故発覚までの経緯」を引用してみると、
(1) 同主任教諭は、平成22年度及び平成23年度が教員免許更新の年度に該当していることを認識しており、平成23年8月、教員免許状更新講習を受講し、修了した。
(2) 同主任教諭は、教員免許有効期間の2か月前まで(平成24年1月31日)に教員免許状更新手続をしなければならなかったが、行わなかった。
(3) 平成24年7月3日、校長が今年度免許更新対象の教員に対して更新手続きの確認の話をしている中で、同主任教諭が免許状更新講習は修了しているが、教員免許状更新の手続をした記憶がなかったので心配になり、都教育委員会へ確認した。この際、教員免許状が失効していることが判明した。

 今回の事例、また今までの事例を見ると、「都教育委員会へ確認し」てしまったのが、「発覚」の直接要因である。要するに、確認しなければいいのである。都教委は更新手続きが終わっているかを自分でわかる。だからこそ、確認したところ手続きが済んでないことがわかり「失職」してしまったのである。でも都教委に確認さえしなければ判らなかったはずだということになる。それにしても、ここまで来てしまったんだから、夏休みまで「知らんぷり」してればいいのではないかと思うけど。

 また同じようなことを書くことになるが、
①教員免許更新制そのものが不要であると思うが、それはそれとして法律が出来ているとすれば、
②更新講習を受けて合格していれば、それでいいのではないかと思うが、合格後の更新手続きをしてないだけで失職していいのか。
③それでもそういう法律だから仕方ないとすれば、期限の1月末以前に、確認作業を徹底するべきだし、
④少なくとも新年度が始まる前に確認作業をしなければ、年度途中で先生が突然変わってしまうことになるので、生徒にとって問題が大きすぎることになってしまう。
⑤それでも新年度に入って失職事例が出てしまったとすれば、確認を早急に行うべきところ、5月中に点検が終わっているはずなのに、7月になって失職者が出てしまった。

 こういう事態を招いた東京都教育委員会の無責任ぶりは、突出しているというべきだ。都教委自身が1月には確認を行うべきなのに、今ごろ失職者が出ても自分の責任を明確にしていない。こんなに失職者が出て、それを防ぐことが都教委自身で容易に可能だったというのに何もしていない。生徒、保護者に対して、どういう説明をするのだろうか。

 誰にも勧められないが、もしかすると講習を受けないまましらばっくれていても判らないのかもしれない。講習も受けないと、普通は管理職にはわかるわけだが、更新せずに55歳で辞めて再雇用を受けても合格した人が現にいる。だから55で退職していい人はやってみてもいいかもしれない。この「失職」は二度と今年度は起きないことを望むが、そのためには都教委に確認したりしないことである

 時間講師や再雇用ではなく、正規の教員が失職したのは、中学校の2人である。どちらも市部の主任教諭。これは中学の現場が他の校種にも増して多忙であることが背景にあると思う。僕も20年ちょっと前は中学教員だったわけだけど、高校に比べて規模が小さく、地域に密着し、人員も少ないので明らかに忙しい。その後、自己申告書とか学校選択制とか、もう対応不能なほど忙しいのではないか。講習に合格していることは大学から都教委に報告があるはずである。現場では、休暇を取って平日の都教委開庁時間内に手続きに行くヒマなんかなかなかないと思う。なんでこのような「突然の失職」措置を取るのか。人間の行うべきこととは思えない。(まあ昔から都教委は人間の住むところではないと思っているが。)

 あまり多忙な上、とんでもない研修や面倒くさい調査が山のように押し寄せる。だから東京に限らないと思うけど、「やったことにしておく」ということになる。「上に政策あれば、下に対策あり」である。(中国の文革期の言葉。)この教師の学校でも「5月中に総点検」はあったはずである。管理職が「問題なし」に○をして返信していたのだろう。(今は都教委、市教委と学校現場のやり取りは、インターネットを通じたメールである。メールについてる添付資料が調査で、それに書き込んで添付して返信する。)そういう現場実態もほうふつとさせる。(制度自体の問題点など、もう少し何回か。)
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追悼・山田五十鈴

