主に6月に読んでたので遅くなったけど、グレアム・グリーン(Graham Greene1904~1991)について書いておきたい。グリーンはほとんどの作品が映画化されたイギリスの超有名作家で、ノーベル賞候補と言われ続けたけど受賞はできなかった。特に「第三の男」の原作者ということで、存命中は非常に知られていた。自分の作品を「ノヴェル」と「エンターテインメント」に書き分けていたことでも有名で、スパイ・ミステリ作家として落とせない作家である。
しかし、本領は「カトリック作家」という宗教性にあり、僕の見るところ、モーリアック、遠藤周作と並ぶ20世紀の3大カトリック作家だと思う。遠藤周作が宗教性の強い作品とユーモア小説を書き分けたのもグリーンの影響だろう。「沈黙」の英訳を読んだグリーンが遠藤周作に手紙を書いた話が、ハヤカワepi文庫「権力と栄光」解説に出ている。遠藤周作がグリーンに会う話なんか、実に面白い。なお、モーリアックはノーベル賞を受賞したけど、他の二人は毎年のように候補と言われたが受賞しなかった。
(グレアム・グリーン)
80年代に全集が出ているが、現在はハヤカワepi文庫で「グリーン・セレクション」が出ている。僕は出るたびに買っていつか読みたいと思っていた。少しは読んでいたのだが、主要作品は今回初めて読んだ。文庫にない作品は図書館で見つけて読んでいるが、作品が多いので全部読むのは大変。今回読んで思ったのが、エンターテインメントは時代を超えるのが難しいという点である。戦前、戦中に書いた「密使」「恐怖省」なんか、もう中身が古すぎる。「恐怖省」はフリッツ・ラングの映画化の方が面白い。有名な「第三の男」だって、分割占領中のウィーンでペニシリンを横流しする話だから、現在では読んでも事情が伝わりにくい。オーソン・ウェルズの怪演とアントン・カラスのツィターがなかったら映画も忘れられているのではないか。
それに対して、宗教性がベースにある本格作品の方が、今になると「ある種のスパイ小説」に見えてくる。どういうことかというと、「本当に信じているもの」と「信じているふりをしているもの」の葛藤の問題である。スパイ小説はアクションで読ませていくものもあるが、人間の苦悩に焦点を当てた作品も数多い。そういう作品は、スパイになり、二重スパイになり、その結果「何も信じられなくなった人間」もいれば、「それでも祖国やイデオロギーを信じている(らしき)人間」というものも存在する。そういう人間の心の葛藤を描くのが、グリーンの小説である。
例えば、有名な「情事の終わり」(1951)、99年に「ことの終わり」として映画化されているが、ドイツによる空襲下のロンドン、男と女が「不倫」の関係にある。が戦争の終わりとともに女は男を拒絶する。それは愛が冷めたのか、新しい男ができたのか。男は焦燥を感じ、真相を探るが判らない…。という筋立てだが、実は「神をめぐる三角関係」という大きなテーマがだんだん明らかになってくるのである。しかし、戦争から遠く、「神」も遠い現代日本では、この小説のリアリティはなかなかつかみにくい。しかし、小説に「神と言う補助線を書く」という作業をすると、世の中が全部違って見えてくると言うことはよくわかる。
(「情事の終わり」)
「情事の終わり」(新潮文庫に残ってる)は、ジャンルとしては「不倫恋愛小説」である。「(男の)不倫」とは「妻との平穏な日常」と「真に愛情を感じている女」が違うという事態である。つまり「生まれ育って生活している国」と「真に帰属感を感じている国(例えばソ連)」が違うというスパイ小説と同じである。それを言い出すと、「所属組織に帰属感を感じていない人間」、「所属組織に敵対意識を持っている人間」は、実にたくさんいるはずである。
企業の中で「自分は違う」「いつか辞めてやる」と思うことで自己を維持している人は沢山いると思う。政界や財界の中にだって、きっとたくさんいるだろう。僕だって、都で働きながら、最後の頃は「都教委は敵」だと思って暮らしていたから、グリーンの小説は他人ごとでは読めないと思った。でも、グリーンはそこに「神」というオールマイティのカードを出してくる。そこが小説として面白くはあるんだけど、それで解決するような問題なんだろうか、現代世界は。という気もしてきた。
非常に力強い小説は「権力と栄光」(1940)である。メキシコで革命がおこり、カトリックが弾圧される。弾圧の中、酒におぼれ、女に子どもを作りながらも逃亡し続ける「ウィスキー坊主」を追い続ける小説である。その逃亡劇は非常に劇的で感銘が深い。それは単なる逃亡ではなく、「神に仕えるものはどう生きるべきか」という倫理的な問いを突き付ける逃亡だからである。そういう緊張をはらんだ逃亡は、今ではあまりない。(中国なんかでは今でも「思想」と「逃亡」という倫理的問題があるけど。)生きている以上、どんな時代のどんな状況でも、自分をおとしめながらも、自分なりに最後に譲れないものをめぐって逃げ続けているのが人間の姿ではないか。でもメキシコの歴史でカトリックが果たした負の歴史もあるわけだが、それは問題にされない。全体的に時代が違って状況が伝わりにくい感じはした。