2012年07月11日 00時16分07秒 | 追悼
 文化勲章受章の女優、山田五十鈴(やまだ・いすず)さんが死去。9日、95歳。1917年~2012年。

 正直まだご存命だったのかと思ったけど、戦前、戦後の映画、舞台の大女優である。小さい頃から日本舞踊や常盤津、清元の稽古を続け、日活の子役として活躍。伊丹万作監督の「国士無双」などだと言うけど、残念ながらフィルムは残っていない。18歳の時に俳優月田一郎と結婚、後の女優嵯峨美智子を生んでいる。翌1936年に、女優としてやっていくことを決意した映画、巨匠溝口健二の「浪華悲歌」(なにわエレジー)と「祇園の姉妹」が作られた。その年のキネマ旬報ベストテンの3位と1位。19歳の時だから、どちらも「現代娘」を演じている。晩年しか知らないと古風な美人かと思うが、当時としては転落する現代娘やドライな芸者おもちゃを演じたのである。溝口のしごきに耐え、今見ても素晴らしい傑作。世界的にも、アメリカやフランスと並び、白黒発声映画の芸術的完成を見た歴史的作品である。家庭に入ってもらいたかった月田との仲は破局、嵯峨美智子との親子関係は嵯峨がタイで死ぬ(1992年)まで修復できなかった。

 ところが1937年に日中戦争が始まり、山田五十鈴の20代は戦争と戦後混乱期に当たってしまった。「わたしが一番きれいだった頃」(©茨木のり子)が戦争に取られてしまった世代である。その頃は東宝で長谷川一夫の相手役をしていたが、山田を主役に女性映画が作れる時代ではない。もったいなかった。(マキノ雅弘のミステリー「昨日消えた男」「待って居た男」など映画自体は面白いけど。)そして1950年に、あろうことか演技派の脇役で当時は民藝の所属だった加藤嘉と結婚して、左翼独立プロ作品に出まくることになる。山本薩夫監督の「箱根風雲録」、亀井文夫監督の「女なれば母なれば」「女ひとり大地を行く」などである。女丈夫の庶民を貫録たっぷりに演じていて、これも女優経験かとも思うけど、あんまり似合っていたとも思えない。この結婚は3年で破局を迎えるが、山田自身は「男は芸のこやし」とでもいうか、何度も結婚しては破局し次の恋がまた始まる「恋多き女」だった。

 その後、映画の代表作が生まれる。キネマ旬報が演技賞を作ったのは1955年。最初の女優賞は「浮雲」の高峰秀子だが、56年(「流れる」「猫と庄蔵と二人のをんな」)、57年(「蜘蛛巣城」「どん底」「下町」)と2年連続で主演女優賞を獲得している。このうち、「蜘蛛巣城」は黒澤明が「マクベス」を映画化したもので、山田はマクベス夫人を鬼気迫る演技で演じた。「流れる」は幸田文が柳橋の芸者置屋に住み込んだ経験を書いた小説の映画化。田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、岡田茉莉子、杉村春子に加え、無声時代の大女優栗島すみ子が久々に出演し、今では日本女優史を一本に凝縮したような映画として、評価が非常に高くなってきた。しかし、僕がふれておきたいのは、千葉泰樹監督の1時間もない「下町」という映画。戦争で夫は死に、子どもを抱えて茶の行商をする山田。工事現場で気のいい職人の三船敏郎に出会う。なんとなく気が合って、子どもも三船になつき、三人で浅草に遊びに行く。もう大人の二人である、旅館に部屋を取って、後悔しないかためらいながら結ばれてしまう。しかし、三船はある日現場を訪ねると、もういない。交通事故で死んでしまったのだと説明される。小さな幸せが見えてきたのかなと思った矢先に、悲劇に打ちのめされる。荒川土手の東京下町の悲劇である。40歳、子どもを抱えた戦争未亡人の悲しみを忘れがたく演じている。戦争の悲しみを乗り越えてきた世代なのだ。

 以後、映画もテレビも出てるけど、60年代半ばからは東宝の商業演劇が主要な世界となる。映画女優が映画の斜陽化で舞台に活躍の場を移したのは、多くの例があるけれど、山田五十鈴も存在感で圧倒して、生涯主役で活躍した。僕は高いから生では見てないけど、代表作と言われる「たぬき」はテレビで見て、感心した思い出がある。ここ10年ほどは引退して闘病生活だった。2000年に文化勲章。
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