(「権力と栄光」)
僕が一番面白かったのは「事件の核心」(1948)で、最後は神をめぐる不条理劇のようになる「不倫ドラマ」である。戦時中の西アフリカ植民地で警察副署長を務めるスコービー。信心深い妻は引退して南アフリカに移住したいという。現地の経済を牛耳るシリア商人から金を借りて妻を先に送り出す。そこに事故で夫を失った若い女が現れ、頼りにされていく。だんだん様々な関係が絡み合ってスコービーの世界は崩壊していく。この夫婦関係も、また副署長としての現地商人との様々な関係も、実によく描かれている。そりゃあ、そうなっていくよなあ、という感じ。でもその結果、とんでもない窮地に追い込まれてしまうのだ。それはカトリックとして、神の前で(神父を通してだが)「告解」しなければならないということがネックになるのである。
(「事件の核心」)
キリスト教徒でないと、「神がいるから人間が不幸になる」としか思えない展開だが、小説内ではきわめて論理的に展開して納得できる。この小説の場合も、きっかけは「不倫」と言えるが、アフリカには「一夫多妻」を認める社会もある。そういう社会ならば、警察副署長を務める有力者に妻が複数いるのは当然で、権力の象徴にしか過ぎないだろう。そこでも妻どうしの争いはあるかもしれないが、主人公の「自我」を揺るがすテーマにはならない。日本の不倫恋愛小説なんかでも、「自我」をめぐって展開することはあまりないのではないか。しかし、常に最終的には神を意識せざるを得ないグリーンの主人公には、不倫そのものや妻、愛人への愛情などより、神に誓った結婚を破ったことを神にどう告白するかという方が大問題なのである。いや、新鮮でしょ、神なき社会に暮らす身としては。神を信じて毎日を送るという信心深い人の方が、今でも世界には多いはずである。そういう意味で、グリーンの小説はまだまだ生きて重要性を持っている。
「負けた者がみな貰う」(1955)という小説は、丸谷才一訳で「名訳で読む名作」と帯にある。これは気軽に読めるユーモア恋愛カジノ小説。小説の面白さだけでは、これが一番ではないか。これもモナコを舞台にするが、イギリスの小説は大英帝国を背景にして海外が舞台のものが多い。グリーンも、海外を舞台にした不思議なスパイ小説のような作品をその後も書き続けた。それらを中心にした後期の作品についてはまた機会があれば別に書きたい。(2022.1.13一部改稿)
しかし、本領は「カトリック作家」という宗教性にあり、僕の見るところ、モーリアック、遠藤周作と並ぶ20世紀の3大カトリック作家だと思う。遠藤周作が宗教性の強い作品とユーモア小説を書き分けたのもグリーンの影響だろう。「沈黙」の英訳を読んだグリーンが遠藤周作に手紙を書いた話が、ハヤカワepi文庫「権力と栄光」解説に出ている。遠藤周作がグリーンに会う話なんか、実に面白い。なお、モーリアックはノーベル賞を受賞したけど、他の二人は毎年のように候補と言われたが受賞しなかった。
(グレアム・グリーン)
80年代に全集が出ているが、現在はハヤカワepi文庫で「グリーン・セレクション」が出ている。僕は出るたびに買っていつか読みたいと思っていた。少しは読んでいたのだが、主要作品は今回初めて読んだ。文庫にない作品は図書館で見つけて読んでいるが、作品が多いので全部読むのは大変。今回読んで思ったのが、エンターテインメントは時代を超えるのが難しいという点である。戦前、戦中に書いた「密使」「恐怖省」なんか、もう中身が古すぎる。「恐怖省」はフリッツ・ラングの映画化の方が面白い。有名な「第三の男」だって、分割占領中のウィーンでペニシリンを横流しする話だから、現在では読んでも事情が伝わりにくい。オーソン・ウェルズの怪演とアントン・カラスのツィターがなかったら映画も忘れられているのではないか。
それに対して、宗教性がベースにある本格作品の方が、今になると「ある種のスパイ小説」に見えてくる。どういうことかというと、「本当に信じているもの」と「信じているふりをしているもの」の葛藤の問題である。スパイ小説はアクションで読ませていくものもあるが、人間の苦悩に焦点を当てた作品も数多い。そういう作品は、スパイになり、二重スパイになり、その結果「何も信じられなくなった人間」もいれば、「それでも祖国やイデオロギーを信じている(らしき)人間」というものも存在する。そういう人間の心の葛藤を描くのが、グリーンの小説である。
例えば、有名な「情事の終わり」(1951)、99年に「ことの終わり」として映画化されているが、ドイツによる空襲下のロンドン、男と女が「不倫」の関係にある。が戦争の終わりとともに女は男を拒絶する。それは愛が冷めたのか、新しい男ができたのか。男は焦燥を感じ、真相を探るが判らない…。という筋立てだが、実は「神をめぐる三角関係」という大きなテーマがだんだん明らかになってくるのである。しかし、戦争から遠く、「神」も遠い現代日本では、この小説のリアリティはなかなかつかみにくい。しかし、小説に「神と言う補助線を書く」という作業をすると、世の中が全部違って見えてくると言うことはよくわかる。
(「情事の終わり」)
「情事の終わり」(新潮文庫に残ってる)は、ジャンルとしては「不倫恋愛小説」である。「(男の)不倫」とは「妻との平穏な日常」と「真に愛情を感じている女」が違うという事態である。つまり「生まれ育って生活している国」と「真に帰属感を感じている国(例えばソ連)」が違うというスパイ小説と同じである。それを言い出すと、「所属組織に帰属感を感じていない人間」、「所属組織に敵対意識を持っている人間」は、実にたくさんいるはずである。
企業の中で「自分は違う」「いつか辞めてやる」と思うことで自己を維持している人は沢山いると思う。政界や財界の中にだって、きっとたくさんいるだろう。僕だって、都で働きながら、最後の頃は「都教委は敵」だと思って暮らしていたから、グリーンの小説は他人ごとでは読めないと思った。でも、グリーンはそこに「神」というオールマイティのカードを出してくる。そこが小説として面白くはあるんだけど、それで解決するような問題なんだろうか、現代世界は。という気もしてきた。
非常に力強い小説は「権力と栄光」(1940)である。メキシコで革命がおこり、カトリックが弾圧される。弾圧の中、酒におぼれ、女に子どもを作りながらも逃亡し続ける「ウィスキー坊主」を追い続ける小説である。その逃亡劇は非常に劇的で感銘が深い。それは単なる逃亡ではなく、「神に仕えるものはどう生きるべきか」という倫理的な問いを突き付ける逃亡だからである。そういう緊張をはらんだ逃亡は、今ではあまりない。(中国なんかでは今でも「思想」と「逃亡」という倫理的問題があるけど。)生きている以上、どんな時代のどんな状況でも、自分をおとしめながらも、自分なりに最後に譲れないものをめぐって逃げ続けているのが人間の姿ではないか。でもメキシコの歴史でカトリックが果たした負の歴史もあるわけだが、それは問題にされない。全体的に時代が違って状況が伝わりにくい感じはした。
(「権力と栄光」)
僕が一番面白かったのは「事件の核心」(1948)で、最後は神をめぐる不条理劇のようになる「不倫ドラマ」である。戦時中の西アフリカ植民地で警察副署長を務めるスコービー。信心深い妻は引退して南アフリカに移住したいという。現地の経済を牛耳るシリア商人から金を借りて妻を先に送り出す。そこに事故で夫を失った若い女が現れ、頼りにされていく。だんだん様々な関係が絡み合ってスコービーの世界は崩壊していく。この夫婦関係も、また副署長としての現地商人との様々な関係も、実によく描かれている。そりゃあ、そうなっていくよなあ、という感じ。でもその結果、とんでもない窮地に追い込まれてしまうのだ。それはカトリックとして、神の前で(神父を通してだが)「告解」しなければならないということがネックになるのである。
(「事件の核心」)
キリスト教徒でないと、「神がいるから人間が不幸になる」としか思えない展開だが、小説内ではきわめて論理的に展開して納得できる。この小説の場合も、きっかけは「不倫」と言えるが、アフリカには「一夫多妻」を認める社会もある。そういう社会ならば、警察副署長を務める有力者に妻が複数いるのは当然で、権力の象徴にしか過ぎないだろう。そこでも妻どうしの争いはあるかもしれないが、主人公の「自我」を揺るがすテーマにはならない。日本の不倫恋愛小説なんかでも、「自我」をめぐって展開することはあまりないのではないか。しかし、常に最終的には神を意識せざるを得ないグリーンの主人公には、不倫そのものや妻、愛人への愛情などより、神に誓った結婚を破ったことを神にどう告白するかという方が大問題なのである。いや、新鮮でしょ、神なき社会に暮らす身としては。神を信じて毎日を送るという信心深い人の方が、今でも世界には多いはずである。そういう意味で、グリーンの小説はまだまだ生きて重要性を持っている。
「負けた者がみな貰う」(1955)という小説は、丸谷才一訳で「名訳で読む名作」と帯にある。これは気軽に読めるユーモア恋愛カジノ小説。小説の面白さだけでは、これが一番ではないか。これもモナコを舞台にするが、イギリスの小説は大英帝国を背景にして海外が舞台のものが多い。グリーンも、海外を舞台にした不思議なスパイ小説のような作品をその後も書き続けた。それらを中心にした後期の作品についてはまた機会があれば別に書きたい。(2022.1.13一部改稿)